ねっちょりエログロ暴力百合ファンタジー 作:ぐえー
「うふふ、黒焦げザクザク真っ黒パイ〜」
「ああ姫様、おいたわしや……」
シロが王宮の厨房に足を踏み入れたとき、そこではいつものように第一王女ユリエルが調子の外れた歌と共にパイを黒焦げにして、忠実なる料理人たちはいたましい姫の様子を前にハンカチを噛んでいた。
シロは大きくため息をつき、うんざり顔でずかずかユリエルに近づいてオーブンから引き離す。
「んもうっ、らしくない! いつまで落ち込んでんのよ!」
「あらシロ、いいところに来たわ! ちょうどパイ生地をこねる感覚に私の両手が飽きた飽きたと悲鳴を上げているところだったの! あなたの真っ平らな胸を揉んで気晴らしさせてもらえる?」
「真っ昼間から盛るな! それと食べ物を粗末にしない、あむっ……まっず」
ぐるぐる目で手を伸ばしてきたユリエルを叱りつけつつ、炭化したパイの残骸をぺろりと平らげるシロ。すさまじい苦味に顔をしかめるのを見てユリエルはハッと我に返ったので、シロはさっさと彼女の手を引いて厨房を抜け出した。二人の背を料理人たちと野次馬王宮仕えたちの心配げな視線が見送る。ユリエル姫のパイ乱心は彼ら彼女らの大きな懸念だった。
シロはユリエルの手を引いて回廊をしばらく歩き、人気のない一隅へ身を寄せる。周囲に聞き耳を立ててから改めてユリエルに向き合った。ユリエルの瞳には平生の活力と自信が欠け、争奪戦の末勝ち取ったというお下がりの王冠は、頭からずり落ちそうになっている。
「いい加減、くよくよするの止めて。あの日からもう一ヶ月経ったのよ」
「一生の不覚は一ヶ月で忘れられるものではないらしいの。あなたが大変なとき、私はパイを焼いていた……不覚、失敗、大失態だわ……」
「あーもーうざったい!」
シロは頭を抱え、ユリエルのしつこい傷心に地団駄を踏んだ。
シロが魔神に誘拐された一ヶ月前の事件は大いに波紋を生んだ。シロと同じメイドたちや後輩は悪名高い魔神に何かされなかったかと狼狽し、血の気の多い女王はまたも魔法の国と事を構えようとして宰相婆にたしなめられ、シロが心身ともに無傷であることを知るなり皆が安堵した。小さな頑張り屋メイドの安否は王宮の誰もに影響を与えていたのだ。
しかし誰よりも強く影響を受けたのが、ユリエルだった。
理由は簡単で、ユリエルはシロが囚われている最中パイ作りに夢中だったからだ。都合の悪いことに、シロはユリエルにだけは魔神ヤーツェとの関係ややり取りを余さず白状していた。一見無傷でも特別な針で刺され、抉られたことを含めてだ。
それ以来ユリエルはふさぎ込んだ。といっても生来の活発さのせいか引きこもる訳でもなく狂ったようにパイ生地を捏ね、毎日十数枚ほど黒焦げにするというはた迷惑かつ奇怪な形で、傷心を表現した。
その乱心ぶりを初めて見たシロは感動した。自信と前向き思考の権化たるユリエルが、他でもない自分のために落ち込んでいたからだ。無駄になった黒焦げパイを毎日処理しに行くのも、しおらしいユリエルを愛でるためと思えば苦ではなかった。
とはいえ、さすがに限度がある。端的に言えば、炭化パイを一ヶ月毎日食べに行くのに嫌気がさした。済んだことをうじうじと思い悩むユリエルには次第に苛立ちが募った。
いい加減、こういう気持ちになるのね、といつもみたいに受け入れて立ち直ってほしい。出来ないようならどんな手を使ってでも励ましてみせる。
そんな決意を胸に強気な姿勢だったシロだが、ユリエルが不意打ち気味で抱きついてきたので、言葉を失う。
「シロ、きっと苦しかったでしょう。何もできなくてごめんなさい」
「……別に。業の力のせいで痕もないし。痛いのには慣れないけど、もう終わったことよ」
「ええ、終わった。私の知らないところでね」
シロは飽き飽きした。いじけるにせよ落ち込むにせよ、同じことを何度繰り返すのだろう。結局ユリエルは、シロのピンチに何も出来なかったことにふてくされているだけだ。
シロは励ますのも忘れて無言でやさぐれていると、当たり前のようにユリエルが続ける。
「生涯を共にする伴侶の窮地に駆けつけることもできないなんて、こんなに自分が嫌いになったの初めてよ」
