摂政のオレグが体調を崩した。
その知らせを聞き、税の取り立ての為、ノヴゴロドに駐留していたイーゴリはキエフに駆け戻った。
遂に自分の出番だ。
そう思っていたのだが、宮殿に帰るとオレグは元気に政務をとっていた。
「アレ、オレグ、具合悪かったんじゃないの!?」
オレグはキョトンとした表情で
「ええ」
と頷く。
「少し風邪をひいていたので、2、3日休ませて頂きました。今日から復帰です。」
「えぇー、何だよー。」
イーゴリの大袈裟なリアクションを見て、オレグは何かを感じたらしい。彼は部屋の端にある椅子を指した。
「イーゴリ様、アナタ、ちょっと、そこにお座んなさい」
「えぇ…」
オレグが座れというのは話が長くなる時だ。
イーゴリは難色を示していたが、オレグの
「いいから座んなさい!」
という剣幕に圧されて言うことを聞く事になった。
「いいですか、イーゴリ様。アナタ、私が自分に政治をさせてくれない事に不満があるんじゃないですか?」
「え…それは、その。えーと。」
「あのね、私も好きでこんな事してるんじゃないんですよ。私だって、できれば早く引退したい。」
「えっ、そうなの!」
イーゴリの笑顔が癪に障ったらしい。オレグは大きな声を出した。
「ただアナタは勘違いをしてらっしゃる! 私が引退したらアナタが政治をできるんじゃない、アナタが立派に政務をこなす事が出来る様になったら私も安心して引退できるんですよ!」
「ぼ、僕では不足だと言うのか、オレグ!」
「当たり前でしょう、街で悪さをしてるの知ってるんですからね!」
イーゴリはビクッと肩を震わせた。
そこを突かれると言い逃れしようがない。
「それは…」
オレグはため息をついた。
「イーゴリ様。私を信用して下さい。私もアナタがいつか分かってくれるだろうと思って放任しすぎました。これからは一緒に立派な指導者になる為の勉強をしましょう」
勉強そのものには気が進まなかったが、それが実権を持つ条件だというなら仕方がない。
イーゴリは
「では、どのようにしたら…」
とオレグに尋ねた。
「そうですね、とりあえずアナタ、結婚して身を固めなさい。」
「ええ、結婚!? それとこれと何の関係があるのさ。僕、まだそんなつもり…」
「アナタが、手当り次第に女を物色してるのも知ってるんですよ。」
「げぇぇ!」
「結婚なさい。そしてこれからは一人の女性を一途に愛すのです。」
「そんなぁ…」
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「ダメだ、ダメだ、どれもピンと来ない!」
お見合い写真…ならぬお見合い肖像画数十枚を前にしてイーゴリは頭を抱える。
「そんなにダメでしたかねー」
と小姓のバレリは首をひねる。
「この前、会ったビザンツ貴族の娘なんかいいと思いましたけどね。」
「いやぁ、何か違うんだよ。従順すぎっていうか、自分がないっていうか。」
「でも、大公の妻になる人なのですから、あまり我が強すぎても良くないのでは? 政治に口出しされますよ?」
「そうかな? でも何かなぁー」
「ていうか、イーゴリ様ってそういう女が好みでしたっけ?」
「へ?」
「以前は従順で自分を立ててくれる女性が好きだと仰っていたではないですか。」
「そうだっけ?」
「ええ。強気な女はイーゴリ様のタイプじゃないと思ってました。何かあの、例のムカつく女狩人みたいじゃないですか?」
バレリの発言を聞き、イーゴリは気づいた。
自分が思い描いている女性はオリガじゃないか!
