ねっちょりエログロ暴力百合ファンタジー   作:ぐえー

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第1話

 少女の人生が歪み始めたのは、養父に犯された夜のことだった。

 

 実際はもっと前から歪むどころか崩壊していた可能性もある。生まれ故郷の村が得体の知れない真っ青な鎧の兵士たちに焼き討ちされ、目の前で両親を切り殺され、母親の死体が幾人もの屈強な男たちの間で汚濁まみれにされるのを震えて盗み見していたとき、少女の平穏な生は決定的に壊れていたのかもしれない。

 

 とはいえ、その時点ではまだ諦めていなかった。すべてを失った衝撃と恐怖で身体も心も震えが止まらない中、少女は一人山中を歩き、叔父の邸宅を目指した。少女がまだ幼女だった頃、村を出ていった父の兄。とても優しく、出ていく折には困ったことがあれば訪ねてこいと少女たちに言い残していた。

 

 幼心に覚えていた叔父の優しい笑みを希望にして、少女は山道を歩いた。村では雪のようにキレイだと評判だった白い肌と白い髪は、返り血と煤で薄汚れていた。寝ているところを焼き討ちされ着の身着のまま逃げてきたから、裸足が山道にこたえ血まみれになった。

 

 それでも希望を捨てず歩き続けて数日後、稜線の向こうに大河が見えた。河に寄り添うように小さな町があって、叔父の家はそこで一番大きなお屋敷だった。河の流れを利用した水運業で大成功したらしいと父は誇らしげに語っていたが、とにかくお金持ちなのだろうと少女は理解していた。つまり、少女一人に頼られて渋ることはないだろう、と。

 

「その格好はどうした? かわいそうに、中へお入り」

 

 期待した通り、叔父は優しかった。お屋敷の大きな入り口で門番に止められていた少女のもとに駆けつけ、中へ入れてくれた。

 

「焼き討ちだと? 青い鎧というとミスリル鋼……『魔法の国』の連中か……?」

 

 少女が泣きながら事情を語ると、叔父は訝しげに眉をひそめた。不思議なことに、少女の両親や他の村人のことには一切触れなかった。少女も両親が無残に殺されたことを改めて口にしたくはなかったから、むしろありがたかった。

 

 しかし自分の兄の生死を気にもかけない時点で、少女は叔父のことを疑っておくべきだった。たとえ疑ってどうにかなることではないにせよ、心の準備ができたかもしれないのだから。

 

「さあ、君はもう私の娘だ。なんでも好きなものを食べさせてやるし、かわいい服も着させてあげよう」

 

 たくさんのメイドに身体をキレイにしてもらった後、叔父は笑顔でそういった。凄惨な記憶の真新しい少女はワガママを言う気分ではなかったが、毎日のごちそうとおしゃれな服に少しずつ気を良くして、一ヶ月もすると恥ずかしそうにはにかみながら「お父さん」と養父を慕うようになった。

 

 そんなある日、養父は少女を犯した。

 

「ひ、ひひっ、ひひひひっひうひひ」

 

 少女には何が起きているのか、何をされているのかわからなかった。優しくて頼りになる養父が部屋に自分を呼びつけ、顔を合わせるなり髪の毛を掴まれ、ベッドに叩きつけられた。

 

 痛み、混乱、恐怖。泣きながら悲鳴を上げると、平手打ちを食らった。少女が泣き声を大きくしたので平手打ちが数度繰り返され、少女は静かになった。養父はそんな少女の反応が気に入らないらしく、今度は下腹部を拳で殴りつけながら、汚い欲望を発散させた。

 

 痛い。少女は涙を流すことにも声を上げることにも疲れ、ただ痛いとかし思えなくなった。その末に優しい両親の笑顔を思い出し、すがりつこうとするが、幻想の両親は炎と刃物に嬲られ消えてしまった。

 

 ひとしきり少女を痛めつけた養父は、ニタニタ笑みを浮かべささやく。

 

「優しいおじさんって思ったかい? ご飯も服もベッドも用意してくれる新しいお父さんって信じてた? バカが。何の役にも立たないガキの世話を誰がするかよ。これから毎日こき使ってやる。感謝しろ」

 

 縋るものを失った少女の心は、簡単に砕けた。そのおかげで毎日の暴行を受け止めることが出来たのは不幸中の幸いだろう。絶望から立ち直りつつあった少女の輝く瞳は日を追うごとに暗くよどみ、色白で健康的な柔肌は無数の青あざや火傷で覆われていく。

 

 やがて少女は何をされても無気力に受け入れる人形と化した。

 

「つまらん……捨てるか」

 

 それは養父の求めるものではなかった。

 

 彼は性欲の豚ではない。心底からの信頼を裏切られる瞬間の少女を堪能したいだけであり、その意味で養父の興味は初日で尽きていた。抵抗できない弱者の顔が恐怖と苦痛に苛まれることにも多少の快感は覚えるため、幾度か使いまわしていたものの、無反応な人形にはまったく興奮しない。

 

 だから養父は、少女の首を絞めた。

 

「あ……がっ……!?」

 

 少女の顔に表情が戻り、養父は満足げな笑みを浮かべる。そのまま笑顔で少女の首を絞め続けた。殺すつもりだった。

 

 少女の細腕が養父の腕を掴む。水運に携わる男の腕は太く、びくともしない。少女の爪は無理やりひっぺがされているため、爪を立てることもできない。でっぷりと太った男の身体に組敷かれ、少女の華奢な手足が力なく暴れる。小さな口から血の混じるよだれが垂れ、視界がかすむ。

 

 死の間際において少女が抱いた思いは、生きたい気持ちだった。優しい村で優しい両親に育てられた彼女には、養父を恨んだり憎んだりする能力が欠けている。ただ、生きたい思いだけは人一倍強かった。

 

 生きたい。死にたくない。

 

 だけど養父は自分を殺そうとしている。それでも生きるにはどうすればいいか?