「えっ」
思考が止まった。生涯を共にする伴侶、伴侶。同じ単語が脳内を反響し、徐々にシロの顔を赤く染めていく。
「は、伴侶って。その言い方だと、まるで結婚でもするみたいよ」
「ええ、もちろんするわよ」
「ふぇ」
シロが変な声と共に硬直すると、ユリエルはハグの姿勢から身体を離し、きょとんと首をかしげる。何か変なことを言ったかしら、とつぶらな青い瞳から読み取れた。
結婚についてはメイド教育の内容に含まれていないが、故郷の村で一般常識程度に知る機会があった。その言葉の意味するところは夫婦になること。太い縁を結ぶこと。
シロはユリエルのことが好きだ。もし可能ならユリエルと結ばれたいとさえ思っている。しかしユリエルは百合の国の第一王女、王位継承の第一候補であり、紛れもない貴人にして要人だ。いくら親しくとも一人のメイドと結ばれるのは周囲が許さないだろうし、何より大きな問題がある。
「わ、私たちは女の子同士じゃない」
そう、夫婦とはつまり男女である。実際、シロの両親は男女の夫婦だったし、他の子供たちの両親もそうだった。おそらく女同士で結ばれることはないのだろう。
ユリエルはますます分からないとばかり首をかしげ、
「だから何?」
と言ってのけた。
間もなく思い出したようにあっと声を上げる。
「あ、そう言えば言ってなかったかしら。百合の国ではね、結婚に性別と身分は関係ないのよ」
「え、えっ?」
「百合の加護があるもの。愛し合う者同士が誓いを立てれば、ふさわしい時期に子供を授かる。身分の差だって意味ないわ。今の時代に一番百合の加護が強いのは私だけど、もしどこかに私より強い子が確認されれば、その子が王位を継ぐことになる。他の国だと血統が大事らしいけれど、この国は単純、加護の強さが一番大切。そして百合の加護とは、おためごかしじゃない本当の愛に伴うものなの。つまり──」
ユリエルは壁に両手をついて、シロの左右を塞いだ。精緻な美術品めいたユリエルの顔貌が鼻先まで迫り来る。
「シロと私は結婚するの」
シロは頭が真っ白になった。
ユリエルのことは恋人だと思っていたし、あわよくばずっと共にいられたらと望んだこともある。しかし身分と性別の問題があった。どうせいつか離れることになる、だから今のうちにユリエルを独り占めしたくて、無理な求めにも応じ幾度も身体を重ねた。しかしいざ何の問題もなく一緒になれるのだと言われても実感がわかず、シロはただ蕩けた瞳でユリエルを見返すしかできない。
沈黙するシロに対し、ユリエルの瞳が不安で揺れた。
「シロ、まさかあなた……冗談のつもりだったの? あんなに何度も愛し合ったのに、遊びだった? 恋人だって言ってたのに?」
「ち、違う、私は……!?」
言い訳は凶暴なキスに潰された。困惑するばかりのシロの口内にユリエルの舌が入り込み、余すところなく蹂躙しつつ激しく絡み合う。黒焦げパイの余韻のためかキスの味はほのかに苦い。シロはすぐに足腰の力が抜けていくが、ユリエルのしなやかな太ももがシロの足の間へ潜り込み、座るのを許さない。
たっぷり一分以上にも及ぶキスを終え、二人の間に銀の糸が垂れる。
息も絶え絶えで咳き込むシロ。一方、ユリエルはまだ不安げな顔でシロを捕まえて離さなかった。
「私は誰にでも大好きなんて言わない。キスもしない。あなただからこんなに恋しいの。ねえ、シロだってそうでしょ? そうだって言って。結婚したいと認めて」
「けほっ、けほ……でもユリエル、私なんかで、んんっ!?」
ユリエルはまたも口を塞いだ。快感と息苦しさで意識が飛びかけ、たまらず身を捻ろうとするシロ。しかしシロの非力な手でユリエルを押し返すのは叶わず、ユリエルの太ももに半ばまたがっている態勢のため動くことも出来ず、頬と後頭部に手を添えられ顔を固定されているので、すべてを受け入れるしかなかった。
シロは当然、ユリエルと結婚したかった。即承諾するのはなんとなくはしたない気がして、一応卑屈な謙遜を入れ込んだだけだ。
が、ユリエルの不安は度を越していた。一生を共にするつもりだった相手から、一時の関係に過ぎないと仄めかされたのだ。肯定以外の言葉は認められないし、そのためならどんな手段だって使う。シロを求める気持ちがユリエルを短絡的にさせていた。
