史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その2 〜めぐりあいルーシ〜

イーゴリ1世は荒れていた。

暇さえあれば、小姓とは名ばかりの悪友を引き連れ馬に乗って走り回る。そして、街に行っては「市場調査」を謳いながらタダメシを食らい、適当な女を見繕っては権力を笠に着て欲望のまま一夜の相手にする。

 

そんな毎日を送っていた。

胸には焦燥感がある。

 

自分はこの地を支配したリューリクの息子であり、オレグなど摂政に過ぎない。だが、彼は優秀だ。単に蛮族の支配地域だったルーシを一つにまとめ、一流の国家に押し上げつつある。

 

誰もがオレグに従う。誰も自分を見ようとはしない。自分はもう子どもではない。だが、オレグがリューリクの直系に政権を返上しようとする様子はない。

 

このまま、オレグは自分に取って代わるのではないか。

そう思うとイーゴリはひどく不安になった。

 

だが、オレグを除く事はそう簡単ではない。皆、彼を慕っている。もしイーゴリが不穏な動きを見せようものなら、それは逆にオレグに公位簒奪の口実を与える事になるだろう。

 

だからイーゴリにできる事は、そこらで暴れまわる事だけだった。勿論、この事はイーゴリの評判を著しく下げている。だが、皆が自分の存在を忘れない様にするためには、こうでもするしかなかった。また、イーゴリ自身、自分がこの地を治める大公なのであると実感できるのは、乱暴を働き人々の自分に対する恐れを目の当たりにする時だけなのであった。

 

さて、イーゴリはある時、現代のロシア西部、エストニアにほど近い地域にあるプスコフという街に立ち寄った。ノヴゴロドとキエフを行き来する途中、いつもの「市場調査」にやって来たのである。

 

イーゴリは街で一通り悪さをした後、引っ掛けた女を宿まで連れて帰るのが日課であったのだが、この日は目ぼしい女を見つけられなかった。

 

どうやら、イーゴリの悪行はプスコフでも既に知られているらしい。イーゴリが来る前に若い女はどこかへ避難してしまった様だ。

 

ある意味、満足ではあった。人々がそれだけ自分を恐れているということだ。だが、ひどく虚しい。

 

初めは女を得られなかったからだ、と思っていたが、プスコフの館に帰ってから、しばらくすると、どうにもそうではない、という風に感じ始めた。だが、その感覚が何なのか、は相変わらずわからない。何となく、部屋をウロウロしていたが、そうしている内に、無性に馬で駆け回りたくなってきた。

 

イーゴリは取り巻き連中にも黙って外に出た。そして、愛馬に跨り、郊外の農村部までやってきて馬を全力で走らせた。

 

しばらくすると、馬が疲れてきて、思うように走らなくなった。

 

「何だよ、つまらない。」

イーゴリはそう独り言を言い、馬から降りた。ふと周りを見ると、近くに池があり、畔に小舟が泊めてある。舟の中には竿など釣り道具一式も揃っている様だ。

 

馬を休ませる間、釣りでもやっていれば、気分転換になるかもしれない。だが、イーゴリは舟を漕いだ事がない。人の物を黙って使う事を今さら躊躇うイーゴリではないが、これでは勝手に舟を使う事はできない。舟の持ち主を探して漕いでもらおう。

 

イーゴリはそう思い、馬の手綱を池の近くの木に括りつけ、少し離れた集落を訪ねた。

 

不思議な集落だった。家がそこそこある割には人がいない。一軒一軒、家を訪ねてみたがどこも留守である。扉に蜘蛛の巣が張っている家もチラホラあり、どの家も手入れがされていない様子がある。

もしかすると、伝染病が流行ったか何かで打ち捨てられた集落なのではないか。舟の漕手も見つからないかもしれない。それは困った。

 

イーゴリがそんな予感を覚えながら、集落の訪問を続けていると、十数件目でやっと住民を見つけた。

 

