イーゴリはオリガを伴いキエフに帰還すると、早速、結婚を発表した。
相手が農民の娘にして女狩人という低い身分である事に関して、摂政のオレグは難色を示したが、他の部下たちからはそこまでの反対はなかった。
この頃のリューリク一族は周辺国からすれば、武力はあれど権威のない蛮族のヴァリャーグという扱いである。
それ故にオレグはビザンツやハザールの貴族・豪族の娘と結婚して一族に良い血統を入れる事をイーゴリに勧めていたのだが、一般論として、その辺の気に入った女を拐ってきて自分のモノにする、という事が彼らの中では日常的に行われていた。
むしろ、それが自身の男らしさを示す行為ですらある。
だから、
「オリガさんは確かに美人だけど、美人ならたくさんいるじゃん。貴族の娘とも結婚できるのに、わざわざ農民の娘なんてモノ好きだなぁ」
とか
「そんなに気に入ったなら表向きの結婚とは別に愛人にすればいいじゃない」
という意見は出たが、かと言って部下たちからすれば、無理やり止める程の案件でもなかった。
イーゴリが
「ヤダヤダ、オリガたんとじゃないと絶対結婚しない!」
と駄々を捏ねると
「それでイーゴリ様が落ちつくなら、まぁ、いいんじゃない?」
という風潮が広まり、やがてオレグも観念した。
さて、結婚に最も反対したオレグであったが、いざオリガを教育してみると、これがなかなか賢い。何を教えてもスラスラと覚えていく様子を見てオレグはやっと長年の心配事が解消された気がした。
イーゴリは筋肉バカだが、この賢妻が首輪つけておいてくれれば何とかなるだろう。
「これで、私も心置きなく死ねます」
俄にそんな事を言い出した矢先、オレグは死んだ。ハザール・カン国の刺客による毒殺であった。
そのことが示す様に、新興勢力であるキエフ・ルーシ公国には敵が多い。オレグが死ぬと、イーゴリはオリガに都市の政治を任せ、自身は積極的に外征を行う様になる。
外敵の駆逐は必要な事だったし、何よりその方が性分に合っていた。イーゴリはドレヴリャーネ族を傘下に治め、ハザール、ビザンツと争いながら支配地域を広げていった。
中でもイーゴリが執着したのは、ビザンツの都コンスタンティノープルの攻略である。
ビザンツ帝国はローマ帝国の東西分裂により西暦395年に生まれた。10世紀になると、東ローマ帝国とは言わずビザンツ帝国と呼ぶ事の方が多くなっている。
これは、イタリア半島を領土に含まないこの国が既にラテン人が支配したローマ帝国の後継というよりは、コンスタンティノープル(旧名ビザンティオン)を中心とする純粋なギリシャ地方の大国になっていた事に由来する。
だが、イーゴリにとってそれはどうでもいい。彼にとって重要なのは、ローマにせよギリシャにせよ、そこに巨万の富と優れた文明がある事だった。
欲しいモノは力づくで奪い取る。これがまだ蛮族の気風を多分に残したイーゴリ軍団の流儀であった。
だが、イーゴリによるこの事業はなかなか上手くいかなかった。
コンスタンティノープルは鉄壁の都市である。街は巨大な3重壁に囲まれ、周辺海域の海流は変則的で船の接舷も難しい。
加えて時期も悪い。この頃のビザンツ帝国は東方のイスラム帝国勃興による一時的な衰退期を乗り越え再び最盛期に向おうとしている時期だった。
イーゴリ率いるキエフ・ルーシ軍が如何に勇猛果敢でも都市の攻略は難しい。イーゴリは2度ビザンツを攻めるが2回とも敗北した。
そして、第2次遠征の後にはキエフ・ルーシ大公国とビザンツ帝国の間に新たな通商条約が結ばれるが、これは以前、オレグ時代に結んだ条約よりもルーシ商人の権利が制限され、違反時の罰則が強化されるモノであった。
