私はジンクスを破るのが好きだ。
しゃっくりを百回すると死ぬと言われたので実際に百回数えてみたり、鏡が割れると縁起が悪いと言われたので割ってみたり、鰻と梅干しを一緒に食べるとお腹を壊すと言われたので、実際に食べてみたりしたこともある。
ちなみに、鏡を割ったら怒られたし、鰻と梅干しを一緒に食べたら普通にお腹を壊したので二度とやらないと誓った。
だめだ、無理だ、出来るわけがない、前例がない。そんな言葉を聞くと、どうしてもやらずにはいられない。
損な性格をしていると言われることがあるが、私はこんな自分が嫌いではない。
なんでも試し、なんでも挑戦する。例えそれが上手くいかなくても、ほとんどは次に繋げることができた。
そんな私が次に目標として掲げたレースは、遥か遠くのフランスの地で開催される凱旋門賞。
そこで日本のウマ娘が一度も勝利したことがないというのは、それを目標とする理由には充分すぎるものだった。
ただ、今回はいつもとは違う気がした。
自分でも何が違うのかはなんとなく分かっている。何か大きな偉業を成し遂げなければならない、そう本能で感じ取ってしまうほどに、今の私には余裕がない。
思えばそうだ。私のこの昂りは、菊花賞の後から。
「……ちゃん……」
私はトレーナーさんが好きだ、それは自覚している。別に隠す必要もない。
「……イヤちゃん……」
それ故に焦ってしまう。
だって、普通にトゥインクル・シリーズを走るだけじゃあ私は……
「ダイヤちゃん!」
「うわぁ!? キタちゃん……? ノ、ノックくらいしてよ〜……」
「何回もしたよ! でも、もうすぐ出走だっていうのにダイヤちゃん出てこないんだもん。心配しちゃうよ」
割り当てられた控え室で考え事をしていたら、ノックの音も聞こえなくなるくらい周りを気にかけてなかったらしい。
そう、今日は春の天皇賞の当日だ。
このレースは私の憧れの人達にとっても思い出深いレース。マックイーンさんがこの地で連覇を達成したという事実を確認するたび、私の緊張は一層高まっていく。
「あっ、でもあたしの声に気がつかないってことはそれだけダイヤちゃんが集中してたってことだよね。ごめんね、あたし今日のレースがすっごく楽しみでつい……」
「……ううん、いいのキタちゃん。呼びに来てくれたんでしょ? 私もそろそろ行かなきゃって思ってたから、一緒に行こ?」
「っ、うん! よーし、そうと決まればターフまで競そぐえっ」
「もう、ここは学園じゃないんだから、廊下は走っちゃいけません。焦りは禁物だよ?」
袖を捲り上げて、ドアを開け今にも部屋を飛び出して行きそうだったキタちゃんの首元を掴み無理矢理動きを止める。
半開きになったドアはそのままに、私達の声は外部から丸聞こえとなってしまっているだろうが、今は人の出入りも少ないため問題ないだろう。
「大丈夫大丈夫! あたし体力には自信あるから、掛かっちゃっても平気だよ!」
「えぇ……」
力強い逃げを実行するキタちゃんならそれが嘘に聞こえないのが怖い。
内心キタちゃんの発言に恐れ慄いていると、ふと彼女から笑顔の表情が消える。
「……ねえ、ダイヤちゃん」
「うん、どうしたの?」
「今のあたしの目標はね、春シニア三冠のレースで全部一着になることなんだ」
春シニア三冠というと、大阪杯、天皇賞〈春〉、宝塚記念の三つだ。先日の大阪杯でキタちゃんが優勝したのは記憶に新しい。
なぜこのタイミングで彼女がそんなことを言うのか。答えは簡単。
「今日のレース、あたしは絶対に負けない。有馬記念の時のリベンジ、ここでさせてもらうからね!」
宣戦布告。この言葉が最も似合うほど、キタちゃんの瞳は闘志に燃えていた。
私はビシッと突きつけられた人差し指に動ずることなく、熱く火がつきそうなほどの闘志を冷静に受け流す。
そうだ、こんなところで立ち止まってられない。ここを勝って、凱旋門賞でも勝つ。
そうでもしないと、胸を張って堂々と"彼"の横に並び立つことはできない。
最近分かったことなのだが、どうやら私は独占欲が強いらしい。どうせ並び立つのであれば、"彼"のナンバーワンでありオンリーワンでありたい。
