○弁慶
怪力自慢の破戒僧。義経との決闘の後、部下になる
○伊勢義盛
元盗賊で弓の名手。義経が東北に向かう途中、部下になる。
○北条政子
頼朝の妻。すんごく気が強い性格。
○多田行綱
摂津源氏多田党の棟梁。平重盛の軍勢に恐れをなし反乱を密告した実績から、「ビビり」と呼ばれる。
○平清盛
源義朝を倒し平家に栄華をもたらした武将。頼朝及び義経とは直接矛を交える前に病死。
○平維盛
平清盛の孫で平重盛の子。イケメンすぎる故、周囲から過度に持ち上げられる傾向あり。
平家の権勢は止まることを知らない。
1179年に清盛の後を継ぐはずだった長男の平重盛が病没するが、短期的に考えれば、彼の死によりその勢いは更に加速したと言ってよい。
重盛という諌め役を失った清盛は遂に後白河上皇とも激突。所謂、治承三年の政変が起こり清盛は軍勢を率いて京都を制圧。後白河上皇を幽閉、院政を停止させ、いまや清盛は上皇・天皇すら越える権力者となっていた。
当然、そんな状況に不満を持つ者もいる。
後白河上皇の第三皇子・以仁王もそうであった。
以仁王は治承三年の政変の際に長年知行してきた城興寺領を没収され、その不満はピークに達していた。その為、彼は、保元・平治の乱では清盛方につき信頼を得ながらも、清盛の三男・宗盛との軋轢によって、ここに来て同じく我慢が限界に達した源頼政と結託し、クーデターを計画したのである。
この計画は準備が充分に整わない内に情報が漏れたことにより、京都・宇治での合戦に敗れ源頼政、以仁王共に討死。
初期段階で鎮圧されてしまった。
だが、決起にあたり、以仁王は平氏に敗れて日本各地に散らばった源氏の縁者たちに平家追討を呼び掛ける令旨を下していた。
本来ならば、その各地の源氏勢が令旨に呼応して挙兵するタイミングで以仁王も決起するはずだったところ、それが届く頃、既に彼は敗死していた。
とはいえ、以仁王が死んだところで、平氏への不満がどこかへ消えてしまう訳ではない。
以仁王の令旨をもって大義名分とし、各地で源氏による平家追討の兵が挙がったのである。
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源義朝の三男・源頼朝は平治の乱の後、流されて伊豆にいた。
彼は賢い男である。この後の事を考えると天才的であったとも言っていいが、この時点でどれだけの人がそれに気づいていたかはわからない。
だが、父・義朝は彼のことを非常に高く買っており、他の兄弟に比べ依怙贔屓が過ぎるくらいに愛した。
長男の義平や次男の朝長も逸材とは言われていたが、彼らは父に似た荒武者である。義朝がそれぞれ遊女と地方豪族の娘に生ませた二人の兄とは違い、頼朝の母は貴族の娘で正妻だ。頼朝はそんな母から都の優雅な文化を学び、上流階級のしきたりと教養を身に付けながら育ってきた。
要するに、力自慢ばかりが揃った源氏一族の中で、頼朝は毛色の違う人材だったのだ。
周囲にいる貴族たちは
「アソコの家は筋肉バカばかりだからなー。都ではそのくらい普通ですけど?」
と、義朝の親バカを鼻で笑っていたが、後の世から見れば、義朝の慧眼であったようにも思える。
そして、そんな慧眼を持った人物が伊豆にもいた。頼朝の妻、北条政子である。
伊豆に流された頼朝は、平治の乱で亡くなった源氏の武将とその郎党たちの冥福を祈る毎日を送っていた。
義朝の生前から実質的な嫡男であると目された頼朝だけに、流刑地でも平氏の縁者らによる厳しい監視がつけられたが、彼らも頼朝に対しては
「反乱の兆しなし。これは真面目で立派な男である。」
というような評価を下していた。
だが、実のところ、頼朝は虎視眈々と源氏再興の機会を窺っていた。
