「……すみません、トレーナーさん。負けてしまいました……」
レースを終え息を整えたダイヤは、下を向いて暗い顔をする。
彼女は現状、神戸新聞杯と菊花賞を連続勝利している。それもあってか、公式戦でないにしろここに来ての敗北は相当響いたようだ。
「まぁ、そんなに落ち込むな。今日の成果は勝ち負け以上に大きなものも得られた。ここから有馬記念まで後少し。詰めていこう」
「でもっ……! ここで勝って勢いをつけるべきだったのに……」
ううむ、レース前はあんなに楽しみにしていたのに、いざ終わってみると思いのほか負けを引きずっている。
これも有馬記念で絶対に負けられないという思いから来るのかそれとも……
理由はなんであれ、現状あまりよろしくない状況にあるのは間違いない。このままではダービーの二の舞を踏んでしまう。何かしらの改善が必要だ。
「ダイヤ、勝ちたい気持ちは誰だって持ってる。そこまで悔しがれるのなら自分でもそれは自覚してると思う」
「……」
「でも、自分だけを考えてたら勝てるはずもない。時に相手を、時に自分を。苦しい時こそ自分の感情と向き合って視野を広げることが君の課題の一つだ」
「苦しい時こそ……」
「そう、苦しい時こそ。ま、長々と話したけど、今君が相対すべき相手は僕じゃないってこと」
僕が指差す先には、この戦いの勝者であるセイウンスカイが立ち尽くしていた。
それに気づいたダイヤはセイウンスカイへと向き合う。
「スカイさん……」
「対戦ありがと、ダイヤちゃん。負けちゃうかと思ったよ」
「……ほんの数センチの差でしたけど、私にはとても大きな差に感じました。全力を出し切ったのに勝てなかった。でも……」
「でも?」
「……次は勝ちます」
そう言ったダイヤは、シンプルに力強く自分の思いを口にする。
「……ダイヤちゃんの夢は、GⅠで勝つこととキタサンブラックちゃんに勝つことだったね」
「え、ええ、そうですけど。どうしてスカイさんが……?」
「にゃははっ、それは教えられませんな〜」
ダイヤの疑問をセイウンスカイはぬるりとかわした。
「うん、そっか。そういうことね……」
「スカイさん?」
「うんにゃ、なんでもないよ。また勝負しよっか、ダイヤちゃん」
「……はいっ!」
勝っても負けても最後は握手、ダイヤとセイウンスカイはレースの締めに相応しい固い握手を交わす。
ここに、また一つ新たなライバル関係が……
「おっしゃあい! グリモワール564号が冥王星着陸したくらいすげぇレースしたあの二人を胴上げだーい! 行くぞ、スペ!」
「ゴ、ゴルシさん、雰囲気ぶち壊しですよ!」
「うるせぇ! 規則と障子と雰囲気はぶっ壊すためにあるんだよ! さあお前ら、さいっこうのレースをしたあの二人を囲め囲めぇぇぇ!!」
できなかった。
瞬く間にゴールドシップとその他大勢に囲まれた二人は早々に天高く宙を舞うことになった。
何度も言うが、これはただの模擬レース。だというのにここまで大事になるとは思いもしなかった。
それもこれも全部ゴールドシップのせいなんだけど。
観客席にいたほとんどのウマ娘がダイヤ達の胴上げに参加する中、その輪に混ざらないでいるウマ娘が一人。
「トレーナーさん、少し宜しいでしょうか?」
「……僕も君に聞きたいことがあるけどお先にどうぞ」
今この場、ダイヤの次に話さなければならない相手であるマックイーンが向こうからやってきた。
「……最終直線、ダイヤさんのあの走りは……」
「ああ、断定は出来ないけど、多分僕らが考えてることで間違いないかと」
不完全で不安定、おまけに持続時間も極端に短い。それでも分かるのは、あの走りは間違いなく『
菊花賞という舞台、クラシックで一つの時代を作ったとはいえ、この早い段階で発現するとは思っていなかった。
「この先、ダイヤさんがあれをものにすることができれば……」
「マックイーンにも負けず劣らずの実力を手にする。そうなったら君もうかうかしてられないな」
「……そうなるといいですわね」
……何か含みのある言い方だ。普段分かりやすいくせに、こうなった彼女の考えは極端に読めなくなる。
でも分からないことを考えていても仕方がない。先に彼女に聞くべきことを聞いておこう。
「次は僕からもいいか?」
「ええ、どうぞ」
「さっき、レース前にセイウンスカイになんて言った?」
「……はて、私には分かりかねます」
「……まだ僕に黙っておく気?」
「トレーナーさんも私に辞めることを最後の最後まで黙っていましたわよね?」
「それを言われたら何も言い返せませんねえ!!」
くそっ、打つ手無くなった! 禁止カードだろそれ!
