走るのが好きだ。
一時期自分を見失ったこともあったけど、これはトレセン学園に入学する前から一貫して変わらない、私の本心。
風を切り、髪が靡くのを感じながら広い緑の芝生を駆け抜ける。なんと気持ちの良いことか。
もしそこに、他の誰かがいたら? 私にとっての大きな壁が、私と競ってくれるライバルが。
私を、更なる高みへ連れて行ってくれる大好きな人が、いてくれたのなら。
それはきっと、特別でもなんでもない日常なのだろう。
それでいい、それがいい。
そんな日常は、久しく経験していないのだから。
「ハッ……ハッ……!」
「サトイモちゃーん! そのままラスト一周!」
「ッ、はいっ!」
一色さんの声に応え、私ことサトノダイヤモンドは顔を上げる。
脚部に更なる負荷をかけ、大地を踏み締めて駆け出したラストラップは、今日一番の走りだと自負してしまうほどのもの。
そのままストップウォッチを持つ一色さんをゴールの目印にして、一気に彼女の前を通り過ぎる。
「……うん、いいタイムだね。サトイモちゃん、この前よりさらに速くなってるよ」
「はぁ、はぁ、あ、ありがとうございます……!」
息絶え絶えに返事をして芝生の上に横になる。その際香ってくる草の匂いと強い日光のコントラストに、嫌でも季節を感じさせられてしまう。
「はぁ、サトイモちゃんは真面目でいい子だね〜。どこかの誰かさんも、君みたいに素直なら苦労はしないんだけど」
「あはは……。でも、スカイさんも最近は真面目にトレーニングしてるじゃないですか」
「……ま、そうね。だいぶ前っつても、URAファイナルズについては、わたしもあの子も悔しい結果に終わったし……っと、そろそろ時間じゃない?」
一色さんのその一言につられて時計を見ると、もう学園を出なければならない時間だった。どうやら、今日は一層トレーニングに力が入ってしまっていたみたい。
「すみません、一色さん。私急がなきゃ──」
「おっと、待った待った。いくら急いでたとしても、トレーニング後のクールダウンを欠かしちゃいけないぜ? あの人だって、きっとそう言うだろうしね」
「っ……はい、そうですね」
ゆっくりとランニングを行い、全身の筋肉をほぐして上がった体温や心拍数を元に戻す。
本当ならそれすらもほったらかしてしまいたかったのだが、あのような言い方は少しずるいと思う。
クールダウンを終えて一色さんと別れた後、バスに数分揺られて目的地である病院へと到着した。
そして、相変わらず静かに眠り続けている彼の部屋へと足を踏み入れる。
トレーナーさんが事故に遭ってから、半年以上が経った。短いようで、とても長い。そんな時間の長さ。
私の生活はこの半年で激変した。彼が眠りについてから何があったのかを話しておこう。
まず、私達がURAファイナルズを棄権したことはご存知だろう。このレースの長距離部門は、生徒会長であるシンボリルドルフ会長が栄冠を手にした。
キタちゃんやスカイさんも決勝まで勝ち上がったのだが、結果は惜しくもと言ったところだったらしい。
だが、正直ルドルフ会長の走りは圧巻だった。流石は無敗の三冠ウマ娘、テイオーさんがあそこまで憧れるのもよく分かる。
次に、私のトレーナーが変更されたこと。といっても、これは仮に過ぎない。トレーナーさんが起きるまでの話だ。
これでどこの誰かも分からない人の担当になるなら渋ったかもしれないが、引き取られ先は一色さんだったので安心してお願いした。
なんなら、その申し出をしてきたのは彼女だ。なんでも、「せんぱいが起きるまではわたしが場を繋いであげるからねっ!」とのこと。
きっと私達を気遣ってのことだろう、彼女には頭が上がらない。トレーナーさんは渡さないけど。
ちなみに、マックイーンさんはその申し出を断りメジロ家に戻った。曰く、身体や精神面といったあらゆる方面で学園にいるより全然良いらしい。
彼女とコンタクトを取る手段は、こうしてトレーナーさんのお見舞いや、日々の電話など色々ある。でも、毎日一緒に走っていたあの日々と比べるとやはり味気ない。
そして最後に、今回の事故に関する諸々の細かな内容。例えば、事故を起こした本人への賠償などだ。
私はトレーナーさんの家族になる予定の人間とはいえ、今はまだそうではないので、本来ならば詳しい話は彼のご両親にしか分からない。
しかし、賠償の件に関して、今回はその限りではなかった。なぜなら、事故を起こした当人である加害者はもうこの世に存在しないから、すなわち、請求する相手がいないのだ。
民事上、基本的には加害者の家族にはそれが不可能らしい。損害賠償は、不法行為を行なった本人に発生する責任なため、事故を起こしていない家族には無関係なようだ。
だとしても、何のリアクションもないまま済ますにはあまりにも非常識というのはわかっていたのだろう。後日、その加害者家族が謝罪に来たのは昨日のことのように覚えている。
彼らには何の罪も無い。そんなことは分かっていた。彼ら自身も大切な人を失っているのだ。