ユリエルの行動は次第に激化し、三度目のキスで片方の手をシロの身体に這わせ、四度目でもう片方も使い始めた。シロは小さな身体を小刻みに痙攣させ、断続的に意識が飛ぶせいで何をされているのかすら曖昧になってきた。
結局ユリエルが望む言葉を引き出したのは、六度目のキスを終え体力自慢のユリエルでさえ息が切れ始めた頃である。
シロはずるずるとへたり込みながら、夢見心地で言った。
「結婚しまふ……」
「やったあ! じゃあ成人したらすぐしましょう、そうしましょう! 忘れたら酷いんだからね!」
「ふぁい……」
百合の国における成人は十五歳である。シロはまだ十四なので、早くとも来年のことになるだろう。ユリエルは「ユーリーンに自慢しちゃうわ!」と小躍りしてはしゃいでいる。
シロは似たもの姉妹ですこと、とぼんやり呆れながら意識を失い、次に目覚めたときには天蓋付きのベッドでユリエルに抱き枕にされていた。素肌の暖かさに包まれながらそのときやっと「結婚するんだ」と実感が湧き、形のいいユリエルの胸に顔を埋め、喜びのうちに二度寝した。
公的なお披露目は成人してからということで、二人の関係はまず宮殿内に公表された。といっても元から二人のことは公然の秘密扱いだったので、新顔の後輩メイド数人が驚いていた以外には静かな祝福をもって受け入れられた。
シロの友人たち──まず相部屋の女郎蜘蛛ことスミレはというと、「浮気したくなったらいつでもお相手します」と冗談だか本気だか分からない調子で、黒百合騎士団員たちは口笛を吹いて囃したて、団長たるユーリーンは「家族になる。ユー姉さん、と呼ぶべき。今すぐ呼ぶべき」と無表情で鼻息を荒くしていた。
そんな中、もっとも反応の激しかったのはヤーツェだった。
造船所裏手の桟橋にてシロから直接話を聞くと、ヤーツェより先に海が反応を示した。ヤーツェを中心に海面が大時化もかくやとばかり荒れ出したのだ。魔神の捻動が暴走していた。
「なんでなんでなんで? 世界で一番シロを愛してるのは私なのに、シロと最初に会ったのは私なのに、大好きで大切で親友なのにどうしてポッと出のエセ王族なんかがシロを奪うの? どうして、どうして──よし殺そう。ねじってひねってバラバラだ」
「こらっ! 落ち着きなさい!」
「いたっ! ご、ごめんなさいごめんなさいもう悪いことしないから許して! 嫌いにならないでお願い!」
シロがヤーツェの頭をはたくと、海が瞬時に凪へ戻った。号泣してすがりついてくるヤーツェをシロは苦笑して抱擁し、なだめすかしてどうにか納得を取り付けた。
しかし賢明な女王からするとヤーツェは相当に不穏と感じたらしく、かねてより予定されていたヤーツェの国外派遣を実施する運びとなった。最長で半年間、国外のとある地域で資源を採取する仕事らしい。そこで頭を冷やせということだろう。
もちろん執行猶予付きの犯罪者たるヤーツェを一人にするわけもなく、遠征の相方が用意された。
「お前、お前ぇぇえっ!」
「ん、おひさ」
ユーリーンである。ヤーツェにとっては姉の形見を壊したのみならず踏みにじった怨敵、かつ能力的な天敵でもある。
女王の御前で顔を合わせた二人は早々と殺し合いに近いケンカを始め、女王は満足げに頷いた。
「仲がよろしくて何より」
「母上、目腐ってる」
ユーリーンは無表情の中に呆れをにじませ、ヤーツェの殺意をいなしながら遠方へ旅立った。
そうして慌ただしい日常を送りながら、シロは幸福を感じていた。戸惑うほどに幸せで満たされた毎日だった。
村を焼かれ、両親を殺され、養父に騙され、友と離別し、売られ刻まれ殺されてきた。そうした苦難の時期とはあまりにかけ離れた平穏な日々にわずかな戸惑いが生じ、それはやがて不安へ変わった。今見ているのはただの夢に過ぎず、目が覚めればあの暗い魔法の国の倉庫で吊るされているのではないかと。
その不安をユリエルに打ち明けてみると、彼女は難しい顔でパイを差し出した。
無言で口に運んだシロは顔をしかめた。生焼けだ。まずい。まずいパイの見本市があれば目立つところに飾られているだろう。