最強のカウンターをかまされ何も言えなくなった僕を見て、マックイーンはクスクスと笑う。
「冗談ですわ。私はただ、トレーナーさんの負担を減らしたいだけ……。今後考えうる最悪の自体を避けるために動いていますの」
「最悪の自体……とは」
「……ダイヤさんの夢、目標に関して……大きな見落としをしています。それに気づかないまま彼女の競争人生が終わるというのは、前を私にとって不都合そのものですわ」
見落とし、か。
彼女の言いたいことはぼんやりとだが分かる。そして、それを気づかせるのに直接的ではなく間接的に伝えようとするのも分かる。
夢のその先。『憧れの向こうで待っている』という彼女の意味深なメッセージ。
なるほど、マックイーンはかなり先まで見越している。教え子に先を越されたのは悔しいな。
「今までそれなりのメッセージをダイヤさんには伝えたつもりです。なので、私の心配も杞憂に終われば良いのですが……」
「その前に君は自分の心配な?」
「あう」
八つ当たりっぽく、僕はダイヤを晴れない顔で見つめるマックイーンの額を小突く。情けない声を上げるマックイーンは先のシリアスな顔から一変、今度は不満気な顔で僕を睨みつける。
「まだかなり先とはいえ、ドリームトロフィーリーグに出場する予定なんだから体重管理はしっかりな」
「そ、そそ、それはそうなのですが……。どうしても気になってしまって……」
「……全く、どこまで行ってもお人好しなんだから」
「当然です。可愛い後輩というだけではなく、私と同じ貴方の愛バでもあるのですから」
「はいはい。ほら、マックイーンも混ざっておいで。向こうはもうお祭り状態だぜ?」
「むぅ……前々から思っていましたが、トレーナーさんは私とダイヤさんの二人しか担当していないのに妙にウマ娘の扱いがお上手……ちょ、ゴールドシップ!? 私の襟を引っ張るのをやめなさい! 強制的にあちらに連れて行く気なのですか!?」
未だ胴上げされて宙を舞うダイヤとセイウンスカイ、そしてそれを行う多数のウマ娘達に混ざりに行くマックイーンとゴールドシップ。
ただの模擬レースだというのに、もうどんちゃん騒ぎだ。
それを眺めていると、帽子の鍔をこれ見よがしに整えながら勝ち誇った顔をする一色が僕に近づいてくる。
「ふふん、今回はわたし達の勝ちですね!」
「悔しいがな。不完全且つ一瞬とはいえ、あれが発動しかけたダイヤに意地と根性だけで勝つとは」
「それだけサトイモちゃんには負けたくなかったってことですよ」
たまにはトレーナーらしく、僕と一色はレース後の総評を行う。
まだクラシック級だというのに実力者のセイウンスカイにあそこまでくらいつけるなら、クラシックでの有馬制覇、並びにキタサンブラックに勝利という目標もより確実性が高まる。
ならば、今後のトレーニングはスタートの練習やフォームの矯正など細かいところに意識を向けて……いや、今日のレースを見る限りスタミナの増強に特化した方が……
「先輩、さっきマックイーンちゃんが二人しか担当したことないって言ってましたけど……」
今日のレースを踏まえて有馬までの短い期間のトレーニングメニューを考えていると、
「あの子達に言ってないんですか、昔のこと」
一色は唐突に僕の思考を乱すようなことを……
…………
「……聞かれたことないからな。そもそも、僕が本格的に担当したことあるのはあの二人以外にいない。つーか、お前にも言った覚えはないんだが?」
「あははっ、たづなちゃんに聞いちゃいました!」
あの人は……っ! 人のプライバシーをなんだと思っているんだ。
普段完璧そうに見えるのに、たづなさんはどうにも一色に甘い気がする。まるで昔からの知り合い、幼馴染であるかのような態度だ。
「話したところで何の面白味もない。特段何かやらかしたというわけでもないし」
「そうですかそうですか。でも先輩」
「なんだ?」
