フランス時間午後二十三時。一時間ほど前に離陸した飛行機に乗った僕達は、既にパリの地を後にしていた。
日本とフランス間でのフライト時間は約十三時間と少し。睡眠を取るには十二分な時間だ。とはいえ、そう易々と眠りにつくことはできない。それは隣に座るダイヤも同じなようで、ちらりと視線をずらせば、目を閉じず俯いたままの彼女を確認できた。
「……ダイヤ、寝づらいかもしれないけど、しっかり睡眠取っとけよ」
「……」
返事は無い、今日はずっとこんな感じだ。話しかけても目も合わせてくれない。返事くらいはしてほしいと言いたいのだが、言いかけるたびにその言葉を飲み込んでしまい結局言えず終いとなっている。
15着。これは僕達の凱旋門賞挑戦の結果だ。惨敗としか言いようがない。案の定勝ったのは前日に懸念していたウマ娘。ただ彼女が強かった、それだけ。
頭ではそう分かっていても、この結果を認めたくない気持ちがないわけではない。むしろその気持ちでいっぱいだ。
後悔も反省すべき点も数えだしたらきりがない。それでも今やるべきはそんなのではないことは分かっていた。
「……ダイヤ、色々あったけどこれだけは覚えておいてくれ。僕は君を絶対に見捨てたりなんかしない。だから、今はゆっくり休みな」
「……っ……ぅ……」
ダイヤは他のお客さんの迷惑にならぬよう、声を押し殺して大粒の涙を溢す。堪えていた最初の一粒が流れ出すと、あとはもう止まらない。
皆の期待を背負い、自分の夢を賭けた結果が不甲斐ない結果で終わってしまったのだ。それも、彼女はまだ中学生の少女。レースというのは時に熱狂や興奮を与えるが、時に挫折や絶望をも贈る。トレーナーとしても、これだけは何度経験しても慣れることはない。
負けに慣れるということは敗北者のレッテルを貼られても文句は言えないということに等しい。仮に自分が経験を重ねてベテラントレーナーとなったとしても、負けに慣れるなんてことはないだろう。そうなってしまってはそれはベテランではなく三流以下だ。
しかし、敗北を引き摺ってはならない。忘れるのも技術の内、というのは言うは易し行うのは難しか。全く、本当に難しい職業だぜ、なあ、樺地。ウス。
誰もツッコんでくれるはずないのに心の中でボケをしていると、いつの間にか泣き止んだダイヤから小さな寝息が聞こえきた。かなり疲れが溜まってだろうに、それが気にならない、もしくは我慢してしまうほど抱え込んでいたのか。
彼女の膝の乱れた毛布をかけ直し、自分も眠る態勢に入る。
明日からトレセン学園で通常業務だ。正直言って面倒くさい。このままダイヤと逃避行でもしようかしら、絶対しないけど。
適当なことを考えるも、驚くほど睡魔に襲われる気配はなかった。羊を数えても、腹式呼吸をしても、脳内にこびりついた悔恨が睡眠を妨げ無駄に終わる。
結局一睡もすることができないまま、十三時間という長い時間を無為に過ごすこととなった。
日本時間十八時半、空港にて。
「お帰りなさいませ、ダイヤさん、トレーナーさん」
「マックイーン……どうしてここに?」
「どうしてって……連絡入れましたわよ。出迎えに参りますと」
そう言われてスマホを確認すると、マックイーンの言う通り確かにその旨の連絡が入っていた。前日からLANEはほとんど見ていなかったため気が付かなかった。
「悪い、ちょっと色々あって確認してなかった」
「報連相は社会人として当然のことですわよ。……ですが、今回だけは見逃してあげます」
マックイーンは神妙な面持ちでダイヤに近づきその手を取る。
「……マックイーンさん?」
「結果はどうあれ、まずはお帰りなさい、ダイヤさん。貴方がいない間随分と寂しかったですわ」
「……はい、ただいまです」
何も言わずマックイーンはダイヤを抱きしめる。やはりダイヤは落ち込んだままだ。機内で少しでも元気付けることができたと思ったが、一日経たずで復活できたら苦労はしないか。
この先どうしたもんかと悩んでいると、後ろからポンと背中を叩かれ振り返る。そこには、亜麻色の髪を揺らした帽子の女性が控えめに微笑んでいた。
「お帰りなさい、せんぱい」
「一色か。なんでいるの?」
「なんでって酷くないですか? せんぱい達のお出迎え兼マックちゃんの保護者係ですよ。ほら、門限も近いですし、一応せんぱいが帰ってくるまでわたしはマックちゃんの代理トレーナーですし」
マックイーンの代理トレーナー任期は昨日までの予定だったが、律儀にそこまでしてくれていたのか。
「そうだったな。ありがとう、色々協力してくれて。お前のおかげで助かったよ」
「…………」
「……え、なに? 何その唖然とした顔は」
「いえ、素直にお礼を言うせんぱいってなんだか気持ち悪いなって」
こいつほんまに……っ!
