五月上旬。新緑芽生える木々を横目に重い腰を上げトレセン学園の敷地内を歩く。室外で考え事をするにはもってこいな気温な上に、生徒達は授業なため目立つところには人もウマ娘もいない。
「よっこらせっと……」
何も考えず口から出てきた言葉を呟きながらベンチへ腰掛ける。少し歩き疲れたなと思うほどには歩いていた。これは運動不足のせいだろう、きっとそうだ。決して自分の老化が進んだわけではない。多分。
そんなどうでもいいことを考えながら、お天道様が眩しく輝きを放つ青空を見上げる。
ダイヤの凱旋門賞から半年と少しが経った。
世間一般的に、この季節はクラシックレースに挑戦するウマ娘達の話題で盛り上がっている真っ最中だ。もちろん自分も注目していないわけではない。
特にティアラ路線でとてつもない才能を有しているウマ娘がいると聞いた。その子も要チェックしなければならない。
それでも去年やそれ以前よりは身が入らなかったのは事実。他人のことを気にかける暇があったら、ではないが、今の僕……いや、僕達はすこぶる不調をきたしている。
凱旋門賞の後、フォワ賞での怪我もありダイヤは秋の間サトノ家に戻っていた。学園に泊まるより実家の医療施設を使った方がいいというのは合理的であるとのことだ。
と、いうのはおそらく表向きな理由。本当のところはダイヤ自身学園から離れて気持ちを整理したかったのだろう。
フォワ賞で負けた後、ダイヤは一人にしてほしいと言った。あの時あの場所、彼女は僕以外に頼れる人がいなかった。故に自分はそれを許さなかった。
実家に帰るということは家族と時間を共にするということ。ダイヤの両親は多忙であるが、きっとゆっくり話し合ってケジメをつけてくれる。だから今はゆっくり休んで欲しい。そのことを伝えて彼女を送り出した。
問題はここからだ。これまでのダイヤのレース歴において、ターニングポイントがあるとすればこの間が一つの境目になるだろう。
サトノダイヤモンドのライバル、キタサンブラックのトゥインクル・シリーズ引退。
キタサンブラックは引退レースの有マ記念を完勝し、ドリームトロフィーリーグへと移籍した。彼女のトゥインクル・シリーズでの戦績は20戦12勝、内GⅠ7勝というとんでもないものだ。
具体的にダイヤとキタサンブラックの間でどのようなやりとりがあったかは分からない。でも、ダイヤはトゥインクル・シリーズで最大のライバルを失ったのだ。彼女の心境が理解できない僕じゃあない。
そこからの調子はただ下がりだった。年明け戻ってきたダイヤはやはり元気が無くトレーニングにも身が入っていない。特段走りのキレが落ちている訳ではないが、二番人気に推された復帰レースの金鯱賞では3着、本命の大阪杯では7着という結果に沈んだ。
このままでは次走を予定している宝塚記念も結果が振るわないだろう。何かを変えなくてはならないと思い改善策を探る。
……我ながら情けないな、いつも肝心な時に答えを出すことができない。
僕がしっかりしなくてはならないのに、その理想からかけ離れているのが今の自分だ。適した答えを見つけることもできず、空でも見上げようかと俯いていた顔を上げると、そこには芦毛をたなびかせたよく見る綺麗な顔が……って
「マックイーン……なんでここに……?」
「窓の外を除いたらトレーナーさんの姿が見えましたので、こっそりつけてましたの」
「こっそりって……それより授業はどうした。まだチャイムは鳴ってないぞ」
「少し腹痛を催してしまいまして。でも今は治っていますわ」
「サボったってことね……」
メジロ家のウマ娘がだの品格がだの言っていたお嬢様が随分と丸くなったものだ。彼女と出会ってからだいぶ経つ。その間に清濁併せ呑むという言葉を覚えたらしい。全く、誰に影響されたのやら。
そう考えていると、サボリ魔令嬢は自然に僕の隣へと腰掛ける。
「それで、何を悩んでいましたの? もっとも、貴方の考えなんてお見通しもいいところですけど」
「ほーん、じゃあ言ってみ? 違ったら罰金百万円で」
「小学生じゃないんですから……。ここ最近……というよりここ数ヶ月、トレーナーさんとダイヤさんの元気が無いのは目に見えて分かります。元気が無いから結果が伴わないのか、結果が伴わないから元気が無いのか。因果関係はどうあれ、結果を出せてないのは紛れもない事実ですわ。自分のせい自分のせいと、貴方のことですからそうやって自分を責めている。違いますか?」
「なんなの? エスパーなの?」
「一心同体と言ってくださいませ」
僕の思考はそんなに分かりやすいものなのだろうか。いつの日か、一色にも思っていることを当てられていた気がする。そろそろ真面目な顔してアホなこと考え出さなければならないのかもしれない。
「ここ一年間、ダイヤさんは中々勝ちきれませんでしたわね」
「……トレーニングや追い切りでの走り自体は悪いわけじゃないんだ。でも、レースになるとどうも上手くいかない。元々思い通りになるなんて思ってないけど、それにしても勝ちが遠い」
「凱旋門賞での大敗、キタサンブラックさんのトゥインクル・シリーズ引退、色々なことが重なってしまいましたもの。要はダイヤさんが抱えているのは精神的な問題ということになりますわね」
「……イップスか」
アスリートなどによく見られる現象、イップス。プレッシャーなどによって極度の緊張状態に陥り、突如自分の思い通りの動きができなくなってしまう精神的な症状だ。これは誰もがかかってしまう可能性があり、今現在でも治療法は確立されていない。
しかし、自分でイップスと口にしたはいいものの、今のダイヤがそれに完全に当てはまるとは思えない。
