史実はラノベよりも奇なり ~歴史短編集~   作:ロッシーニ

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その3 ~旭将軍・義仲の落日~

 

義経は暇をしていた。

頼朝が関東を平定する3年間、勿論、何もしていなかった訳ではないが、この頃の義経の主な任務は合戦に挑む頼朝の御家人衆に着いて歩き、ただその様子を見学するというものであった。

いわば、武将見習いである。

 

確かに戦の経験がない義経にそうした勉強をさせるのは、当然のことなのだが、天狗兵法を学んだ義経にとっては、その辺りの武将が使う一般的な兵法など、見ていても退屈なだけであった。

早く部隊の指揮をとりたい、むしろ自分の足で戦場を駆け回りたい。そんな気持ちが義経の中で段々と大きくなっていった。

 

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義経が退屈している間、彼が夢見ていたような大活躍をする武将がいた。

 

木曽義仲である。又の名を源義仲。

つまり、彼も源氏の一族にあたる人物だ。東国の源氏が河内源氏の棟梁・頼朝の下に集結する中で彼は頼朝とは別行動をとり、平家の打倒を目指していた。

 

それもそのはず。

彼は源氏の血筋でありながら、頼朝とはどちらかといえば敵対する立場であったのだ。彼が義朝系の一族とは区別され、源義仲ではなく木曽義仲と呼ばれることが多いのにも、このあたりに理由がある。

 

 

頼朝・義経兄弟の祖父を源為義という。彼は源氏の中でも特筆して子沢山で50人近い子がいたが、その内有力なのが長男の義朝と次男の義賢であった。

この義朝が既にお馴染みの通り、頼朝・義経兄弟の父にあたり、次男の義賢が義仲の父である。つまり、兄弟と義仲は従兄弟にあたる。

 

では何故、この近しい親類同士が対立するのかと言えば、それは父の代からの因縁によるものだ。

若くして優秀な武将であった義朝は1154年に朝廷から右馬助に任じられるのだが、これは検非違使である父・為義の官位を越えるものであった。なおかつ、この二つの役職は職域的に被るところもあったので、子が親の上司になるようなカタチにもなった。

これにより為義・義朝親子による一族内での主導権争いが勃発。その報復として為義は義朝を廃嫡。次男の義賢を嫡子としてしまった。

 

これに憤った人物がいる。義朝の長男・義平である。

当時15歳にして既に大人のような体格をしていた彼は、少数の手勢を率いて義賢の屋敷を強襲。義賢とそれに与する秩父氏の秩父重隆を討ち取ってしまった。

 

この戦いはその後、大蔵合戦と呼ばれるようになり、弱冠15歳にして単独で有力武将を討ちとった『鎌倉悪源太義平』の名が天下に轟くようになる訳だが、反対に義賢系の一族からすればそんなガキに当主を討たれたのだから屈辱でしかない。

 

当時2歳であった駒王丸こと後の義仲には、当初義平による殺害命令が出されていたが、義朝系、義賢系双方と縁があった斎藤実盛という武将のとりなしで信濃国の豪族・中原兼遠に預けられ養育されることになった。

なお、この中原兼遠の子どもの中に義平の親友かつ忠臣となる樋口兼光、今井兼平、そして巴御前がいる。

 

 

さて、以仁王の令旨を受けて挙兵した義仲の進撃は正に破竹の勢いであった。他の源氏勢力との争いを避けて平氏の根城である北陸道へ出ると、巧妙に退却しながら得意の山岳戦に持ち込み倶利伽羅峠にて平氏総勢10万の兵をおよそ半数の兵で破り軍を進めた。

 

なお、倶利伽羅峠の戦いの後、義仲は平氏を追撃。加賀国篠原にてその背中を捕らえた義仲軍は残る平氏4万の軍をまたも5000程度の兵でメタメタに撃ち破ったという。

その際、平家の兵が裸足で逃げ出す中で、ただ一人勇猛果敢に戦う老将がいた。見事な戦いぶりに木曽方の武将・手塚光盛が名を訊ねたが名乗らなかった為、一騎討ちに及び討ち取ったのだが、光盛がその首を持ち帰り義仲に見せたところ、それが斎藤実盛だということがわかった。