だから、私は怒りを露わにはしなかった。だったら、この気持ちはどこへぶつければいいのか。
事故の後、私だって何もしなかったわけじゃない。サトノグループの全勢力をあげて名医を招集し、彼の治療に取り掛からせた。
それでも結果はお察しだ。相変わらずトレーナーさんに変化は無く、意識は戻らない。
この色々あったようで何も無かった半年間、行き場を失った感情をどうすることもできず、毎日のようにトレーナーさんの下へと足を運んでいた。
今日は目を覚ますのではないか、今日こそは楽しくお話ししてくれるのではないか。
そんな希望は、ことごとく叶わなかったというのに。
「ッ……!」
悔しさのあまり、握り拳に力が入ってしまう。どうしてトレーナーさんがこんな目に遭わなくてはならないのだろう。
一生面倒を見てくれると、そう約束したではないか。私はまだまだ走りたいレースがある。破りたいジンクスがりある。倒したい相手がいる。それは、あなたと一緒でないと意味がない。
なのにどうして……どうして起きてくれないんですか……
「あら、先にいらしていたんですのね、ダイヤさん」
「っ!? マ、マックイーンさん!? いつからそこに!?」
「ちょうど今到着したところですのよ、少し寄り道をしていたもので。それにしても、随分と上の空の様子でしたけど、学園で何かありまして?」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「そうですの? でも、何かありましたら是非相談してくださいまし。さてと、今日はこれをトレーナーさんに……」
そう言って突如現れたマックイーンさんは、小さな袋の中からとある小物を取り出した。これは……
「わぁ、綺麗な"ハーバリウム"ですね……!」
「気に入っていただけて何よりですわ。スカイさん経由でフラワーさんに教えてもらったんです。トレーナーさんにもそう言っていただけるかは分かりませんが……」
「きっと気に入って貰えますよ。なんせ、マックイーンさんからのお見舞い品なんですから」
昨今、お見舞いの品として生花は御法度だ。そのため、こういった粋な計らいをするマックイーンさんは流石としか言いようがない。
私がフォローを入れると、マックイーンさんはニコリと笑ってトレーナーさんに視線を移す。
「……早く目を覚ますといいですわね」
「そう、ですね……」
マックイーンさんは慈愛の籠った瞳でトレーナーさんを見つめる。悔しいが、彼女は私よりもトレーナーさんとの付き合いが長い。
故に、言葉が不要なほどの信頼関係が垣間見えるのが妬ましくもあり羨ましくもある。
でも、今はそれがどこか不自然に感じてしまう。なんだか、マックイーンさんがマックイーンさんでないような、そんな気がして。
「ふふっ、トレーナーさん。私達、よく電話でお話しするんですの。でも、誰かさんは夜遅くまで連絡してくるのですのよ? 全くダイヤさんは悪い子なんですから」
「なっ!? マックイーンさんだって人のこと言えないじゃないですか!」
私達はこうして、精神を安定させるためにもトレーナーさんに何があったのかを報告する。
もしかしたら起きないだけで意識はあるのではという期待も込めて、あの楽しかった日々の幸福を風化させないためにも。
「…………ん」
そんな想いが届いたのか、眠っていたはずのトレーナーさんの瞼がゆっくりと開き……えっ、
「……ト、トレーナーさん……? 起き……えっ、あっ……マ、ママ、マックイーンさん、トレーナーさん、起きて……」
「……! ッ!?」
見間違いではない。この半年間一切音沙汰がなかったトレーナーさんがようやく目を覚ました。
嬉しいより先に困惑の念が先に来てしまい、この突然の状況に頭がついていけなくなった。
「……?」
目を覚ましたトレーナーさんは身体を起こそうとするが、その身体の不自由さに目を丸くする。それはそうだ、半年も寝ていたのだから、例え身体が頑丈でも無理はない。
事態を飲み込み、それと同時に言葉にできないほどの情動が込み上げてきた。
もう我慢できない。視界がぼやけつつも、彼の元まで歩き手を握り、そのまま嬉し涙で泣き崩れてしまう。
彼が起きた時は笑顔を見せようって決めてたのに。
「……っ、ほんとに……よかっ、た……!」
「……トレーナーさん、おはようございます。貴方が目覚めるのを、私達ずっと待っていましたのよ?」
そんな私とは対照的に、マックイーンさんは安堵の表情はしているものの、思ったよりも冷静だ。あの時も、トレーナーさんが意識不明の重体だという事実を突きつけられた時と同じくらい、今の彼女は凛としている。
これでようやくいつもの日常が帰ってくる。話したいことがたくさんある。無事で良かったと、抱きしめられる。
「あ……」
そうして、トレーナーさんの口からはようやく言葉が発せられ──
「お前達は……一体誰なんだ?」
きょとんとしたトレーナーさんの顔を前にして、私達は事態が解決していないことを悟った。