名家のウマ娘   作:くうきよめない

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人間万事塞翁がウマ娘

 

 

 

 もしかしたら、目覚めたトレーナーさんは記憶を失っているかもしれない。

 

 考えないわけではなかった。むしろ、その可能性の方が高い、脳に何かしらの障害をきたしているかもしれないと、お医者様に言われたまであったのだ。

 

 でも、その時の私にとってはそんなことどうでも良かったのかもしれない。

 脳に傷を負ったあげく半年以上も昏睡状態だったことを考えると、意識が回復しただけでも奇跡的とも言えるだろう。

 

 例え彼が私のことを忘れたとしても、今までも思い出がなくなるわけじゃ無い。

 どんなことがあろうとも、私は彼の教え子。

 

「……ゃん……」

 

 それに、彼のことが好きだという気持ちはこんなことでは揺らがない。

 

「……イヤちゃん」

 

 

 そう、絶対に揺らがな──

 

 

「ダイヤちゃん!」

 

「うわあっ!? キ、キタちゃん……? もう、どうしたの、そんな大きい声出して」

 

「さっきから何回も呼んでるよ! もうホームルームとっくに終わってるんだよ? さっきの授業だって全然集中してなかったでしょ?」

 

「それはキタちゃんもそうだと思うんだけど……。いつも窓の外見てるし」

 

「それはそれ、これはこれ。最近はあたしよりダイヤちゃんの方がボーッとしてるからその反論は受け付けませんっ!」

 

「ええ……」

 

 えっへんと胸を張り、なぜか偉そうな態度を取るキタちゃん。

 

 だが、確かに彼女の言う通りかもしれない。

 少し前に、誰かにもよく上の空になっていると言われた。あの時とは状況が違うが、心労の話をすれば同等、もしくはそれ以上と言ってもいい。

 

「……やっぱりトレーナーさんのこと気にしてる?」

 

「ちょっと、少し、だいぶ、かなり……」

 

「うん、すごく気にしてることは伝わったよ。よし! 困ってる人は見過ごせない! このお助けキタちゃんに任せなさいな!」

 

 キタちゃんは張った胸をドンと叩き、とある一枚の用紙を私の前に突き出した。

 

「これって……」

 

「ダイヤちゃん、ここのところずっと苦しそうな顔ばっかりしてるからさ。少しは肩の力抜かなきゃ、疲れちゃうでしょ?」

 

「……でも、私……」

 

「ずっと迷ってるばっかじゃ何も起きないよ。迷ってるなら、まずは動いてみる!!」

 

 まずは動いてみる、か。今の私には耳が痛い言葉だ。

 記憶を失ったトレーナーさんを前に、どう接すればいいか分からない。いや、現状はそれ以前の問題だ。何もしてなくても彼との溝は深まるばかり。

 今はただ、トレーナーさんの記憶が戻ることを願うだけの受け身の姿勢を取っているのは間違いない。

 

「あはは、大見得張っちゃった手前こんなこと言うのもあれだけど、あたしは大したことできない。でも、ダイヤちゃんが辛い時はずっとそばにいるからね!」

 

「……うん、ありがと、キタちゃん」

 

 私はいい親友を持った。自分が辛い時、ここまで信頼できる相手がいるというのはなんと心の支えになることか。

 

 そのまま教室でキタちゃんと別れ、彼女から渡された一枚の用紙を片手にトレーナー室へと足を運ぶ。

 

 

 トレーナーさんが目を覚ましてから約一ヶ月。彼は驚異的なスピードで身体能力を回復させ、はや一週間という期間でリハビリを終えた。

 もちろん即退院というわけにもいかず何日かは入院する必要があったが、後にそれも必要がなかったと診断されてしまったらしい。

 彼の免疫力は一体どうなっているのだろうか。ここまで来ると本当に人間かどうか疑わしくなってくる。

 

 冗談みたいで本当の話はさておき、本題はここからだ。

 退院直後のトレーナーさんは、記憶の欠損という面を除いたら日常生活を送る分には特に問題は無かった。責任能力は十分にあると判断され、これと言って行動が制限されることはない。