 

 殺す。殺してでも生き残る。

 

「……?」

 

 決意とともに、少女の身体から何かが生えた。

 

 枯れ木か、何かの骨組みを思わせる奇妙な突起物。鬱血を押し固めたような暗赤色で、少女の鼓動に合わせて脈打っている。

 

 少女の肩甲骨から一対生えたそれらは、ベッドシーツを切り裂き、鋭利な先端を蛇のようにしならせて養父の身体に突き立てた。

 

 養父も少女も何が起きたのか理解できない。呆然と、養父の二の腕に食い込んだ赤い何かを見やる。

 

「ぐっ、が、あああああ!?」

 

 すると、養父の身体が弾けた。

 

 目、鼻、口、その他全身の穴から赤い何かが生えてくる。複雑に枝分かれしたそれらが体内から彼の身体を突き破り、あげくにはグロテスクな赤の棘に覆われた肉塊と成り果てた。

 

「どうされましたご主人さま!? なっ、これは」

 

 悲鳴を聞きつけた屋敷のメイドがやってくる。

 

 メイドは悲鳴を上げて部屋を出ていった。少女が養父の死体のようなオブジェを前に放心していると、慌ただしい足音が部屋に近づいてきて、軽装の鎧をまとった男たちが姿を見せた。

 

 彼らは騎士だった。水運で発展したこの町の治安を守る正義の騎士だ。

 

 騎士たちは養父の変わり果てた姿を見るや息を呑み、傷ついた少女を見やる。少女が反射的に見返すと、騎士たちは少女の頭を力いっぱい蹴っ飛ばした。

 

「お前は罪を犯した!」

 

 養父は水運業の元締めという権力者であり、当然騎士とも懇意にしていた。たとえば流通の許されない商品を運ぶたび騎士たちにチップを渡すなどしており、薄給の騎士たちにとって養父はありがたい存在だった。

 

 そんな彼を殺した少女は、間違いなく大悪党である。

 

「痛い、痛いよぉ!」

「黙れ悪党!」

 

 騎士たちは少女を引きずって、河べりの詰め所兼牢屋まで連れて行った。半端に正気を取り戻した少女は、地面を引きずられる痛みに涙を流す。例の赤黒い、骨ばった翼は消えていた。

 

 養父は騎士たちの金づるであるだけでなく、田舎町を発展させた英雄でもあった。彼を殺した罪の罰は死刑に違いない。

 

 しかしただ死なせるだけではもったいない。傷だらけで泣きじゃくる少女を前に騎士たちは口元を歪め、私刑を始めた。

 

 文字通り袋叩き。少女を取り囲み殴る蹴る。身体を持ち上げて地面に叩きつけるなど、好き放題の暴力を振るう。少女が這いずって逃げようとすると、騎士の分厚い靴底が少女の指先を踏み砕いた。五指すべてあらぬ方向に折れ曲がり、うちいくつかは折れた骨が皮膚を突き破る。少女の絶叫に騎士たちは快哉の声を上げた。

 

 彼らは少女に恨みがあるわけではなかったが、正義の騎士と人殺しの悪党という構図が、彼らの嗜好に合った。悪党は正義に何をされても文句を言えない。成敗の結果死んだって誰も悲しまない。むしろふさわしい末路だろう。

 

 夜が明けるまで拷問を受けた少女は、しかし生き残った。原型をとどめているのが奇跡的なほどの暴力を受けたにも関わらず、肉体はきちんと少女らしい外見を保っている。体力の尽きた騎士たちはこのしぶとさを不気味に思い、呼吸する死体のようになった少女を牢屋に放り込んだ。

 

「お父さん、お母さん……」

 

 暗く、かび臭い石造りの牢屋。記憶の中の両親にすがりつき、もう会えないことを思い出して、少女の涙が止まった。

 

 牢屋と詰め所は川べりの堤防に接している。鉄格子の向こうは堤防の壁で、その向こう側から水の音が聞こえてくる。それは無数の支流に分かれ、様々な地方や国々へ流れゆく大河の音だ。

 

 生きたい。生きるには逃げなければならない。泣いていても誰も助けてくれない。逃げるにはずっと遠くに行く必要があって、遠くに行くには河の流れに乗るのがいい。

 

「う、ぐぅっ……」

 

 気持ちに応えて赤黒い奇形の翼が、背中の骨を削り、肉を裂き、皮膚を突き破って姿を現す。血と汚穢にまみれた一対のそれは、養父を殺した時よりも大きくたくましく成長していた。

 

 少女の身体に倍する翼が振るわれる。頑丈な石造りの壁が砕け、もうもうと煙が立ち込めた。その中でもうひと振りすると堤防の壁に穴が穿たれる。堤防の壁は水位よりも上にあるため浸水は起こらない。

 