扉を開けて出てきた住民はイーゴリの肩くらいの身長で真黒い髪をしていた。今でいうショートボブみたいな髪型だ。色白である。それはスラブ人には有りがちな事なのだが、この人の場合は髪の黒さと肌の白さが互いに際立って印象的であった。住民は青みがかった瞳で黙ってイーゴリを見つめている。知らない人が訪ねてきて困惑しているのかもしれない。

 

「やあ。こんにちは。」

これから頼み事をする立場のイーゴリは愛想笑いをしてやった。だが、住民はピクリとも表情を変えない。

怖ろしく無愛想に

「何の用だろうか?」

と言った。

 

思ったよりも声が高い。

女か。

 

イーゴリは少し意外な気がした。

この住民がどこからどう見ても男に見える様なゴツい骨格をしているとかいう訳ではない。だが、彼女からは、母性…というか、家庭や群れの中で他人と上手くやろうという、ヒトの女性が進化の過程で身に着けたのであろう特有の温和な雰囲気が全く感じられない。当時の女性としては、髪も短めだったので、美少年だと言われればソチラを信じてしまいそうな雰囲気ではあった。

それに、ここは人の少ない集落である。女が一人で暮らすのには苦労するだろう、という先入観もあった。

 

イーゴリはその意外さにやや狼狽しつつ

「ああ…近くの池の畔に小舟があるんだが、アレの持ち主が知りたい」

「私だが…。」

「君、アレ…漕げるかい?」

「勿論、漕げるが…」

 

女は不思議そうな顔をした。

自分に舟を漕がせてどうしたいのか、という事だろう。

 

「あ、えーと。釣りがしたくなって…」

「釣り…」

「えっと、その、街から馬で来たんだけど、馬を休ませてて、えーと。」

 

イーゴリは説明に苦慮した。

街で悪さをしていたが、何だか気が晴れなくて。馬で走ってみたけど、それも上手くいかなくて。気分転換がしたくなったところで、ちょうど舟を見つけて。それで気が晴れるかわからないけど、何となくやりたくて…。

 

そういう自分ですらよくわからない感情を初対面の人間にどう説明していいのかわからなかったのだ。

 

「それで、えーと。」

イーゴリが言葉に詰まっていると女は

「わかった、釣りがしたいんだな。いいだろう。」

と遮った。

 

「いいのか!?」

イーゴリが聞くと女は

「構わない。どうせ、少ししたら私も釣りに行く予定だった。今行っても同じだろう。」

と言った。

 

相変わらず、無表情棒読みである。言っている内容は親切なのだが、所作だけ見るとすごく面倒臭そうにも見えた。

イーゴリはこの女の事を計り知れないでいる。

 

-----------------

 

女はオリガと言うらしい。

集落は数年前、馬賊に襲われた。住民のほとんどが殺されたらしい。オリガは今、この集落に一人で住んでいるそうだ。

 

「可哀想に」

イーゴリはオリガに同情して見せたが、彼女は

「1人も慣れるとそう悪くもない」

とツレない返事をした。

 

池に着くと、オリガはイーゴリに舟の前方に乗るよう指示をして、その後、淡々と舟を漕いだ。やはり、慣れているらしい。舟はイーゴリのイメージよりも遥かに速く進んで池の中央部まで辿り着く。

 

そこで、二人は釣り糸を垂らした。

所謂「お祭り」になるのを避ける為、オリガは舟の向かって左側、イーゴリは右側を向いて釣りをすることになった。互いの顔は見えづらい。

 

その上、オリガは無口だった。

イーゴリもツラレて無口になる。魚はなかなか釣れない。

 

イーゴリがイライラして貧乏揺りを始めるとオリガはまっすぐ前を向いたまま

「焦るな。釣りとは、そういうモノだ。」

とだけ言った。

 

しばらくすると、オリガの竿に魚がかかりだす。しかし、イーゴリの竿には一向に魚はかからない。

 

暇だ。

イーゴリはそう思った。

しかし、自分が舟に乗せて欲しいと言った手前、戻ろうとも言えない。

 

イーゴリは反対側を向いている女の顔を見つめた。何の変化もない自分の竿と水面を見ているよりは楽しいだろうと思ったのだ。

しばらくして、イーゴリは女の美しさに気がついた。肌の白さなどは先述した通りだが、鼻筋がスッと通っていて、ギリシャ彫刻の様な美しさがある。

 