 

 そしてなんということか、トレーナーさんはそのままトレセン学園に復職した。

 

 もちろん彼には帰ってきて欲しい、また彼の下で指導を受けたい。でも、記憶の無い状態でそれをするのは無謀ではないか、と。

 

 しかしそう思ったのは私だけで、他の方はそうじゃなかった。一色さんをはじめ、理事長さん、たづなさんと、ものは試しと言わんばかりに彼が復職することに賛同していた。

 なぜここまでと思ったが、そういえば彼は学生時代、素人の状態で一色さんのトレーナーを務めていたんだっけ。そんな話を聞いたのを思い出し、私はなんとか首を縦に振ることができた。

 

 トレーナーさんが戻ってきてから一週間、初日は少し慣れていなかった様子だが、それ以降は一色さんや東条さんの指導を受け、トレーニング面に関しては私が口出しできるところなど無いところまで成長してしまった。

 

 本当にこれで良かったのだろうか。何度もそう考えたが、これは彼自身が望んだとのこと。私がどうこう言う権利はない。

 

 それでも、一つだけ気になることがある。記憶を失った彼にとって、トレーナーという職業については大して思い入れはないはず。

 

 

 なのに、どうしてトレーナーさんはトレセン学園に戻ってきてくれたのだろう……? 

 

 

「……よし」

 

 トレーナー室前まで辿り着き一つ気合を入れてドアに手をかけ静かに開く。

 

「こんにちは、トレーナーさん」

 

「ん、ああ、サトノダイヤモンドか、こんにちは。そこのテーブルに今日のトレーニングメニューを印刷したプリントが置いてある。目を通した後、20分後を目処に取り掛かってくれ」

 

「……はい」

 

 いつもの部屋、いつもの人。でも、そこにはいつもの日常は無い。

 目の前にいるのは間違いなくトレーナーさんなのだ。そう、言うなれば99%は事故前のトレーナーさん。99%しか、トレーナーさんと一致しない。

 人間、1%も違えばそれはほぼ別人だというのに。

 

「……あの、今日もトレーナーさんはトレーニングを見てくださらないんですか?」

 

「すまない。俺……僕も他のトレーナーのように君達に付きっきりでいたいんだが、何分覚えることが多くてな。……不満があるなら、今すぐにでもお……僕をトレーナーから降ろしてもらって構わない」

 

「い、いえ、出過ぎたことを……。忘れてください、トレーナーさんも大変だというのに。それと、『俺』で構いませんよ?」

 

「……本当にすまない」

 

 誰かから聞かされたのか、なるべく記憶喪失前のトレーナーさんを再現しようとし、取り繕うように一人称を変える。それだけで私を気遣ってくれていると分かり、キュッと心が苦しくなってしまう。

 

「……ッ」

 

 私はキタちゃんから渡された用紙をくしゃりと丸めてゴミ箱に捨てる。

 ごめん、キタちゃん。どうも私は今のトレーナーさんを誘う勇気は無いみたい。

 

 一人諦観していると、彼の机の上にいつか見た小さな置物があった。あれは……

 

「……あっ、そのハーバリウム……」

 

「これか? 俺が入院していた時の見舞い品らしくて、病院から持ってきたんだ。もしかして君からのだったりするのか?」

 

「いえ、それは私じゃなくて……」

 

「そうか。なんにせよ、凄く綺麗だから気に入ってしまってな。お礼を言いたいんだが、誰からのものなのか……」

 

 そう言って顎に手を当てて考えるすがたを取るトレーナーさんに、どこか昔の面影を感じてしまう。

 

「ああそうだ、サトノダイヤモンド。明日の予定は空いているか?」

 

「え? は、はい、トレーニング以外は特に……」

 

「なら、少し頼みがあるんだが……」

 

 

 

 トレーナーさんは澄んだ瞳で私を見て……

 

 

 

「俺と付き合ってくれないか?」

 

「……………………へ!?」

 

 

 

 ***

 

 

 

「ふむ、蹄鉄はこのサイズ……粉末スポーツドリンクは一度にこれくらいを目処に購入……。あ、サトノダイヤモンド、君の足のサイズってどのくらいだ?」

 

