GⅡフォワ賞。凱旋門賞の三週間前に行われる前哨戦の一つであり、本番と同じレース場、同じ距離で開催されるレースだ。
ダイヤが圧倒的人気に推されることは間違いない。一歩ずつ、着実に、日本にいる皆の期待を背負って準備を整えてきた。態勢は万全、後は運に見放されなければいいのだが……
「……トレーナーさん、先程から片膝をついて何をされてるのですか?」
「神に祈ってる」
「は、はぁ……」
何か可哀想なものを見るような目で僕を見るダイヤ。ここまで来たらトレーナーがウマ娘にできることなんて神頼みくらいしかないってのは皐月賞の前にも言ったか。
あれから随分と時間が経った気がする、懐かしいな。あの時は自分の勝負服ではしゃいでいたり、一緒に神社行ったり、その別れ際に彼女にとんでもないことを言ってしまったり……
当時の失態を思い出して頭を抱えそうになる。ウマ娘のことを第一に考えるということは大切だが、行きすぎた発言や行動は控えることも同じくらい大切だ。二人三脚とはいえ、僕達はあくまでもトレーナーとウマ娘という関係。それ以上でもそれ以下でもない。
それなのに、皐月賞前の神社でのこと、そしてマックイーンの有マ後のことを思い返して自分自身に呆れてしまう。
マックイーンやダイヤを担当する時より前、サブトレーナーを卒業してすぐの頃、一色に「せんぱいってほんと恋愛に興味無いですよね」と言われたことがある。
はっきり言おう、そんなわけがない。僕だって普通の人間、恋愛漫画や小説にときめいたことだってなくはないし、尖っていた学生時代ならともかく、年齢を重ねた今ならその価値観も理解している。
僕が恋愛に興味が無いように見られているのは周りにそう見せているだけ。そんなものはこの仕事をする上で邪念でしかないというのを分かっているから、己を偽り、周りを騙し、今の自分を演じている。この仮面を付けていないとトレーナーという仕事ができないと分かっているから。
特にウマ娘に対してはそれが顕著だ。前述に加え、そこに社会的な立場や信用が関わってくる。これは保身じゃない、ウマ娘のことを考えているつもりだからこその行動だ。
一度吐いた嘘はもう飲み込むことはできない。だからサブトレーナーを卒業したあの日からこの喋り方をするようになった。例え周りに振り回されることがあっても、この仮面だけは絶対に崩さないために。
何が一心同体だと言われても仕方がないのかもしれない。でも、これが"俺"のやり方だ。誰にも文句は言わせない。
「……ナーさん。トレーナーさん!」
「……そんな大声で何回も呼ばなくても聞こえてるって」
「さっきから何度呼んでも反応してくださらなかったので大きな声で繰り返し呼んだんです。ぼーっとされてましたけど、何を考えていたのですか?」
「ほら、今日はフォワ賞だろ? ダイヤが無事に勝利を掴めますようにってね」
嘘は言っていない。無論それだけを考えていたわけではないが、ダイヤの勝利と自分自身のこと、それらを天秤にかけたら100-0で前者を優先する。
皐月賞前にも同じようなことを言ったなと思いつつ、ダイヤの反応を見ると、
「むぅ……」
頬を膨らませ、不満気な顔でこちらを……え、なんで怒ってるの?