僕のことをなんだと思っているのだろうか。僕だってお礼くらい言ってるだろ、多分、知らんけど。
一色の失礼な発言に抗議しようとすると、彼女はマックイーン達に聞こえないよう囁く。
「……向こうで何かあったんですか」
……本当にお前は失礼なやつだ。
「何も無かったよ」
「嘘ですね。乙女の勘がそう言ってます」
「もっと別のところで働かせる場所があるんじゃないかな」
「ここぞと言う時にしか働かないので、今働いたってことはその時ってことです。それで、何かあったんですか?」
「……さあね」
自分でもぶっきらぼうな言い方をして黙ったままでいると、一色はしょうがないですねぇと言ってマックイーン達のいる方へと歩いていく。
「マックちゃん、サトイモちゃん。悪いんだけどわたしちょっと用事あるから二人で先に帰ってて貰ってもいいかな?」
「それは構いませんけど……トレーナーさんはどうされるのですか?」
「せんぱいはURAの本部に報告行かなきゃいけないの。大きな遠征をした後のトレーナーってのは大変なのよ」
「……承知しました。一色さん、トレーナーさんをお願いします。行きますわよ、ダイヤさん。そろそろバスが来てしまう時間ですわ」
「……はい。それではお先に失礼します」
白々しくやれやれという仕草をする一色に対し、マックイーンはどこか訝しげな目をしていた。それでも納得したと言うことは一色の意を汲んだということか、素直に引き下がったマックイーンはスーツケースを運ぶダイヤと共に空港を去っていった。
ダイヤのことはひとまずマックイーンに任せよう。マックイーンの方が経験豊富なのは確かだ。彼女と話すことでダイヤも何か見えるものがあるかもしれない。
というか……
「なんだよ、URA本部に報告って。もうちょっとマシな嘘あっただろ」
「いいんですよ、マックちゃんに気づかれるギリギリのラインの嘘で。サトイモちゃんは……それどころじゃなさそうですし」
「……お前って気ぃ遣えるんだな」
「何のために嘘ついてまでマックちゃん達先に帰らせたと思ってんですか!?」
うるさいやい、さっきのお返しだ。
悪戯に小さく舌を出すと、小声で「きも」と聞こえてきたので二度とやらないことを決意した。
「んで、あの二人を先に帰らせてまで何しようってんだよ」
「よくぞ聞いてくれました。せんぱい、お腹空きましたよね?」
「お金無いんですけど」
「奢れなんて一言も言ってないじゃないですか……。逆ですよ、逆。わたしがせんぱいに奢ってあげるんです」
こいつ今なんて? 一色が奢る? 飯を? はっはっは、おもしれ〜。
「……その引き攣った笑顔やめてください。嘘じゃ無いです、本当です」
「尚更怪しいよ。絶対裏があるに違いない。例えばそうだ、料理に手をつけた瞬間『あ、食べましたね? じゃあこれお願いします』って無理矢理仕事押し付けたり……」
「いい加減にしてください」
突如低い声が聞こえてきた。それは一色から発せられたもので間違いないのだが、ゆるふわ系女子を自称する彼女からは考えられないほど冷えきった声音だったので戸惑ってしまう。
「フランスでサトノダイヤモンドと何かあった。そうなんでしょう?」
……ああ、あったさ。人には到底話すことのできない事件が、レースの前日に。
ダイヤがあれほど落ち込んでいたのも、凱旋門賞が不甲斐ない結果に終わったのも、そのことが関係していることは言うまでもない。
「反対の意志は言葉にしないと伝わりません。さっきからせんぱいが沈黙を貫くということは、それで間違いないみたいですね」
「……どうしてそう思ったんだ」
「だから女の勘ですってば。特に、わたしの勘は良く当たるんです」
そう言った一色は、僕の荷物をひったくって空港の出口へと向かう。
「お、おい一色、待て。飯って言ってたけどこれから一体どこに行くんだよ。それになんだって急にこんなことを……」
「……はぁ、あなたはどこまで行っても鈍い人ですね」
一色は呆れてため息をつく。声音は普段通りに戻っており、先程までの恐ろしさは感じられなかった。
いつもの一色だ。でも、今はそのいつもの一色に感謝してもし足りない。
「困った先輩を助けるのは、可愛い後輩の特権。つまりはそういうとこですよ」
***
「……なあ、一色」