「ええと、左右共に21だったと……」

 

「了解、21ね。いやなに、助かるよ。一色さんも東条さんも手が空いてなさそうだったから、後少しで俺一人で買い出しに行くところだった」

 

 うん、知ってた。多分こんなことだろうとは……いや、少しだけ期待しました。すみません。

 

 トレーニングを早めに切り上げた私達がいるのは、トレセン学園から少し距離が離れているスポーツショップ。

 距離があると言っても歩いていけるほどの距離であり、記憶が無い今、流石に車の運転は危険だということで徒歩でやってきた。

 それに、トレーナーさん自身があまり車で行くことにいい顔をしなかったのもある。

 

 荷物を台車に乗せ、私達は車通りの少ない来た道を戻り学園へと向かう……何の甘酸っぱい展開も無く、このまま……

 

「……? どうした、急に立ち止まって。お腹でも痛いのか?」

 

「……トレーナーさんは乙女心というものを学ぶべきだと思います」

 

「えっ……あ、ああ、善処する。トレーナーの仕事と並行して学んでおくとしよう」

 

「……ふふっ、冗談ですよ。そんな顔してないでください、本気で言ってるわけではないので。元々のトレーナーさんも、こういうことに関しては終わってる部類ではありましたし」

 

「終わってるて」

 

 もし記憶喪失前のトレーナーさんが乙女心が無いと言われたら、「いや、僕は最強の恋愛マスターだぜ? なんせフラれたことがないからな!」とでも言うのだろうか。どうせ告白したことなんてないくせに。

 

 そんな自信満々な脳内のトレーナーさんとは違い、目の前の彼はどこか心中複雑そうだ。まずいことでも言っただろうか。

 

「あの、トレーナーさん。もしお気を悪くしてしまったのなら……」

 

「いや、そんなことはない。ただ、少し考え事をな」

 

「考え事、ですか?」

 

「君から見て、記憶を失う前の俺はどんな奴だったのかなって」

 

「それは……」

 

 非常に答えにくい問いだ。いや、答えること自体は簡単なのだが……

 

「ああ、無理に答える必要はない。大方は知っている。なんでも、以前の俺はかなり性根が曲がっていたそうじゃないか。一色さんから散々聞かされたよ」

 

「一色さんが?」

 

「ああ。すけこましだの厨二病だのイキリオタクだの散々罵倒されたよ。それで、その後自分は婚約者ですだの言われたんだが、それはすぐに嘘と分かった」

 

 何をやっているんだあの人は。トレーナーさんに余計なことを教え込まないで欲しい。

 

 私はトレーナーさんより一歩前に出て、

 

「そうですね……確かにトレーナーさんの性格は普通と比べてひん曲がっていたと思います。さっきも言いましたが、恋愛面に関しては終わっていますし、くだらないことで喧嘩して、時には人としてどうなのかと思うことも多々あるほどでした」

 

「いや、そこまで言われてないんですけど……」

 

「でも──」

 

 一つターンをして振り返り、もう一度並ぶようにトレーナーさんの隣を歩く。

 

「どんなことがあっても隣で信じてくれる、どこまでも一緒に行けるって、そう信じさせてくれる、私にとっての最高のパートナーです」

 

「そっ、か。そうか、うん、分かった。どうやら俺は君と随分良好な関係を築けていたらしい」

 

「はい、随分どころかとっても。あ、それと、一色さんの言うことを全部鵜呑みにしてはいけませんからね?」

 

「ああ、分かっている。彼女もユーモア混じりに話してくれたんだろう。多少悪く言われるのも承知の上だ」

 

「正しくは、一色さんの婚約者ではなく私の婚約者です」

 

「ああ、分かっ……なんて?」

 

 嘘は言ってない。それに似た言質は取っているのだから。

 

 揶揄うように笑うと、トレーナーさんは困ったように頬を掻く。記憶を失ってからというもの、彼のこういった子供っぽいところを見るのは初めてな気がする。

 