「わ、悪いダイヤ、何か気に障ったか?」
「はい、それはとても」
これは土下座の準備かな。とりあえず片膝ついてる状態から両膝ついてる状態へと姿勢を変える。
完璧な土下座を敢行するため脳内シミュレートをしていると、ダイヤは小さい声で言葉を漏らす。
「……んで……」
「ん? なんて……ぐえっ」
「なんで私のレースで神様に祈るんですか! 私に祈ってくださいよ!」
今度は僕の肩を掴み、間近でそんなことを言うダイヤ。いやはや、まさか神様に嫉妬するとは思わなんだ。もしかしたら彼女は独占力が強いのかもしれない。
一周回って冷静になってはいるが、ここである問題が出てきた。
「あの、ダイヤさん……」
「……なんですか」
「その、お顔が近いと言いますか」
「っ、す、すみません……」
顔を赤くして縮こまるダイヤに、まだまだお子様だなと感じる。お年頃の少女めと揶揄いたかったが、そんなことをしたらさらに不機嫌になることは目に見えている。今回はかなり言葉を選んだつもりだ。
互いに気まずさを隠しつつ、話題転換のためにもレースへと意識を向ける。
「あー……体調はどうだい? フランスに来てそこそこ経つけど、何か異変とかは感じる?」
「それはトレーナーさんが一番分かってくださっているのではないですか」
「……へぇ、言うようになったじゃないか」
「当然です。私はトレーナーさんのことを一番よく分かっているつもりなので。逆もまた然り、ですよね?」
「本当に言うようになったな……」
彼女の言う通り、ダイヤの体調についてはよく分かっている。それも良好も良好、すっかり現地の環境にも慣れてリラックスしており、この前の追い切りだっていい感じだった。
知っての通り、凱旋門賞は日本のウマ娘がことごとく厚い壁に跳ね返されている。それはあのエルコンドルパサーでさえ例外ではなかった。だが、前哨戦となれば話は別だ。このフォワ賞、過去に多くの日本のウマ娘が好成績を収めている。
不安要素があるとすれば、G I二勝という実績もあり、周りからの勝って当然と言う雰囲気によるプレッシャーくらいか。
「それでは行ってきます。みんなの期待に応えてきますね」
……杞憂だったな。ダイヤは皆から期待を受ければ受けるほど輝く。今の彼女の顔を見て、ほんの少しだけ残っていた不安は綺麗さっぱり消え去った。
「ト、トレーナーさん、次はどうされましたか? 私の顔に何か付いてますか?」
「……いんや、何も。それより、今日は重バ場だから十二分に注意して走ってほしい。初めて走るレース場なのもあって慣れないことばかりだけど、君ならできるって信じてるから」
「はい、任せてください。ここを勝たないと、凱旋門賞で勝つなんて夢のまた夢ですからね」
そう言ってダイヤはターフへと向かおうとすると、一瞬その足を止めた。
「……? ダイヤ、どうかしたか?」
「……いえ、なんでもありません。私の走り、きちんと見ていてくださいね?」
「それは言われなくてもなんだが……って、ちょっと、ダイヤ! ……行っちゃった」
何か言いたいことでもあったのだろうか。何か気になることでもあったのだろうか。なんにせよ、既にターフへと向かったダイヤとコンタクトを取る手段はほぼない。今は信じて待つだけだ。
ここで油を売っていないで自分もスタンドへと向かおうとしたところ、ポケットに入れていたスマホが震える。こんな時に誰からと思い画面を開くと、メッセージを入れた人物の正体は日本にいるマックイーンだった。画像が添付されているわけでもなく、長ったらしい文章でもなく、
『離れていても気持ちは一緒です』
と、簡素な言葉だけが送られてきた。きっと前日にでも個別にダイヤへ激励の言葉を送っているだろうに、僕にまで連絡を寄越すとは。向こうの時間は深夜に近いのもあって、律儀だなと感じてしまう。でも、この一言だけで気持ちがさらに軽くなった。
スマホをポケットにしまい、今度こそスタンドへと向かう。まずはこの前哨戦であるフォワ賞、無事に勝って次へと繋げよう。
──と、思っていたのだが、そうは問屋が卸さない。現実はいつだって非情だ。
何度も言うように、元々自分には海外遠征に良い思い出はなかった。サブトレーナーの時とはいえ、自分の担当するウマ娘が怪我を、それも日本ではない異国の地で発症するなんて通常ではトラウマになってもおかしくはない。その上に、自分はマックイーンに大怪我を負わせてしまっている。一度のミスをいつまでも引き摺る自分にとって、それらはツタのように絡みついた呪縛のようなものだ。
しかし、いつまでもその罪悪感に囚われていては自分自身に止まらず、いつか担当する別の娘の足枷になってしまうということは昔から頭のどこかで理解していた。
どちらにせよウマ娘の思いを優先していたためこの海外遠征に反対するつもりはさらさらなかった。が、目の前の光景を見るにやはり後悔せざるを得ない。
自分はウマ娘が勝つ姿が好きだ。でも、それと同じくらいウマ娘が怪我をする姿を見たくないという気持ちが強いのもまた事実。
電光掲示板に映る、確定したダイヤの順位は四着。それもただの負けではない、ただの負けだったらどれほど良かっただろうか。
恐らくここにいるほとんどの人は、レース中ダイヤの左脚にかなりの負荷がかかっていたことに気がついていない。
初めての場所、慣れない重バ場。ああ、全てが最悪の方向に転じた。自分がもっと対策を詰めていればこんなことにはなっていなかったはずなのに。そもそも、レース前にダイヤがあそこで足を止めた時点で違和感に気がつくべきだった。
頑張れ、信じてる。それで勝てたら苦労はない。気合を入れるだけじゃただの無茶なトレーナーだって、そんなことは一番よく分かっていたはずなのに。
「くそっ……」
己への嫌気がつい口から漏れてしまう。が、自分を責めるのは後だ。今はダイヤの脚のことだけを考えよう。
地下バ道へ消えたダイヤを追うために足を早め──