痛いほど冷たい・・・
洗濯機以上に荒れ狂う水の中、のんきにそう思っていた。
人間は理解の限界を超える事態に遭遇すると、逆に落ち着いてしまうものである。
様々な破片、ドロドロの油が入り交じる凍りそうな水に身を晒しているのに関わらず、である。
体の感覚はすでに冷たい3月の海水で麻痺し、静かに酸素がなくなってゆく感覚に贖うことも出来ない。
このまま・・・、死ぬ・・・。
それすらも冷静に受け止めてしまえるほどに落ち着いてしまっている自分。
もがいた所で何も変わらない、助かりたいという考えすらも水の中に溶けてゆく。
やがて意識が遠のき、視界がボヤけ、最後の時を感じる。
「・・・!。・・・、ハァ・・・。またかぁ・・・」
二段ベットの下の段で吹雪は、びっしょりと濡れたパジャマの気持ち悪さに顔をしかめながら体を起こす。
ここは舞鶴鎮守府にある駆逐艦艦娘の寮の一室。吹雪と睦月が生活している部屋である。
時刻は午前2時半、まだ起床時間にはほど遠い時間。もう一度寝なおそうにもこのパジャマではできるものではなかった。
静かにベットから抜け出した吹雪は、替えのパジャマをタンスから取り出す。そのすべての行動を上のベットで寝ている睦月を起こさないように静かに行う。その手付きは慣れたものであった。
慣れてはいけないことなのだろうとは思っていたが、慣れざる負えない事情が吹雪にはあったのである。
すべてはあの3月の、日本人に何かを変えてしまったあの出来事からであった。
ブアァァーーーン!!
小排気量のガソリンエンジンがその小さなピストンを懸命に動かす、耳を劈く野太い音が鎮守府の駐車場に響き渡り、それに応援など、様々声が入り混じる。
今、舞鶴鎮守府の駐車場は、臨時のゴーカート場なのであった。
「ゴーカート場・・・、ですか?」
「えぇ、延期されてた静岡のサーキット場でのイベントの日付が決まってね。それを聞きつけた知り合いが「サーキット場の雰囲気を体験させるためにも!ぜひっ!」、てね」
「このコロナで経営が厳しいそうで、提督が「なんとか助けたい!」、ってさぁ~」
「・・・、うちの子たちもなかなか外出出来なくて溜まっているようだったしね・・・」
「そうですか・・・」
遡ること数週間前、提督室ではこんなやり取りがあったのである。
提督の知り合いからレクリエーションの一環としてサーキット場の雰囲気を味わせてみたらどうかという提案があった、としたかった提督の目論見は秘書艦長の北上があっさりとぶち壊していたが、吹雪は特にリアクションを取ることはしなかった。
舞鶴周辺では少し落ちついていたが、全国的には新型コロナウィルスによる緊急事態宣言が出ている場所もある5月の中頃。GW中も遠出はおろか鎮守府の外に出ることすらままらなかったこともあり、年頃の乙女達でもある艦娘達には、表に出しにくい状況でもあるが、確実にストレスが溜まっていた。
そこで知り合いが経営しているゴーカートサーキット場を助ける意味も合わせ、鎮守府のレクリエーションとして一日だけの臨時ゴーカート場が作られることになったのである。
上司である提督の案に反対する理由はなかった、しかしその話を聞いた吹雪の顔はどこか冴えないものであった。
それから大規模作戦の実施や、梅雨の季節に重なってしまったこともあり、延期をしていたが、梅雨の間の晴れ間を縫って、ようやく実行にうつされたのであった。
短くはあったが廃タイヤを積んで、タイヤの壁でコースを作っており、遊園地にありがちなレールに沿って走ったり、ただの四角いコートを自由に走るものとは違う本格的なサーキット場が構築されていたのである。
持ち込まれたカートも初めて乗る人でも安全に扱えるマシンであった。とは言うものの本格的なレーシングカーの一種であることには代わりはない。F1レーサーなどのモータースポーツの最前線で戦っているレーサーでも経験者が非常に多く、モータースポーツの登竜門とも言われているレーシングカートを体験するには十二分な程のものが用意されたのであった。
しかし車の運転などしたことのない艦娘も多く、それでいて血気盛んであった彼女たちは飛ばそうとしたがる人も多く、ゆっくり走ればなんのことなく完走できるコース、のはずなのだが最初の少々きつい右コーナーで、外側のタイヤの壁に突っ込んだり、スピンしたりしては観客を沸かしていた。
できるだけ鎮守府の全員が体験できるように、という目的があるため、カートがコースアウトやスピンを起こしたら、崩れたタイヤを積み直し、手でカートをスタート時点に戻して、次の人に変わるというとルールがあるのだが、それを不満そうな顔で渋々実行する、といったことが当たり前かのように行われていた。たまにこの短いコースを規定の2週、無事に走りきったりするだけでも拍手が起こる、といったなんとものどかな様子であった。
その光景を遠目で見つめる少女がいた。手には書類の束が握らており、秘書艦としての仕事で提督に書類を届けている途中であった。
「・・・、懐かしいなぁ・・・」
足が止まった少女は、鳴ってはすぐに止むを繰り返す音の方向を顔を向け、そうつぶやいていた。そして懐かしさと寂しさが感じられる表情を浮かべながら、しばらくの間見つめていた。
しかし仕事の途中であったことを思い出し、立ち去ろうとしたその時、
「おぉっ!、吹雪じゃん!」
と声をかけてきたのは、観客席でカートを間近で見ていた長波であった。
「やっ、やぁ・・、長波ちゃん・・・」
「なんだよ、興味があんなら乗ってきたらどうだ?。なんか興味有りげな顔してんだしさぁ?」
少し離れた位置で書類を抱えたまま見つめていた吹雪に気がついた長波は、観客席から少し大きな声で誘ってきたのであった。
「し・・・・、仕事の途中だから・・・」
急にバツが悪そうな顔をしだした吹雪に、
「なんだぁ・・・、!、さてはドジをする所を見られたくないのかぁ!」
「あっ・・・、朝ちゃん・・・」
長波の隣にいた朝霜が煽りを掛け、沖波がそれを抑えようとしていた。
「ご、ごめんねぇ・・・、(ガシッ!)、!?」
「いいじゃないの~、興味があるなら!。何事も経験よ!」
「私が司令に渡しておきますので。吹雪さんは行ってきてください」
雰囲気が良くないと感じた吹雪が立ち去ろうとした瞬間、後ろから誰かに肩を捕まれ、持っていた書類を前から来た同じ秘書艦であった親潮に奪われてしまった。
「か、陽炎ちゃん・・・、に親潮ちゃん・・・」
「ひひっ!」
悪どい小悪魔なような笑みを浮かべながら、吹雪の肩を持つ陽炎。仕事という大義名分を奪われ、言い訳を聞かないであろう陽炎に万事休すと悟った吹雪。
「じゃ、じゃぁ・・・」
「はいはーい!、1名様ごあんなーい!!」
観念したようには見える吹雪を、逃げられないように手をつないで、カートの乗り場につれてゆく陽炎。それを手を振り見送ってから、親潮は提督の元に向かっていた。
普段から何もない所で転んだりと、可愛げのあるドジを周囲に見られている吹雪、当然カートに乗るのを嫌がっていたのもそういうことなのだろう、と皆は思っていた。
しかし吹雪がカートに乗るのを嫌がっていたのは、ドジをしてしまうという不安からではなかった。