史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その5 〜復讐〜

キエフにドレヴリャーネ族の使者がやってきたのは、その3日後であった。

 

ドレヴリャーネ族はキエフ・ルーシ公国の支配下にあった部族だが、戦闘力は高い。これまでも度々反乱を起こしている。イーゴリ亡き今、戦争になればどちらが勝つかはわからない。

オリガにとっては夫を殺した連中である。追い返すという事も選択肢にあったが、スヴャトスラフの摂政となったオリガは使者の話を聞くことにした。

 

しかし、会見で使者が開口一番放った言葉に彼女は度肝を抜かれた。

 

「オリガさん、私たちの首長・マル様と結婚してください!」

 

コイツ、何を言っているんだ?

会見に同席したバレリとオリガは互いに顔を見合わせた。

 

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時は少し遡り、イーゴリが殺害された後のコロステニ、ドレヴリャーネ族の長・マルの屋敷での事である。

 

マルは

「ガハハ!」

と地面を転がりながら大声で笑っている。

 

イーゴリを殺害し、それを彼の軍団に知らせてキエフに追い返した後も、マルは宿敵を倒した歓喜で笑いが止まらなかったのだ。

 

「はー、笑いすぎた、お腹痛い、お腹痛い…。」

そんなマルを近くにいた秘書官のニコライはハイテンションな主君とは逆の深刻な表情で見ている。

 

「しかし…。キエフ側はどう出てきますかね…。武力行使に出られたらコッチも無事では済みませんよ。」

 

マルは未だニヤけが止まらない。

 

「えー、心配すんなってー。アッチはそんなに強気に出られないよ」

「何故です?」

「イーゴリの子どもはまだ幼い。部下の誰かが摂政として実権を握るだろう」

「誰になりますかね?」

「さて、小姓頭のバレリだろうか…? 何にせよ、今のキエフにオレグの様な誰もが認めるNo.2はいない。指揮系統は混乱し、悪ければ実権争いの内乱が起きる。だから攻めてくるなんて、ないないー。」

「なるほど、さっすがマル様。小狡い悪だくみだけはワールドクラスだ」

「バカモン、大多数に立ち向かう少数部族の長の知恵と言え」

 

「じゃあ、それでいいです」

とニコライは軽く応え、腕組みをした。

 

「しかし…。では、その強気に出られないキエフに我々がどう出るかというのが問題ですね。ケンカを売ってしまった以上、相手が体制を立て直すまでジッとしているのは得策ではありません。」

「そ、それには考えがあってだな…」

 

マルが含みのある言い方をしたのでニコライは

「何です?」

と首を傾げた。

 

すると、マルは身を震わせながら叫んだ。

「オ、オ、オレ、オリガたんと結婚したい!」

 

「急に何言ってるんです? マル様ってオリガのこと好きだったんですか?」

 

マルは顔を紅潮させた。

 

「は、はぁ!? す、好きじゃねーし!」

「じゃあ、何で結婚なんて?」

「オリガたんと結婚して、オレがキエフ大公家を乗っ取ってやるんだよ!」

 

「あー…」

ニコライが渋い顔をするとマルは

「な、何か文句あるのかよっ! べ、別にこれは…自分が結婚したいとかじゃないんだからなっ!」

と手足をジタバタさせた。

 

「それ、ちょっと苦しくないですか?」

「何でだよっ!」

「だって、オリガって元々農民の娘だったって言うじゃないですか。リューリクの血を引いてませんし、あの女と結婚したところで大公家を乗っ取る大義名分は弱いんじゃないですかね?」

 

「そ、そんな事ない…」

「例えばイーゴリに跡取りがいない状態とかだったらわかります。でもキエフにはもうスヴャトスラフがいますからね。大公家乗っ取りたいなら、そうだなぁ…。マル様の親戚の女の子をスヴャトスラフの許嫁にしてマル様が摂政になるとかのがいいんじゃないですか?」

 

ニコライに論破されたマルは

「うるさーい!」

と叫んだ。

「絶対、絶対オリガたんと結婚するんだぁ! うわーん、好きだぁぁ!」

うわぁ、面倒くせぇ、とニコライは顔を歪ませた。

 

普通、夫を殺した男との結婚など納得する女がいるはずがない。

ここまでの事をやっておいて、なお、その希望を叶えたいのであれば、もはや自分が悪者になり、オラオラと力づくで事を成すしかないのだ。

なのに、この首長ときたらこの期に及んでまだ一族の為だとか理屈を捏ねやがる。

 

所詮、ヴァリャーグの末裔にしろドレヴリャーネ族にしろ、ビザンツやハザール辺りから見れば蛮族に他ならない。 

 

蛮族らしく

「うるせえ、オレの妻になれ!」

ドン!!