 少女は瓦礫につまずきながら穴に近づき、向こう側へ身を投げる。浮遊感の後で全身が冷たい感覚に覆われ、意識が真っ暗になった。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「あっ起きた。お姉ー、白い子起きたー」

「きゃああああっ!?」

「うひゃあああっ!?」

 

 目を覚ましたとたん少女は悲鳴をあげた。寝覚めに見知らぬ女の子の顔が目と鼻の先に迫っていたからだ。悲鳴につられる形で女の子も奇声を発する。

 

「ちょちょちょ、何で悲鳴で合唱してんの元気いっぱいか!?」

「だってこの子が……あ」

 

 慌てた様子の女性がもう一人姿を現したので、少女は失神した。行く先々で痛い目に遭った経験は、少女の精神を過敏にしていた。

 

 次に目を覚ましたとき、少女は一人だった。悲鳴とともに気を失った記憶は抜け落ちており、落ち着いて状況を確認する。

 

 木造の清潔な一室。窓からは柔らかな日差しがさしこみ、外には緑豊かな森が広がっていて、川のせせらぎと鳥のさえずりが聞こえてくる。少女はふかふかのベッドに寝かされていた。

 

「起きてるー? 入っていい?」

「はっ、は、ははい」

 

 部屋の扉がノックされ、少女はどもりながらどうにか応える。するとゆっくり扉が開かれ、青いワンピースの女の子が顔を覗かせた。

 

 ハチミツのような金髪にくりくりした碧眼。細い首にはチェーンを通した指輪を下げている。女の子はそっと一歩ずつベッドに近づいてきて、やっと少女の横までやってくると、にっこり笑った。

 

「おはよう! 私はヤーツェ。あなたのお名前は?」

 

 答えようとした少女だが口がうまく動かない。ヤーツェは「無理しなくていい」と微笑んで、一方的に話し始めた。その内容は少女が気になっていたことのすべてだった。

 

 まずここはどこかというと、大河の支流の一つである小川のほとりらしい。しかも少女の故郷の地方から遠く離れた、魔法の国の辺境だ。

 

 ヤーツェは魔法の道具職人である姉と共にここで暮らしている。河に水を汲みに行ったところ傷だらけの少女が倒れていたので、家に運び込んだのだという。

 

「さっきはびっくりさせてごめんね。お姉も呼びたいんだけど、いい?」

「う、うん」

「んじゃ入るわよぉ」

「ひっ」

 

 少女がうなずくと待ちかねたように扉が開き、もう一人現れる。ヤーツェとよく似た碧眼の女性だ。金髪にはふわふわとしたカールがかかっており、タレ目と相まって柔和な印象を抱かせる。格好はいかにも魔法使いらしく青いローブに青の三角帽子だ。

 

 ヤーツェはむっと眉根を寄せる。

 

「お姉、もうちょいゆっくり入ってきなよ」

「ごめんごめん。どーも、姉のナナルよぉ。痛いところはある? お腹は空いてない?」

 

 少女はぶんぶん首を横に振ったが、腹の虫は抑えられない。盛大な音が鳴った。

 

 耳まで赤くしてうつむいていると、金髪姉妹がくすくす笑う。

 

「食べてから話しましょう」

 

 一度退室したナナルがどろどろに炊いた穀類を持ってきて、少女に差し出す。養父の屋敷のごちそうとは比較にならない粗末な食べ物だったが、涙が出るほど美味しかった。心配げなヤーツェに布で涙を拭われながら残さず平らげる。ほっと一息ついたところで、ナナルは建設的な話を始めた。

 

「傷の手当をしたから、君の抱える事情はなんとなく察してるわ。辛ければ話さなくてもいい」

「……」

「それと行く当てがなければここに暮らしてもいい。私たちもはぐれもの。同類なら傷をなめ合いましょうよ、ねえ?」

「もうちょい優しい言い方ないの? まったくもー」

 

 小言には慣れっこなのかナナルはどこ吹く風だ。穏やかな目つきで少女を見つめている。

 

 少女は考えた。これは間違いなく罠だ。

 

 養父も最初は優しい顔をしていたが、油断しきったところで本性を出してきた。きっとこの姉妹が優しいのも今だけだろう。気を許してはいけない。

 

 それでも少女に行く当てがないのは確かだ。もしも姉妹にひどいことをされそうになったら、養父を殺した例の変な力を使って逃げればいい。堅い顔でうなずいて「おせわになります」と頭を下げると、ヤーツェは満面の笑みで少女に抱きつき、ナナルはあらあらと微笑んでいる。少女は二人に対して内心で舌を出してやった。おいしい食事とベッドが目的であって、姉妹のことは何一つ信頼していない。純朴だった少女はすっかりひねくれていた。

 

 こうして少女とヤーツェ、ナナル姉妹の暮らしが始まった。

 

「驚くほど治りが早いわぁ。外国の子はみんなこうなのかしら?」

「……わ、わかんない、です」

「治るならどうでもいいじゃない! よかったよかった!」

 

 少女の傷はすぐに完治した。屈強な男たちに夜通し砂袋のような扱いを受けた少女の傷は、全身打撲と内蔵の出血によりいつ死んでもおかしくないレベルだったが、死ぬどころかほんの数日休むだけで回復した。

 

