「……知らない天井だ」
これを言い始めて早一週間と少しが経つ。つまり知らない天井なわけないのだが、言わねばならない使命感に駆られ毎朝エヴァンゲリオンのパイロットごっこをしている。流石にそろそろ飽きてきた。
時刻を確認するため身体を起こすと、時計の針は6の英数字を指していた。フランスは日本より約七時間遅れているため、向こうはもうすぐしたらおやつの時間かなと考えてしまう。マックイーンはスイーツを暴食していないだろうかという不安が残りつつも、ストッパーとして一色がいるのだし大丈夫だろうと現実に目を背け掛け布団を払い除ける。
「……さむ」
八月末という日本だったらまだまだ猛暑日が続くこの時期。当たり前だが日本とフランスの気候が全く一緒なわけがない。
平均気温は20°ほどだが、陽射しが強いため気温以上に暑い。とはいえ湿度が低いため朝晩は涼しく、あまりにも薄着だと風邪を引いてしまう可能性もある。この地に一週間強滞在しているとはいえ、この気候に慣れるのはもう少し時間がかかりそうだ。
寝巻用のジャージから普段着に着替え、薄めの長袖を羽織って部屋を出る。
お前はどこに寝泊まりしているんだという疑問が聞こえてきそうなのでここで答えておこう。
今僕達は、フランスにある遠征ウマ娘並びにそのトレーナー専用のトレセン学園を圧縮したような場所にいる。寮にターフと言った最低限の施設が揃っているが、圧縮というだけあってその土地の広さはトレセン学園と比にならないくらい狭い。利用者が凄く多いというわけでもない上に、他国のウマ娘用のも作らなければならないということでこのくらいの広さが妥当だとは思いつつも、どこか物足りなさを感じてしまう。
まあ贅沢も言ってられない。こうして日本のウマ娘、そして日本人用にこのような施設を作ってくれているだけ感謝しなくてはならないな。
「トレーナーさん、おはようございますっ!」
朝食を取ろうと食堂に向かおうとしたところ、その道中にダイヤと偶然合流する。笑顔で挨拶をする彼女の服装は、日本から持ち込んだのか、素人の僕でも分かるようなお洒落なものだった。
「おはよう、ダイヤ。今日は朝練も無いのに随分と早いんだな」
「はい、今日はトレーナーさんと"デート"の日ですから」
わざわざデートを強調して言うあたり、そう言ったことに憧れを持っているのだろうか。ダイヤも年頃の女の子だ、つい先日父性を味わったばかりなだけになんだか微笑ましく思えてしまう。
にしても、今日はダイヤと出かける約束だったか。いや、忘れてたわけではない。ほんとだよ?
食堂に着き、いつものパンとコーヒーのセットを注文して席に座る。
「そうだったそうだった、今日は君と出かける約束だったね。して、行きたいところとは決まってるのか?」
対面に座るダイヤは、少し困った顔をして笑みを浮かべる。
「私が誘っておいてなんですけど、実は行き先とかは決めていなくて。行きたいところがあるのかと聞かれましても、有名所はほとんど行ったことありますし……」
君もかよ。
この子もこの子で超が付くほどのお嬢様。フランスだけでなく、様々な国の観光名所に行ったことがあるのだろう。
渡航前にマックイーンにも似たようなことを言われたなと思いながら細々とパンを齧る。
「行きたいところというのは特にないですけど、実はやってみたいことはありまして」
「んぁ、マジで?」
「はい。私、特に目的もなくパリの街並みを散策したいなと思ってるんです」
「特に目的なく? 多分それだとイベントらしいイベントも何も起こらないと思うけど……そんなんでいいのか?」
「それがいいんです」
ダイヤらしい……らしいのか? 僕だってなんの目的もなくダラダラ行動するのは嫌いではないが、ダイヤがそういったことを言うのはなんだか新鮮に思えた。
