クラシック級で有馬記念を制することは簡単なことではない。
秋シニア三冠の最後の冠である有馬記念、出走するウマ娘は基本的にシニア級を戦い抜いている精鋭ばかりだ。それもファン投票によって選ばれているウマ娘なので、さらに厳選されていると言ってもいい。
一年の差があるシニア級ウマ娘を相手にするには、それ相応の覚悟を持って挑まなくてはならない。
基礎体力の差、経験など諸々鑑みると、改めて簡単なことでは無いと実感させられる。
だが、これを成し遂げたウマ娘は例に漏れず歴史に名を刻んでいることもまた事実。
マンハッタンカフェ、グラスワンダー、マヤノトップガン、ナリタブライアン、オグリキャップ、直近だとゴールドシップもそうだったか。
そして、『皇帝』シンボリルドルフ。
このグランプリという大舞台。クラシックとはまた別の緊張感。
自分が走るわけでもないのに、レース前になるといつも緊張で心拍数が上がる。
ウマ娘達のひりつく雰囲気は僕の肌に馴染まない。それでもどこか心地よいと感じるのはもう職業病か何かなのだろう。
サトノダイヤモンド、彼女の才能は眩かしい。
皐月賞やダービーで悔しい思いをしてからの快進撃。ここで勝利を掴めばさらに流れは良いものとなる。
そうなれば、ダイヤが背負っている皆からの期待に応えることができ、掲げている目標も晴れて達成、万々歳だ。
自分としても、担当ウマ娘には勝ってほしいという気持ちは当然にある。勝って喜んでいる彼女達の姿を見たいと、心の底から思っている。
でも、一番見たいのはその姿じゃない。
まだ一年も経ってないのに遠い昔のように感じるきさらぎ賞。
あの時、隣にいたマックイーンはおろか、その言葉をかけたダイヤも覚えてないかもしれないけど、僕が一番見たい彼女達の姿は……
「……本当に構わなかったのですか?」
「……えっ、何? 聞いてなかった」
「はぁ……しっかりしてくださいませ、トレーナーさん。貴方がそんなではダイヤさんにも影響が出ると、何度言わせたら気が済みますの?」
「ごめんごめん、ちょっと考え事しててさ」
「もう、仕方のない人ですわね……。こんなところで留まっていないで、普段のようにダイヤさんのところへ行くべきという話です。きっと彼女も、トレーナーさんから激励の言葉を貰えると喜びますわよ?」
中山レース場のスタンドから少し離れた場所。譲れないとばかりに良い位置で有馬記念を見ようとする者達の姿が、ここからならよく見える。
もっとも、真に見なくてはならないのは観客などではなくレースであることは間違いない。
普段ならあの集団に混じってレースを見ているはずなのだが、今日はターフ全体を見渡せる位置でレースを見たかった。
後方彼氏面、なんて冴えないオタクが皆の人気者であるアイドルにするようなものではないけれど、なんとなく今日はそういう気分だった。
「いいんだよ、今日は。確かに君の言う通り、普段ならダイヤの顔を覗きに行ってたさ。でも、このレースに限ってそれは必要ない」
「それは一体どういう……」
「簡単なことさ。このレース、僕の出番はこれ以上無いってこと。ましてや、君の出番も無いよ、マックイーン」
「それは……そう、ですわね。だってダイヤさんと同じこのレースに出走するのは……」
サトノダイヤモンドというウマ娘の幼馴染であり親友でありライバルであり目標でもある存在、キタサンブラック。
そんな存在がダイヤと同じ大舞台で走るのだ。二人三脚をモットーとするウマ娘とトレーナーという関係であっても、僕の出る幕はほとんど無いと言えるだろう。
そもそも、大事な話や作戦は昨日の内に伝えてある。僕達が出向かう必要は無い。
レース直前にダイヤの下へ向かわないのも、事前に彼女に伝えてある。
「自分で言うのもなんだけど、こんなこと言うのトレーナー失格だよなあ。なーにがウマ娘とトレーナーの二人三脚だよって」
「いいえ、こうしてしっかり引き際を見定め、ウマ娘が最大限に力を発揮できる状況を作るというのも、トレーナーとして立派だと思いますわ」
「へいへい、フォローありがとね」
実際、マックイーンの言う通りダイヤが最も力を発揮できる状況を作ったつもりだ。
作ったと言っても、余計な邪魔を入れずにダイヤとキタサンブラックを相対させただけなのだが。