「でも、やっぱり妙な気分だな。自分のことなのに、全くの他人の気がしてならない。まあ、そもそも記憶自体が無いんだが」

 

「少しずつ戻していきましょう。今は私もいるんですから。無理せず、一緒に、ゆっくり」

 

「……もし戻らなかったとしたら見捨てるか?」

 

「神に……いえ、貴方に誓ってそんなことはしません。なんなら私と結婚してもらいます」

 

「おっと、これは予想外……。てかなに、会話の内容飛んだ?」

 

 別に飛んでませんが。記憶が戻ったとしても戻らなかったとしても、どのみち将来結婚することには変わりない。このことは伏せておくけど。

 

「……まあ、もしかしたら突飛なことで記憶が戻るかもしれないし、それまでは君のトレーナーとして尽力するとしよう」

 

「そこから先は?」

 

「それは、君が一番よく知っているだろう?」

 

「ふふっ、これからも末長くよろしくお願いしますね? トレーナーを続けるのが嫌になったとかは無しですよ?」

 

「分かってるよ」

 

 なんだ、きちんと面と向かって話をすれば、やっぱりトレーナーさんはトレーナーさんだ。あの頃となんなら変わりはない、強いて言うなら呼ばれ方くらいだろうか。

 でも、そんなことは些細なことに過ぎない。私にとって、この時間は紛れもなく幸福な時と言っても差し支えなかった。

 

 決して短くはない学園までの距離、私達の間にはそれ以上の会話という会話は無かったが、なんだか少し距離が縮まった気がした。

 きっと私も彼も歩み寄る勇気が無かっただけなのだ。こうしてきっかけさえ作ってしまえば、なんてことはない。

 

「それじゃあ、もう寮近くだからここまでだな。今日は本当に助かったよ」

 

「いえ、このくらい担当ウマ娘として当然です。またいつでも頼ってくださいね?」

 

「そう言われたらトレーナーとして立つ瀬がないが……今の俺は格好つけている場合じゃあないしな。そうさせてもらおう」

 

 ……うん、今ならきっと大丈夫。昨日は出来なかったが、今日は誘える気がする。

 

『ずっと迷ってるばっかじゃ何も起きないよ。迷ってるなら、まずは動いてみる!!』

 

 キタちゃんの言葉を思い出し、無理矢理にでも勇気を出す。

 

 URAファイナルズは優勝どころか参加すら出来なかったけど、もう一つのことなら叶えられる。

 

 

 去年、花火を見たあの場所で、トレーナーさんに思いを打ち明け────あ。

 

 

「……サトノダイヤモンド?」

 

「…………いえ、なんでもありません。それでは失礼します、トレーナーさん。明日もご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますね?」

 

「あ、ああ」

 

 手を振って別れの言葉を告げ、トレーナーさんは夜の学園へと戻っていった。

 これからまだお仕事をするのだろうか。私はこれでも家の事業に関わっており、事務仕事などは得意だ。家のことも大切だが、将来は彼の隣で共に仕事をするのも悪くない、むしろそうしたい。

 

「さて……」

 

 トレーナーさんが完全に見えなくなり、周りには私一人だけ。

 

 

 否、姿も気配も隠したつもりの人物がここにもう一人。

 

 

 

 

「いるのでしょう、マックイーンさん」

 

 

 

 

 もし他人が側から私のことを見たら、虚空に話しかける危ない人に見えるだろう。

 だが、そうではない。私のその問いに応えるかのように、茂みから人影が姿を現した。

 

「……気づいていたんですのね」

 

「何年あなたのことを見続けてきたと思ってるんですか。マックイーンさんとトレーナーさんのことならなんでもお見通しです」

 

「それはそれで少々恐怖を感じますが……」

 

 はて、そうだろうか。好きな人の考えることなんて大抵分かるものでは? 少なくとも私はトレーナーさん検定一級くらいは持っていてもおかしくないと思う。

 

 それはさておき、私はマックイーンさんに聞かなければならないことがある。

 記憶は無いが、目を覚ましたトレーナーさんはトレセン学園に戻ってきた。その能力も今では十分であり、私達を指導するには何も問題ない。

 

