中山レース場地下バ道にて
「いよいよこの後ですわね、ダイヤさんの初GⅠレース。彼女がしてくれたように、私も声を上げて応援しなくては……って、トレーナーさん!? どうされましたの!?
「……どうしよう、急に頭痛くなってきた気がするんだけど。震え止まらないんだけど」
「はぁ、走る本人より緊張してどうするのですか。まるで、ダイエット中によりスイーツを我慢している今の私のようですわね」
わーお、かなり体張った自虐ネタですねマックイーンさん。とりあえず帰ったら走り込み頑張ろうか。
「大丈夫ですわ、病は気からという諺もあります。ほら、ひっひっふー」
「……あのさ、あえてツッコんでなかったんだけど、ラマーズ法って知ってる? それ妊婦さんがお産の時にする呼吸法だからね?」
「……」
僕の指摘にマックイーンは顔を真っ赤にしてその場にうずくまる。
残念ながらフォローのしようがない。
まあなんだ、ゴールドシップに聞かれてないだけ幸運とでも思うんだな。
マックイーンが恥ずかしさで固まっているのを観察していると、僕達のお目当ての人物がようやくお目にかかる。
「あ、トレーナーさん、マックイーン……さん? どうされたんですか?」
「おう、ダイヤ。マックイーンのことは気にしなくていいよ。それより、その調子だと気持ちは完全に吹っ切れたようだな」
「はい、昨日トレーナーさんによくしてもらったおかげです!」
うーん、言い方。これじゃあ僕が性犯罪者と捉えられてもおかしくないような言い方じゃあないか。
幸いなことに、まだ体をうずくめているマックイーンには聞かれてない。
僕は一つ咳払いを入れて今の話をスルーする。
「そ、それより、今日は天気も良いしバ場の状態も良い。枠順も6枠11番と凄く悪いと言うわけでもない。さらに、二番人気と僅差とはいえ君は一番人気だ。やっぱりプレッシャーを感じるなって言う方が無理だろう。でも、君は今日まで人一倍努力してきたんだし、自分の走りができれば勝利は……」
「え、私そんなに緊張してませんよ?」
おい、じゃあ昨日のナーバス気味になってた君はなんだったんだよ。言葉を選んで励まそうとしてたのがバカみたいじゃん。
抗議の一つでもしたいが、何も言える言葉が無く口をむにむにさせていると、ダイヤはくすくす笑う。
「緊張は昨日、トレーナーさんが取り除いてくださったので」
……そんな顔でそんなこと言うのはずるいだろ。本格的に何も言えないじゃん。
「はいはい、私を差し置いて何を少し良い感じになっているのですか。ダイヤさん、貴方がしてくださったように、私は今日のレースも声を上げて応援させていただきますわ。後トレーナーさん、頬を膨れさせるのは似合ってないのでやめてください」
「なあ、最後のセリフいる? いらないよね?」
どこから現れたのか、突如としてこれまで消沈していたマックイーンが僕とダイヤの間に割って入り、ダイヤに激励の言葉を送る。ついでに僕のことをディスった。
「私、いつか憧れのあなたのようになるために、今日のレースも頑張ります!」
そう言ってダイヤは地下バ道を駆け抜けてターフへと向かう。
どうやら思っていた以上に気合いは十分なようで、彼女の瞳から感じ取れる勝ちたいという意志が強く溢れていた。
彼女自身に問題は無いだろう。後はレースの噛み合い、時の運となるか……
「…………憧れ……」
「……? マックイーン、何かあった?」
「ダイヤさんは……いえ、やっぱりなんでもありませんわ」
「なになに? そこまで言われたら気になるじゃん。ほれ、言ってみ……そ」
マックイーンの言いかけたことが気になり冗談めかして聞いてみたが、彼女はそんな雰囲気で言っているわけではないことに遅れて気がついた。
些細なこととはいえ、こんなことに即座に気がつけないなんてどうやら僕はまだ緊張が解けていないらしい。
いっそマックイーン直伝の緊張を解す方法(笑)でも試してみようか。ひっひっふー。
「……では私達もそろそろ行くとしましょう。もたもたしていてはレースが始まってしまいますもの」
「あ、ああ」
振り向いてスタンドに戻ることを促すマックイーンの表情は、先程のシリアスなものではなくいつもの様子と変わらなく見える。