平治の乱の後は平氏側に立場を変えていたが、大蔵合戦の後、義仲の命を救った恩人である。素性を明かせば義仲は実盛を助けたであろうが、一度源氏から平氏へ立場を変えた手前、これ以上変節を重ねて命を長らえるのは恥だと考えたのであろう。

 

義仲は泣いた。

恩人を討った悲しみと、その恩人の潔い死に様に対する感動で、泣いたのだ。人目を憚らず、ワンワンと子どものように泣いたという。

 

義仲とは、つまりこういう男であった。

思慮深い頼朝とも、無垢な義経ともタイプが違う。平将門以来、武士勃興の時代に生きる武人たちが理想とした漢の中の漢。それを体現したのが、木曽義仲という人間であった。

 

話が逸れたが、何にせよ。

義仲にしてみれば、平家よりもむしろ義朝系嫡流にあたる頼朝との方が因縁深い。彼が平家を追討する目的は父・義賢が被った「15歳のガキに負けた弱い武将」との評判を覆し一族に名誉を取り戻すことにあったと言ってもいい。

そして、平家を散々に撃ち破って、京に入り「旭将軍」と呼ばれるようになった彼の目的と歴史的な役割は、それによって終わりを迎えようとしていた。

 

 

義経は、木曽義仲が京都に入ったという話を鎌倉の屋敷で知った。義仲という男は凄まじい強さで、倶利伽羅峠では平氏軍に対して、角に松明をつけた猛牛を放ち、崖から突き落としたという。

 

天狗の兵法に似たやり方だと思った。

 

「…面白い。」

 

義経は義仲の戦いぶりに関して書かれた報告の書を読みながら何度もそう呟くのだった。

 

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義仲の進撃を前に、平家は戦わず西へと逃れた。都落ちしてなお、自身らの正統性を確保する為、清盛が即位させた安徳天皇と幽閉中の後白河法皇、両方を連れていくはずだったのが、危機を察知した後白河法皇が巧みに脱出し身を隠したので連れていけるのは安徳天皇のみとなった。

平氏は安徳天皇と天皇即位に必要な三種の神器を携えて一旦大宰府を経由した後、屋島に移って京都を奪還する機会を窺うことになった。

 

義仲は北陸から京都へ向かう道中で隠れていた後白河法皇の身柄を確保。法皇を伴い華々しく入京した。

貴族化した平氏とは真逆の猛々しいその姿に人々は魅了され、彼のことを『旭将軍』と呼んだ。

 

 

当初、独裁的な平家を都から追い払ったことで歓迎された義仲の軍だが、しばらくすると平家よりも更に忌み嫌われる存在になっていった。

義仲配下の兵たちが都で略奪を働くようになっていたのである。

 

貴族たちから見ると粗暴な義仲とて、兵士たちの乱暴狼藉に全く心を痛めなかった訳ではない。いちおう、兵士たちへ略奪を禁じ、破った者は死罪にするという御布令を出している。

だが、略奪は止まらなかったし、義仲もそれをある程度は黙認せざるを得なかった。

 

理由の一つには前述した西国における飢饉の影響がある。そのピークは1181年であり、この時点では既に峠を越えてはいたが、それでも京都に大軍勢を養うだけの食糧はない。

略奪するなと命令するのは簡単だが、では兵たちは明日から何を食べて生きていけばよいのか。

 

そして、もっと広い視野で、何故軍の統率がそこまで乱れてしまったのかという観点から見ると、それは、義仲が兵たちに新たな目標を提示出来なかったことが大きい。

義仲の父・義賢の汚名をそそぐ為にその強さを示す、という目的意識を持った木曽源氏にとって、権勢を誇った平氏を蹴散らし、各地で挙兵した源氏の中でも一番乗りで上洛したことは、一つ大きな成功であった。

だが、義仲はその先のプランを持っていない。都を制圧し政権をとったとして、どういった政治をしていけばよいのか、まず義仲自身わかっていないのだ。

 

やるべきことがまるでない訳ではない。まだ、平家追討の院旨は出たままだ。

だが、平氏は四国の屋島(高松市)へ逃げている。平氏を追うなら、まず海を渡らなければならないが、山育ちの義仲以下、木曽源氏には海戦の経験がない。と、いうか、彼らはそもそも海を見たことがない。