 動けるようになった少女は、労働の覚悟をした。山間の寒村出身の彼女は森の中で住むにあたって様々な仕事があることを知っている。薪の用意、肉や果実などの食物の調達、畑や家畜の世話など。手間だが、自分自身が家畜のような扱いを受けるよりかは働く方がマシだ。

 

 しかし少女の覚悟は空回りした。

 

「仕事? そんなものないわぁ。ヤーツェと遊んできていいわよぉ」

「えっ?」

「食べ物とかはウチの人たちが運んできてくれるの! 水は川のやつが美味しいから、それだけ汲むけどね。さ、あそぼあそぼ!」

 

 ヤーツェとナナルは魔法の国の中でも名家の出らしく、上等な生活物資が定期的に送られてくるらしい。その他の雑事も魔法で簡単に済むため、少女に手伝えることは何もなく、言われるがままヤーツェに手を引かれ野遊びに精を出した。

 

 とはいえ少女は姉妹のことを信頼していない。いつひどい目に合わされるか分からないため、あくまでも食事と寝床を確保するために、ご機嫌取りの一環として野遊びに付き合った。

 

「すごーい! お猿さんみたい!」

「こ、このくらい余裕だし……」

 

 木登りでは山育ちの貫禄を見せつけ、

 

「ほわぁー! 向こう岸まで届いた! 私なんてきっと魔法を使っても届かないのに!」

「すべての秘訣は手首の使いようなのよ、ふふん」

 

 川べりでの水切りでは芸術的な腕前を発揮し、

 

「これ食べられるの? わあ、あまーい! 物知りだ!」

「ここらへんは木の実がすごく多いねー」

 

 小腹が空いたときには食べられる果実や草の知識を披露して、

 

「あの山脈、見える? あれを超えた先に『百合の国』があるのよ」

「そうなんだー。いつか行ってみたいな。ところで百合って何?」

「とてもキレイで尊いものらしいわ」

 

 行商人から又聞きした外国の話を聞かせることもあった。そのたびに称賛され尊敬の目を向けられた結果、

 

「ふっふーん! 私にかかればこんな森庭みたいなものよ!」

「すっごーい!」

 

 すっかり調子に乗った。するとさらにヤーツェが褒めちぎるので際限なく少女はつけあがり、本来の明るい性格を取り戻していった。ヤーツェは森で暮らしているとは思えないほど遊びの知識に欠けており、少女は教えを請われるたび必要とされる快感を楽しむ。暴力と恐怖で否定され歪みに歪んだ性格が、優しい肯定の繰り返しで癒やされていった。

 

 そのように精神的な余裕が生まれると、元来の子供らしい好奇心も付いてくる。

 

「ヤーツェ、あの塔は何なの?」

 

 まず興味が湧いたのは、遠方にそびえる塔だ。百合の国とは別の方向にあるそれは距離感が狂うほど太く高く、頂上は雲の上を突き抜けて見えない。

 

 ヤーツェはえっと、と考え込みながら、

 

「知識の塔、だったかな。魔法使いたちが大切にしてるところで、中はたくさん本が詰まってるんだって。魔法の国の中心にあるんだよ」

「ふーん。そうだ、魔法! ヤーツェ、私に魔法を教えて!」

 

 本に興味はわかない。予想より退屈な答えだったせいか、少女の好奇心は魔法の国の伝統、魔法に向けられた。何もないところから火や水を出したり、雷を落としたりできると少女の故郷にまで伝わっている不思議な力。実物を見てみたいし、あわよくば自分も使ってみたい。

 

 少女のきらきらした視線にヤーツェは戸惑い、しばらく目を泳がせた末、取り繕った笑顔で魔法の解説を始めた。

 

「生き物はみんな魂を持ってて、魂は常に微弱な力を発しているの」

 

 垂れ流しにされている魂の力。これを特別な理論と発声で制御し、現象に変えたものを魔法と呼ぶらしい。

 

 よく分からなかった。

 

「……|____|___|_|: 発動『捻動』」

 

 少女が首を傾げていると、ヤーツェは浮かない顔で言語を絶する奇怪な声のような何かを発し、近場の木立に手を向ける。すると木立が風もないのに左右へ揺れ、枝の一つがひとりでに動き、半ばから捻じ切れた。

 

「ごめん、地味だよね。私にはこれが精一杯なの……」

「そんなことない。触りもせずに物を動かせるなんてすごい! ヤーツェは立派な魔法使いよ!」

「そう、かな。えへへ」

 

 少女は初めて見る魔法に対し純粋に感動していたが、どこか決まりの悪そうな笑顔を浮かべるヤーツェが気になって、それ以来魔法をねだることは控えた。魔法があろうがなかろうが、ヤーツェと過ごす時間の楽しさは揺らぐことはなく、二人は仲の良い姉妹のごとく森を駆け、遊び回った。

 

 その一方で姉のナナルもまた、少女が立ち直るのに一役買った。

 

「二人ともー、おいしいパイができたわよぉ」

「おいしい、おいしい!」

「もー、ほっぺたに付いてる!」

 

 何をしているのか日中ずっと室内に引きこもっているナナルは、気まぐれでパイを焼き少女たちに振る舞う。サクサクの生地が無数に重なるプレーンパイ。塩と水だけの簡素な味付けだが魔法のように美味で、少女は夢中で平らげるあまりヤーツェに笑われながら口元を拭われる。魔法のような美味しさをナナルに聞いてみると、「ここは水の質がいいもの、ねぇ?」と思わせぶりに笑っていた。秘伝のレシピか何かだろうか。