「幸せな夢に、こんな酷いパイは出てこないでしょう?」
「……バカ。さっさと美味しく焼けるようになってよ」
ユリエルはくすくす笑ってそのパイを口に含み、笑顔のまま固まった。どうにかゆっくり咀嚼を始めると心底嫌そうな顔になり、シロは吹き出した。ユリエルはいっこうにパイづくりが上達しない。その成果を二人で処分する瞬間は、ささやかな苦難だった。
とても恵まれた幸せな時間。来年には大好きな相手と結ばれる約束までしている。これ以上ないほど充実していて、しかし現実的な実感のある毎日を過ごした。過去にどんな経験をしても、今が幸せなら何でもいい。百合の国は平穏と幸福に満たされている。
が、シロはまだ知らなかった。
生まれながらに抱え込んだ宿命について、致命的に無知だったのだ。
ーーー
異変はごく静かに始まった。
「……っ!?」
メイドたちの間で面倒な仕事として語種になっている、王宮回廊の掃除中。シロは激しい痛みに身を貫かれ、しゃがみこんで動けなくなった。その痛みは業の力を使うとき、骨や内臓よりもさらに深いどこかから、力が飛び出してくる感覚に酷似していた。
仕事を教えていた後輩メイドは、シロの異変に血相を変える。
「せ、先輩? ど、どこか痛むんスか!?」
「……いいえ、まったく、痛くない……っ!」
「いやいや強がり確定じゃないスか! 人呼んで来るっス!」
「ダメ!」
走りさろうとする後輩の腕を掴んで止める。後輩は困惑顔で振り返るが、シロは構わず自分の内側に意識を集中した。荒れ狂う痛みに歯を食いしばり、勝手に外へ出ようとする業を内へ内へと押し返していく。するとほんの十数秒で痛みが和らぎ、狂った業は感じられなくなった。
立ち上がり、額の汗を拭う。
「ふぅ、もう大丈夫。心配かけたわね」
「それはよかったスけど……明らかに尋常じゃなかったっスよ。お医者さんのとこに行くべきっス」
「必要ない」
「いやでも」
「必要ないと言ってるの!」
シロは後輩に対して初めて大声で怒鳴った。後輩が花瓶を割っても格式高い絵画を汚しても宝物庫の鍵をうっかり開けっ放しにしても怒鳴ることのなかったシロなので、後輩は言葉を失う。
静まり返る回廊。シロは懇願するように言った。
「大声出してごめん。だけど、その、心配かけたくないの。きっと少し疲れてただけよ。きっとそう。大丈夫、大丈夫だから」
「……先輩がそこまで言うなら」
後輩が引き下がったことで、シロの異変はなかったことになった。目撃者が押しに弱い後輩メイドだったのはシロにとって幸運だったろう。
シロは異変をなかったことにしたかった。その理由は周囲にいらぬ心配をかけたくないこともそうだが、何よりシロは認めたくなかったのだ。
幸福な日々が終わろうとしていることを。
異変は次の日、そのまた次の日に容赦なく発生した。最近は仕事時間のほとんどを後輩メイドの指導に当てているため、その最中に起こることが多かったが、食事中や自室で眠っているときにも発生するので、規則性は見当たらなかった。
「シロ、今日はいやに積極的ね? 何かいいことでもあった?」
「あった。ユリエルが今、目の前にいる」
「うふふ、言うようになったわね」
ただ、ユリエルと顔を合わせているときだけは絶対に異変が起こらない。もしユリエルが知ったなら問答無用で王宮付きの医者を呼んでいたことは間違いないため、シロはこの偶然に感謝した。お医者にかかってとんでもない病名を宣告されるなんて、想像するだに恐ろしい。シロは異変を自分の内に閉じ込めることで、気のせいだと思い込もうとしていた。
ただ、異変の激しさは気のせいで済む範疇を超えていた。
「先輩!?」
後輩と王宮階段の手すりを拭き掃除している最中、シロは久しく経験のなかった激烈な痛みに襲われ、バランスを崩した。豪奢かつ長大な階段を転げ落ち、ようやく止まったときには打ち身と骨折だらけになっていたが、それすら意識できないほどに異変の痛みはすさまじかった。シロが味わってきたどんな肉体的苦痛にまさる異様な苦しみ。肉体ではないもっと致命的な何かに亀裂が入っていく感覚。
「すみません先輩、さすがにもう無理っス! 人呼んでお医者さんスよ!」