彼女が何を言おうとしたのかは分からない。そもそも意図して発言したものなのかすら分からない。
でも、それを公にしないということはきっと理由があるはずだ。
おそらく、彼女の考えていたことはあまり良いことでは無い。そしてそれが彼女の杞憂で終わることを願おう。
「それはそうとトレーナーさん、私このレース場で限定販売されている高級スイーツを食べたいのですが……」
「君さっきダイエット中って言ってなかった?」
***
最も速いウマ娘が勝つ。
クラシック初戦、皐月賞に伝わる由緒ある格言だ。このレース、格言通り相応のスピードが要求されることは間違いないが、それだけに注視していては勝ち目は薄い。
そう言われている理由としては、舞台となる中山2000mの最初と最後に位置する心臓破りの坂が原因だろう。
正面スタンド前からのスタート直後の坂を登り、コースを一周半した後さらに最終直線でも坂が待ち構えている。
世間に広く認知されている事実、中山の直線は短いということもあり、その坂の急さが際立っている。
そんな「高低差200mの坂!」と叫びたくなるような急坂を登るためにも、長くいい脚を使えるウマ娘が戦術の幅を利かせやすい。
端的に言えば、スピードはもちろん、パワーとスタミナも要求されるということだ。
それらに加えてレース運びの上手さも必要となってくる。
力技で押し切るというよりはどちらかと言うと冷静にレース展開を見定めるダイヤなら問題無いと思っているのだが……
ダイヤ含む全ての出走ウマ娘がゲートに収まる。
何度経験しても、レースが始まる直前というのは緊張が収まらない。
『強き者達の魂の大一番、GⅠ皐月賞……スタートしました。レオンエース16番が前、そして11番サトノダイヤモンド、三強の一角は中団手前。後方から三人目四人目が3番のハウオリです。各ウマ娘1コーナーを回って1番の……』
よし、スタートは問題無い。その後の位置取りも理想的と言える。
しかし敢えて懸念点を挙げるとするならば……
「先行するウマ娘、レオンエースさんというウマ娘はかかっていますわね」
「ああ。このレース、あの子に引っ張られてかなりハイペースなものになるな」
「ダイヤさんは……だいぶ、落ち着いているようですわね。余力を残して最終コーナーから上がっていく感じでしょうか」
「差しはダイヤの最も得意とする作戦だ。デビュー戦からきさらぎ賞、焦ることなく先行していたウマ娘を差しきれている」
クラシックGⅠ初戦というのもあって張り切ってしまうのは分かるが、焦りを欠いてしまっては今までの努力が水の泡となってしまう。
『1000m切って58秒4、58秒4のハイペース』
予想通りレース展開は早いが、1、2コーナー中間から1000mのラップタイムまで大きな順位変動は無い。
ダイヤは相変わらず落ち着いたレースが出来ている。
残り800m、依然かかり気味のレオンエースが抑えきれずに2番手から先頭に躍り出る。
まだ焦るな。もう少し、もう少しだけ我慢だ。
ダイヤよりも後続を走るウマ娘も怖いが、前方のウマ娘に惑わされ仕掛けどころを間違えることがなによりも怖い。
しかし、残りがこのくらいの距離になってくると最後方のウマ娘は敏感に前のウマ娘に反応してくる。
『600を切りました。3、4コーナー中間、4コーナーにかかります。先頭は16番レオンエースに変わっている、その差は1バ身』
レースは早くも最終コーナー。
先行するウマ娘を追う形で後続のウマ娘達も次々と加速をし始める。
我らがダイヤも前にいるウマ娘を見据えて溜めていた脚を解放する。
「よし、行けっ! ダイヤ!」
「ぶちかませですわー!」
最近カワカミプリンセスとお茶会でもした? という茶々を入れる間も無く、レースを一気に佳境へ入る。
短い直線で十分にスピードを出すためにも、最終コーナーで仕掛けたのだ。今のダイヤなら前にいるウマ娘もまとめて差し切れる。
『第4コーナーから直線! 11番のサトノダイヤモンドも3番手の一線まで来ました!』
残りは200m。いける、この調子で直線を駆け抜けることができれば……!