 

 ヤーツェは明るく優しくて、ナナルは普段何をしているのか分からないがとにかくパイ作りと料理が抜群にうまい。少女はとても幸福だった。

 

 かといって、心の傷がなくなるはずはない。

 

「ナナル様、遅くなりました」

「はーい」

 

 夕暮れ時、空が藍色に染まる時間帯。三人がナナル特製のきのこシチューを楽しんでいるとき、扉がノックされた。

 

 扉を開けると、青い鎧を身にまとった数人の男たちが荷車の横に立っている。生活物資の配達だ。食料、薪、研究用の器材や素材、新聞などが主な内実となる。ナナルと男たちは慣れた様子で言葉を交わし、荷おろしに取り掛かっていく。

 

「いやぁぁぁあああっ!!」

「ふぇ!?」

「あらぁ?」

 

 そんな光景を前に、少女は絶叫した。イスを蹴倒し床を踏み抜き、飛び上がる勢いで二階へ逃げた。

 

「ナナル様、あの子は……」

「拾ったの。森で怪我していたのを見つけてねぇ」

「なんと……ここだけの話なんですが──」

 

 ナナルと男たちが何やら内輪で話をしているその上で、少女は自室のベッドに引きこもりガタガタ震えていた。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 

 人間には理不尽な苦しい目にあうと、意味もなく謝罪する本能が備わっていることを少女は久しぶりに実感している。自覚はなかったが、養父と騎士たちから受けた扱いにより男性恐怖症になっていた。

 

 それに追い打ちをかけたのが、男たちの青い鎧だ。

 

 あの鎧は、村を焼いた男たちが着ていたものだ。

 

「ね、ねえどうしたの? 大丈夫?」

「やーつぇえ……」

 

 ヤーツェが部屋に入ってくるなり、少女はヤーツェの細い身体にすがりつき、わんわん泣いた。そうしてその身に刻まれた過酷な経験を、とぎれとぎれに吐き出す。

 

 すべて語った頃には夜も深く、男たちもとっくに姿を消していた。

 

「大丈夫、もう大丈夫だから」

 

 ヤーツェは話を聞いている間、ずっと泣いていた。ともすれば少女よりも悲しそうに、辛そうに。それでもけっして耳を閉ざすことなく一心に聞きながら、傷ついた少女の身体を抱きしめていた。

 

「私も、ナナル姉も、絶対あなたを裏切らない。何があっても味方だよ。辛いのも苦しいのももう終わり。あなたは十分頑張った。これからは私たちが……ううん、私が幸せにするからね」

 

 その日以来、少女はヤーツェが大好きになった。ふとしたときに心の傷跡が痛むたび、ヤーツェに泣きつくようになった。ヤーツェの胸や首筋に顔をすりつけぐずる少女の姿は、無邪気な白い子猫が甘えているようだった。

 

 数日後。

 

 ヤーツェの姉であるナナルはそんな二人の仲睦まじい様子に、窓の内から無機質な視線を送っていた。さらさらの金髪と雪のような汚れなき白髪が、森の深緑の背景でなびき、鳥のさえずりに少女たちの鈴のような笑い声が響く。木漏れ日に照らされる彼女たちは世界に祝福されているようだ。

 

 と、そのように見られている少女はというと、ナナルに不信感を抱いていた。

 

「ねえヤーツェ。ナナルさんはどうして一歩も外に出ないの?」

「魔法の道具を作るのが忙しいんだって」

 

 ある日、森の中の小さな花畑でのこと。少女はヤーツェの膝に頭を預け、花のベッドの上に寝転がっている。少女が頭を動かすたび、ヤーツェはくすぐったそうに膝をもじもじさせた。

 

「魔法使いで、魔法の道具の職人さんなんだっけ」

「そうそう」

「だけど私、魔法の道具を見たことがないわ」

「たくさん作ってるんだよ? たとえばこれとか」

 

 ヤーツェがこれ、と言ってみせたのは、ヤーツェの首から下げられた指輪だった。琥珀色の小さな宝石があしらわれており、よく見るとリングの表面に複雑な文様が幾重にも彫り込まれている。

 

 田舎娘の少女にも、魔法の道具には不思議な効果があることは知っていた。この指輪にはどんな効果があるのだろう。

 

 気になって聞いてみると、

 

「あはは……」

 

 ヤーツェは見たこともない表情で空笑いを浮かべた。悲しさと寂しさと、ほんのちょっぴりの嬉しさが入り混じった複雑な顔だった。天真爛漫なヤーツェのイメージからかけ離れた笑い方に少女は何も言えなくなり、聞かない方がいいのだろうと察した。

 

 ヤーツェではなくナナルの方に聞いてみようか。少女がそう思い立った日、期せずして指輪の効果が知れることとなった。

 

「いえーい私の勝ちー!」

「腕を上げたわね」

 

 小屋の前に立つ高い木。とっかかりの多いこの木は木登り競争をするのに向いている。いつもは少女が勝つのだが、その日はときの運によるものかヤーツェが勝利した。

 

 降りてきたヤーツェはひとしきり勝ちを喜ぶと、おもむろに首のチェーンへ手をかける。

 

「ヤーツェ?」

「私、元気だよね。元気いっぱいだよね」

「え、う、うん。毎日うるさいくらい、元気だけど」

「そう、そうだよね……もう元気だから。きっともう、良くなってるから……もう迷惑はかけないから」

 