賢い彼は早まった行動はとらない。
遊興にふけることもなく、嫁をとることもせず、禁欲的な毎日を送って周りが十分に油断するのを待った。
そして20代になったころ、彼はこの地方の豪族の娘との婚姻を望むようになる。外戚関係となった一族から軍事的な後ろ楯を得ることが目的だ。
候補となるのは、伊東家、北条家、山木家と言った辺りであったが、従者の調べにより、この内、伊東家と北条家にふさわしい年頃の娘がいることがわかった。頼朝は、更にその中から伊東家の当主・伊東祐親の三女・八重姫を選んだ。
監視役とその対象という間柄ながら、この数年で伊東祐親とは親しくなっていたし、その縁で八重姫のことは知っていた。頼朝としても、満更でない相手だったのである。
頼朝は、まず都の文化に則って八重姫に恋文を送った。この地方ではそれなりに力を持っている家の子どもとはいえ、八重姫は所詮、田舎娘である。
普段、真面目かつ紳士的で源氏特有の精強な肉体を持つ頼朝が紡ぐ、都で身に付けたのであろう貴族然とした、情熱的かつ繊細で雅やかな恋の詩にギャップ萌えし、とろけるくらい心を奪われてしまった。
義朝に9人の男児がいたように、源氏の血は精強で知られる。
すぐに子どもが出来、男児が誕生した。
頼朝と伊東家は親しい仲であったので、兄弟らはこれを喜び、子は千鶴丸と名付けられた。だが、伊東家当主の伊東祐親が都での勤めを終えて伊豆に帰ってくると状況は一変した。
都で平氏の権勢をまざまざと見せつけられてから帰国した祐親は頼朝と八重姫の仲を知ると、今にも卒倒しそうなくらいに青ざめた。
「源氏と…しかも義朝の嫡男・頼朝と親戚関係を持つなど言語道断!」
祐親は千鶴丸を海に投げ捨てて殺し、頼朝と娘を近づけないようにしてしまった。
頼朝の遅い初恋は終わった。
八重姫には夫として、千鶴丸には親として情が芽生えていたので、しばらくは落ちこんだ。だが、数ヵ月もすると、この行動は色恋の為でも、幸せな家庭を築く為でもなく、あくまで源氏再興の為のモノである、と思い出して再び活動に移った。
当然だが、もう伊東家との縁組は望めない。
残るは北条家である。
北条家当主・時政には二人の娘があった。
姉の方が政子、妹の方が時子という。
頼朝はまたも従者の手引きにより、事前に二人の顔を見る機会を持った。時子は地味な印象で、政子は一定の美形だが性格がキツそうでおしとやかな女性を好む頼朝のタイプではなかった。
やや残念ではあったが、頼朝はもう好みで妻を選ぶのは止めにしようとも思っていた。相手に入れ込んで失望するのは、八重姫の時に懲りていた。
正妻との結婚は家と家との政治的な結びつきによってするもので、色恋がしたいなら妾とするのが良い。
貴族的な割りきりを持って、頼朝は政子に恋文を送った。
相手は別にどちらでも良かったのだが、年上の姉が嫁に行く前に妹が行くのは気が引けるだろう、と思って姉を選んだのだった。
政子は奇妙な女だった。
都での作法によれば、夜這いの際、事が済むと寝物語といい、何やらロマンチックな話を男が女に聞かせるのが定番だ。
八重姫もこれで頼朝にメロメロになっていたので、学んだことを生かして政子にも同じことをしようと考えていたのだが、それが始まってしばらくすると政子は
「その話、つまらないですね」
と話を遮った。
八重姫との件で
「都で学んだテクニックを使えば、田舎娘なんて楽勝だ!」
と自信を得ていた頼朝は酷くショックを受けたが、政子はそんなことに構わず言った。
「頼朝殿は河内源氏の嫡子であらせられるのですよね?」
「あぁ。二人の兄が平治の乱で死んだから、そうなるな」
