お日様の気持ち良い午後の授業、私は教科書を広げてぼーっとしていた。
どうして走ってるんだろう。
初めてそんなことが頭をよぎってしまったのは、凱旋門賞から半年後の復帰レースである金鯱賞の最中だった。今までそんなこと考えたこともなかったのに、一度考え出したらそれはまるで呪いのように足を鈍らせた。
勝ちたいという気持ちの篝火はいつだって絶えたことはない。スタミナは残っている、疲労もそれほどではない。なのに足が前に進ませるのを阻止しようとする。答えを出せないまま、金鯱賞、そして大阪杯と二連敗を喫した。
思えばせっかく皆が期待してくれて送り出してくれた凱旋門賞だって完敗だ。それもただの敗北ではなく、トレーナーさんに大きな迷惑をかけた上でのもの。あと少しトレーナーさんの電話が鳴るのが遅ければ、自分は彼の職を失わせていたかもしれない。
そう考えたら申し訳ないどころの騒ぎではなかった。逃げるように実家に帰り、気持ちを落ち着かせようとした。それでも心は晴れることはなく、時間が経てば経つほど後悔は膨れ上がる。
そんな気持ちを抱え込んでいた時、キタちゃんのトゥインクル・シリーズ引退の話を聞いた。今後はドリームトロフィーリーグを走るらしい。
キタちゃんがそう決めたのだ、私がどうこう言う権利は何一つない。そんなことは分かっているけど、やっぱり悔しかった。彼女は私の目標で、一番勝ちたい相手で、そして最高の親友なのだから。
もうトゥインクル・シリーズでキタちゃんと走ることは叶わない。そう考えたら言葉にできないほどの無力感に襲われてしまった。
私は結局何がしたいんだろう。このまま無様に走り続けるのだろうか。誰の期待にも応えることができず、独りよがりでみっともない負けを重ねるのだろうか。
「……ん」
悩んでいる最中、ポケットに入れていたスマホが震える。授業中という背徳感はありつつも誰からの連絡か気になり確認すると、それはトレーナーさんからのものだった。
『話したいことがある。放課後トレーナー室に来てくれ』
元々彼からの連絡は淡白なものなので冷たくされているようには感じない。一時期絵文字や顔文字を使っていたらしいが、解釈違いとのことでマックイーンさんから猛批判をくらったらしい。
今私が潰れていないのはトレーナーさんのおかげだ。あんなわがままを、あんな迷惑をかけておきながら彼は私の味方でいると言ってくれた。頼ってしまう、寄りかかってしまう。いつしか自分は彼のために走るようになっていた。このぬるま湯にズブズブと浸かっていき……
「ではこの問題を……サトノさん、お願いできる?」
「……春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の──」
「……あの、サトノさん? 今は古文じゃなくて数学の授業なんですけど……」
トレーナーさんの隣にいたい、見捨てられたくない。でも、彼の足枷にはなりたくない。
……何してるのかな、私。
「サ、サトノさん、いつまで枕草子読んでるの? 先生困っちゃうなーなんて……」
***
気がつけば放課後、重い足取りの中トレーナーさんの連絡通りトレーナー室の前へとやってきた。
この季節だと次のレースについての話だろうか。一応次に目標と定めているレースは宝塚記念だったはずだ。それまでにまだ二ヶ月弱の時間があるため焦りすぎる必要はない。
だとしたら別の要件かな。例えどんな話であろうとなかろうと、私が彼の重荷になっているのは変わらない事実。トレーナーさんは私だけのトレーナーじゃない、マックイーンさんのトレーナーでもあるんだ。私なんかがお二人の邪魔をしていいはずがない。
覚悟を決め、ドアをノックしてから部屋へと入る。呼び出した件の人物は相変わらずキーボードを打ち込んでおり、目の下には離れた場所からでも分かるほどの隈がくっきりと浮かび上がっていた。全く、この人は……
「ああ、ダイヤ、待ってたよ」
「待ってたよじゃありませんよ。きちんと寝ていますか? 何かお話があるようですけど、トレーナーさんは一旦休んでまた後日に……」
「いや大丈夫、こういうの慣れてるから問題無い。トレセン学園のスタッフ募集項にアットホームで明るい職場って書いてる張り紙見たことあるだろ? あれ夜中も電気付いてて家には帰らせねぇぞって意味だから」
さらっとこの学園の闇の部分を暴露するトレーナーさん。それ全然大丈夫じゃないと思うんですけど……
「は、はぁ……でも、私達からしたら凄く気分が悪そうに見えるのできちんと休んでくださいね?」
「ういうい。と言ってもとある事情でここ数日が忙しかっただけだから本当にもう問題無いよ。……それに、明日じゃもう遅いしな」
「? どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
ああ、やっぱり彼と話していると心が落ち着く。今までの自分の不甲斐無さも、悔しさも、無力さも、全てを忘れさせてくれる。
そう感じていると、トレーナーさんは一つ手を叩いた。
「さて、こういった状況で御託を並べるのはあんまり得意じゃなくてね。ここでダラダラするのもあれだし早速本題に入ろうか」