 それなのにマックイーンさんは──

 

「……どうして学園に戻って来ないんですか。どこか身体の調子が悪いとか?」

 

「…………別に、私の勝手でしょうに。今日だって、休学期間の延長を申請しに来ただけですわ。ああそれと、特にこれと言って体調面は問題ありません」

 

「っ……! じゃあこの一ヶ月、なんで何の連絡もよこさなかったんですか!? あなたのことだからきっと大丈夫とは思ってましたけど、どれだけ心配したことか……」

 

「あら、私のことならなんでもお見通しではなかったんですの?」

 

「茶化さないでください!」

 

 マックイーンさんのイメージとはかけ離れた飄々とした態度につい頭がカッとなってしまう。普段通りの日常であれば軽口で済んだが、今はそうではない。

 

 しかし、私もヒートアップするばかりではダメだと悟り、一つ深呼吸をして落ち着く。そして、もう一度マックイーンさんと向き合った。

 

「マックイーンさん、あの日以来一度もトレーナーさんと会ってませんよね。そんなにあの方と話すのが怖いんですか?」

 

「……さっきから質問ばかりですわね。少し会わない間に遠慮というものが欠けたように見えますが」

 

「いいから答えてください。そうやってはぐらかされると、いつまでも話が進まないので」

 

 マックイーンさんの挑発に臆することなくそう答えると、彼女は一瞬目を丸くしてすぐに瞼を閉じる。

 

「さあ、どうでしょうかね」

 

「いつまでも閉じこもっていては何も始まりませんよ」

 

「…………分かっていますわよ」

 

 そこでマックイーンさんは黙りこくってしまう。

 

 私は彼女が何を考えているのかよく分からない。でも、これだけは分かる。

 

 きっと、溢れてしまったのだ。

 

 思えば彼女は、トレーナーさんが事故に遭った時や目を覚ました直後の時も、私より遥かに冷静だった。

 私はそれを見て、強いからだと勝手に思い込んでいた。でも、マックイーンさんは私と同じ中学生だ。

 我慢して、我慢して、我慢して。それでも、何か些細なきっかけ一つで簡単に壊れてしまった。

 

「……マックイーンさん、この半年間泣いてませんでしたよね」

 

「トレーナーさんに涙は見せないって決めてますの。昔、盛大に彼の胸で大泣きしたこともありますので」

 

 知っている。私が入学した年のファン感謝祭の時、マックイーンさんはテイオーさんに負けてトレーナーさんに泣きついていたのをこっそり見ていた。

 あれ以来、トレーナーさんの前で彼女が泣いている姿は見たことがない。

 

「今のトレーナーさんが悪い人でないということは伺ってます。先程貴方とトレーナーさんの会話を聞いていましたが、以前のあの方とよく似ていると思いました」

 

「似ている、ですか」

 

「ええ、やはり違和感は拭えません。その綻びは小さく思えても、時間を共にすることでやがて大きなものとなる。まるで、私達とトレーナーさんとの思い出が嘘だったかのように思わせられるほどに」

 

「そんなこと……」

 

「ないことはありませんわよ……っ! 私ばかり覚えていても、彼とそれを共有できなければ意味が無い! あの楽しかった日々も、トレーナーさんは覚えていないんですのよ!?」

 

 マックイーンさんの独白は続く。その姿は、癇癪を起こした子供のよう。

 

「私だって勇気を出して学園に行こうとしましたわ。それでもあの日のことを思い出すだけで足が竦む……。ええ、私は弱い。今までの経験も、信頼も、信念も、こんなことで意味をなさなくなる」

 

 彼女の声量は段々とか細くなっていく。それでも、不思議とその声はよく聞こえた。

 

 それら全てを聞いた今、メジロ家に帰りゆくマックイーンさんを見送ることしかできない……

 

 

 

 

 

 

 そんなわけがないだろう。むしろ納得できないまである。

 

 

「マックイーンさん」

 

「なんですの。もう迎えが来る時間ですので、話があるならまた別の機会に……」

 

 

 

 

「今からグラウンドに来てください。あなたに、決闘を申し込みます」

 