 うわごとのようにつぶやいたヤーツェはチェーンリングを首から外した。寝るときも湯浴みのときも肌身離さず付けていた魔法の道具が、初めて少女の前で外される。

 

 変化が起こったのは数秒後のことだった。

 

「うっ、ぐ、は……っ!」

「ヤーツェ!?」

 

 ヤーツェは突如膝をつき、激しく吐血した。反射的に口を抑えた手が真っ赤に染まる。

 

 異変はヤーツェの身体だけに留まらない。先程まで木登りに使っていた木の幹が雑巾のように捻れ、めりめりと音を立て倒壊した。ヤーツェの目が諦観の色を帯びる。

 

「ダメ、かあ……一生このままなのかなぁ……」

「バカッ、なんてことしてるの!」

 

 呆然としている少女の前に、とんがり帽子が躍り出る。小屋からこちらの見えていたナナルが飛んできたのだ。ナナルは慌ててチェーンを妹の首にかけ直すが、喀血は収まらない。

 

 ようやくヤーツェの容態が落ち着いたころには、日が暮れていた。小屋の中、いつしかヤーツェと少女が毎晩一緒に横になるようになったベッドで、ヤーツェが一人穏やかに寝息を立てている。

 

「この子は生まれつき魂を病んでてねぇ」

 

 ぽつり、と。遠い目のナナルが語りだしたのは、姉妹がこの辺境に住むまでの経緯だった。

 

 二人は魔法の国における、有名な魔法使いの家に生まれた。七女であるナナルは幼少の頃から魔法の道具製作において才能を発揮していたが、対照的に八女のヤーツェは大病を患っており、魔法どころか普通に生きることも難しい状態だった。

 

「人の魂は常に微弱な波動を出してるってのは、ヤーツェから聞いてたかな? この子はその波長が尋常じゃなく強くて、放っておくと周囲を巻き添えに自分の身体も内側から潰してしまうの」

 

 少女の脳裏に、捻じ切れた木の姿が浮かんだ。ああいった破壊がヤーツェの身体の中で起こっているらしい。生まれつき強力過ぎる魂の波動は制御不能の物理的破壊力となって、周囲を見境なく傷つける。

 

「治療の方法はあった。でも家の人たちは治療をしぶった。莫大な治療費を無能な娘に投じる必要はない、って。まったく魔法至上主義の無能どもめ」

 

 ギリ、とナナルが歯を食いしばる。

 

 姉妹の実家は、何も治療をしないことで暗にそのまま死なせてしまえと主張していた。ナナルはこれを良しとせず、独自に魂の波動を抑制する魔法の道具を製作し、ヤーツェに与えた。これが例の指輪だ。

 

「あの腐った家にいたら、身体の前にヤーツェの心が折れてしまう。そこで色々とツテを頼って、この霊場に二人でやってきたのよ」

「霊場……?」

「ええ。この森は地脈のエネルギーの溜まり場故、魔法の効果が強まる。道具の効果も。川の水質や果実に恵まれているのもその影響……さすがに焼き方を工夫するだけじゃ、あんなにおいしいパイは作れないわ、ねぇ?」

 

 霊場の力によって指輪の効果が強まり、波動を弱めるのではなく完全に抑え込むことに成功していた。普通の子供と同等の体力で山を駆け回ることもできた。しかし先程指輪を外してしまったことで、抑えていた分の波動が一気に溢れ出したらしい。

 

 少女は合点がいった。ヤーツェは暮らしている場所の割にあまりにも野遊びについて無知だった。元々動けないほど身体が弱かったために、霊場と魔法の力で元気になっても外で遊ぶ発想がなかったのだろう。

 

 重苦しい空気の中、ナナルは憔悴して力なくうなだれる。

 

「一体なんであんなこと……」

「……なんで、はこっちが聞きたいよ」

「ヤーツェ!」

 

 ヤーツェがうっすらと目を開けていた。慌てて詰め寄る少女とナナル。

 

 ナナルが具合を問うよりも早く、ヤーツェは吐き捨てるように言った。

 

「お姉はなんで私に構うの」

「家族だからよ」

「実家に数え切れないくらいいるじゃない」

「違う。私が家族だと思えるのは、あなただけ」

「ウソばっかり」

 

 ヤーツェは突如跳ね起きて、首にかけられたチェーンをちぎらんばかりに握りこむ。

 

「どうせ同情してるんでしょ。誰からもいらない子扱いされて身体も弱い私のことを守ってる気になって、いいやつぶってるんだ。満足するための道具のことを家族って呼んで、自分に酔ってるんだ」

 

 横で聞いていた少女は絶句した。ヤーツェがこれほどひねくれたことを言うとは想像もできなかった。

 

 直接辛辣に当たられたナナルはしかし怯まない。

 

「ええそうかもね。同情かもしれない。陶酔してるのかもしれない。だけどどんな風に私の気持ちを決めつけたって、私はあなたがなにより大切。これだけは譲れない」

 

 言いながらさりげなくヤーツェの首元から指輪を取り上げて、ヤーツェの手にあてがう。喉奥を震わせる特殊な発音でつぶやくと共に指輪が光を発し、次の瞬間にはヤーツェの指にぴたりと吸い付いていた。

 