「それで、僕は今日このままスタンドから少し離れたこの位置でターフを見下ろすことになるんだけど、マックイーン、君はどうする?」
「トレーナーさんとご一緒させていただきますわ。私もダイヤさんの邪魔にならぬよう離れた場所で……」
「うおおおおおおおお! メジロ饅頭、一本釣りぃぃぃぃぃ!!」
「ちょ、きゃああああああああ!?」
マックイーンが僕の隣でレースを見ると意思表示をした瞬間、彼女の姿が一瞬にして宙を舞う。
そんな突然のことにかえって思考が冷静になってしまい、綺麗な一本釣りだなと場違いなことを考えてしまった。
それより、こんな頭のおかしい言動を行う奴といえば……
「なーっはっはっは! ツシマ海流に乗って流れてきたマグロマックイーン、獲ったどぉぉ!」
「獲ったどぉ! ではありませんわよ、ゴールドシップ! 降ろしなさい! それになぜ貴方がここにいるんですの!?」
「なんでって……今日はキタサンのレースの日だからな。チームメイトであるアタシらが応援に来るのは当然だろ」
「くっ……至極真っ当な理由でした……!」
ああ、キタサンブラックはチーム〈スピカ〉所属だからな。ゴールドシップだけでなく、トウカイテイオーやスペシャルウィーク達もこの場に至っておかしいことはない。
「おい見ろよスペ、テイオー! アタシが本場の静岡で一本釣りしたマグロマックイーン! 後で皆んなで食べようぜ!」
「貴方先程ツシマ海流と仰いましたよね!? あと、私のことをそう呼ぶのをおやめなさい!」
「じゃあマグロ」
「ついに私の名前が消えた!?」
人目を憚らず漫才を続けるマックイーンとゴールドシップ。
マックイーンも〈スピカ〉の面々も有名人であるのが相まって、次第にその注目は大きくなっていく。
これ以上はまずいと思ったのか、同じチームメイトであるトウカイテイオーとスペシャルウィークはゴールドシップを止めようと……
「わーい、やったー! じゃあボクは耳の部分を頂くね?」
「ゴ、ゴルシさん……一本釣りについて詳しく……! 静岡のマグロ……なまら美味ぇんだろなぁ……」
「お二人ともふざけていないで助けてくださいます!?」
いや、トウカイテイオーは悪ノリだろうがスペシャルウィークは多分大真面目だぞ。
マックイーンがゴールドシップの持つ釣り竿に捕まって喚いている中、一人の人物が混沌を土鍋で煮詰めたこの状況に立ち向かう。
「ゴールドシップ、少しいいかしら?」
「ス、スズカさん……!」
スズカ、もといサイレンススズカは真剣な表情でゴールドシップを見つめる。
真面目な彼女ならきっとこの状況を打開してくれるはずだ。マックイーンの顔にも希望の表情が見える。
「マグロって時速80kmで泳ぐと聞いたことがあるのだけれど、今度走り比べをしたいから私も連れて行ってくれないかしら?」
「スズカさん!?」
混沌を土鍋で煮詰めた状況が、得体の知れない何かに変わったところで僕はそっと目を逸らした。
思うに、あれは考えたら負けなやつだ。放っておこう。
と、まぁ〈スピカ〉with マックイーンのお笑い番組が絶賛放送中だが、一人の人物が僕に向かって近づいてくるのに気がついたためチャンネルを切り替えるかのごとく意識をそちらに集中させた。
「よ、相変わらず元気そうじゃねぇの」
「よ、じゃないですよ、沖野トレーナー。あれなんとかしてください」
「おいおい、そりゃ無理な話だ。何故なら、あいつら全員問題児で扱いには細心の注意を払わなきゃだからな」
アンタもそのうちの一人だと思うよ。
「そんなことよりいいんですか、こんなところにいて。早くスタンド席行くなり、キタサンブラックのところに行くなりした方が良いのでは?」
「そういうお前もこんなところとやらに佇んでるわけなんだが。ま、トレーナーってのはレース当日出来ることなんて限られてるしな。歯痒いもんだ」
「……それは、同感です」
おそらく彼もここでレースを観戦するつもりなのだろう。
沖野トレーナーは対戦相手のトレーナーではあるが、わざわざ邪険に扱う必要もないため何も言わなかった。
これで飯でも集ってきたら堂々とぶっ飛ばす気ではある。
「よっしゃ、マグロちゃん、今日はアタシらチーム〈スピカ〉とレース観戦だ! イキのいい応援っぷり見せてくれよな!」