この春の天皇賞、勝って理想に近づく。
いつも私の想い人の隣に立っている、あのマックイーンさんのようになるために。
「キタちゃん、そうはさせないよ。私だって負けられない理由があるんだから」
「望むところだよ」
カチッと拳と拳(私は袖越しなのだが)をぶつけて互いの健闘を祈る。
「じゃあ今度こそターフへと……」
「あ、待ってキタちゃん!」
またしても元気よく部屋を出ようとしたキタちゃんを引き留める。その拍子に彼女はすっ転んでしまった。ごめんね、キタちゃん。
「も、もう〜、酷いよダイヤちゃん〜……」
「えへへ、ごめんなさい。でも、レースの前にさ……」
私は水筒と紙コップを取り出し、中に入っていたお茶を注ぐ。
「お茶でも飲んで、精神統一し直さない?」
「うん! やっぱりレース前はダイヤちゃんのお茶だね!」
レースの開始時刻まではまだ少し時間がある。
だが、こうしてキタちゃんとお茶を飲む時間はあっても、"彼"と顔を合わす時間はないかもしれない。
でも大丈夫。だって"彼"は……トレーナーさんは絶対に私のことを見てくれているという自信があるから。
心身統一、私は再び心を落ち着かせて、キタちゃんと一緒に静かにお茶を啜る──
***
控え室を出て、ターフへ向かって並んで歩く彼女らに、僕は声をかけることができなかった。
正確には用があるのは僕の担当であるダイヤになのだが、例え彼女が一人であってもそれは達成出来なかったかもしれない。
キタサンブラックとサトノダイヤモンド、彼女達の関係は理想的だ。
幼馴染で、良き理解者で、そして最高のライバル。それ故に、二人は決して順風満帆な関係ではなかっただろう。
時に仲違い、時に気まずい状態になったりもしたはずだ。
その度に彼女達は関係を修復し、より交友を深めてきた。
そこにトレーナーが入る余地はない。どう足掻いても入ることはできない。
もっと正しく言うなら、入ってはならない。
トレーナーがウマ娘に対して出来ることは、レースで勝つためのサポートをすることだけ。
この先、どんな結末が待っていたとしてもそれは変えられない。
ダイヤに声をかけることができないまま彼女の姿を見送っていると、後方からコツリコツリと小さな足音が近づいてくるのが分かる。
「神妙な面持ちでスタンドを後にしたと思ったら、貴方は一人で一体何をやっていますの」
「……ストーカーだなんて趣味が悪いな、マックイーン」
「出来ることなら、トレーナーさんの私生活を一から十まで把握しておきたいところですわね。そう思い立ち監視カメラの設置を試みたのですが、それはやめておけとライアン達に止められまして」
「待って、聞き捨てならないんですけど。監視カメラがなんだって? おい、こっち向けよ」
問い詰めようとすると即座にそっぽを向くマックイーン。
僕のプライバシーが知らぬ間に窮地に立たされていたようで戦慄する。ほんとどうしてやろうか。
あとメジロ家の皆、ナイス。この調子でマックイーンのアホを抑えてくれ。
「そ、そんなことより、今目の前の話をしませんこと?」
こいつ、無理矢理話変えやがった。
「トレーナーさん、貴方、ダイヤさんに何か用があったのではないですか?」
「無いよ。僕から言えることは何も──」
「ダウト、ですわね」
すっかり恒例となってしまったレース前のマックイーンとの長話。
しかし今回に限っては生易しいものではなさそうだ。
「ほう、どうして?」
「いつもならレース前にテンパっているはずのトレーナーさんが、今日はやけに落ち着いてますもの。何かを隠すためポーカーフェイスを気取ろうとするのが裏目に出ましたわね」
「……僕のことよく分かってるじゃないか」
「当然ですわ。貴方のポーカーフェイスがお上手なせいで、私はトレーナーを失いかけましたもの」
「その件は本当にすみませんでした! てかいつまで引っ張るの!」
「もちろん一生ですわ」
どうやら僕はこの娘に一生逆らえないらしい。本当にそろそろ許してくんないかな、あれからもうだいぶ経ったよ?