対して平氏は貿易で財を築いたこともあり、海戦や操舵の経験が豊富だ。いくら平家が弱っていても、場所が海なら形勢は逆転する。

 

それならば、まずは都を含む広大になった領地の経営に力を入れること。

そして、瀬戸内海沿岸にしか勢力圏のなくなった平氏に経済力で差をつけて大軍を組織するのが定石だが、そうなるとまた、義仲の政治的なビジョンの無さが問題になるのである。

 

義仲の軍は東国の頼朝に背後を脅かされながら、勝ち目のない海戦に行っては帰りということを続けるしかなくなっていた。

元々荒くれ者の兵たちがそんな毎日に満足出来るはずもなく、彼らは都の民に乱暴狼藉を働くことでしかフラストレーションを解消する手段をなくしていた。

 

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一方、頼朝は1183年3月の野木宮合戦で勝利して関東をほぼ手中におさめていた。

 

地盤をしっかりと固めた頼朝は得た領土の中から御家人たちに報奨を与えることにした。家臣たちの挙兵以来の労に酬いたカタチになる。

特筆すべきは、この際、武将見習いであった義経や、彼より少し遅れて陣に加わった義朝の六男・範頼にはそれがほとんど与えられなかったことだ。

 

律儀な考え方の範頼は

「私は源氏の一門なのに報奨を頂けなかった…。兄上は余程私の働きに不満があるに違いない」

などと青ざめていたが、そういうことではなく、要はこれが頼朝の国家運営に対するビジョンなのだ。

 

国家は武家の棟梁と御家人たちによるご恩と奉公の関係で運営される。報奨のタカは血筋では決まらない。家臣の立てた戦功と忠節のみによって決まる。

今回の報奨はいわば頼朝がこれからの国家のあり方を示す為、やや極端にそれを実行したものだった。

だから頼朝に挙兵から協力した北条や佐々木、土肥といった辺りが厚遇され、血が繋がっていても比較的に新参で手柄の少ない範頼・義経はあえて冷遇された。

 

義経配下の伊勢義盛や佐藤兄弟は

「何故、御家人衆があれだけ褒美をもらえて、弟の義経様には何もないのだ!」

と憤っていたが、当の義経本人はそんなこと気にも留めていなかった。

 

もし、今の生活に不満があるとすれば、ただ戦いの場が与えられないことだけだった。

 

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さて、1183年秋。

頼朝に義仲追討の院宣が下った。朝廷も義仲軍の乱暴に見てみぬフリが出来なくなっていたのだ。

 

頼朝はただでは動かなかった。

 

頼朝は院からの知らせに対して

「行きたいのはヤマヤマなんだけど、行ったら、藤原秀衝など他の勢力が背後をついてくるかもしれないからなぁー。せめて朝廷が我々の関東支配権へのお墨付きをくれたら安心なのになぁー」

という書状を送り返した。

 

都が荒れ放題になっている現状に頭を悩ます後白河法皇はこれを飲むしかない。こうして頼朝は朝廷に、自身の東国支配を公認させ、更に官位を平治の乱の前の位まで戻すことを約束させてから出兵を決断した。

 

遠征軍の大将は源範頼と源義経である。

関東地方での戦では地元の豪族である御家人たちを大将としても使っていた。だが、京へ攻め上がり、同じ源氏の義仲や平氏と戦うのに際しては、彼らが大将ではネームバリューとして弱い。やはりそのポジションには源氏の名を持つ武将が必要になったのだ。

 

義経は歓喜した。

今までやってきた武芸の修行も、鞍馬山を降りたのも、奥州で潜伏したのも、兄・頼朝の下へとやってきたのも。義経がいままでしてきた行動の全てはこの時の為にあった。

 

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義仲の軍と範頼・義経軍がぶつかったのは1184年1月のことであった。

 

義仲はその数日前まで関東勢が都へ迫っていることを知らなかった。その為、また平家軍を攻撃する為、屋島へ出撃しようとしている最中だったのだが、知らせを聞いて急ぎ京都へ引き返してきた。

 