 

これでいいのにガタガタぬかすからコイツはモテないのだ。

 

ニコライはまだ

「別にー、イーゴリにヤキモチやいてたとかじゃないしー。これ、仕方ないからやってるだけなんだよねー。」

とか言い訳をしているマルの肩に手を置いて言った。

 

「いいですか、マル様。そんな態度で女は口説けません」

「なっ!?」

「女を自分に惚れさせたいなら、もっとオラオラでなくては…」

「オラオラ…? そ、それはどうやってやるんだ!?」

「マル様、私にお任せ下さい。良きにはからいますから」

 

そんな訳で、ニコライはオリガ宛の恋文を代筆し、使者に届けさせたのであった。

 

-----------------

 

さて、話は戻る。

キエフにてオリガ、バレリと会見するドレヴリャーネ族の使者は2人の前で(ニコライが代筆した)マルからの手紙を読み上げた。

 

「狼の様に悪賢く、残忍な男、キエフ大公イーゴリはこのマルが成敗した! 穢れた魂を持つ者よ、我を恐れよ。この私が悪逆非道な魔王に天誅を下したのである! 私はヤツを股裂きの刑に処した! 怯え、泣き叫びながら罰を受けるイーゴリの様子は、それはそれは、見苦しいモノであった! 弱く情けない君主を持ったお前たちに私は同情を禁じえない。」

 

「何だとっ!」

感情的になったバレリが手紙を読む使者に飛びかかろうとしたが、オリガは彼の前に腕を差し出してそれを制した。

とりあえず最後まで聞こう、という事だ。

 

「キエフの者共に告ぐ。我に従え。ドレヴリャーネ族の勇ましさはお前達も知っているはずだ。貴様らは飼い主を失った野犬の群れである。彷徨える民よ、烏合の衆よ。大人しく我が軍門に降れ。」

 

そこまで言うと、使者は気まずそうに頭をかいた後、一層大きな声で叫んだ。

 

「そして、未亡人オリガよ、お前は私の妻となれ!」

 

「何ィ!」

これにはオリガも驚いたが使者は続けた。

 

「傲慢かつ怠惰な夫を持った不運な妻よ、弱小かつ無能な亭主から開放された幸運な未亡人よ。そなたにドレヴリャーネ族の長・マルの伴侶になるという栄誉を与えよう。お前も女であるなら、強き男の胸に抱かれたいと願っているはずだ。私はイーゴリよりも遥かに優れた強い男である。ヤツを殺し、今、それを証明して見せた。さあ、私のモノになるがいい…以上。」

 

怒りのあまり、バレリは身体を震わせた。

「このヤロウ…イーゴリ様を卑怯なだまし討ちにしながら、自分の方が強いだと!?」

そして、使者を指さしながらオリガに対し

「ねぇ、オリガ様。もう、コイツ殴っていいっすよね!? ヤッちゃっていいっすよね!?」

と許可を求めてきた。

 

しかし、オリガは彼とは正反対ににこやかに言った。

「マル様の仰りたい事はよくわかりました。助言に従い、私はマル様の妻になる事に致しましょう。」

「そ、そんな…オリガ様…」

バレリは驚きを隠せない。

 

使者も驚いた様だ。目を見開き口を開けている。

自分の上司が言っている事とはいえ、あまりに滅茶苦茶だ。

そう思いながら話していたのだろう。

 

「マ、マジでいいんですか? オリガさん…。」

 

オリガは頷く。

「ただし、正式な返事は数日待って頂けないでしょうか。部下たちを説得しないといけませんから」

 

-----------------

 

使者がマルに報告を行う為、コロステニに引き返した後もオリガとバレリはしばらく会見が行われた部屋に留まっていた。

 

バレリがグスグスとすすり泣く。

 

「オリガ様、ヒドイですよ…」

「何がだ?」

「あんな、あっさりイーゴリ様を裏切り、マルの妻になるなんて…」

 

バレリの言う事は当時の常識で考えても当然であった。

中世において結婚とはある種の同盟関係でもある。だから、同盟関係の維持、あるいは新たな安全保障の為、王家の未亡人が喪中に他の男性から求婚を受ける事も珍しい事ではなかった。

 