こんな女が、なぜ一人で暮らしているのだろう、とイーゴリは思った。家族を失ったとはいえ、頼る人が全くいない訳でもないだろう。街に出て人目のつく場所で生活していれば、こんな美しい娘を金持ちや権力者が放って置くはずがない。狩りだの釣りだの自分でしなくとも、楽に生きる方法がいくらだってあるはずだ。

 

「お、お前、ぼ、僕の女に…してやるよっ!」

イーゴリはやや緊張しながら言った。

 

オリガは落ち着いて釣り糸を回収した後、イーゴリに冷たい視線を向けた。

 

「急にどうしたんだ? 最初からそういうつもりだった訳ではないだろう?」

「ぼ、僕はキエフ大公だっ!」

 

イーゴリはそれを必死に伝えた。実のところ、イーゴリは数々女を抱いてはいるが、自分で女を口説いた事はない。いつも目ぼしい女を見つけて部下にそれを伝えると、部下が娘の保護者や雇用者と交渉して寝床に連れてくるのだ。

 

一度、あれはどうやっているのか、と部下に尋ねた事がある。

部下は

「それは勿論、皆、あのリューリク様の後継者・キエフ大公イーゴリ1世がお前を気に入っているぞ、と告げれば喜んで身を捧げるのです!」

と言っていた。

 

だから、イーゴリはオリガもそれを聞けば思い通りになるだろう、と思ったのだ。

「そうか。馬や服が立派だからどこぞの有力者かとは思っていたが…。キエフ大公…それは驚いた。」

「そうだ。だから、僕と一緒に来い!」

「だが、断る」

 

オリガの毅然とした態度にイーゴリはあ然とした。話が違う、そう思った。

 

「な、なぜだっ! そうだ、キエフに家を建ててやろう、今よりずっといい暮らしをさせてやるぞ!」

「悪いが、興味がない。私は自分で今の生活を選んだんだ。」

 

イーゴリは顔を紅潮させた。自分で異性を口説いて、それを断られる事がこんなに惨めで屈辱的だとは思わなかった。

恥ずかしい。

イーゴリは半分八つ当たりで怒鳴るように言った。

 

「キエフ大公の命令なんだぞっ!」

「私はアナタの家来でも何でもない。命令に従う道理はない。」

「僕はこのルーシの地を治めているんだ!」

「治めているから何だと言うんだ? 命令に従う代わりにアナタの兵が村を守ってくれでもするなら考えもするが…。見ての通り、そうはならなかった。やはり従う義理はないな。」

「こ、これからは守ってやる! 誰もお前に手出しできない様にしてやろう!」

 

オリガはため息をついた。

「私には、もう守って欲しいモノなんて何もないよ。自分の身は自分で守るし、そうできなくなった時は潔く死ぬだけだ」

「う、うるさい!」

 

イーゴリはオリガを押し倒し、服を剥いだ。上半身を露出し、仰向けになった彼女の美しい肢体を足下から眺めると沸々と欲望が込み上げるのを感じた。イーゴリは生唾を飲み込む。今までどの女にも感じた事のない強い欲望だった。

 

しかし、最後にオリガの顔を見たところで、イーゴリはハッと我に還った。

彼女の表情があまりにも失望と侮蔑に充ちていたからだ。

出来の悪い自分は、今までたくさんの人を失望させてきた。それでも、こんなに冷たい目で見られたのは初めてだった。

 

彼女の美しさに反して、自らがものすごく汚らしい生き物であるように感じた。

彼女が欲しい、でも手が出ない。美しい彼女に自分が触れていいはずがない。イーゴリは高まった感情をオリガにぶつける事が出来なくなってしまった。

 

イーゴリがジッとしていると、オリガはムクリと身を起こしハダケた服を直した。

その後、しばらく沈黙が続いたが、その静けさに先に耐えきれなくなったのはイーゴリだった。

 