京都は交通の中心であり、都市機能に特化した街であるため、一度接近してしまえば、攻めやすく守りにくい地域だ。

その為、最終的な防衛ラインは京都市外の淀川(宇治川)であり、守るのは瀬田橋と宇治橋になる。義仲はその二つの橋にそれぞれ陣を引いた。

 

攻め手側の範頼・義経の関東勢は軍を二つに分けることにした。範頼が瀬田橋、義経が宇治橋を担当する。そして、そこにそれぞれ軍監として和田義盛、梶原景時が着けられた。義盛が範頼軍、景時が義経軍を担当する。

 

義経軍が宇治橋に到着すると、戦上手の義仲軍は橋の底板を外して待ち構えていた。これでは橋は渡れない。

 

「舟を用意しましょう」

と梶原景時が言ったが、義経は

「うーん、別にそれはいいや」

とそれを断ってしまった。景時は激怒した。

 

景時は頼朝の意向をよく理解している。

この度の戦で義経が大将になったのは源氏のネームバリューが必要だったからだ。だから実質的な大将は軍監の自分であり、お飾りの大将はハイハイと自分の言うことを聴くものだと思っている。

 

「では、どうされるおつもりなのですか?」

「だって、僕ら2万人以上いるんだよ? 皆で渡れるだけの舟なんか用意してたら何日かかるのさ。それより、この川、浅いところないのかな? そこから押し渡ろうよ」

 

景時は義経の言葉を鼻で笑った。

「素人がッ!」

そう思ったのだ。

 

この宇治川は現代でいうところの一級河川。とてもムリヤリ渡れるような川には見えなかった。しかも季節は1月。雪解け水で増水している。

 

「義経殿、それは無謀です。戦とは早ければ良いものではありません。慎重に準備を重ねて勝てるようにしてから挑まねばなりません」

「えー。そんなぁ。」

 

速ければ速いほどいい。

義経はそう思った。義経にとっては、速さこそが戦で最も大切なことであった。速く動いて虚を突くこと、相手に考える隙を与えないこと。それが天狗兵法の極意なのである。

 

義経と景時が揉めていると、軍中にいた畠山重忠という武将が

「そう言えば、以仁王が令旨を出した時にもここで戦いがありましたが、この辺りに浅瀬があって、平氏はこの川、渡ってましたね」

と言い出した。

 

「やっぱりね。じゃあやってみようよ」

 

畠山重忠と義経らが準備をしようとすると梶原景時が

「重忠! 軍監は私だ、邪魔をするな!」

と叫んだ。

このまま案が通ってしまえば景時は面目が潰れてしまう。

 

そんな景時を

「まぁ、いいじゃない」

と諌めたのは息子の梶原景季であった。

 

そして

「僕は義経殿の案、面白そうだと思うよ。じゃ、先陣はもらった!」

と馬を走らせて川へ突っ込んで行ってしまった。

そこへ頼朝の旗揚げから関東軍に参加する佐々木高綱が続き、その後は続々と兵士たちが川へ入っていった。

 

せっかく橋を容易に渡れないようにして待っていた木曽勢は想定していなかった位置からの渡川に混乱し、あっという間に潰走した。

 

 

京都で防衛戦はできない。宇治橋が突破されたと知った義仲は遂に都落ちを決意した。

だが、ただで逃げる訳にはいかない。義仲が考えたことは平家と同じである。この少し前に揉めて幽閉していた後白河法皇の身柄を拉致してから逃げようとしたのだ。

しかし、義経の軍は速かった。途中で味方をいくらか置いてけぼりにしながら全力で駆けてきた義経の軍は義仲が六条に来るよりも先に到着し後白河法皇の身柄を確保したのである。

 

そうして、後白河法皇の身柄をエサに平家と連携するという手段が潰えた義仲の耳に、宇治橋に続き瀬田橋も突破されたという報が届いた。瀬田橋を守っていた今井兼平は退却したという。

南からは義経、東からは範頼が迫っている。平家のいる西側に逃れることも最早できない。

 

この時、北へ逃げていれば、義仲はもう少し長生きできたかもしれない。だが、彼は東に進むことを選んだ。

 

共に中原兼遠の下で育ち

「我ら義兄弟、生まれた日は違えども死する日、死する場所は同じである!」

と誓い合った仲の今井兼平がいるからだ。

 