だが、相手が夫を殺した相手となれば話は別である。

ヤラれた側が服従の証として一族の娘を差し出す事はあっても、ヤッた側が君主の妻を直接求めるというのは異例である。

常識…あるいは人道に外れていると言い替えてもよい。

 

特に、イーゴリとオリガは当時では珍しい恋愛結婚なのである。愛があれば、こんな事できるはずがない。

 

「オリガ様はイーゴリ様を愛していらっしゃらなかったのですか!?」

「愛していたさ、誰よりも…」

「それならば、いくら国を守る為とはいえ、オリガがその様な事をする必要はありません…。我々が命をかけて戦いますから、どうかお考えを…う、うわーん!」

 

そう涙するバレリの肩にオリガは手を置いて言った。

 

「心配するな。端からヤツの思い通りになるつもりなどない。」

「え…」

 

動揺するバレリに対して、オリガは不敵に笑った。

 

「バレリ、復讐を始めるぞ。」

「復讐…!」

「そうだ。まずは城壁のそばに溝を掘れ。できるだけ深く、だ。」

 

そう命じたオリガの瞳が獲物を狙う鷹の目の様に冷たく光っている。

 

バレリは背筋が震えるのを感じた。

オリガは夫を亡くしたというのに、泣く訳でも喚く訳でもなく、少し異常と思えるくらいに冷静だった。

 

バレリはそんな彼女に底知れない怖れを感じるのである。

 

-----------------

 

そこから3日が経った。

そして、ドレヴリャーネ族の使節団が再びキエフにやってきた。

 

使節団は1名だった昨日よりも人数がかなり増えて20名である。先日、やってきた使者は兵装であったが、今日やってきた使節はきらびやかで立派な衣装を身にまとっていた。

自国の公妃となる女性に対する敬意である、ともとれるがそれは同時に、弱ったキエフ側が婚姻を断ってくる事などありない、と確信するドレヴリャーネ族の慢心でもあった。

 

オリガたちは、まず使節団を昨日と同じ会見場に案内した。

 

「さぁ、オリガ殿。返事を聞かせてもらえますかな?」

部屋に使節団のリーダーである白いヒゲを生やした老人が早速聞いてきたので、オリガは何も言わずに指を鳴らした。

すると、武装したキエフ兵が扉を開けて一斉に部屋に突入してきた。

 

「これはどういう事だ!」

使節が叫ぶと、オリガが目を見開く様にして言った。

「あなた方を歓迎する。キエフ流の宴を楽しむといい。」

 

キエフ兵は使節団の面々を拘束すると昨日オリガに言われて掘った城壁のそばの溝に彼ら連れていき、中へ突き落とした。

そして、兵士たちは泥を溝に投げ込み始めた。

 

使節長は叫んだ。

「これはイーゴリが受けた扱いより酷いではないか!」

股裂きと生き埋めのどちらが酷いのかは意見が分かれるところだが、とにかくこれが使節長の断末魔だった。

 

「しかし、使節が帰って来なかったらアチラは怪しみますよね」

 

バレリがオリガに言うと、オリガは

「ならば、コチラから使者を送ってやればいい」

と答えた。

 

-----------------

 

さて、キエフからの使者がやってきたのはマルがキエフに向けた使節団した3日後だった。

 

先述したが、キエフとコロステニはそう遠くはない。

とはいえ、歩くと1.5日ほどかかる。

 

多少返事が来るまで時間がかかるのは仕方ないのだが、マルは使節を送り出して1日も経たない内に

「まだか、まだか」

と騒ぎ出した。

本当に面倒な男である。秘書官ニコライは辟易した。

 

キエフからやってきたのは使者1名のみだった。

派遣した使節団は帰ってこない。

 

使者曰く

「キエフでお二人の結婚を祝う宴が始まってしまい、使節団の皆さんはなかなか帰れない状態なのです。我々も困っているので、改めて使節を送って頂けないでしょうか」

との事である。

 

ニコライは話を聞くマルに

「マル様、ちょっと怪しいですよ。」

と耳打ちした。

 

ニコライには、そもそもオリガがマルとの婚姻に納得するはずがない、という前提がある。

それ故の助言だったのだが、マルにはそれがない。マルは婚姻の成立に歓喜し使者の話を信じた。

 

マルが新たな使節を編成すると言うので、ニコライはそれに立候補した。

 

「そうか、そうか。お前も私の結婚を祝ってくれるのだな」

 