「いい加減降ろしてくださいます!? 貴方の釣り竿でずっと宙にぶら下げられてるのもしんどいのですが…………これ一体どういう原理で吊り下げられてますの?」
「昨日アタシがウマゾンで買った繊維ボンド」
「私の制服が!?」
えぇ、安全ピンとかじゃねぇのかよ……
「ト、トレーナーさん! いい加減助けてください!」
スタンドに向かおうとする〈スピカ〉の面々に吊り下げられた状態で連れて行かれるマックイーンは、僕に助けを求める。
しゃーない、ゴールドシップという日本海を彷徨うマグロマックイーンを一本釣りするために、そろそろ助け舟という漁船を出してやるか。
「もう減量中にチートデイと称して普段よりかなり多めにスイーツを食したりしませんから!」
…………
「えっ、トレーナーさん、どうして無視するんですの? わ、私何か変なことを……ト、トレーナーさん!」
へっ、いつの日かゲーセンで僕を騙した罰だ。今日はゴールドシップ達に玩具にでもされておくんだな。強く生きろよ、マックイーン。
〈スピカ〉のメンバーと戯れながらスタンドへ向かうマックイーンの姿を見て、あんな風に彼女が〈スピカ〉に入る世界もあったのかなと考えてしまい……
『さあ、今年もやって参りました。暮れの中山レース場、心地よい高揚に包まれております! この戦いを見ないことには年を越すことができません! GⅠ有馬記念、間も無く出走です!』
実況の声によって、それまで考えていたことが一瞬にして霧散する。
それと同時にレースがもうすぐだということに気がついた。
「お宅のサトノダイヤモンド、随分といい走りじゃないか。こないだの模擬レース見させてもらった」
沖野トレーナーはこのレースが始まるまでの短い時間で世間話を始める。
そうだ、そのことについて言いたいことが沢山あるのだ。
「あの模擬レース、仕組んだのゴールドシップですからね、分かってます? つまりあれはあなたのチームぐるみでの汚い情報収集……」
「おっ、本バ場入場始まったぞ。キタのやつ、張り切ってたからなあ」
「話聞けよ……っ!」
あまりにも雑な対応をする沖野トレーナーに対し、ついタメ口になってしまった。
いけないいけない、例えカスでも先輩への敬意は形上取り繕わねば。
「今なんだか物凄い不本意な呼ばれ方した気がするんだが……まぁいい。ほら、キタの後にお前んとこの担当出てきたぞ」
「……ほんとですね」
地下バ道から出てきたダイヤの顔には迷いが無い。
もともと彼女の苦悩らしき苦悩は夏明けのあの日に取っ払われているはずなので、僕が余計な心配をする必要もない。
その上に、彼女の顔はより清々しいものとなっていた。案の定、僕の出番はいらなかったらしい。
実況による紹介も終わり、ファンファーレが響いて各自ゲートに入っていく。
大歓声を上げているスタンドから外れて見守る中、グランプリ有馬記念が……
『スタートしました! さあ内の方でいいスタートキタサンブラック! 早くも先行争いの中飛ばしていくのはバレッタペリジーです。単独の二番手キタサンブラック付けました』
キタサンブラックは逃げウマ娘ではあるが、サイレンススズカやツインターボのように無理にハナを取りいくようなウマ娘ではない。
あくまで自分のペース、それが結果的に逃げという作戦になっている。
『そしてサトノダイヤモンドは中団と言ったところ、緑の勝負服が進んでいます』
ダイヤもいつもと変わらず中団に控えている。スタートダッシュに失敗したわけでもない。始まったばかりだからなんとも言えないが、悪くない展開だろう。
「おーおー、前のウマ娘飛ばすねぇ」
「彼女は確か先月のGⅢ福島記念で勝利を飾ったウマ娘ですね」
「分かっちゃいたが、こうも先行されるとキタのやつも次点に付くしかないってわけだ」
正面スタンド前、バレッタペリジーが七バ身ほど離して先頭を行き、その次にキタサンブラック。そしてそれを見るように三番人気のシルバーアクトレスが続いている。
「そういえばお前、キタとサトノダイヤモンドが一悶着あったの、知ってるのか?」
「……何かあったとは察してますけど、深くは追求しませんでしたよ。言いたくなさそうだったし、仮に二人に何かあっても、それは二人が解決することです」