「……なんですか」
「飯って言ってたけど、ここって……」
「し、しょうがないじゃないですか! まさかどこもかしこもお客さんでいっぱいだなんて想定外だったんですよ!」
つい先程までの感謝を返して欲しい。自分も人のことを言える立場では無いが、どうしてこいつはこういう時に締まらないのだろうか。
一色に連れられてレストランや居酒屋といった飲食店を回るも、どうしてかどこもかしこも満席状態。そして、とうとうたどり着いた場所はといえば、以前沖野トレーナーに連れられて入店したことのあるバーだった。
ここはどちらかといえば飲む場所であり食べる場所ではない。ああ、お腹空いたなぁ……
「とにかく! さっさと入りますよ! お店探してたら二時間も食っちゃったんだから……」
「いや、入るって言っても僕お酒飲めないんですけど」
「わたしが飲ませるんで大丈夫です」
「えぇ……」
一色のアルハラ宣言にげんなりしつつ、彼女の後に続いていつの日かみたいにバーに入店する。
そのいつの日かというのは沖野トレーナーと二人きりというむさ苦しい展開だったけれど、今は異性と二人だ。まあ今回も相手が一色なので色気もクソも無いんだけどね。
「……今変なこと考えました?」
「いや、なんでもない。いいから何か注文しようぜ。メニュー表と店員呼び出しボタンはどこだ?」
「せんぱい、ファミレス感覚でいるのやめて」
「びっくらポンも無いぞ」
「もう恥ずかしいので黙っててくれませんか?」
お口チャックを言い渡されてしまった。もう、ただの冗談だってのに。
とはいえ、バーに行ったことなんてほとんど無いのは事実。前は沖野トレーナーと行ったのもどんな風に頼んだかはうろ覚えだ。たしか……
「わたしはジントニックで。せんぱいはどうします?」
「僕はお酒飲めないのでオレンジジュースお願いします」
「マスター、この人にはクセの強くないウイスキーお願いします」
「話聞いて? てか本当に飲ませる気なの?」
「そう言いましたよね?」
「じゃあせめてレモンサワーとかにしてくんない? 初手飲んだことないウイスキーはきついって」
「……せんぱい、バーにレモンサワーは無いですよ」
なん……だと……? 飲めないとはいえ、サワー系などのそれほどアルコールが強くないお酒を飲んだことことがないわけではない。そして自分は酒に強くもないし弱くもない、至って普通なのも知っている。
ただ普通に酔うので、その姿を誰かに見られるというのは抵抗があるのだ。今すぐ注文を取り下げたかったが、それをしてしまうとただマナーの悪い客になってしまうので躊躇してしまった。
そうこうしているうちに一色のカクテルと僕のよくわからんウイスキーが出される。口を付ける勇気が出ないままグラスでお酒を転がしていると、一色は乾杯の間も無く飲んでいた。
「お酒に強い大人の女……せんぱい的にはどう思います?」
「ん? ああ、いいんじゃないの? 知らんけど」
「うっわテキトー……。ほら、せんぱいもちゃっちゃと飲んでくださいよ。素面じゃやってけませんって」
「お前は社畜のOLか」
「間違ってなくないです?」
「僕も言ってからそう思った」
どうやら発言等々鑑みるに、一色はかなりお酒に強いらしい。これまでに彼女が酒豪といった情報は耳にしていない。
こうして一色は飲めて僕が飲めないというのはなんだか癪に触るので、思い切ってグラスを口に付ける。やっぱり慣れない感覚だ。酒は飲んでも飲まれるな。これを常に意識して記憶を保つ。
「……まずはフランス遠征お疲れ様です。この二ヶ月、マックちゃんとも仲良くできましたし、せんぱいの心配するようなことは……あー……起きてないですよ」
「おい、その『あー』はなんだ。いや、言わなくていい。聞きたくない」
「マックちゃんがスイーツ食べすぎちゃって体重が増えちゃったなんてことありませんから」
「言わなくていいって言ったよね!?」
あのおバカ、報連相が大切とか言いながらそんなこと何も話してなかったぞ。とりあえず事実確認の後減量してもらおうか。
「そんなことより、今集中すべき相手はマックちゃんではないんじゃないですか」
「そんなことって……。僕にとってはマックイーンもダイヤも同じくらい大切だ。その発言には肯定しかねるよ」