「……は?」

 

 

 

 〈サトノダイヤモンドの決心〉

 

 

 

 ***

 

 

 

 最初は何がなんだか分からなかった。

 

 長いこと寝ていた気がして、起きたと思ったら見知らぬ美少女二人を前にしている。身体も自由に動くことはなく、口を動かそうとしても痺れは免れない。

 

 なんでも、俺は記憶喪失になっているらしい。事実、思い出そうとすればするほど、自分に関する記憶が抜け落ちているのを実感させられる。とある一人の少女のことを除いては何も思い出せない。

 その最たる例というのは、目を覚ました時に居合わせたあの二人だ。俺には、彼女達が誰なのかも皆目見当もつかなかった。

 

 事故に遭っただの、身体が頑丈だの、そんなことを言われた気がしたが、今の俺にとってはどうでも良い。

 だって、そんなこと俺は知らないのだから。知ったことではないのだから。

 

 俺は誰なのか、何者なのか。それすらも無関心で、興味が無くて。

 

 そうしてなんの計らいか、以前の俺がやっていた仕事をやらせてくれという要求が通ってしまった。

 どうしてそれが通ったのかは分からないが、これを好機だと捉え、一色という俺にとって後輩にあたるらしい生意気な奴に、以前の俺について教わった。

 一人称は"僕"であること、トレーナーとしての仕事にだけは真っ直ぐだったこと、二人のウマ娘を担当していたこと。

 

 話を聞けば聞くほど、なんだか無性に腹が立ってしまう。彼女にではない、記憶を失くす前の俺に対してだ。

 

 不慮の事故に遭ったと聞いたが、お前のせいで俺がいらぬ心労を追っているのは紛れもない事実だ。

 それに加え、周りは以前の俺であるようにと期待している気がしてならない。いや、実際そうなのだろう。そうであるのが普通なのだ。

 

 そうなると俺は一体どうなる。はっきり言って、"僕"と"俺"は別人だ。それはそうだ、"僕"の記憶なんて"俺"は持ち合わせていない。

 

 みんながみんな"僕"の記憶が戻ることを待っている。当然だ、彼女達との絆を紡いできたのは"僕"であり、"俺"ではない。

 俺のような偽物は、誰からも目を向けられないまま。

 

 でも、サトノダイヤモンドは……

 

 

「……ちっ」

 

 サトノダイヤモンドとの買い出し後、俺は残りの仕事を片付けるためにトレーナー室へと戻った。

 ここ数日、この仕事に取り掛かってはいるが、ウマ娘のトレーナーという仕事はなんと面倒なことか。

 俺はまだ慣れていないから仕事量も少なめにしてもらっているのだろうが、記憶喪失前の自分はきっと馬車ウマの如くこき使われていたのだろう。可哀想に。

 

「くぁ……ねむ」

 

 やっぱり休暇を貰っていた方が良かっただろうか。というかもう帰ろうかな、今日の仕事は明日に回せばいいだけだし。

 

 ……よし、帰ろう。すぐ帰ろう。今すぐ帰ろう。明日は明日の風が吹く。明日から本気出すし、頑張るのは明日の俺だ。

 

 と、意気揚々と帰り支度を始めると、トレーナー室のドアがノックされて来客の訪れを知らされる。

 

 うげ、面倒臭い……

 

 嫌だなあ、出たくないなぁと思いつつも、明かりをつけている以上この部屋に俺がいることは外から見ても分かってるし、無視するわけにもいかなくて……

 

「……はい、どうぞ」

 

「失礼するよ、トレーナー君」

 

 そう言って入ってきたのは、綺麗な鹿毛に白い流星を携え、凛々しく毅然としている格好良さげなウマ娘だった。

 

 俺のことをトレーナー君と呼んでいるあたり、この子がもう一人の担当であるメジロマックイーン……いや、彼女は目が覚めたときのあの子のはず。

 

 とすると、目の前のウマ娘は一体誰……待て、俺知ってるぞ。記憶が無い今、この学園どころか知り合いなんて片手で数えられるくらいの人数しかいないが、彼女は数日前に顔を合わせた記憶がある。ええと、確か名前は……