確かに以前はもっと大人しい女性が好みだったかもしれない。だが、彼女との出会いが自分を変えてしまったのだ。
「そうだ、僕の妻はオリガたんしかいない!」
イーゴリはそう叫ぶと馬小屋に向かって走り出す。
「イーゴリ様、どこへ!? オリガタンって何!?」
バレリがそう叫んでいたが、イーゴリの耳には全く届いていなかった。イーゴリは馬に跨りプスコフ目指して駆け出した。
「待っててね、今行くよ、オリガたーん!」
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例のプスコフ郊外の農村地域に着いた時、イーゴリは既に疲労困憊、衣服もボロボロな状態であった。
大して準備もせず、一人でやってきたのである。金も大して持っていなかったので、道すがら衣服を売った上で安い服に買い替え余りを路銀にした。
イーゴリは息を切らしながら、オリガの住む小屋の様な小さな家のドアの前に立った。
「ハァハァ…。オリガたん…。やっと会える…。」
そして、イーゴリはドアをドンドンと叩きながら叫ぶ。
「オリガたん! オレだァーッ! 結婚してくれーッ!」
家の中からはしばらく何の反応もなかったが、しつこく続けていると、やがてドアが開きオリガが顔を出した。
「あっ! オリガたん!」
満面の笑みを浮かべるイーゴリに対してオリガは
「大公か…?」
と怪訝な表情を浮かべた。
「どうされたんです? 政変でも起きましたか?」
オリガはイーゴリがあまりにも大公に相応しくないみすぼらしい格好をしていたので、そう思った様だ。
「いや、そうではなくて…。結婚しよう!」
「はぁ?」
聞いている側からすれば、何の脈絡もない発言にオリガは引きつった表情で首を傾げた。
「大公、アナタは少しおかしくなっているらしい。まずキエフに帰って部下たちと相談するといい。心ある部下ならきっとアナタを諌める事だろう。」
「イヤだ、帰らない! そもそも今、来たところなんだ!」
イーゴリはオリガにすがり付こうとしたが、オリガが直前に扉をバタンと閉めたので、イーゴリは顔をドアに打ちつけた。イーゴリは痛みに耐えかね地面をのたうち回りながらも呟いた。
「オ、オリガ…オリガたん…」
イーゴリはオリガが扉を閉ざした後もずっとそこに留まっていた。季節は秋である。
ルーシの秋は、日が落ちればもう寒い。夜中は氷点下まで気温が下がる日もある。
それに加えて、この日のイーゴリの場合、服装も貧相だ。薄い麻でできた上衣は風を通しやすくイーゴリの身体はひどく冷えた。
地面に身を屈め寒さに耐えていると、段々と眠気が襲ってくる。急いで来たので数日間、まともに寝ていない。
しかし、ここで寝るのは危険だ。凍死する可能性がある。
分かっていながらも、ついつい意識がブラックアウトしそうになった、その時、不意に扉が開いた。
開けたのは勿論、オリガである。
「寝るな! 死ぬぞ!」
「オ、オリガ…たん…」
「仕方がない人だ…。とにかく中に入りなさい。」
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オリガはイーゴリを家に入れると部屋の隅にある小規模な暖炉に火を焚べて、冷えた身体を温めるように促した。
初め、ガタガタと激しく震えていたイーゴリの様子が一通り落ち着くと、オリガは火に当たるイーゴリの隣に座り声をかけた。
「大公、落ち着いたか?」
「うん。ありがとう。お陰様で。」
「…話を聞こうか」
とオリガが言うと、イーゴリは急に立ち上がり
「ええ! いいの!?」
を叫んだ。
「まぁ、どうもアナタは話くらい聞かないと帰らないらしい。 家の前で死なれても困る。」
「け、け、結婚しよう!」
「だから、さっきから、それはどういう意味なんだ?」
オリガには、イーゴリの言葉がピンと来なかった。そもそも天涯孤独な自分にそんな事を言う人間が現れるなんて事は考えにない。まして相手が大公ならば尚更だ。
「言葉のままさ! 君みたいに美しい人を僕は他に知らない!」
「は? 何を…?」
「この前は乱暴なことをしてゴメン…。君が、あまりに美しかったから気が動転していたんだ!」
「大公、待ってくれ、本気で言っているのか!?」
「本気でなかったらこんな無様な格好を晒してまで君に会いに来ないさ!」
「な、なるほど…」
オリガはイーゴリのボロボロな服装を今一度見て頷いた。妙に納得させられた気分になった。
「しかし、どうして私なんだ? 大公ならばもっと然るべき結婚相手がいるだろう。」
「然るべき相手って?」
「それは…近隣国の公女とかじゃないのか?」
イーゴリは不思議そうな顔をした。
「え? それは違うよ。結婚するのに然るべき相手って言うのは好きになった相手の事だよ。」
「そ、それはそうだか…。」
「僕は、君が好きだ。結婚したい。だから君にも僕を好きになって欲しいんだよ。」
オリガはあ然とした。
この男は、自分の立場も、損得も常識も何も考えていない。バカなのか、大物なのか。おそらく前者なのだろう、とオリガは直感した。
しかし、同時に何か道が拓けた気がした。
家族も、村の者たちも、皆が死んだ。自分だけが生き延びてしまった。このまま、ただ生きて死ぬのだろうか。
そんな惰性の様な人生を変えられるのは今しかない。
「…私で、本当にいいのか?」
オリガはまだ迷っている。自分だけが幸せになっていいのか、それが分からないのだ。
でもイーゴリの
「いいに決まってるよ!」
と屈託なく笑う顔を見ていると、何だかそれも許してもらえそうな気がした。
「わかった。私もアナタと一緒に行きたい。」
「や、やったぁ!」
「その代わり、1つ約束してくれ」
「何? オリガたんのお願いなら何だって聞いちゃうよ」
「この先、何があっても私を守ろうとは思わないでくれ。いざ、危なくなったら迷わず自分の安全を優先しろ。」
「えー、でもぉ…」
イーゴリは反論しようとしたが、オリガの
「わかったな。」
という凄む様な表情を前にすると
「う、うん…。」
と頷くしかなかった。