こうして、イーゴリによる夢のビザンツ支配は頓挫したのである。
ビザンツの富を手に入れそこなったイーゴリはドレヴリャーネ族への増税を思いつく。第2次ビザンツ遠征の直後の事であった。勝てない相手からよりも、取れる相手から取ろう、という何とも単純な理屈である。
オリガは反対した。
「あまりドレヴリャーネ族を経済的に追い込むのは良くないだろう。無敵の人は何をするかわからない。」
と、言うのが反対の理由だった。
そして、こうも付け加えた。
「この国は遅れている。軍も都市も発展させなくてはならないから何かと金はかかるが、幸い我が国の資源は豊富だ。上手くヤリクリすればムリヤリ他所から奪う必要はないさ」
賢い嫁だ、自分はなんて幸せなんだろう。
イーゴリはそう思うのと同時に猛烈な義務感を感じた。
オリガは素晴らしい。もっといい思いをして当然の女である。それには自分がこの国を更なる強国に押し上げるしかない。
結局、イーゴリはオリガの反対を押し切ってドレヴリャーネ族の住むコロステニへ向かった。
イーゴリの軍団が近づくと、ドレヴリャーネ族の首長・マルからの使いが訪ねてきた。
イーゴリが事前に送りつけた文書に従って金を渡したいのだが今は資金が足りない。証拠に金庫を見せるので来てほしい、との事だった。
イーゴリは部下のバレリに軍団を任せ、自分は十数名の護衛を伴ってコロステニに入った。
街に入ると、背が低くアゴひげを伸ばした男がイーゴリを迎えた。首長のマルである。
マルはイーゴリに対して反抗的で度々徴税を渋っていた。
それが、ペコペコと頭を下げながら
「よく御出下さいました、イーゴリ様」
などと殊勝な態度で出迎えている。
イーゴリは「プッ」と吹き出しそうになった。
コイツ、散々生意気な事言っておきながらコッチが軍団率いてきたら速攻態度変えてやんの。
そう思ったのだ。
マルは、イーゴリを一族の財産をしまう金庫へと案内した。
「オイオイ、僕をこんな所まで入らせるなんていいのかよ?」
イーゴリは嘲笑を浮かべながら言った。
「ええ。いいんです…ただし、中に入るのはイーゴリ様のみですよ」
「いいだろう。」
イーゴリは頷いた。
一族の全財産が眠る金庫である。場所を教えるだけでも全面降伏に近い。
それくらいの条件は飲んでやっても構わないだろう。
イーゴリも彼に従う護衛たちもそう思った。
マルが鍵を開け、扉を開くと、中には箱がいくつか積み重なっていた。箱には品名だろうか、何か書いてあるが、暗くてよくわからない。
それを察したのかマルは
「中へどうぞ」
とイーゴリを金庫内に招き入れた。
イーゴリが金庫の奥に入っていき、箱を覗き込もうとしたその時、金庫の扉がバタンと閉じた。
「何事だ!」
イーゴリは急いで駆けていき、扉を開けようとしたが、ビクともしない。外から鍵をかけられたらしい。
イーゴリはマルと一緒に金庫の中に取り残されるカタチになった。
「どういう事だ!」
イーゴリが叫ぶとマルは不敵に笑い指を鳴らす。
すると、箱の中から隠れていた兵士が7〜8人現れてイーゴリを拘束した。
「やめろ、何すんだ!」
イーゴリがもがく中、
「オイ、終わったぞ!」
とマルが外に向かって叫ぶと金庫の扉が開いた。
そこには先ほどまではいなかったドレヴリャーネ族の兵士が数十名いて、イーゴリの護衛兵は皆、血を流して横たわっている。伏兵がいたらしい。
仲間がやられたのを見て、イーゴリは更に頭に血がのぼった。
「ふざけんな、バカヤロウ!」
マルは嘲笑する。
「バカはソッチだ。まんまと罠にかかりやがって」
「くそ、文句があるなら正々堂々戦えばいいものを!」