「っな……」
その瞬間だった。
ダイヤが横を走るレオンエースを抜かそうとした時、レオンエースの体勢が崩れる。
幸いにも最悪の結果を産むような体勢の崩れ方ではない。レースは続行、何の問題も無かった。
でも、他のウマ娘に迷惑をかけたと見做されたら話は別だ。
「ダイヤ!」
「ダイヤさん!」
斜行
レオンエースの崩れた体勢は、ダイヤともう一人のウマ娘の進路を妨害したように見えた。
もちろんそれは意図的にではないだろう。バランスが崩れたところにたまたまダイヤ達がいた。
とはいえ、ダイヤのバランスが崩されたのは事実だ。それにより、一瞬だけ彼女達の脚が鈍る。
それは一部のウマ娘のレース結果を左右するには充分すぎるものだった。
「くっ、まだですわ! まだ諦めてはいけません!」
いや、一度止まった脚を再度加速させるには今からでは時間がかかりすぎる。そのハンデを背負ってまで勝てるほど、レースは生優しいものではない。
それでも、それでも最後までくらいつけ、ダイヤ。そうすればきっと……!
『外からまとめて18番イーダイナティ! 詰めて、ハウオリ上がってきた! イーダイナティ、ゴールイン! 二着3番ハウオリ! 11番サトノダイヤモンド三着!』
ダイヤはなんとか食らいついて三着、あそこからよくここまで持ち直したものだ。
もしあそこでの失速が無ければ、ダイヤが勝つ可能性も大いにあった。
もちろんそれはたらればの話であり、ifの話をしていても意味はない。
さらに、今回に関しては勝ったウマ娘の末脚もダイヤに負けず劣らずのもの、もしかしたらそれ以上かもしれない。
「1分57秒9……この勝ちタイムは……」
「レコード、ですわね」
電光掲示板に光る時計は、これまでの皐月賞の勝ち時計の中で最も早いものだった。記憶どころか記録にも残るイーダイナティというウマ娘の走り、これは誰が見ても天晴れと言わざる得ない。
勝ったウマ娘が強かった。ただそれだけの話だ。
でも……
「納得できないよなぁ……」
まだ判定されていないが、恐らくダイヤは斜行による不利を受けた。それだけで普通に負けるより悔しいのはトレーナーである僕にもよく分かる。
勝ったウマ娘が強かった、運が悪かった。そんなことを言って一蹴できる気楽さは持ち合わせていない。
負ける悔しさは、何度重ねても慣れることなんてできないのだから。
「……トレーナーさん、どちらへ?」
「ちょっとダイヤのところに行ってくる。なんて声かけていいか分かんないけど、何もしないわけにはいかないから」
「そうですか……。私も同行しましょうか?」
「いや、いい。ここは僕がなんとかするよ」
人混みを掻き分け、地下バ道へ続く道へと向かう。
負けた直後に姿を眩ますなんていつの日かのマックイーンとそっくりだな、などと場違いなことを考えてしまった。
そういえば、あの時は落鉄だったっけ。なんともまあ、うちの担当ウマ娘は納得いかない負け方をするものだ。
人間万事塞翁がウマ娘とは言うが、こればっかりは良い方向に転ずると思えない。
振り返ると、ターフに残っていたのは勝ちを喜ぶ者、それを讃える者、再戦を誓いあっている者と様々だ。
しかしそこにダイヤの姿は無く、電光掲示板に灯っている審議の青いランプが力強い主張を見せつけていた。
ダイヤは既に控え室に戻っているものだと思っていたがそうではなく、彼女は地下バ道の途中で下を向いて立ち尽くしていた。