「すまない、失礼した。帰ろう。舟を岸に戻してくれ。」

「…いいのか?」

「だって、僕がムリヤリ想いを遂げようとしたら、君は僕を嫌うだろう?」

「ここまでしておいて…。既に嫌われているとは考えないのだろうか。」

「それはそうだけど…」

「ならば、いっそ好きにしてしまえばいいだろうに。臆病者め。とんだ大公だ。」

 

吐き捨てる様な口調だった。

会ってからずっと無愛想だったオリガだが、これはさすがに怒っている。

 

イーゴリはシュンと下を向いた。

ヴァリャーグは戦闘民族である。イーゴリは今までたくさんの強面たちと付き合ってきたが、オリガはその誰よりも怖かった。

彼女が自分に向ける侮蔑が怖くてたまらないのだ。

 

イーゴリは震えながら言葉を発した。

「それに、君はこの場で死ぬつもりだっただろう?」

「ああ。」

「それは…それは困る!」

「何を…アナタがしたのは初めからそういう事じゃないか。」

「いや、そうではなくて…」

「じゃあ、何なんだ?」

「僕は舟が漕げないんだ…。」

「へ?」

「それに泳げない…。」

「それが何だと…?」

「だから、君が死んだら、僕は岸に戻れないじゃないか!」

 

オリガは拍子抜けした様で急に身体の力を抜き

「あ、ああ…。そうか、そうだな。それは…困るな…。」

と言った。

 

そして、立ち上がり、舟を漕ぎ出す瞬間、オリガはプッと吹き出した。

 

「全く、本当にとんだ大公だ。」

 

これが、イーゴリの初めて見たオリガの笑顔だった。

ただ、このときは、笑われた、としか感じる事ができなかった。

 

イーゴリはオリガが舟を漕ぐ間、彼女の顔を一切見なかった。

そして、舟が岸につくと、やはり彼女の方を一瞥もせずに駆け出し

「サヨナラっ!」

とだけ言い、馬で走り去った。

 

恥ずかしい、恥ずかしい、彼女の視界から一瞬でも早く消えたい。

その一心であった。

 

-----------------

 

「イーゴリ様ぁ! 一体どこへ行っていたんですかぁ!」

イーゴリが館に帰ると、小姓のバレリが飛びついてきた。感情のままに馬を走らせ、また馬を疲れさせてしまったので、もう一度休憩を挟んだ。

だから、帰ってきた時には日が暮れようとしていた。

 

バレリは

「あー、もう心配したんだからぁぁー」

としばらくイーゴリの身体に顔を擦りつけていたが、そうしていて気づいたらしい。

 

「あれ、イーゴリ様、ちょっと服が濡れてますよ。舟でも乗りました?」

 

よく気がつく少年である。

イーゴリも普段はそこを見込んで重宝しているのだが、それでも今回ばかりはギョッとした。

彼には何を隠しても秘密がバレてしまう気がしたのだ。

 

だから、イーゴリは今日あったことを彼にだけは話して聞かせた。

ただし、自分の心に芽生えた恥ずかしさや情けなさを曝す事だけはできない。

 

キエフ大公の誘いを断るバカな女狩人がいた。

そんな論調で聞かせたのである。

 

「それは愚かな女がいたモノです。」

バレリはそう憤慨した。

 

イーゴリは、バレリが自分に同調してくれたのを見ると、何だかあの時の惨めさが晴れる気がした。

だから、次の日も、またその次の日もバレリにその話を聞かせた。

そして、ある日、バレリから指摘されたのである。

 

「イーゴリ様、その話、51日連続でしてますよ。」

「え、そんなにしたっけ?」

「ええ。本当は昨日が50日目だったので、その時に言おうと思ったんですが…。」

「マジか…」

「余程、屈辱的だったのですね、イーゴリ様。お労しい…。そうだ、今度、コンスタンティノープルへ行きましょう。あそこなら高級売春宿もありますし、気に入った者がいれば女奴隷として買うのも良いでしょう。パーッと騒いで、その失礼な女狩人の事など忘れてしまいましょう!」

 

そうバレリに言われて、イーゴリは自分の中にある、とある感情に気がついた。

 

あれ、僕、あの女の事、別に忘れたいとは思ってないぞ…。

 

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