「それで、結局のところ何を一人で考えていたのですか? 今ならまだ間に合いますわよ」
ふざけた態度から一変、急に真面目な声音になるマックイーンの様子に寒暖差で風邪をひきそうになる。
本当にこいつと来たら、スイーツと野球とイクノディクタスが絡まなかったら非常に厄介だ。
「……ダイヤは、あの娘はこのレースに気持ちが向いていない」
「……それは薄々私も察していました。あの方が見据えているのは、遥か先にあるまた別の何か。そして……いえ、これは……」
そう、ダイヤが今目指しているレースは凱旋門賞だ。
それ自体は決して悪いものではない。むしろ、目標が定まっていることは良いことだ。
その目標レース以外で手を抜いていいわけではないが、一人のトレーナーとしては走ったレースが無駄にならなければそれでいい。道中勝っても負けても、一番最後に勝ってしまえば万々歳だ。
大事なのは最初でも途中でもなく最後。一番最後に笑えたやつが勝者なのだから。
でも、他の人はそうは思わない。
もし、ライバルと思っている相手と同じレースを走る時、そのライバルが自分のことを気にかけていなかったらどうだろう。
一方的にライバル視しているだけならまだしも、少なくとも一度は互いをライバルと認め合った仲の場合はいい思いをしないはずだ。キタサンブラックはそんなことを考えるウマ娘ではないだろうが。
「前走……阪神大賞典の時はそのようなことを考えさせられることは無かったのですが、今回はGⅠ。レースにどのような影響が出るかは未知数ですわね」
「実際のところ、身体的な面は問題無い。追い切りも良いタイムが出ていた。マックイーンも違和感は感じなかったろ?」
「そうですわね。ダイヤさんの調子は至って良好。そのような印象を受けました。彼女の瞳に映っているのがなんなのかまでは分かりませんでしたが……」
ああ、そういえばマックイーンはダイヤが凱旋門賞を目指していることを知らなかったか。
微妙に話が噛み合ってないことを理解したため、マックイーンにダイヤのことを話すと彼女はなるほどと言った顔つきで目を伏せる。
しばらく考え込んでいる様子だったマックイーンだったが、何かを思い立ったかのようにダイヤ達が向かった方向へと真逆に歩き出す。
「お、おい、マックイーン? どこ行くの」
「トレーナーさん、そろそろご自身の時計で時刻を確認してくださいまし」
「時刻って……あっ、やべ! 走るぞマックイーン!」
時計はもう間も無く発走時刻を指そうとしている。思った以上に長話をしていたようだ。
正直間に合わないと分かっていながらも全力疾走をせざるを得ない。その横で涼しい顔して走るマックイーンが腹立たしい。種族の格差を感じる。
「トレーナーさん」
「何!? ちょっと今余裕無いから……」
「ダイヤさんを導くのは貴方の役目。もしあの方が迷って袋小路になってしまったら、どんな手を使ってでも助け出しなさい」
「? あ、ああ……あ、待って、急な全力ダッシュで脇腹が……」
「ト、トレーナーさん!?」
運動不足も相まって、スタンドにたどり着く前に早々に踞ってしまった。
レースの開始を象徴するファンファーレが鳴り響いているのを耳にして、優柔不断な判断をしていた数分前までの自分を全力でぶん殴りたくなってしまう。
先程のマックイーンの意味深な言葉を理解するのは、今の僕には少し早すぎる話だった。