マルは感激していたが、ニコライの狙いは別にある。

キエフ側の言っている事には何か裏がある。

その陰謀を自分が自ら暴いてやるのだ。

 

-----------------

 

ニコライら使節団第二陣がキエフに着くと、そこでは確かに盛大な宴が催されていた。しかし、先に到着しているはずの第一陣使節団の姿は見えない。

 

「私たちの仲間はどこにいるのでしょう?」

ニコライは到着時、出迎えに来たバレリに聞いた。

 

「彼らは城でオリガ様と一緒にいます。」

「では、彼らに会わせて欲しい」

 

ニコライがそう要求すると、バレリはニコライの身体に顔を近づけてクンクンと匂いを嗅ぎ始めた。

 

「…一体、何を?」

「ちょっと、アナタ臭いなぁー」

「な、何ィ! 臭いとは失礼なっ!」

 

ニコライが少し感情的になると、バレリは

「まぁまぁ」

と手を差し出して制した。

 

「いえ、なぁに。使節の皆さんは旅をしていらっしゃったのですから多少臭いがついても当然です。」

 

何か思いついた様にバレリは指を鳴らして提案した。

「そうだ、皆さん、オリガ様に会う前にひとっ風呂浴びられてはいかがでしょう?」

ニコライは首を横に振った。

「いや、それは止しておこう。」

ニコライにとっては敵陣中である。服を脱ぎ、無防備になることは避けたかった。

 

バレリは首を傾げた。

「何故です?」

「何故って…えーと…」

ニコライは答えに窮した。

 

彼の立場はなかなか難しい。

彼自身はキエフ側の意図を疑ってはいるが、かといって今、キエフとドレヴリャーネ族の関係を壊す訳にもいかないのだ。

 

「あのー、アナタ、オリガ様に会った事はありますか?」

バレリがそう聞くのでニコライは

「私はない」

と答えた。

 

「オリガ様というのは、とても美しい女性ですよ? そんな方に会うのにその臭いというのは、どうなのでしょう?」

「…別にいいじゃないか。自分が結婚する訳でもないし。生憎、私は風呂が大嫌いでね」

「そうではなくて…外交上のマナーとしてやっぱり、キチンとして頂きたいんですよね…」

「ぐぬぬ…それは…」

「オリガ様はアナタにとっての主人になるかもしれない方ですよ。やっぱり、初対面はいい印象与えておいた方がいいんじゃないですか?」

 

結局、ニコライは断りきれなかった。

これまでずっと、あのマルに従ってきた事もあり、押しには弱いのである。

 

ニコライたちドレヴリャーネ族の使節団が風呂のある建物に入り、入浴を始めると、バレリはそっと建物を脱出して出入口を封鎖した。

そしてキエフの兵士たちに命じて建物に火を放ち、使節団たちを丸焼きにした。

火の手が上がると、隠れていたオリガも出てきて煌煌と燃え上がる炎を見つめた。

 

「やりましたね。」

バレリが言うと、オリガは眩しそうに目を細めながら応えた。

 

「しかし、使節団が2度も帰らなかったらマルもさすがに異変に気づくだろうな…。」

「そもそも、2度も、使者を送って来た事が驚きです。コチラは迎撃の準備を整えていたのに。使節団が近づいて来てるっていうから慌ててだまし討ちにシフトするのは大変でした。」

「それはご苦労だったな…。しかし、確かに妙だ。マルは何を考えているんだろう?」

「うーん、でも秘書官のニコライを派遣してきているから少なくとも現時点では騙されているんでしょうね。罠だと思っていたら自分の右腕を寄越したりしません。」

 

オリガは顎に右手を当てた。

「それもそうだ。では、もう少し試してみるか…。」

 

----------------

 

オリガはマルに再び使者を送った。

 

今から酒と肴を持ってコロステニへ向かいます。到着したあかつきには盛大な宴を催したいので、会場の手配をお願いします。

 

そう予め伝えておいたので、オリガが従者たちを伴いコロステニにやってくると、マルは派手な衣装を着た一団と共に街の入口で待っていた。

 

オリガは年貢の引き渡しの際、マルに数回会った事がある。鼻の下にヒゲの生えた背の低い男がそれである。

 

「オ、オ、オリガたん…よ、ようこそコロステニへ!」

マルが言うので、オリガは軽く会釈した。

 

汚らしい男だ。オリガはそう思った。

以前会った時は何も感じなかったのに、この男がイーゴリを殺した張本人なのだと思うと急にそう思えてならない。

 