「ならば、貴族なんかの話よりも、武士の話を聞かせて下さい。源氏には鬼退治で有名な源頼光殿、八幡太郎義家殿、それにお父様の義朝殿…たくさんの武将がいるのでしょう?」
「女なのに、そんなことに興味があるのか?」
「申し訳ありません。私、田舎侍の娘ですので。」
それからと言うもの、頼朝は政子に会う度に先祖の話や自身が体験した平治の乱の話、それから書物で学んだ大陸の兵法の話などを聞かせた。
政子は毎度それを楽しそうに聞いている。
そして、頼朝自身、そうしている時、女を満足させる為ではなく、自分自身が夢中になって話をしていることに気がついた。
やはり、いくらお上品に振る舞っても自分は貴族ではない。源氏の武者なのだ。
頼朝は政子といる間、大人しい流罪人でも、都育ちの色男でもない本当の自分に戻れる気がしていた。
さて、北条家でも伊東家で起こった事と、ほぼ同じ事が起こった。
都での勤めから帰って来た北条時政が政子と頼朝の仲を知ると
「今すぐ別れろ!」
と言い出したのだ。
だが、伊東家と北条家では娘の気性が違った。
「何故、頼朝様と夫婦になってはいけないのですか!」
「婚姻とは、家と家との繋がりでするものだ! お前の意思だけでは決められん!」
「頼朝様は河内源氏の棟梁であらせられます! 家とのご縁というなら、これ程よい縁はないではないですか!」
「源氏は終わった! 今は平氏の天下よ! お前は都を見たことがないから、そんなことを言うのだ」
「父上は二言目には『都では』などと言う! 都で雅に過ごす平家に何が出来ますか! 頼朝様は今に勇ましい坂東武者をまとめあげて、平氏を打ち倒すでしょう!」
「なっ…平氏に、清盛様に弓を引くというのか! 冗談でもそんなこと言うのは許されんぞ!」
「頼朝様は、それを実現するだけの器量を備えたお方です!」
「お前は騙されているのだ! お父さんはそんな結婚許しません!」
そんな、大喧嘩をしていると、横から政子の弟、時政の次男である北条義時が口を挟んできた。
「父上、もうよいではないですか。姉上の好きにさせてあげましょう」
「義時! お前までそんなことを言うのか!」
「だって、今の見たでしょう。こんな気の強い女、他に嫁の貰い手がないんだから、頼朝殿にもらってもらいましょうよ。確かに源氏の棟梁でもなければ、この人の相手は務まらないかもしれません。」
こうして、二人は結ばれ、1178年には長女をもうけている。
そんな頼朝のもとに以仁王の令旨が届いたのは1180年春のことだった。慎重な頼朝は挙兵の決断を下すことを随分迷っていたが、これを機に源氏の残党を平氏が掃討する計画を立てていると聞くと、遂に挙兵に至った。
北条氏を主力に平氏方の山木家を奇襲して初戦は勝利したが、続く石橋山合戦では合流予定だった三浦、和田一族との合流に失敗し、伊東・大庭氏連合軍に敗北を喫した。
頼朝軍は北条時政の長男・宗時が討たれるなど手痛いダメージを被ることになった。
敗れた頼朝は、しとどの窟に身を隠すが、平氏方の梶原景時という武将に見つかってしまう。しかし、この時景時は源氏に味方して頼朝を見逃した。これにより、その後、家臣団の一員となった梶原景時は頼朝から全幅の信頼を得ることになった。
さて、梶原景時のとりなしによって九死に一生を得た頼朝は房総半島に渡り、元々合流予定の三浦氏・和田氏。更に千葉氏及び上総氏と合流。そして、甲斐では甲斐源氏の武田信義と同盟する。
これら全ての合流を終えると頼朝の軍勢は総勢2万人程に膨れ上がっていた。
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源氏軍の進撃に対して平家は平重盛の長男・平維盛を大将とする追討軍を組織した。両軍相まみえたのは現在の静岡県。富士川の近くであった。