「悪いけど、勝手に外せないようにさせてもらった」

「あっそ。出てけ」

 

 姉妹の会話はそれきりぶつりと途切れた。ヤーツェがシーツを頭からかぶり、「大嫌い」と吐き捨てる。ナナルは踵を返して部屋を出ていく。

 

 いたたまれない少女も出ていこうとするが、シーツから突き出したか細い手が少女の手首をつかんだ。

 

 一人では心細いのだろうか。血を吐いて倒れたことを思うと当然だろう。少女は無言でベッドに腰をおろし、ヤーツェの手を握った。

 

「お姉、さ。あなたが目を覚ましたとき、『私たちははぐれものだ』って言ってたでしょ。あれウソなんだよね」

 

 シーツの中から、くぐもった独白が聞こえてくる。

 

「はぐれものは私だけなんだ。本当はこの霊場にも、私だけが送られるはずだった。なのにお姉は家に反発して無理やり私に付いてきた。病気を治す道具の研究をする、とか言って」

 

 ナナルは将来を嘱望される優秀な魔法使いだった。幼くして既存の魔法体系をマスターし、独自の魔法理論や体系の開発に成功した功績を評価され、若くして高位魔法使いたる『魔人』の称号を得た才媛だ。

 

「だけど私に構うから……ううん、お姉が優しいのはわかってた。その優しさに甘えた……私が全部、悪い……」

「悪くない」

 

 少女の口は気づけば動いていた。何も考えていなかった。

 

「難しいことはよくわからないけど、ヤーツェは悪くない。ナナルさんが優しいのも悪くない。きっと誰も悪くない。だから、えっと──泣かないで」

 

 少女の言葉に中身はなかったし、理屈も意味も通っていないが、それでも伝わるものはあったらしい。ヤーツェはもう一方の手をにゅっと出して、少女の手を強く握った。痛いほどの力だった。

 

 この日を境に、ヤーツェとナナルの間に壁が出来た。お互い目を合わせないようにうつむいて、遠くからうっかり視線が合うと弾かれたように顔を逸らす。

 

「けほっ、けほ」

「ヤーツェ、しっかり」

 

 ヤーツェは症状が進行したため頻繁に咳き込み、ひどいときには微量の吐血も見られるようになった。ナナルは食事時にもアトリエにこもって研究に没頭する日が多くなったが、進展に乏しいらしく扉の向こうからはしばしば「何が魔人よ、くそっ」などと悪罵する声が聞こえる。少女は何もできない無力感を噛み締めながら、苦しむヤーツェの背中をさすった。

 

 そうして陰鬱な空気が漂い始めて一月が経ったころ、ようやく変化が起こった。

 

「少し、付き合ってくれない?」

 

 新月の夜。星のわずかな明かりが降り注ぐ深夜に、ナナルは眠る少女を揺り起こした。隣にはヤーツェが寝ていたが、彼女は眠りが深い。少女が目をこすってベッドを離れても起きることはなかった。

 

 ナナルはゆっくりと夜道を歩き、その後ろを少女がついていく。ほどなく清流に出た。梢がないため星の光がよく届き、ぼんやりと川辺を照らし出している。

 

 こんなところに呼び出して何の用だろうか。

 

「あの子はほめてくれた」

 

 首をかしげる少女を振り返ることもなく、出し抜けにナナルが切り出した。

 

「ウチの家は無能ぞろいのくせに気位だけは高くてねぇ。事を成しても出来て当然、出来たとしても妬み嫉みの対象になる。百度のうち一度でも失敗があると、これ幸いとばかり吊し上げが始まる。クソみたいな環境だったわ、ねぇ?」

 

 そんな中、ヤーツェはほめてくれた。簡単な魔法を使うだけで、呪文を唱えるだけで、理論を説くだけで目を輝かせ、すごいすごいと褒めてくれた。自分の名前を呼び、出来たことを褒めてくれる。存在を承認してもらえる。これ以上の幸せは考えられないし、この幸せを教えてくれる人はかけがえがない。

 

「だから、ヤーツェは家族なんだろうなあ、と。あの日からいろいろ考えて、そんな風な答えが出たの」

 

 ぞわりと鳥肌が立った。

 

 ナナルの立ち姿は自然体で、何の緊張もない。言葉には慈愛と郷愁があふれていて、棘は一片たりとも感じない。しかし少女の本能は今すぐ逃げろと警鐘を鳴らしている。

 

 ナナルの考えはよく分かったが、それを聞かせるだけならここまで移動する必要はなかっただろう。

 

 疑問を口に出そうとする少女の声に、ナナルが重ねる。

 

「君はヤーツェのことが好きよね。大切に思ってる」

「は、はい」

「自分の命より?」

「それは……はい」

 

 脈絡のないナナルの質問にも、少女は怯まなかった。

 

 少女はヤーツェを大切に思っている。痛く苦しい思い出を親身に受け止め、自分のことのように泣いてくれることがどれほど少女の助けになったことか。可能ならヤーツェの苦しみだって少女が代わってあげたいとさえ思っている。

 

 少女の純粋な思いを聞いたナナルは「うんうん、そっか」と鷹揚にうなずき、黙り込んだ。

 

 いよいよ訳が分からない。何を考えているのかと問いただそうとする少女だが、それより早く気づいた。

 

「ひっ!?」

 