走り去ろうとした後輩メイドは前につんのめった。シロが後輩の足を固く掴んでいたからだ。シロは表情を苦痛に歪めながらも、懇願するように首を横へ振る。
後輩はためらいがちに掴まれた足とシロの顔に視線を行き来させると、強く足を引いて、シロの手を振り払った。
走り出しざま、シロを振り返らずに告白していく。
「最初はフツーに心配だったっス。でも途中から楽しくなってたんスよ。姫様もスミレさんも知らない、自分と先輩だけの秘密ができて嬉しかったんス」
もと早くこうするべきだったと自嘲気味に結んで、後輩は人を呼びに行った。
シロの瞳は絶望と諦念に満たされる。
ここまで頑なに異変を隠していたのは、心配をかけたくなかったとか異変を気のせいと思い込みたかったというのもあるが、もっとも大きな理由はとある確信である。
取り返しがつかない、という確信だ。
業の力を詳細に知らずとも、シロは異変の深刻さを本能で察していた。自身の感情に応じて窮状を打破してきた業の力が、内側から身体を破壊している。最初に異変が起きた時点で明確な死を予感したからこそ、事実から目をそらした。
つまり、シロの幸せな日々は終わるのだ。
「やだ……生きたい、生きたい……!」
涙ににじむ視界の中、ユリエルの顔が浮かんだ。次いでスミレ、ユーリーン、ヤーツェ、今は亡きナナルに、ベテランメイドや後輩メイドたち仕事仲間。サクサクしたおいしいパイみたいなこともあれば、黒焦げパイみたいな酷い経験もする、百合の国での幸せな日常。それらがすべて終わるなど、到底耐えられない。
しかしシロの生きる意志に反し、発作的な痛みが激化していく。ついに肩甲骨あたりの骨が軋み、肉が裂け。皮と服を剥ぎ取りながら業の力が飛び出した。
ユリエルに森で拾われた時やスミレを助けた時と比べ、業の力はより醜悪に成長していた。赤黒く脈打ち、無数の関節でくねくねと曲がりくねる触手。背中から飛び出した一対のそれを中心に、百足の肢のように一回り小さな触手がうごめいており、それらの先端からさらに細い触手が複雑に枝分かれしている。
業の力は背中からでは足りないとばかり、シロの肩や胸、腹さえ突き破る。背中の触手よりも小ぶりな触手に貫かれたシロは、宙吊りになる形で力なくうなだれた。
「シロっ」
ハッ、と落ちかけた意識が覚醒する。
誰よりも大好きで、誰よりも来てほしくない人の声が、シロの耳に届いた。
「ユリエル……! だめ、来ないで……!」
シロのいる階段の前へ、回廊の向こう側から全速力で走り来るユリエルが見える。王冠を手で抑え、ケープをはためかせ、かぼちゃパンツを惜しげもなくさらして駆けつけるユリエル。その後ろから遅れてスミレ、黒百合騎士団の数名もやってきているが、業の威容を目にするや足が止まった。
あの港町で羽刹たちを瞬殺したように、業は容易に人体を挽き肉へ変えてしまう。シロの制御のない今、近づけば何が起きるか分からない。
しかしユリエルは一切足を止めることなく、苦しむシロへ一直線だ。
それを迎え撃つように業の力が動いた。枝分かれした触手の一つ一つがユリエル目指して殺到する。シロは悲鳴をあげようとするが、出たのは吐血でかすれた声未満の何かだ。
ユリエルは足を止めずに両手を顔の前で交差させる。業の触手たちは鋭い先端でユリエルの腕を抉るが、表面で軌道が逸れ横へ後ろへと弾かれていく。ユリエルの血と共に、白い百合の花弁が散る。
力ずくの方法で業の力をやりすごしたユリエルは間もなくシロの元へ到達。ケガも気にせずシロを強く抱擁する。
「……っつぅ!」
当然、ユリエルは無事では済まない。シロの胸や腹から飛び出た小さな業がユリエルに突き刺さり、二人の周囲に百合の花弁が舞い散っていく。
花弁の密度が上がるとともに、シロは痛みが引いていくのを感じた。ユリエルから温かい力が流れ込んでくる。身体の奥深くに染み渡ったその力は業にまで伝わって、同時に奇形の脈打つ触手たちは白く染まり、百合の花弁へ姿を変え、はらはらと散り消えた。
出血と痛みで体力を失ったシロは、身じろぎさえ出来ない。薄れる意識の中、ユリエルが身体を離すのを感じる。
ユリエルは微笑んでいた。防御に回した腕と貫かれた腹や胸が血まみれなくせに、どこか満足そうだ。