「その言い方だと、『何かやらかした』ことはなくても『何も無かった』わけじゃないんですよね?」
「……」
「語るに落ちましたね。先輩がマックイーンちゃんの怪我の後、トレーナーを辞めようとしたことがあるのは知ってます。その理由は世間からのバッシングに耐えられなくなったから。でも、本当にそれだけなんですか? 先輩が……あなたがサブトレーナーとして所属していた時のあのウマ娘に重ねて……」
「一色」
自分でも驚くほど低い声が出た。それはあの一色の言葉すらも止めてしまうほどのもの。
「……すみません。こんなわたしの興味本位みたいな形で踏み入っちゃって……」
「いや、いいさ。お前の言ってることも全くの的外れってわけじゃない。それに、その怪我を乗り越えているからあの子達は今も走り続けることができてる」
「……うん、そうですね」
「そうだ。それに今と昔とじゃあ状況が違う。人間誰だって成長する」
そう言ってマックイーンとダイヤに目を向ける。
過去のトラウマ、心的苦痛、精神的外傷。
今の僕にそう言ったものはない。それらは既に克服済み、彼女達の隣で共に走ると決めたのだ。
そう決めた以上できるできないの話ではない。やるしかないのだ。
「あの時は、あの子達が怪我をしたのは自分のせいだって決めつけてた。でも、そこからどうするのかが大切だってことを今は知ってる。だからもう逃げたりなんかしないよ」
「その割には、マックイーンちゃんの秋シニア三冠がかかった有馬前にトレーナー辞めようとしてたのはどこのどなたさんでしたかね〜?」
「おい、言葉を慎めよ。死人が出るぞ」
「一体誰が死ぬと言うんです?」
「僕だ」
「先輩なんですか……」
軽い冗談を挟みつつも、僕の心中はあまり穏やかではなかった。
なかなかどうして、過去を知られるというのは気持ちの良いものではない。
これは僕の癖や性と言ったらいいのか、第三者に対して己の過去を知られるということを避けてしまう傾向がある。
別に自分の過去が特別嫌いなわけではない。掘り返して困るものではない。過去との決着を、だなんて少年漫画かよと思えるほどの大層なものでもない。
なのに、なぜ自分は一色の言葉を遮ってしまったのだろうか。
「先輩混ざってきたらどうですか? 楽しそうですよ?」
「事案だよ。大の男が戯れるウマ娘達に突っ込んでいったら事案なんだよ」
「なら、わたしとの戯れをお望みで?」
「…………ふっ」
「なんですかその鼻につく笑い!」
そんな考えの答えが出る間も無く、一色に話を振られて思考が霧散する。
ただの模擬レースの予定だったのに、今日一日であまりにも考えることが増えてしまった。
有馬記念のことはもちろん、『
でも、やるべきことは決まっている。僕の行動理念に従ったそれは、崩れることはない。
『目の前にいるウマ娘の夢を叶える』
ダイヤとセイウンスカイに加え、なぜか巻き込まれて一緒に胴上げされているマックイーン達の姿を見て、あの夏合宿の帰りに誓ったことを思い出した。
「それで先輩、お寿司は?」
「…………あ」
***
『さあ、今年もやって参りました。暮れの中山レース場、心地よい高揚に包まれております! この戦いを見ないことには年を越すことができません!』
一歩、地を踏み歩むたびに震動を感じる。
地鳴りのような歓声、万雷の拍手。先にここを抜けたウマ娘達へと送られているエールが、地下バ道を反響して私にも伝わってきた。
今日のレースは特別だ。この日のために、私は毎日一生懸命トレーニングをこなした。
「……いよいよだね」
……この声を聞くのもなんだか久しぶりな気がする。同じクラスなため、声なんて自然に入ってくるのに、宝塚記念以来まともに彼女と会話はしていなかった。
そんな彼女は、もう宝塚記念の時のようなキタちゃんじゃない。
私の大好きな、いつも笑顔で明るいキタサンブラックがそこにいた。
「行こう、ダイヤちゃん」
「うん、キタちゃん」
『GⅠ有馬記念、間も無く出走です!』