平維盛はイラだっていた。
どいつもこいつも人に期待するだけ期待して、何も手伝おうとしない。
昨年、父・重盛が死んだ。
平家の実質的な総大将が祖父・平清盛であるというのは誰もが知るところではあったが、清盛は1168年に病を患ったのを境に仏門にはいっていたので、それ以降は名目上、平家の棟梁は平重盛となっていた。
重盛は頭がよく冷静で人格者でもあった。その為、重盛が清盛の跡を継ぐことに文句を言う者などいなかった。何なら、朝廷の公家衆などはカッとなりやすく強権的な清盛には早いところ実態としても引退してもらって全ての政権運営を重盛に任せたいと思っていたくらいだ。
その重盛が病死した。
誰もが認めた清盛の跡継ぎがいなくなり、その後継が問題になるようになった。清盛は次の棟梁に自身の三男・平宗盛を指名した。この男は武芸にも芸術にも秀でたところのない凡庸な人間であった。父・清盛に対してもほとんど言いなりであり、諌め役を失った清盛は治承三年の政変のようなクーデターすら起こすようになっていた。
そのように平家政権が暴走し、清盛、宗盛に対する不満が高まる中で期待をかけられたのが平維盛であった。
維盛は当時20歳と平家の棟梁になるにはまだ若かったことから跡継ぎから外されていたが、元々嫡流だった重盛の長男であり、後継者としての資格は十分にある。
しかも、彼は美貌の貴公子であり、舞踊の天才であった。後白河法皇50歳の祝賀では、烏帽子に桜と梅の枝を挿して「青海波」を舞い、あまりの美しさから光源氏の再来とまで言われた。
そんな維盛が源氏追討の総大将に任命された。これは清盛の期待の現れであったと言っていい。もしかすると清盛は宗盛を中継ぎに維盛を後継者にと考えていたのかもしれない。
元は重盛系が嫡流とはいえ、一度宗盛を棟梁にした以上、それを廃するには何らかの大義名分が必要だ。
維盛に武功を立て、名実共に後継に相応しいと認められる存在になってほしい。
清盛だけでなく、都では誰もがそう望んでいたから維盛が出陣する際には大声援のもとに送り出されていた。
だが、富士川に着陣する頃には維盛はこれ以上ない窮地に立たされていた。相対する源氏に対して、明らかに準備が不足しているのである。
まず、軍の出立が遅れた。維盛は以仁王の令旨に基づいて源氏が各地で次々に挙兵する状況を見て一日でも早く出発して敵を叩くべきだと主張したが、受け入れられなかった。
年上の参謀たちが皆揃って
「大安吉日を待って出発するべきである」
と主張したのだ。
勿論この時代の人々は現代人からは考えられないくらい様々なしきたりに従って暮らしているので、当時の感覚としては参謀たちの意見も理解できない話ではなかった。
だが、しきたりと戦の勝敗でどちらを選ぶのか。自分たちを貴族でなく武士だと思っているならば、答えは一つのはずだった。
「お前らは武士ではない!」
維盛がいくら罵っても
「これだから若い人は…。しきたりとか礼儀とか知らないの?」
と受け入れられず、結局本来出撃できる日から5日程待ってからの出発となった。
その間、源氏は着実に力を増している。
そして、更なる不幸が維盛を襲った。
西国を中心に起きた養和の飢饉によって兵糧が極端に不足していたのだ。
維盛は都の一門衆に兵糧の援助を依頼したが、
「どこも飢饉で米がない」
との返答で物資は送られて来なかった。
大飢饉とは言っても、その本格的な到来は次年であり、この時点ではまだ餓死者が出る程ではない。維盛も都の平氏一門や貴族が未だそれなりの食生活を送っていると知っている。要はそいつらが多少ひもじい思いをすれば、それだけで兵糧は賄えるはずなのだ。