「もう大丈夫よ、シロ」
どこまでも優しく暖かな声音。身体の前面がズタズタにされていようと、ユリエルは変わらずシロを思いやる。
そんなユリエルにシロは救われた。何も欲しがらず一人で呼吸だけして生きていくとふさぎ込んでいたシロに、希望をくれた。
だからこそシロは力を振り絞って、ユリエルを突き飛ばした。
「シロ……!?」
「ごめんなさい」
尻もちをついたユリエルに背を向けると、シロの背から翼状の業が一対飛び出す。
「この力のこと、よくは知らないけど、なんとなく分かるんだ。きっと次はもっとひどい……傷つけるだけじゃ済まない」
「それがどうしたの! 私はあなたになら殺されたって──」
「ユリエルがよくっても! 私が嫌なのっ!」
シロの叫びとともに翼がぐにゃりと蠢き、乱暴な加速と共にシロを窓の外へふっとばした。ガラスが割れ、シロの身体は夜空高くへ消えていく。
ーーー
「待てバカ娘」
「お、お母様!?」
すぐさま後を追おうと立ち上がったユリエルの首根っこが掴まれる。ユリエルが振り返ると、黒百合騎士団を伴った女王がいかめしい顔でユリエルを見下ろしている。奇妙な赤黒い装丁の本を抱えているのに目が引かれるが、それよりも今はなぜ止めたのか聞くのが先だった。
「どうして──」
「止めたのかと聞くなら答えよう。もう手遅れだからだ。やつは間もなく、業の力に飲まれて死ぬ。助ける方法はない」
絶句するユリエルによく見えるよう、女王は赤黒い本を掲げてみせる。
「これはユーリーンと魔神の娘に持ち帰らせた、知的資源の一つだ。中には業の力の詳細が記されている」
ユーリーンとヤーツェは、魔法の国の崩れた知識の塔から、有益な知識を持ち帰る遠征任務に向かっていた。ユーリーンは黒百合の加護と剣技で無法地帯の狂人たちを切払い、ヤーツェは有益な知識の選別と土地勘を活かした案内を担当する。そうした任務で持ち帰った一冊だという。
「いいか、ユリエル。あの娘は生きた形代だ」
女王は中腰で視線を合わせ、言い聞かせるように語った。
「人は誰しも残酷になりたいと思っている。理性に抑圧されたその欲求は、魂の波動に乗って伝播し、増幅し、実体を帯びる。この力が『業』だ」
人の持つ些細な残酷性、業と呼ばれるそれは行き場のない思念の塊だ。放っておけば人の間に不和をもたらす。そうなる前に業を引き受けていたのがシロの出身である一族だった。
一切の穢れのない純真な魂を特徴とする一族は、行き場のない業の力を魂に憑依させ、世の安寧を間接的に保つため形代の役目を全うしてきた。
「だが形代の一族は今やあの娘一人だけだ。新たな業の力が生まれるたび、一つの魂に取りつく。容量を超えれば制御が効かなくなり、いずれ身体と魂のどちらかが限界を迎える。今しがた見たようにな」
かつて魔神ヤーツェが生まれつき強すぎる魂の波動で自壊していたように、シロは不特定多数の魂から生じた業を抱え込むことで、身体と魂両方が壊れかけているのだ。
「この土地に充満する百合の加護で図らずも延命していたようだが、もうそれも叶わんだろう」
女王は言うべきは言ったとばかり、厳しい表情で口を閉ざした。控えていた黒百合騎士団がユリエルを囲み、胸から腹にかけての傷を応急手当していく。並みの負傷ならユリエルに宿る加護が瞬時に治癒するが、業による傷は治りが遅い。
「いいわ、下がって」
「で、ですが」
「下がりなさい」
困惑する黒百合団に強く言って下がらせると、ユリエルは女王をまっすぐ見据えた。
「お母様、わざわざ教えてくださってありがとうなの。で、何をおっしゃりたいの?」
「やつのことは諦めろ。もう助からん」
想像どおりの答えにユリエルは大きくため息をついて、血まみれの破れたドレスを引き裂き、捨てた。
無言で踵を返したところで、慌てた様子の女王に肩を掴まれる。
「やつの力はお前の加護さえ貫く! 近づけば死ぬぞ!」
「上等なの」
「何が上等なものか、お前はこの国の──」
「第一王女だからこそ、なの」
ユリエルは女王の手を振り払って、
「百合の国を代表する姫、ユリエルだからこそ、大好きな女の子を放っておけない」
「ユリエル……」
「なーんて、建前よね」