緩く感じる雰囲気の中、トレーナーさんは裏返しにされた一枚の紙を私に差し出す。なんだろうと思い捲ると、それは思いもよらないものだった。
「ト……トレーナーさん……これは……?」
「見ての通りさ。そこに書いてあることが全てだ」
「でも……これ……」
その書類には、『トレーナー契約解除』との文言が書かれてある。見間違いではないかと目を擦るが、その文字列が変わることはない。
「契約解除って……。そ、そんな……何かの冗談じゃ……」
「残念ながら嘘でも冗談でもない。現状維持が続くのならば、今日限りで君と僕の関係は終了だ」
急すぎる展開に未だ脳が受け入れていない。先程まではトレーナーさんの足枷になりたくないと言っていたのに、いざそう言った状況になると頭が回らなくなる。
「ど、どうして……! 私に何か不備がありましたか!?」
咄嗟にそんな言葉が出てくるほど今の私にとってトレーナーさんはなくてはならない存在となっている。嫌だと脳が拒絶反応を起こすほどに。
対してトレーナーさんは黙ったままだ。その確固たる姿勢に、彼の冗談じゃない発言が本当だということを認識させられる。
「……トレーナーさんは私のことが嫌いなんですか?」
「……少なくとも、今の君の走りは見ていて気持ち良いもんじゃない。凱旋門賞が終わってからというもの、君からはなんの思いも信念も感じられないからね。そんなウマ娘にターフに立つ資格なんてあっていいはずがないよ」
「っ……」
厳しい言葉、しかし的確かつ正論。普段優しいトレーナーさんの口から放たれた言葉なだけに、私への精神的なダメージは自分の思っている以上のものだ。
「で、でも……トレーナーさん言ってくれたじゃないですか……『一生面倒見る』って……!」
自分の声が震えているのが分かる。皐月賞の前日、トレーナーさんは私にそう言ってくれた。本当に嬉しかったのだ。どんな辛い時でも彼が隣にいるということは心強かった。あの言葉は今でも忘れられない。
それなのにトレーナーさんは──
「あれはあの時の君の想いの強さに惹かれたからだ。何も持っていない今の君はその時とはまるで別人。そもそも、あんな言葉その場のノリと勢いで言っただけさ。ああ、もしかして本気にしてたのかい?」
冷徹に真顔でそう私に告げる。
私は何か悪い夢でも見ているのか。あんなに信用して信頼していたトレーナーさんの理想像が音を立てて崩れていくのが分かる。
それでも反論はできなかった。トレーナーさんがこの一年、私がまた勝てるようにあの手この手を尽くしていたことを知っている。それを裏切るような真似をし続けたのは他でも無い私だ。
「残念だよ、サトノダイヤモンド。君には期待していた。きさらぎ賞の後に自分の想いを告げた君も、菊花賞、そして有マ記念と本気で走りに熱中していた君も、今はどこにもいない。このまま本当に"終わっていく"ウマ娘とこれ以上関わりを保つつもりはない」
「い……嫌です……。だって……だって私まだ……」
「……相変わらず諦めが悪いな。この際だからはっきりと言おうか」
椅子から立ったトレーナーさんは冷たい視線で私を見下ろす。こんな彼知らない。私の知っているトレーナーさんじゃない。
「君は僕やマックイーンに依存している。現状維持で構わない、このままなあなあと走り続けても許される」
「あ……」
「それを僕は許さない。君が答えを見つけない限り、その先に未来はない」
核心を突いていた。そうだ、私をお二人にずっと甘えっぱなしだったのだ。頼るの範疇を超えたそれは、いつしか私に勝利をもたらさなくなっていた。
足に力が入らない。私はその場にへたり込む。対照的に話は終わりだと言わんばかりのトレーナーさんは立ち上がる。
「……自分が誰のために走っているのか、今一度よく考えるんだな」
その一瞬、彼の表情が物凄く苦悶を感じているように見えた。だがそれを気にする間も無く、トレーナーさんは膝から崩れ落ちた私の横を素通りしトレーナー室を出て行く。
これが運命と言われたらそれまで。こうなったのも全て自分の行動が招いた故の結果。心のどこかでトレーナーさんなら大丈夫、許してくれると思っていた。そこを彼はきっちりと見抜いていた。
これからどうしたらいいのか分からず、改めて契約解除の書類に目を通す。これに名前を書いたら本当に終わりだ。入学してすぐに契約を結んだことも、夏合宿で遊んだことも、レースに勝って撫でてもらったことも、それら全てが二度と戻ってこない思い出の中で封じ込められてしまう。全ては過去として、思い出しても辛いだけのものとなってしまう。
本当にこんなところで終わってしまうのか? 応援してくれるファンの期待も、ライバルとの死闘も、そして己の敬愛するトレーナーすらも失って終わってしまうのか?
現実を受け入れられず放心していると、後ろの扉が開く音がした。トレーナーさんが戻ってきてくれたと淡い期待を抱くも、入室してきたのは彼ではない。
「これはまた、随分と情けない顔をしていますわね」
「マックイーンさん……」
困ったような顔で苦笑いを浮かべるマックイーンさんは、静かに私に手を差し伸べた。