「あはは、たしかに。じゃあ言い方を変えましょうか」
「っ!?」
隣に座っている一色は僕の方にズイッと体を寄せる。ほぼ零距離状態で彼女は囁く。
「目を逸らしちゃいけないこと、あるんじゃないですか」
そんなこと分かってる。分かってるけど目を逸らす以外に選択肢が無いんだ。
どうすることもできない不甲斐なさを、己の中指に込め……
「あいったぁぁ!? 急にデコピンしないでくださいよ!」
「こういう風にお前に主導権握られてんのムカつくんだよ。てか、何があったか話した記憶はないんだが?」
「大方、レース前日になって帰るのが嫌になったサトイモちゃんに襲われかけたんでしょう。そして、せんぱいがこうして人前に顔を出すということは、大事にはなっていないということですね」
「は? なに、お前エスパーなの?」
「せんぱいとサトイモちゃんの様子で大体察しましたよ。目も合わせないし話もしない。あんなどんよりした雰囲気、レースだけとは考えられませんから」
なるべく平静を保っていたつもりだったんだが、そこまで酷いとは思わなかった。それより、一色にバレているということはもしかしてマックイーンにも……
「安心してください、マックちゃんは多分気付いていません。何かあったくらいは察してると思いますけど、サトイモちゃんが自分から話すとかしない限りは大丈夫だと思いますよ」
「……そか」
「おや、それだけとは。せんぱいにしては随分と弱気になってるんですね。それともお酒が回ってきたからとか?」
「別に。僕は普段からこんな感じだ」
「口数も少ないですし、こんなせんぱい滅多に見られませんから新鮮ですねえ」
「……さっきから何が言いたい」
口では酔いが回っていることを否定するも、実際はそのためのせいか一色に対し苛立ちが先行してしまう。なんだか前に酒を飲んだ時よりなんだか酔いが回るのが早い気がしなくもない。
「これからですよ。せんぱいはこれからサトイモちゃんとどう向き合うんですか?」
「……分からん。今まではさ、大抵のことは時間が経てば風化していくからどんなことがあっても知らず知らずのうちに日常に戻ってたんだ。ただ……」
「ただ?」
「……今回は明らかに今までと違う。あのことを回避する手段はあったんじゃないか、ダイヤとどう向き合えばいいのか、一線は超えてないとはいえトレーナー失格なんじゃないか。色んな考えで頭の中がごちゃごちゃだよ」
これも酔いのせいか、思っていることをすぐに口に出してしまう。おかしいな、自分はそこまで酒に弱くはないと思ってんたんだが。
「そうですか、大変ですね」
「特に何か言ってくれるわけじゃないのかよ」
「そんな少年漫画みたいな展開求めないでください。後輩のわたしにできることはせいぜい聞くことくらいです。せんぱいより経験も考えも浅いわたしじゃあ立派なことは言えないなんてことは分かってます」
「……いや、お前は十分立派だよ。こうして先輩を気遣えるなんて、昔の僕には出来なかったから」
「だからそれはわたしが……はぁ、もういいです。アドバイスはできませんが、要望を突きつけることならできますよ」
「はは……それは……おもしろ……」
……あれ? なんか急に瞼が……。
「そろそろ限界ですかね。遠征帰りで疲れてる上に、空きっ腹にお酒入れたんですもん、そりゃ酔いも早くなりますし眠くもなります」
まずい、飛行機で睡眠を取ってないせいもあってか、目を開けておくことすらままならなくなる。
「わたしにはせんぱいの気持ちは分かりません。でも、このままじゃいけないということはあなたが一番よく分かっているはずです」
「いっ……しき……なにを……」
「惜しいですが、今日のところは寄り道せずこのまま寮まで送ってあげます。でも、これだけは覚えておいてください」
頭が働かず一色が何を言っているか分からない。
もう限界だ、自分の肉体と精神の輪郭が薄くなっているような気さえしてしまう。遠のく意識にもがくもそれは無駄な抵抗というものであり、次第に意識はまどろみへと沈んでいく感覚に陥る。
そうして夢とうつつの間をぼんやりと彷徨っていると、
「あの日から、あなたはわたしの憧れなんです。こんなところで立ち止まるのは許さない」
沈み行く意識の向こうから、そんな声が聞こえたような気がした。