さっきまで見つけたらすぐにでも声を掛けようと思っていたけれど、いざその状況になるとなんて声をかけていいか本当に分からなくなる。
あの時、ファン感謝祭のレースでマックイーンが落鉄した時は、強気に慰めることができた。それはマックイーンがこの程度で諦めるようなウマ娘じゃないと確信を持っていたからだ。ある種の心の強さ、経験を積んでいたからと言える。
しかし、ダイヤはそうではない。
まだ片手で数えられるほどしかレースに出走していない彼女は、お世辞にも経験を積んでいるとは言えない。
さらに、負けるのは今回が初めてであり、その負け方も負け方だ。
マックイーンの時のような慰め方をしてしまったら、立ち直れないほどの挫折を僕自身が与えてしまうかもしれない。
こうしてみると、負けたウマ娘に対してトレーナーができることはあまりにも少ない。
惜しかった、などと軽々しく励ますこともできるが、それが吉と出るか凶と出るかは全く分からない。
それでも一人呆然と下を向いて立ち尽くしているダイヤを放っておくことができず、頭より先に体が動いてしまった。
「……トレーナーさん? これは……?」
「えっ、あ、いや、その……手が勝手にと言いますか……」
僕の手は無意識にダイヤの頭を撫でていた。それも後ろから無言でというのも相まってかなり犯罪性が高いと思われる。
ダイヤに指摘されパッと手を離すと、彼女はゆっくりと振り返った。
「やっぱりトレーナーさんでしたか。すみません、私負けちゃいました。あんなにトレーニングのメニューを考えてもらったのに、勝負服も用意してもらったのに……一緒にお参りだって……したのに……」
最初こそいつものダイヤだったが、言葉が終わりに近づくに連れて震え声になり涙を流す。
負けを知って強くなる、という言葉がある。
正確には負けた理由を知って強くなるが正しいと思っているのだが、今日のレースでこの言葉は不適格だろう。
ならどんな言葉をかけてやればいい? 次がある、まだ終わりじゃない、運が悪かった。
何を言っても無意味だ。そんな当たり障りのない言葉をかけたところで、事態が好転するとは思えない。
ならば僕の取れる選択肢はただ一つ。
「…………トレーナーさんは優しいですね。こんな弱虫なウマ娘も見捨てないだなんて」
「こんなことで担当ウマ娘を見捨てるトレーナーはいないさ。こうしてかける言葉も見当たらずに頭を撫でるしかできない、こっちが見捨てられてもおかしくないってのに」
「……やっぱりあなたは変わってますね」
「……その変人扱いも甘んじて受け入れるよ」
「褒めてるんですよ?」
「嘘つけ」
少しだけ笑みが戻ったダイヤを見て、もう大丈夫だろうと彼女の頭を撫でる手を引っ込めた。
「あっ……」
するとダイヤは名残惜しそうな顔でこちらを見てくる。今の彼女を一言で表すならば、小動物という単語が一番しっくりくるのではないか。
「あー……私そろそろ行きますね。一応入着しているのでウイニングライブの準備もしないといけませんし」
そう言って先の一瞬を誤魔化すダイヤは、早々と控え室へと戻る。
僕の選択肢は悪くなかったはずだ。他にもっと良い方法があったかもしれないが、これが今の僕にできる最善の手段だ。
ただ、一つ犯した間違いを、それも致命的な失態を挙げるとするならば、先程の彼女の笑顔は空元気から来ているものだったということに気がつくことができなかったというところか。