結局、自分を送り出した連中には自らが苦労をしてまで勝つ気がない。何となく見てくれがいい期待できそうな若者を送り出せば、勝手に事態を全て解決してくれる気になっていて、「頑張れ」と言ったり思ったりするだけで十分なサポートをしたつもりになっている。そういう奴らに限って期待していた結果を出してもらえなかった時には「裏切られた!」と喚きたてるのだ。
維盛は憤りを感じていた。
兵糧の不足とこの軍団の先行きへの不安から維盛の軍からは離脱者が続出した。そして、京都を出るとき3万いた軍勢は富士川に着く頃には4000人程になっていた。
富士川の下流は湿地帯である。
維盛軍は沼地の手前に陣を張った。
陣中では、参謀役の伊藤忠清が
「源氏軍の軍勢は2万人だという。我が軍は4000人。戦力差が大きすぎる」
と頻りに撤退を主張していた。
確かにその通りだが、大安吉日を出陣の日にすることに、こだわって時間を浪費したお前の言動も、この体たらくの原因の一つであろう、と思うと維盛は腹が立ってその言葉に素直に従うことができなかった。
ある日の夜である。維盛が陣中で寝ていると、何だか外が騒がしい。
近くの者に何事かと聞くと
「夜襲です!」
と言う。
敵の姿は見えなかったが、何分、味方がパニック状態だ。本当に今、ここを奇襲されたら戦える状態ではない。維盛は撤退を決断した。
維盛が後から話を聞くと、直接敵との交戦が始まった訳ではなく、誰かがただ水鳥の群れが飛び立つ音に驚いて「夜襲ではないか」と言ったが為に陣中でそんな噂が立ち、次第にパニックが広まったのだという。
維盛は頭を抱えた。
とはいえ、水鳥が飛び立ったのは、甲斐源氏の武田信義が実際に夜襲をかけようと動いていたのが原因だったので、奇襲を察知して早めに撤退したという判断だけ見れば、維盛のとった行動は決して間違いではない。
だが、兼ねてからの兵糧不足などにより、3万いた軍勢は維盛が都に辿り着く頃には数十騎に減っていた。結果だけ見れば、大惨敗を喫したのと同じである。
それを受けてなのか、それとも蔓延する反平氏的な感情からなのか。あるいは、イケメンへの僻みもあったかもしれない。水鳥の件は誇張されて全国に広がり、維盛は嘲笑の対象になった。清盛からも激しい叱責を受け、この後、維盛は失脚したのである。
そして、その後、半年も経たない間に清盛が死んだ。熱病におかされてのことであった。
「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」
それが最期の言葉であった。貴族化し武士としての本分を忘れていく平家一門に憂いと憤りを感じての言葉であった。
維盛への叱責も彼個人への言葉というよりは、一門全体へのイラだちという側面が強かったであろう。
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「信義殿、よくご無事で。その様子ですと、上手く行ったようですな」
頼朝は富士川での夜襲を終えて帰陣した武田信義にそう声をかけたが、信義は首を横に振った。
「いや…敵兵は一人も倒せなかった。」
「え? でも、信義殿も家臣たちも皆、無傷で帰って来ているように見えますが…」
「逃げちゃった。」
「え?」
「平氏の奴ら、戦う前に鳥が飛び立つ音に驚いて逃げちゃった。」
「え? 何それ? 何それ?」
「わかんない。でも、ビビって勝手に逃げちゃった。」
「ぷっ」
「ぷっ」
「ギャハハハハ!」
「あー、お腹痛い、お腹痛い!」
「維盛とか、すっごい出来る奴って噂だったから、ぶっちゃけコッチもちょっとビビってたのに…!」
「何だよ、アイツ、顔だけじゃん! 無能イケメン!」