「兼平のところへ行こう。どうせ死ぬなら、アイツと共に…」

義仲は同じく中原兼遠の下で育った親友、戦友かつ最愛の人である巴御前に声をかけて東へ向かった。

 

義仲、巴御前、今井兼平の三人は大津で再会した。

そして総勢300人となった義仲の軍は敵中突破を図り追っ手の甲斐源氏軍の中に突っ込んで行った。

 

無謀な突撃であった。

それでも義仲は甲斐源氏、そして続く土肥実平の軍の包囲網を突破。残り5騎になりながらも生きていた。

 

その5騎の中には巴と兼平もいる。

「お前たち、本当にスゴいな。」

義仲が声をかけると兼平は微笑み、巴は

「このくらい朝飯前だ!」

と誇らしげに言った。

 

「見事だ…」

そう微笑んでから、義仲は巴の方を向いた

 

「なぁ、巴…お前はここで逃げろ。」

「え…何で、何で今さらそんなことを言うのですか! 私だって、死ぬなら義仲様や兄上と一緒に死にたい!」

 

「いいから、もう着いてくるな。女のお前まで死ぬことはない。ここから先は、男の世界なんだよ」

「何ですか、それ。義仲様も兄上も昔からそうです。そんなこと言って私を仲間外れにして…。『男のナントカ』って言えばカッコいいとか思ってます? 別にカッコよくないですよ。」

「なっ、何言ってやがる! メチャクチャカッコいいだろうが!」

 

義仲が言い負かされそうになっているので、兼平が助け船を出した

 

「なぁ、巴。オレの親友の気持ちをわかってやってくれ。愛した女に死なれたくない、それだけなんだ」

「…。それなら、直接言ってくれれば良いのに。」

「それをあえて言わないのが、男の美学なんだよ。」

 

「へ? 今、何て」

「だから、それが、男の美学なんだよ。」

 

巴は吹き出した

 

「ぷっ、ダサッ!」

「はぁ!? メチャクチャカッコいいだろうが!」

 

義仲と兼平が同時に叫んだのを見て微笑んだ後、巴は駆け出した。

そして丁度やってきた関東勢の追っ手2名の首をハネてから山中に消えていった。

 

そしてしばらくすると、巴にやられた2名に続いて追っ手がやってきた。その数、数千。

 

義仲は兼平に問いかける。

 

「勝てると思うか?」

「敵が多いな…一対一なら負ける気がしないんだが…」

「オレもだ」

「なら、死ぬまでにどちらが多く敵を倒せるか競争しよう」

「久しぶりだな、そういうの。よし、兼平には負けんぞ! 」

「あの世にいったら答え合わせをするから、しっかり倒した数かぞえておけよ!」

 

そうして二人は敵軍の中へ突っ込んでいった。

 

 

こうして、旭将軍・木曽義仲は死んだ。

豪快な武勇で鳴らしたこの男は、愛と友情に生き、そして死んだのである。

それは平安中期から後期にかけて武家勃興の時代、多くの強者たちが憧れ、理想とした姿の典型例であり、究極系でもあった。

 

だが、その時代が終わろうとしている。

平安時代、政治を行うのは貴族であり、武士は彼らの権力闘争の道具でしかなかった。要するに武士は戦うことだけを考えていればよかった。

だが、これから向かっていくのは武家が自立し、自らの手で政権運営をしていく時代だ。

良くも悪くも平安時代後期の武士であった義仲は終わろうとしている時代の遺物として、朽ち果てていく運命だったのかもしれない。

 

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義仲のもう一人の義兄弟である樋口兼光は京都にて木曽勢の中では最後まで奮戦していたが、やがて力尽きて義経に捕らえられた。

 

配下の武士たちが戦いぶりに感動し、

「こんな立派な武人を殺してはならない」

と言うので、義経は手紙に詳細を記して頼朝に兼光の助命を嘆願した。

 

だが頼朝は

「そんな強敵なら余計に生かしておけないな」

と死罪の命令を出してしまった。

 

義経も武士のロマンを理解しない人間ではあるが、それ以上に源頼朝は今までの時代にいない、新しいタイプの武士だった。

 

 

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