「違いないな」
それを察した時から分かっていたが、きっとあの二人は仲違いか何かをしたのだろう。
冷たいことを言うかもしれないが、個人間のいざこざに首を突っ込むのはトレーナーの仕事ではない。
『1コーナーのカーブに入っていきました。一旦場内が静かにその状況を見つめていきます。これからその隊列を追いかけていこうというところ』
会話をしている間にもレースは淀みなく進んでいく。
「で、沖野トレーナー。それがどうかしたんですか?」
「……いや、別に。知ってんのかなって」
それにしては歯切れの悪い。何かキタサンブラックのことで悩むところがあるのか。
そんな沖野トレーナーのことを心配していても仕方がないので、彼のことは置いておき一旦レースの方に注力する。
前半1000mを通過時点、一番前を走るのは変わらずバレッタペリジー、二番手にキタサンブラック。そして三番手には……
『そして三番手に上がってきたサトノダイヤモンド。シルバーアクトレスと共にここは人気ウマ娘が二番手三番手四番手』
「……サトノダイヤモンド、随分飛ばしてるみたいだが、これもお前の入れ知恵か?」
「他のウマ娘を蔑ろにしているわけじゃないですけど、こちら側にとって今回一番注意すべき相手は確実にキタサンブラックです。ライバルの相手をマークするのは当然でしょう?」
ダイヤが前目についたこともあり、それまで同じく先行していたウマ娘も僅かにスピードを上げて向正面に入る。
大きな展開もなく進んでいる有馬記念。この流れだ、どうせなら沖野トレーナーに聞きたいことを聞いておこう。
「ダイヤから聞きましたよ、あのこと」
「あのことって?」
「とぼけないでください。あなたが宝塚記念の時、ダイヤに口入れした時のことです」
「んな俺がセクハラしたみたいな言い方されても……」
いや、アンタはそれに関して言い逃れできねぇよ?
「ダイヤへの頼み、あなたらしいと言えばあなたらしいですがね」
「でも、俺もお前も考えてることは同じだろ?」
「……そうですね。ここ最近のキタサンブラックのレースは何か執念のようなものばかり見てとれました。ジャパンカップで少し変わったような印象を受けたけど、依然勝ちたいという気持ちが先行しすぎてる」
「それは俺が指摘しても意味がない。だからあいつのライバルであるサトノダイヤモンドに頼んだんだ。お前の言う通りジャパンカップでだいぶマシにはなったんだぜ?」
きっと沖野トレーナーは、このレースでキタサンブラックが頼みをしたダイヤを通じて、それに気がついてくれることを信じたのだろう。
レースもいよいよ終盤、向正面を走り切り第3コーナーに入る。
気がつけばキタサンブラックが先頭のウマ娘を半バ身差まで捉えている。
「キタサンブラックとサトノダイヤモンド、勝ちたい気持ちはどちらも強い。比べるだけ無駄。勝敗を分つのは散々言ってきた『あれ』ですよね?」
「ああ。それに加えて、コース的な話をしておくと、この短い直線でフルスピードを出し切るにはコーナーで加速しきる必要がある」
かつてマックイーンとトウカイテイオーがこの場で競ったんだ。そうでなくても中山の直線が短いことは周知の事実。沖野トレーナーが知らないはずがない。
「それが分かってるからあの二人も既に進出を始めてます」
「つまり実力はほぼ堂々ってことだ。このレース、真に決着が付くのは……」
『じわりじわりとキタサンブラック! 見るようにシルバーアクトレス、そしてサトノダイヤモンド!』
レース場内に響き渡る実況の声。それに呼応するかの如く、三つの影が虎視眈々と前を狙っている。
3コーナー、4コーナーで十分な加速を見せた三人はいよいよレースの大詰めへと入った。
沖野トレーナーの言う通り実力は互角。こうなってしまった場合、最後の末脚のキレが試されることになる。
そう、このレースの勝敗が決するのは……
「「最終直線」」
ハナを奪い先頭に立つキタサンブラック、レース序盤からそれをしっかりとマークするシルバーアクトレス、そしてその二人をすぐ後ろから狙うサトノダイヤモンド。
スタンドの盛り上がりとは真反対の静けさで、僕達二人は上位人気の頂上決戦となった有馬記念を見ていた。