 

「シンボリルドルフ……だったか? たしか生徒会長の」

 

「ああ、いかにも。壮健そうで何よりだ。何せ、君が大事故に巻き込まれたという事実だけで肝を冷やしたというのに、その上記憶喪失だなんて。いくら私でも平常心を取り繕うのに苦労したさ」

 

「は、はぁ……俺が君のなんなのかは知らないが、それはすまなかったな生徒会長さん。それで、今日は何をしにこんなところへ? クビを言い渡すには、それを告げる人が違うだろう」

 

「少し話をしに来ただけだよ、そんなに警戒しないでくれ。それにしても……全く、記憶が無くなっても君の卑屈なところは変わらないな。平身低頭、それが君の美徳でもあるが。一応聞くが、まだ記憶は戻ってないのだろう?」

 

「ッ……ああ、戻っていない。戻る気配すらもない」

 

 唐突に現れたと思ったら、生徒会長さんはそんなことを聞くためにこんなところへやってきたのか。

 記憶が戻る、何か思い出したか。どいつもこいつもそれを望んで──

 

「……? どうした、トレーナー君。あまり顔色が優れないみたいだ。やはり体調が……」

 

「そんなことはない、俺は至って健康体だ」

 

 だからと言って、こんなことを誰かに話すわけにもいかない。以前の俺と目の前の彼女がどのような関係だったかは知らないが、少なくとも今の俺にとっては信頼できる相手ではない。

 

「……なぁ、トレーナー君」

 

「はぁ、俺のことを言ってるなら何か」

 

「さっきから……いや、この学園に来てからと言うものの、君は一体何に恐怖してるんだ?」

 

「…………は」

 

 恐怖? 俺が? 何に? 

 

 言われた意味が理解できず、その場で固まってしまう。

 

「違ったら鼻で笑い飛ばしてもらって構わないのだが── 大方、記憶が戻ったらどうなるか分からないから怖いのだろう?」

 

「な、何言って……」

 

「君は案外臆病なところがあるからな。本当はどうでもいいのに、周りからは記憶が戻ることを切に願われている。それが重圧になり、ノイズになり、過去の自分に対して消極的になっている」

 

「いや待って、ちょっと待て。な、なんなんだよ君は。ほぼ初対面だってのにいきなり来てズケズケと分かったような気で……。お、お前に俺の何が分かるってんだよ」

 

「分かるさ。なんせ君は、私が最も憧れ、最もよく見てきた人なのだから」

 

 ……は? 憧れ? もう何がなんだか分からない。

 

「一つ、私から忠告しておこう。当然、君は無理に記憶の件を解決する必要はない。これは君の人生だ。誰のものでもない」

 

 生徒会長……シンボリルドルフはなんとも真面目くさった顔でそう諭す。

 言われなくても、これは俺の問題だ。君がどうこう言う必要なんて……

 

「ただ、もしここに戻ってきてくれたことに理由があるのなら……それを忘れないでいて欲しい。きっと、君にとって大きな一歩だと思うから」

 

 俺がここに戻って来た理由……。

 

 別に大したことはない。別に絶対トレセン学園に来なければということもなかった。あの状況に甘え、当分は自堕落な生活を送っても良かったはずだ。

 

 

 ただ、目を覚ました時に見た、希望が絶望に変わってしまうあの子達の顔を忘れることができなくて──

 

 

「……はぁ、降参。流石は生徒会長になるだけの器を持つウマ娘だ」

 

「…………」

 

「……え、なに。俺変なこと言ったか?」

 

「いや、君に素直に褒められるのはなんだか久しぶりな気がしてね。もしここに誰もいなければ喜色満面の表情で喜んでいたかもしれない」

 

「なんだそれ」

 

 一色さんやサトノダイヤモンドからも聞いたが、以前の俺はどれだけ面倒な人間だったのだろうか。一度面と向かって話をしてみたい。

 絶対無理だけど。

 

「それと……いや、これは既に自覚しているかな」

 

「……ちっ、分かってますよ、恐怖を自覚するって大事っすねー」

 