「半分正解半分ハズレといったところでしょうか。ダイヤさんが葛藤を抱えているのは事実ですけど、少なくとも彼女はプレッシャーに負けるようなウマ娘ではありません」
……よく見ている。元々マックイーンはダイヤのことを気にかけていたので特に驚きはないが、彼女の観察眼はやはり大したものだ。
「トレーナーさん、貴方なら本当は気がついているのでしょう? 今ダイヤさんに必要なもの」
「……ああ、分かってる。あの子には目標が無いんだ。これまで何かを目指して走っていたのに、今は走る意味を失ってる。だから今のダイヤは全く楽しそうに見えない」
出口の見えない暗いトンネルにでも放り出されていると言うべきか。今のダイヤはそんな状態だ。
誰しも一定の到達点を目標として何かに取り組んでいる。ゴールの見えないお先真っ暗な状態ではモチベーションも下がるというもの。一部例外を除いて。
「担当のウマ娘に夢や目標を焚きつけるのもトレーナーとしての仕事だってのは分かってる。でも、もしかしたらそれで走るのが嫌いになるんじゃないかと思うと怖くてさ。僕は君達に伸び伸びと楽しく走って欲しい。だから君達の意思は最大限尊重する」
「……貴方は些か優しすぎます」
「そうかな、保身に走ってるって言われても文句言えないと思ったんだけど」
「貴方の担当である私の言葉が信じられないと?」
「じゃあそういうことにしておこうか」
新手の脅しだ。このタイプは初めて聞く。
「指導を受ける立場である私が言うのもなんですが、教育者たる者、確固たる厳格さも持ち合わせなければならないと思いますわ」
「……僕ってそんなに気が抜けてるように見える?」
「ええ、それはとても」
泣いていいかな? いいよね、泣きます。
「ですけど、大事な所で一番欲しい言葉を言ってくださるのもまたトレーナーさんです。私にとって、貴方は元から素敵なお方。テイオーと競った有マ記念、過程はどうあれ私に最後のひと押しをくださったのは他でもない、私達のトレーナーさんなのですから」
「マックイーン……うぐっ!?」
それなりにいい雰囲気だと思われる中、ぶち壊すかの如くかなりの勢いでマックイーンは僕の背中を叩く。恨めしげに彼女を見ると、フフンと満足そうな顔をしている。くそっ、可愛いかよ。怒る気にもなれない。
「なのでもっと背筋を伸ばしてくださいまし。トレーナーさんがそれじゃあ、ダイヤさんだって沈んだままですわよ」
「……そうだね」
ベンチから立ち上がり思い切り背伸びをする。腰にまとわりついていた鉛のような何かが落ちたような気がする。
「なんかさ、焦ってた。トレーナーなんだから僕がしっかりしなきゃって。そんなの、一緒に頑張るってことじゃないよな」
「焦って周りが見えなくなるのは貴方の悪い癖ですわね」
「それ、だいぶ前に他の人からも言われたよ」
「む……その方より私の方がトレーナーさんを理解してると思いますけど。むしろ、この世界において私よりトレーナーさんを理解している方はいないと自負していますわ」
「はいはい、そこまで慕ってもらえて教育者冥利に尽きるよ」
「ちょ、やめ……子供扱いしないでくださいまし!」
犬を相手にするかのようにマックイーンの髪をわしゃわしゃと撫でる。後々髪のセットが乱れた云々言われるだろうけど、授業をサボってる不良ウマ娘にはそんなことを言う資格は無い。
先程、ダイヤは出口の見えない暗いトンネルに放り出された状態と言ったな。そこから自力で抜け出すというのはほぼ不可能だ。時間が解決してくれるという手段もあるにはあるが、できることなら抜け出すのが早いのに越したことはない。
先が見えず、ただ走ることしかできない彼女に対し、どうしたら早くそこから抜け出させてあげられるのか。明かりを灯してあげたらいいのか、それとも非常口まで導いてあげたらいいのか。
違うな、間違っている。少なくとも僕の答えはそんな生優しいものではない。
「……よし、今から準備を始めるから決行は一週間後にするか。何かと忙しくなるから今日は自主練だ。君達のトレーニングを満足に見れそうにない。できれば坂路トレーニングを重点的にやってもらいたくて……」
「ちょ、ちょっと待ってください! 矢継ぎ早に一体何を仰っているのですか!?」
おっといけない、つい気持ちが先走ってしまっていた。一旦落ち着きを取り戻し、改めてマックイーンに向き直る。
「君はかつて僕に『ダイヤが迷って袋小路になってしまったら、どんな手を使ってでも助け出しなさい』と言ったね」
「……? え、ええ、たしかにそう言いましたけど……。でもトレーナーさん、くれぐれもあの時のようにトレーナーをやめるというのは……」
「ああ、同じことはしないよ。もう君に殴られるのは勘弁だからね。でもその代わり、協力してほしいことがあるんだ」
情けない話だが、この状況をどうにかするにはきっと僕の力だけじゃ及ばない。だからこそ周りを頼る、悪い言い方をすれば、使えるものはなんでも使う。
誰かさん達のせいでチーム以外での集団行動が禁止になって以来、あまり連絡を取っていなかった名前を電話帳から探し出して一つ連絡を入れる。
自分だって無策なわけではない。しかし、今思い浮かんだ手段はあまり褒められたものではないことは自覚している。トレーナーとしては失格な上に、下手したらダイヤを深く傷つけてしまうかもしれない。
でも、それは承知している。そうしてでもダイヤには前を向いて欲しい。だったら大事にならない程度にはどんなことでもやってみせようじゃないか。
そのためにもマックイーン、君には一番重要な役目である──
「後始末、任せたよ」
「…………はい?」