ともかく、彼女がそうしたいって言うならそれに従うべきだ。拒否権は……ちょっとはあると思いたいが多分ほとんどない。
「それと、フランスにまつわるジンクスというのも確認しておきたいですし」
ああ、それはダイヤらしい。きっとこの日のためにいくつかジンクスを調べたのだろう、彼女はそれらを破ろうとやる気満々だ。
メロスにはデートが分からぬと言うのも過言では無いほど異性との付き合いが無い自分にとって今日のことは多少なりとも不安であったが、ダイヤに付き従うだけでいいと考えると楽ちんだなと思ってしまう。散歩だろうがジンクス破りだろうがドンと来いってもんだ。随分と楽しみにしていたようだし、今日は思う存分付き合ってやろう。
「では手始めに、フランスパンを逆さに置いたら不幸が訪れるというジンクスを……」
「うん、それはほどほどにね? マナーも悪いしさ」
秒で諭され項垂れながらフランスパンを戻すダイヤ。出鼻を挫いたのは申し訳ないが、食べ物で遊ぶ系は見過ごすことができない。
注意云々の前にフランスパンを逆さに置いてしまっていたので今後不幸が訪れる可能性があるが、なぁに、こっちにはジンクスブレイカーのサトノダイヤモンドがいるんだ。ちょっとやそっとのことでは問題ないだろう。
そう考えた瞬間、ポケットに入れていたスマホから着信音が鳴る。なんだこの朝っぱらからと思ったが、表示されていたのは一色という名前。日本は今昼頃なため、この時間帯に連絡が入っても不思議ではない。
マックイーンに関して何かあったのか、もしくは何か練習メニューに不備があったのかと考え、一色からの連絡を恐る恐る確認すると……
『今日せんぱいの部屋に行っちゃいますね(≧∇≦)』
との内容とふざけた絵文字が……は?
「ト、トレーナーさん? 急に席を立ち上がったりしてどうしたんですか?」
「……少し想定外のことが起きてね。ダイヤが気にするようなことじゃないよ」
「は、はぁ……」
部屋に来るなら連絡しろとは言ったけど、僕がいない時に行くのはおかしいだろ。もしかして初めからこれが狙いか? あの時合鍵を渡した時から嵌められてたってこと?
落ち着きを取り戻すためにドカッと椅子に座り頭を抱える。
スマホを地面に叩きつけなかった僕を誰か褒めて欲しい。もしここに人がいなかったら思い切り机をぶっ叩いて世界台パン選手権一位の称号を獲得していたところだ。
早速不幸が訪れたことに朝からげんなりしつつも、今更焦っても仕方がないし部屋を見られて困ることなんてないので、日本に帰ったらどんな仕返しをしてやろうかと考えながら返信する。
『好きにすればいいけど、変なところ触るなよ』
その日の夜になるまで既読は付かなかった。
***
結論から言おう。このデート、特にこれと言って何も無かった。
何も……
……あれぇ? おかしい、ほんとにおかしい。世間一般的にデートと言ったら、男女がキャッキャウフフな関係を周囲に見せつけるといった奇習のようなものではないのか? 驚くほどにそういった展開は無かったぞ。いや、トレーナーという立場である以上、ダイヤとそういうことをするのはまずいため、あったらあったでそれは困るんだけどさ。
一緒に外で遊んで、一緒にご飯食べて、一緒に観光して……うん、これ家族で行くピクニックだわ。
「は〜、楽しかったです!」
「そ、そうね……」
夕暮れ時、赤く染まった空を見上げ、疲れ気味の身体に鞭を打つ。思う存分付き合ってやろうというのはなんだったのか、既に体中が悲鳴を上げていた。幸いにも脳は活性化しているため、今日一日の出来事を思い返す。
朝食を摂った後少ししてから寮を出て、そこからノートルダム大聖堂やエッフェル塔などの歴史的建造物といった有名観光地を回った。
ちなみに、ルーヴル美術館やオルセー美術館と言った美術系のところは行っていない。行ったところで盛り上がるわけでもなく、自分の拙い語彙力では「絵うま」くらいの感想しか出てこないため、僅かな拒否権を行使して回避した。