 川辺を囲む木立。その合間の闇の中に、青い鎧の男たちが佇んで、じいっと少女を睨みつけていた。

 

 恐怖に身をすくませ、後退ろうとすると尻もちをつく。男たちがゆっくりと距離を詰めてくるが、腰が抜けて動けない。

 

 逃げられない。少女の絶望的な気持ちに応えるように背中が激痛を発し、骨と肉と皮膚をえぐって一対の肉塊が顕現する。

 

 声も上げられない激痛の中で少女は安堵した。この不気味な翼は力になってくれる。怖い男たちから自分を守ってくれるに違いない。

 

 が、少女の期待は裏切られる。

 

「|___|__|||_|_||_|=|_:発動『業衝く針』」

 

 奇天烈な発音が複雑な音階を奏で、最後にパチリと小気味よい音が弾ける。ナナルが背中を向けたまま呪文を唱え、指を弾いたのだ。

 

 小さな動作の反面、効果は絶大だった。虚空から短剣程度の短く青い針が二本出現し、ひとりでに宙を舞う。杭ほどの太さがあるそれらは少女の背に回り込み、突き刺さった。

 

「……っ!?」

 

 声にならない悲鳴とともに少女が倒れ、赤い翼が煙のように消え去る。青い針は少女の奇妙な力を抑えつけるように肩口を深々と穿っている。少女が倒れたスキを逃さず男たちが詰め寄り、組み伏せた。

 

 ナナルはうつぶせになった少女のもとへ歩み寄って、かがみこむ。

 

「命より大切だって言うなら、その命売って頂戴?」

「どういう、ことですか……ぐすっ、なん、なんですかこの人たち……」

 

 べそをかく少女に憐憫の眼差しを向けると、ナナルは淡々と告げた。

 

「君の一族はこの国ではたいへん貴重な研究素材なの。君を売った金と私の貯蓄を合わせれば、ヤーツェの病を治すこともできるでしょう」

「一族? 素材……?」

「今の赤い体外組織の名は『(ごう)』。君は業の一族の唯一の生き残りなのよ」

 

 大河と山脈に隔たれた三つの国は、それぞれ独自の武力を根拠に均衡を保ってきた。魔法の国の魔法、百合の国の百合、そして少女の故郷に伝わる業の力。

 

 魔法と百合に対し、業の力は生来の才能によるところが大きい。使い手はみるみる減少し、ある寒村の一族だけに細々と受け継がれていた。その寒村が少女の故郷だ。

 

「私たち魔法使いは探求熱心でねぇ。業の使い手が減少して武力的均衡が崩れた今なら、謎の多い業使いをサンプルに研究を進めるチャンスだと考えた。結局、想定より激しい抵抗に見舞われて、生け捕りはできなかったそうだけど」

 

 ナナルは男たちになじるような視線を送った。男たちは少女の故郷を襲った兵士たちである。

 

「でも一人だけ。一人の少女だけが生き残り、どこかに逃げ延びた。外見的特徴は一族の中でも特に白く美しい髪と肌──という情報を伝えられたのが、二ヶ月前の配達のときだったわ」

 

 二ヶ月前、少女が男たちの鎧に悲鳴を上げたあの日のことだ。ナナルが男たちと話し込んでいたのは、まさにあの少女が例の生き残りではないかとやり取りしていたのだ。

 

「そのときはまだ、君を売ろうとは考えていなかった。症状はきちんと抑えられていたから。時間をかけて研究を続けていくつもりだった。そこにきてヤーツェがあんなことをするものだから……」

 

 ナナルは力なく首を振った。一度悪化した病を止めるのはすでに不可能だった。堤防が小さな穴から少しずつ決壊していくように、魂のほころびは拡大していく。霊場の力があっても症状を遅らせるしかできない。

 

 つまりはヤーツェを助けるためには一刻の猶予もなく、今すぐ莫大な金を用意して既存の治療を受けさせる必要があった。

 

 そのために、ナナルは少女を売り飛ばす。

 

「たぶん君は、死んだほうがマシだとこの先何度も思うだろうけど……別にいいわよね。命よりヤーツェが大事だって言ったもの、ねえ?」

「……っ」

 

 少女はがっくりと首を落とした。ナナルではなく、自分自身に失望したのだ。

 

 ヤーツェのことが本当に大切だと思っているはずだった。しかし死ぬより辛い目に遭うと聞かされたとき、そんなのは嫌だと一瞬でも考えてしまった。ヤーツェを好きだと思っていた自分の気持ちはその程度の脅しで揺らぐ程度のものだった。そう考えると失望感に満たされる。

 

 そして自分がどうあがいても逃げられない状況にあることを思い出し、失望は絶望に変わった。

 

 男たちは少女の口に布を噛ませてから、頭に袋をかぶせ、両手両足を手早く縛り上げる。力なく人形のように担ぎあげられ、少女はどこへとも知らず運ばれていく。

 

 去り際、少女の耳にナナルの声が聞こえた。

 

「好きなだけ恨むといいわ。さようなら」

 

 後悔と自嘲に満ちた言葉がはっきりと耳朶を打つ。

 

 しかし大切なものをすべて、二度も失い空っぽになった少女の心には、どんな大音声だって響かない。姉妹がくれた優しさ、ヤーツェの言葉、ナナルのおいしいパイ。つかの間の幸せが走馬灯のように脳裏をめぐり──

 

 少女は考えることをやめた。

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