「イケメンが恥をかいて、今日もメシが旨い!」
源氏の陣中で諸将が大爆笑していると、見張りに出ていた土肥実平という武将が本陣に帰ってきた。
頼朝は実平の顔を見て言った
「あぁ…実平。ヒヒッ! ごめん、今メチャクチャ笑える話してた。ぷっ。実平も聞きたい?」
「…。それほど笑える話なら気にはなりますので後程。」
実平はそう話した後、報告を始めた。
「見張りをしていたところ、頼朝様に是非お会いしたいという者がやってきまして…」
「何者だ?」
「20騎ほど引き連れていますが、それが随分若い男なのです。」
「軍への志願者か? 実平の隊に加えてやれば良いのではないか?」
「もし、そうならそれでも良いのですが。気になることを言っておりまして。」
「何と?」
「『奥州から来た』『僕は頼朝様の弟です』などと言っております。」
「ほう。そのような事を…」
「まぁ、有名になると親戚が増えるというのはどうやら本当の様で。ここ数日、頼朝様の縁者を名乗る者がひっきりなしに訪ねてきて軍に加えてほしいと言うので、わざわざ報告するのもどうかと思ったのですが…。その若者、何か話が具体的で信憑性があるというか。気になるのです。」
頼朝は、しばらく顎に手をあてて考えた後、思いついた。
「奥州…弟…あ、牛若丸か!」
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以仁王の令旨は奥州にいる義経の元へも届いていた。
決起にはやる義経の庇護者となっていた藤原秀衝は
「まだ時が熟していない」
とそんな彼を強く引き留めた。
義経は奥州に至るまでの旅路で弁慶、伊勢義盛などの仲間を得ていたが、奥州藤原氏の協力が得られないなら、手持ちの軍勢は十騎に満たない。
諦めよう。
そう思っていたのだが、伊豆にいる兄・頼朝が挙兵したと聞いて事態は変わった。
自ら挙兵できなくても、河内源氏の嫡子が兵を挙げたならそれに加わり平家打倒を目指せば良いではないか。
秀衝はこれに対しても引き留めを行うが、奥州藤原家の軍を使う訳でもないので、義経が血の繋がりがある兄と一緒に戦うと言うなら最終的には止めようがない。
結局、家臣の中から佐藤継信・忠信兄弟をはじめ、義経を慕う者十数人をつけて送り出してやった。
そして、義経が頼朝の軍に追いつき合流できたのが、富士川下流でのことだった。
対面すると、頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。
平治の乱の時、義経は1歳に満たない赤ん坊であった。だから、義経にとって頼朝は見たことのない兄であった。また、頼朝にとっても、そんな年の赤子が成長した姿を見たって一体誰なんだか本当のところはわからないであろう。
でも、頼朝は泣いていた。
義経は11歳で生き別れた母以外には肉親を知らない。肉親だというだけで先程まで顔も知らなかった人間の為に泣けるのか。血の繋がりと言うものはそれほどまでに価値があるのか。不思議に思ったが、何だか悪い気はしない。むしろ、他人が持っていて自分になかった大切な物をやっと自分も手に入れたのだ、という気分になっていた。
「よし、兄上! この義経が、天狗兵法で平家を一網打尽にしてご覧に入れましょう! さぁ、行きましょう! いざ、西国へ!」
義経は胸が熱くなってそう叫んだが、頼朝は急にドライに言った
「え? 西国へはまだ行かないよ?」
「え?」
「だって、関東にもまだ源氏に従わない勢力がいるからね。西国へ向かうのは佐竹や志田を討ってからだよ。」
頼朝は、政治を知らない義経とは反対に、非常に思慮深い男だ。この後、鎌倉を本拠地にして関東の平定に約3年かけることになる。