その間、本当に本当の何も無かったのかって? 無かったね。せいぜい昼食時にダイヤが見たこともないような顔をしながらエスカルゴを食べていたり、屋内で傘を広げたら不幸になるというジンクスを実行して周りから変な目で見られたり、橋の下をくぐると不幸が訪れると言われわざわざくぐりに行ったくらいだ。正直縁起の悪いことはしたくなかったのだが、やる気満々だった彼女を抑える手段は持っていなかった。どうか不幸が訪れませんように。
ようやく一息つくことができ、テレビでよく見る凱旋門へと続くシャンゼリゼ通りを歩く。恥ずかしながら、パリの街を歩くのは初めてだったので、何かを詳しく語れるほどの経験を有していなかったことを告白しておこう。一応フランス語は多少なり話すことができるものの、自分のフランスについての知識なんて学生時代の世界史程度のものだ。蘊蓄レベルにしかならないそんな話、デートで披露しても何も面白くないことくらい素人の僕でも知っていた。
耳をピクピクと動かして見るからに上機嫌で隣を歩くダイヤを横目に見る。彼女はこれをデートと称していたが、先述の通り、自分は今日デートらしいことをしてあげられていたとは思えない。何か……何か彼女の喜ぶようなことをしてあげられたらと、そう思っているのだが……
「そういえば、トレーナーさんって異性の方とデートをしたことあるんですか?」
「あ、あああ、あるし! 僕だって昔は女の子と仲良く……」
「本当は?」
「さーせん、ないっす」
とりあえずプライドは捨てよう。これ以上抵抗しても虚しくなるだけだ。
ちなみに、四月末辺りに一色がお家デートと宣って家に突撃してきたのはノーカンとしておこう。あれは含めてはいけない、含めたくない。
「そうなんですか? なら良かったです」
「……え? 喧嘩売ってる?」
降参の声を聞くや否や、笑顔でそんな煽りのような言葉を発するダイヤ。一色じゃあるまいし、彼女の誰かを小バカにするような発言に耳を疑った。
「ち、違います! 私はただトレーナーさんと初めてを経験できたことが嬉しくて……」
「言い方。その発言、捉え方によってはそれ僕犯罪者になっちゃってるから」
「……トレーナーさんは私との初めて、気持ちよくなかったんですか?」
「わざとだよね? 絶対わざと言ってるよね!?」
マックイーン然りシンボリルドルフ然り、ウマ娘に対して下手に出てしまう性格故かどうしてもこういった場面で手玉に取られてしまう。渡航直前の発言が気にならないくらいの過去一の爆弾発言をかましたダイヤは、何も気にすることなくクスクスと笑っている。いや、あーたそれ華の女の子がしていい発言じゃないから……
日本に帰ったらサトノグループに殺されるのかなと思い頭を抱える。デートらしいことをしてあげようと考えていたのがなんだかバカらしく思えてきた。
真横を歩くのは、苦悶の表情を浮かべる僕を見て実に楽しそうな表情を浮かべるウマ娘が一人。時間的にもそろそろ帰らなければならない。だったら、最後に訪れる場所は一つしかないだろう。
「よし、ダイヤ、今日はあそこに行って締めにしようか」
「……? あそことはどこのことですか?」
「それは行ってからのお楽しみ。ほら、もたもたしてると日が暮れるぞ!」
「ト、トレーナーさん!?」
動揺するダイヤの手を掴み、眼前に聳え立つ凱旋門をくぐってバス停へと向かう──
「ここは……」
「せっかく決戦の地にやってきたってのに、まだここには来てなかったからね。いい機会だと思ったんだ」
「すごく綺麗です……」
バスを降り暫く歩いた後目的地に到着する。その光景を見て、ダイヤは感嘆の声を漏らす。
パリロンシャンレース場。前哨戦であるフォワ賞、そして本命の凱旋門賞が開催される、多くのウマ娘にとって憧れの地でもある場所だ。