「何が正々堂々だ。我々の様な少数部族を脅したり、力で叩き潰したりする。それがお前らの正々堂々か? バカ言っちゃいけない。」
イーゴリは舌打ちした。
「ケッ、こんな卑怯なやり方しか出来ないからお前はモテないんだ!」
「なっ、私がモテないだと! な、なぜそれを…」
「見るからにモテないだろうが、チビ!」
マルは身体を震わせた。
「許せん…許せんぞ、イーゴリ! 人思いに殺してやろうと思ったが、お前、タダでは殺さんぞ!」
そして、マルは部下たちにイーゴリを股裂きの刑に処する様に命じた。
ドレヴリャーネ族の兵士たちはイーゴリを地面に打ち倒して押さえつけると、何人かで2本の樺の木を曲げ、それぞれをイーゴリの足にロープで縛りつけた。その上で樺の木から兵士たちが手を離すと木は元の形に戻ろうと反発運動を起こす。
当然、木に片足ずつを縛られているイーゴリの股は裂け、そこから身体は真っ二つに割れた。
血や臓器が無惨に飛び散る惨たらしい死に方だった。マルはイーゴリが死ぬ直前まで着ていたマントを拾い、部下に手渡した。
「これをヤツの小姓バレリに渡してやれ。ご主人さまの形見だぞ、ってな。」
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イーゴリとオリガの息子、スヴャトスラフはまだ幼く3つになったばかりである。政務で忙しいオリガは普段、息子の世話を乳母に任せていたが、この日はやけにグズっているそうなので、彼を寝かしつけてから仕事に戻った。
「私が至らぬばかりに申し訳ありません。オリガ様、早めにお休み下さい」
「ああ、そうする」
と返事をしてオリガは書類仕事を続けた。
辺りが暗くなっても、ランプの灯りを頼りに深夜まで仕事を続けるのがオリガの日常だった。
「遅いな…」
オリガは呟いた。
イーゴリは数日前に兵を率いて出ていったきり帰ってこない。コロステニはキエフからそう遠くない。順調に行っていれば、もう帰ってきていてもおかしくない頃である。
何かイヤな予感がする。
そんな風に考えていると
「オリガ様! オリガ様!」
と部屋の外から声が聞こえてきた。
「バレリか? 入れ」
ドアを開けたバレリは肩を落とし、目をパンパンに腫らしていた。腕にはイーゴリのマントがかかっている。
「ひどい顔だな、どうした?」
そう声をかけるとバレリは泣き崩れた。
「ああ、オリガ様…。イーゴリ様が…イーゴリ様がぁ…!」
バレリはその後の言葉を発する事ができない様子だったが、オリガはそれで全てを察した。
「そうか、イーゴリ…。カッコつけるからだ、あの大バカヤロウ…。」
馬賊に家族が殺された時とも、村に残った幼い兄弟や老夫婦が死んだ時とも違う深い悲しみを感じた。
イーゴリが焦っているのはわかっていた。
ずっと、自分には戦うしか能がない、だからそれでオリガに相応しい男になるしかないんだ、という思いでいたのだろう。
「そんなこと、どうだっていい…、どうだっていいんだ…。お前がいてくれれば…それで良かったのに…!」
イーゴリと出会う前は、誰の力も借りず、誰の世話もせず、人と関わりを持たずに生きれば、もう二度と悲しい思いをしなくて済むと思っていた。
今、彼が死んで、自分の心の一部がどこかへ持っていかれてしまった様な悲痛な思いを感じるのは、彼と出会い、共に歩む選択をしてしまったが為である。
それでも、後悔はしていなかった。
心の奥底から湧き上がってくるのは、イーゴリと出会えた事への感謝ばかりである。
オリガは大粒の涙を一粒流して、その後、バレリの肩に手を置いた。
「悲しい時だが、泣いてばかりもいられないぞ。後継のスヴャトスラフはまだ幼い。まずは私とお前で体制を立て直すんだ」