「ふふっ、その件が無事に解決することを祈ってるよ。さて、少しは気が楽になったかな? 度々学園内でも君を見かけることがあったが、その度に君は切羽詰まったような顔をしていたからね」

 

 どうやら、彼女は本当に話をしに来ただけらしい。なんだか俺は気を遣われてばかりだな、情けない。

 

「解決したわけじゃないけど、多少気持ちが軽くなった。記憶を戻さなくていいって気になったし、絶対に戻してやろうって思ったよ」

 

「結局どっちなんだ……」

 

「どうだろうな。お礼と言ってはなんだが、君の悩みも聞いてあげよう。ま、君ほど完璧そうなウマ娘には悩みなんてないのかもしれないけど」

 

「悩み……か」

 

 そこでシンボリルドルフは顎に手を当てる。冗談混じりにあんなことを言ったが、何か思い当たることがあるのだろうか。

 

「……おや、その机の上にあるハーバリウム、随分と美麗だな。まさに八面玲瓏と言ったところか。とても君が趣味で購入したとは考えにくいが……」

 

「ナチュラルに失礼だな……。昨日サトノダイヤモンドにも言ったけど、俺が入院してた時のお見舞い品らしくてな。念の為に聞きたいんだが、これを贈ってくれた人はご存知で?」

 

 そう聞くと、シンボリルドルフは静かに首を横に振る。

 

 そうか、知らないか。一色さんでもないと言っていたし、それだと心当たりのある人物といえば……

 

「ハーバリウム……花言葉……」

 

 

 シンボリルドルフは譫言のように呟き、

 

 

「……全てのウマ娘を幸福に導くにはどうすればいいと思う?」

 

 

「え?」

 

「あっ……いや、なんでもない。変なことを聞いたな。忘れてくれ」

 

 シンボリルドルフは咄嗟に訂正したが、流石にこの距離で聞き逃すほど愚かじゃない。

 だが、聞き逃さなかったところで彼女の発言の意図を汲むことができるかどうかはまた別の話だ。

 

 

 全てのウマ娘を幸福に導く。

 

 

 生徒会長であり実力者のシンボリルドルフが言うならまだしも、小心者の俺にとってこんなことは大言壮語以外の何者でも無い。

 彼女の発した問いに答えを出せるはずもなく、聞き取れなかったふりをするしかなかった。

 

 もし、記憶を失う前の俺は、なんて答えていたのだろうか。

 

 なあ、答えてくれよ。あんなにもサトノダイヤモンドから慕われ、シンボリルドルフから尊敬されているお前なら、分かるんじゃないか? 

 

 そう自分に問いかけても答えてくれるはずはなく、当然のごとく梨の礫だ。

 俺はみんなから求められている俺じゃない。そんな自分に、彼女の掲げる命題は難しすぎる。

 

「……お」

 

 そんな気まずい雰囲気の中ふと窓の外を見ると、空には綺麗なお月様がポツンと浮かんでいる。その光景に、つい声が出てしまった。

 

「どうした?」

 

「いや、月が綺麗だなって思って……あ、今の無し。この言葉に特別な意味はなくて……」

 

「……そうだな」

 

 俺の失言にそれらしき反応をすることなく、シンボリルドルフは俺と同じ方向を見る。

 

 そんな彼女の表情はやはり凛々しく、格好良く。

 

 だけど、どこか少し儚げで、

 

 

「月は、ずっと前から綺麗だ」

 

 

 見惚れるほどに美しい。いやでもそう思わされ──

 

 

「む、トレーナー君、電話が鳴っているぞ」

 

「あ、ああ、悪い」

 

 シンボリルドルフに指摘され、少ししどろもどろになりながらスマホを手にする。

 その時、シンボリルドルフから「電話に出んわ」とかいうしょうもない親父ギャグが聞こえた気がするが、多分気のせいだろう。

 

 ええと、たづなさんから……? こんな時間に何か用だろうか。

 

「はいもしもし──は? 何時までトレーニングしてるのかって……いや、今日は既にトレーニングは終えてますが……えっ、今?」

 

 

 

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