パリ西のセーヌ川沿いに位置し、ブローニュの森という森林公園の中にあることから世界一美しいレース場と言われている。自分としてもここを訪れるのは初めてであったため、ダイヤと似たような感想を抱いた。
「トレーナーさん」
「ん、なんだい?」
対面するダイヤは、キュッと僕の手を握る。
「私、勝ちます。例え今日のジンクスで不幸が訪れようと、日本のウマ娘は勝てないというジンクスに見舞われようとも、この脚で、必ず世界一になってみせます!」
世界一とは、これまた大きく出たな。だが、嫌いじゃない。誰だって一度は憧れるその言葉、僕とてそれは例外ではない。
トレーナーはウマ娘に夢を見る。世界一というのがいかに困難で、いかに至難の業であるかは、トレーナーどころか本人であるウマ娘も理解しているはずだ。それだけ彼女が本気だということがひしひしと伝わってくる。
担当ウマ娘に、夢を賭けないトレーナーはいない。過去も今も、そしてこれからも。
「僕は君を信じてる。だから……一緒に掴むぞ、世界のてっぺん!」
「っ……! はいっ!」
「うおっ!?」
感極まったのか、ダイヤは僕に飛び込んできた。ウマ娘のそれはかなりの衝撃とはいえ、ここでへばってはトレーナーとしての威厳が廃る。意地と根性、そして僅かな男気で彼女を受け止め切ることに成功した。威厳なんて元々無いか、無いな。
そうこうしていると、ふと思った。今の状況、かなりまずいのでは? ダイヤを受け止め切ることに意識が集中していたため気にしていなかったが、ここにいるのは挙動不審な男とそれに抱きつくウマ娘。自分がトレーナーだと話せばなんとか豚箱にぶち込まれることはないだろうけれど、少しでもフランスのポリスにお世話になるようなことは避けたい。
「ダ、ダイヤさん? ちょっとこれは絵面的にもまずいので離れていただけたらなーと……」
「もう少し……もう少しだけお願いします……」
「もう少しって……いや、この状況誰かに見られたら捕まる可能性も……」
「誰も見てないから大丈夫ですよ。だから、今は私だけのものになっていてください」
おっと、そろそろジョークでは済まされないレベルになってきた。先程まではギリギリ冗談混じりに半笑いで受け答えできていたが、これはもうアウトだろう。
通報されなければ警察は来ない。そう信じ周りを見回すが、離れた場所で知らないおばちゃんが生暖かい目で見ていたので諦めた。むしろ周りを見回したことで挙動不審感が増したのではないか。何も大丈夫じゃなくなった。
「……やっぱりトレーナーさんの側にいると落ち着きますね」
僕の胸あたりに顔を押しつけてくるダイヤに抵抗することができず、なす術なく彼女のいいようにされてしまっている。彼女を強制的に引き剥がす手段はなくは無いけれど、それをしてしまっていいような雰囲気でないことを本能で悟った。
仕方がない。もう少しだけ彼女の希望に沿うとしよう。
戸惑いと気恥ずかしさに苛まれながら、手持ち無沙汰になっている手を彼女の頭に伸ばしかける。
刹那、目の前を黒猫が通り過ぎていった。
それにより一瞬怯んでしまい、伸ばしかけた手を引っ込めてしまう。
「トレーナーさん……?」
「え……ああ、いや、なんでもない」
撫でられる気でいたダイヤは、手を引かれたことにより不思議そうな顔をしている。抱きついている状態のダイヤからは先程の黒猫の姿は見えない。
咄嗟に"なんでもない"と言ってしまったのは、僕でも知っているような有名なジンクスが今目の前で起こったから。普段ならその程度のことが起きても知らんぷりをするのだが、どうにも気にし出すと嫌な予感は止まらない。
活気づけるために来たはずだったのに、人知れず謎の不安感を植え付けられたままパリロンシャンレース場を後にした。
明日番外編を投稿します。