舌を出して無邪気に笑うと、窓の桟に片足を引っ掛け、ずり落ちた王冠を手で抑える。
「立場なんて関係ないわ。私はシロと一緒にいたいのよ。たとえ危ないと分かっていても、お母様に心配をかけると知っていても。だから──ごめんなさい、お母様」
次の瞬間、ユリエルの姿は夜空に吸い込まれていた。白い加護の花弁を儚く散らしながら空を駆けていく。
思わず窓から身を乗り出して大騒ぎしている黒百合騎士団の背中を見ながら、女王は眉間にシワを寄せながら天を仰いで、抱えていた赤い本を放り出した。
「とんだおてんばに育ったものだ。誰に似たんだか」
ーーー
シロは王宮を飛び出して間もなく、墜落した。
集積した業が魂の容量を超え、制御を失っている。その状態でまともな空中飛行などできるはずもなく、翼の形が崩れ、溢れ出た業が体内から身を裂いて飛び出し、制御が失われた。
落ちる先は山脈のふもとに広がる森林地帯。くしくもユリエルと出会った場所に近い。
赤黒い棘を全身から生やしたシロが、きりもみ回転で落ちていく。業の力が機能しにくい今、墜落して大怪我をすればそのまま死ぬ危険がある。
「捕まえた!」
反射的にシロが目を閉じると、横合いから柔らかな感触。華奢なのに力強い腕、ふわりと包み込むような甘い香り。幾度も抱かれた身体の感覚は、目を閉じていてもそれがユリエルだと断定した。
しかしユリエルが横から抱きついても、落下速度は完全に殺しきれない。幾分緩やかな速度で二人は木立に突っ込み、梢に引っかかって衝撃を分散しながら、森の中へ墜落した。木の葉と枝に紛れ百合の花弁がはらはらと散る。落ちた先は斜面になっており、二人はごろごろともつれあい転がっていく。
転落が止まったのは森の中の広場だった。そこは梢が途切れ、星と月明かりで明るく照らされている。
互いに横抱きの状態で痛みの余韻に顔をしかめていると、先にユリエルの方が身を起こす。
「いたた……シロ、大丈夫?」
「ユリエル、あなた……」
ユリエルの身体は悲惨だった。腹から胸にかけての傷が赤黒い傷口を開けて、シロに抱きついた先ほどに出来た傷と、落下による無数の擦り傷に覆われている。ケガを探すより、ケガのない部位を探す方が早いような惨状だ。
ユリエルに膝を寄せようとしたシロだが、自身の手から針状の業がいくつも飛び出ているのを見てさっと身を引く。
「何しに来たの。私は嫌だって言ったのに。もう会いたくなかったのに」
「私だって嫌よ。あなたが私に気を遣って遠くへ消えてしまうなんて、嫌」
ユリエルの言葉に被せるように、シロの手から突き出る赤黒い針が伸び、ユリエルの頬を掠めた。
貫かれた加護が花弁となって散り、シロが悲鳴をあげる。
しかしユリエルは顔色一つ変えず、逆にシロの方へ寄ってくる。
「ダメ、来ないで。来ないでってば!」
本気の拒絶が込められた声音に、さしものユリエルも動きを止める。
その間にシロは後ずさりで距離を取り、呼吸を整えながら言う。
「ユリエル、私、初めて死にたいって思ってる」
シロは初めての気持ちに直面していた。
生きたい思いは、業の力とはなんら関係のないシロの才能だ。理不尽な災難で孤独になったとき、裏切られたとき、また孤独になって苦難のあまり発狂したときでも常に『生きたい』と望んでいた。その意志は無意識下で業を操り、不死身の再生力を発揮するほど純真だった。精神的なしぶとさでシロの右に出るものはいない。
そんなシロが今、ついに望みを捨てた。
「あなたを傷つけるくらいなら、もういい、生きたくない。死にたい。誰の迷惑にもならない遠いところで死にたい。だからお願い──」
「ダーメ」
ユリエルは容赦なく距離を詰め、シロを抱いた。針、棘、杭のように変化した業の力がユリエルの身体を抉る。血と花弁が舞い、シロの目から涙があふれる。
「ユリエルぅ……」
「シロが私を、けほっ、大切に思ってるから死のうとしてるのは、分かったわ。だけどっ、それを見過ごせるほど、私の愛は安くないの」
血反吐に咳き込みながらも、ユリエルの言葉はどこまでもまっすぐだ。