オリガにはどういう事情なのかはわからないが、どうもマルは結婚する事にかなり舞い上がっている様だ。キエフに送った彼の使節団が同行していない事にも、そもそもオリガがこの結婚を簡単に承諾した事にも疑問を抱いていないらしい。

 

オリガはマルの案内に従い宴会場へ向かった。

コロステニは田舎町である。民家は多いが、そこまで目立った建造物は見られない。

 

道中、道の脇に大きくしなだれた樺の木があるのが目に入った。妙なカタチだな、と思っていると、

「あれ、気になる?」

とマルが話しかけてきた。

 

「ええ。変わってますね。」

「あれ、イーゴリを股裂きにした時に使った木なんだよね。アイツ、怯えてカッコ悪かったなぁ〜」

 

マルは

「へへっ」

と鼻を鳴らした。

 

それが夫を亡くした妻にかける言葉なのか、と思ってしまうが、どうやら、自分の方がイーゴリより強いんだ、と言う事を誇示したいらしい。

 

どうも、世の中には自分を大きく見せるたがる男が多すぎる。その点ではマルもイーゴリも変わらない。もし、仮に世の中で行われている残虐行為の根本に男たちのそうした感覚があるとすれば、それは唾棄すべきモノである。

 

そんな風に考えながらも、イーゴリの愚かさを思い出すと、そこには一種の愛おしさが湧いてくる。マルに対しては嫌悪しか湧かないのにである。

 

きっと、愛だな。私もまた愚かだ。

オリガがそう思って笑うと、隣りにいたマルが満面の笑みを浮かべた。どうやら、オリガが微笑み返してくれたのだと勘違いした様だ。

 

宴会場に着くと、早速、宴が始まった。

 

席に着いたのはドレヴリャーネ族の中でも裕福かつ政治力のある面々だという事である。そう聞いた瞬間にオリガは今日の宴会が素晴らしいモノになるであろう事を確信した。

 

オリガは宴の主催者として列席者のグラスの中身が少なくなる度に忙しく酒を注いで回った。

 

オリガ自身は酒を飲まない。口にした事すらなかった。

酒による酔いは自分が普段抑えている感情を開放してくれるらしい。好酒家たちはそれを楽しむ為に酒を飲むそうだが、オリガは本能的にそれを避けていた。

自分の本性が現れた時、自分は何をするのかわからない。

そう思っていたからだ。

 

客の中にはオリガに酒を勧めてくる者もいたが、オリガは貞淑な新婦を装い

「今日は皆さんに楽しんで頂きたいのです」

と笑ってそれを断った。

 

宴もたけなわとなると、オリガが酒を勧めても、さすがに断る者も現れた。すると、キエフ側の使節として宴会に参加していたバレリが会場前方にある演台に上り叫んだ。

 

「皆、何だよぉ! めでたい席なのにもうお仕舞いかぁ!? それとも何だ、もう飲めないってのか!? ドレヴリャーネ族は貧弱だなぁ!!」

 

現在でもロシアと聞いてイメージする代表的なモノの中にウォッカがある様に、当時でもルーシに住まう男たちにとって酒に弱いと思われるのは大変不名誉な事だった。

 

「はぁ? ふっざけんな、負けてられっかよ、マジで。」

と怒ったドレヴリャーネ族の面々はバレリと飲み比べを始めた。

 

バレリは小柄かつ童顔でいくつになっても少年の様な風貌であるが、酒にはやたら強い。バレリの見た目も彼らの闘争心をムダに引き出したのだろう。ドレヴリャーネ族の男たちは1人、また1人と酔いつぶれて行き、最後には全員が床に這いつくばった。

 

「よくやったぞ、バレリ。」

オリガが褒めるとバレリは

「ひっく、ま、こんなモンれす。いいから例の計画を始めましょ。」

とボーッとした目で言った。

 

「よし、やるぞ」

 

オリガは一緒に酔いつぶれたフリをしつつ、実はソフトドリンクで誤魔化していたキエフの従者たちに声をかけて、短刀を一斉に取り出させると、広間にいるドレヴリャーネ族の有力者たちを次々に惨殺していった。

 

特に、マルはオリガが自らの手で念入りに何度も刺して殺した。

ついさっきまでお気楽な宴が開かれていた宴会場はほんの数分で血の海に変わった。

 

オリガの復讐心はこれだけでは満たされない。

オリガは後発したキエフ軍をコロステニに迎え入れると、射手たちに一斉に火矢を放つ様に命じた。

木造の住宅、納屋が燃えて町中が炎に包まれる。これによりコロステニの住民のほとんどが焼け死んだ。なんとか焼死を免れて町の外に脱出した住民もオリガが捕えさせ奴隷として商人に売り払った。