「最初は一目惚れだった。生きようとするあなたの意志に落とされた。でも今はそれだけじゃない。優しいところ、頑張り屋なところ、優しすぎてちょっとおバカなところ、誠実なところ、強がりで意地ましいところ、全部好き。あなたのすべてに惚れている。あなたがいなくちゃ生きられないくらい」
「なんで……そんなこと言うの……」
「好きな気持ちに理由はいらない」
シロは心がはちきれそうだった。はちきれて溢れた分が涙になって、血と混じり合い流れていく。
シロは力の暴走を止められないこと、死が迫っていることを分かっていた。理屈は知らずとも、死人が蘇ったり人が過去に戻ることのできないように、自分も力の暴走を制御できないのだと本能的に悟っていた。どうしようもないと知っていたから、せめて誰も傷つけないように死にたいと望んだ。
しかしユリエルの言葉は、ひどくシロの心に刺さる。捨てたはずの生きたい思いが、泉みたいに湧いてくる。
「死にたくない……生きたい……! ユリエルと一緒に、これからも、生きていたい!」
ユリエルはゆっくりと身を離し、慈しみに満ちた瞳でシロを見据える。髪と同じストロベリーブロンドの長いまつげに縁どられた、深い青の瞳。ほのかな月光を照り返す双眸が神秘的にきらめいている。
「じゃあ、生きましょうか」
その言葉に応じ、森が白い光に包まれる。
おそるおそるシロが目を開けると、二人を中心にして、白と黒の百合が周囲に咲き誇っていた。森の広場は残さず百合で埋め尽くされ、一部は森の木立さえ押しのける勢いだ。
「な、何……!?」
「シロは業の力のこと、どのくらい知ってるのかしら?」
「あ、あんまり……でも暴走してどうしようもないってことは、なんとなく分かってる」
「あらあら、そんな曖昧な認識で命を諦めていたの?」
シロがむっとして言い返すより早く、ユリエルは続けた。
「業はどんな人でも持ってる残酷な欲求のことよ。それが集まって力になったのを、シロは一人で抱え込んでる。百合の加護で希釈されてたけど、ついに限界が来ちゃったっていうのが、今のあなたね」
「よ、欲求が、えっと、加護?」
新情報に理解が追いつかないシロ。
ユリエルは構わず、核心を告げた。
「つまりどうすればシロが助かるかというと──私と分け合えばいいのよ」
血まみれの手をシロの頬に、もう片方を後頭部に添える。
「私の受け継ぐ百合の権能が一つ──愛を誓い合い、魂を一つにする」
本来はシロの成人後、正式な儀礼の場で交わすはずだった誓いをここで行う。壊れかけたシロの魂はユリエルの魂に宿る加護の恩恵を受けて元に戻り、また、シロに集積する膨大な業の力も強い百合の加護が希釈し、無害化する。
以上がユリエルの目論見だが、うまくいく保証はない。ユリエルも加護の方はともかく権能は使ったことがないし、業の力だって先程知ったばかりだ。何か思いもよらない理屈で失敗するかもしれない。
シロは目を見開いて顔を逸らそうとするが、ユリエルに頭を抑えられて動けない。
「ダメ、ユリエル……こんな気持ち悪い力、あなたに抱えてほしくない……!」
「私だって、あなたにそんな力を一人で背負ってほしくない。あはっ、おあいこね?」
「分からず屋!」
覚悟を決めたユリエルは何を言っても聞かない。シロは逃げ道を探すように周囲へ視線を巡らせるが、見えるのは夜闇の中まぶしいほどに輝く白黒の百合園と、星空だけだった。
本当にユリエルのことを思いやるなら、暴走する業の力で傷つけてでも、ユリエルを拒絶するべきなのかもしれない。
しかしシロは抵抗するふりをしながら、すでにユリエルを受け入れていた。
「一つ、約束して」
「なーに?」
「全部終わったらパイを頂戴。とびきり甘くてサクサクのやつ」
「ええ、きっとね」
それだけ言って目を閉じるシロ。いつもしていたように、力を抜いて身を任せる。
「成功しても失敗しても、私たちはずっと一緒よ」
「不吉なこと言うな……でも──ユリエルがいてくれるなら、いいや」
シロとユリエルの唇が交わった。
魂が一つに交ざり合う。百合の花弁が夜空に散っていく。
二人を囲む花園が爆発的な閃光を発し、闇を白く塗りつして、清浄な白光が百合の国中を照らし出した。
目の眩むまばゆさの中で二人は、どんなパイよりも甘美で芳醇なキスに身を任せ、一つになった。