 

こうして、オリガからイーゴリを奪ったドレヴリャーネ族はルーシの地から存在ごと消え去ったのだった。

 

キエフ軍のコロステニ襲撃から数日が経ち、オリガとバレリはキエフ政府の直接統治下に組み込まれた町を再建する為、再びコロステニを訪れた。

 

灰になった町を見て、バレリは

「これで終わりましたね…」

と呟いた。

 

オリガはそれに同意することなく、ずっと眼の前に広がる消し炭と化した町を見つめていた。

オリガにとって復讐の完遂は終わりではない。これから息子のスヴャトスラフが政治を出来る様になるまで、キエフ・ルーシ大公国を守っていかなくてはならない。その始まりなのだ。

 

この惨劇は直後から現代に至るまで、恐ろしい鬼嫁オリガによるドレヴリャーネ族への復讐劇として語り継がれている。

だが、オリガの行動は一般に鬼嫁の復讐と聞いて想像する激情家的な軽挙妄動とは違う性質のモノだった。

 

彼女は最初から最後まで至って冷静に事を成して見せた。

復讐心が全くなかったとは言わない。

オリガの2度も使者を殺し、有力者をだまし討ちにして、町を丸ごと焼き払った行為は確かに執拗である。

 

復讐鬼。

人々にその印象を与えるのには十分であろう。

 

だが、それはオリガの狙いでもあった。

キエフ・ルーシ大公国はこの後、弱冠3歳の幼君スヴャトスラフを大公に戴く事になる。指揮官を失い軍事的な基盤が沈下したキエフ・ルーシ大公国にとって、復讐鬼・摂政オリガここにあり、と強い指導者の存在を周辺国に示しておく事は国防上の抑止力として必要な事であった。

 

全ルーシにとって幸運だったのは、オリガの能力が謀略を用いて敵を殲滅する技術に限定されたモノではなかった事だ。

 

オリガはドレヴリャーネ族を滅ぼすと、すぐさま政治改革に乗り出した。イーゴリの生前から内政はオリガの担当だったが、それでもイーゴリが大公である以上、手がつけられなかった部分もある。

 

最も大きなモノが思想の部分であった。

オリガはルーシに蔓延する、力が全て、という慣習を変えようと試みた。

 

オリガがその答えとして見つけたのは、大国ビザンツ帝国との文化交流であった。オリガはビザンツの統治制度を輸入し、キエフ・ルーシを文民統制のとれた国家に改造しようとしたのである。それを円滑に進めるため、オリガ自ら東方正教の信者となった。

それからオリガが国を治めた20年ほどの間、キエフ・ルーシが大規模な戦いに巻き込まれる事はなかった。

 

オリガは政治に熱心ではあったが、権力に固執するタイプではない。息子のスヴャトスラフが成人すると地位を譲り、5年後に死んだ。

 

スヴャトスラフはヴァリャーグの伝統を重んじて国政に正教信仰を取り入れる事はなく、親政を始めると、すぐ周辺国との戦争を再開した。

彼自身、父親似で武勇に優れた人物であったから、母の影響力を脱する為にはそれが手っ取り早かった。

 

オリガもその必要性を認識していたのか生前にそれを咎める事はなかったし、事実、彼は結果を出してキエフ・ルーシ大公国の領土を大幅に拡張してみせた。

 

だが、結局、彼は戦いの中で命を落とす事になる。

オリガの死から3年後の事だった。

 

キエフ・ルーシが再び正教を政治に取り入れたのはウラジーミル1世の時代からで、その後、ルーシにはキリスト教が根付く事になり、現代に至る。

 

その過程、オリガはルーシの地で初めて受洗した人物として聖人とされる事になった。

キエフ・ルーシ大公国は大公家の相続にあたって分割統治制を採用した為、長い年月をかけて国家は分裂と統合を繰り返す事になるが、今残ったロシア、ウクライナ、ベラルーシ、そのどれでもオリガが尊敬を受け続けている事に変わりはない。

 

ただし、その尊敬のニュアンスは時代によってやや異なる。

3カ国の関係が良好であればオリガはルーシ諸国家共通の国母となるが、関係性が悪化すればオリガの系譜を継ぐ正当後継国家は自分たちである、という争いの火種になる。

 

ルーシの地の争いに終わりは見えない。

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