砂の民の街外れ、ひなびた山道。
柴を背負って下って来るのは、碧緑の髪を頭のてっぺんで噴水みたいに束ねたモエギ。
手には麻の背表紙の古い書物。
「おやおや」
聞き慣れた声に顔を上げ、娘は素直に顔を輝かせた。
「おっさん!」
「いつからそんなに勉強熱心さんになったんです? 足元を見ていないと転びますよ」
蒼の大長が馬から下りながら、モエギを見て本当に嬉しそうに微笑んだ。
「これ、勉強なんて、そんな大そうな書物じゃない。詩集だよ、砂漠とか山とか星とかの。高尚な事はよく分からないけれど、ただ読んでいて気持ち良い。爺さんと婆さんが、家の本棚にあった奴を貸してくれて……・・?」
大長が麻の表紙をじっと見つめて動かないので、モエギは訝(いぶか)しげ言葉を切った。
彼はサラリと視線をモエギに移した。
「息子の読んでいた書物でよければ、って?」
「ああ、そう、うん」
柴は馬が引き受けてくれて、二人は並んで山道を下った。
「まったく、びっくりしましたよ。里に来たら貴女が居ないんですもの」
「カワセミを叱ったりしていないよな。私は自分の意思で里を離れているんだ」
モエギは言葉使いは変わらないが、以前の攻撃的な感じが消えて、ゆっくり優しげになっている。多分これが、全ての荷物を下ろした素のモエギなのだ。
「皆、待っていますよ。貴女が居ないと本当に寂しい」
大長は、『で、何か掴めましたか?』とかの質問はしなかった。
「寂しい? ガサツ者が居なくなって、せいせいしているんじゃないのか?」
「まさか。私だって寂しいし、ナナなんて折角次の任期は長めに取ったのに。到着した途端、夕陽に向かって砂漠を裸足で駆け出しそうで心配です」
「あははは」
家への曲がり角の前で、大長は馬から柴を下ろしてモエギに渡した。
「なあ、おっさんが来たって事は、カワセミとユユは帰っちまったのか?」
「いえ、明日発つ予定だったのですが……」
「??」
「ああ、出発は四、五日先に延びると思います。何にしても、ユユが貴女に会いたがっていましたよ。多分あの二人の駐在は今回限りになるし、帰る前に一度会ってやって貰えませんか?」
「今回限り? 私のせいか?」
モエギは顔を曇らせた。
「いえ、物理的な理由です。カワセミの身体はやはり高空気流に乗るには向いていなかったのです。あそこまでダメージを受けるとは、私も予測していませんでした」
「え・・」
「あの子は子供の頃から身体が弱くってね。外から来るモノに対しては羽根が護りますが、内側から来るモノは、どうにも出来ないんですよ」
「そうだったのか」
氷みたいに冷たくなった肩。
「言ってくれればよかったのに」
「駐在者が不調だという事実を、万が一にも外に洩らしてはいけないと思ったのでしょう」
モエギはユユの明るい顔を思い出した。
本当は心配で一杯だったんだ……
「カワセミはね、ぶっ倒れている時間と起きてる時間が半々で、長になんかなれっこないって、多くの者に思われていました」
「おっさん?」
「まさかここまで立派になってくれるなんて、思いも寄りませんでした。カワセミの存在その物が、私の喜びです」
「………………」
「カワセミだけではありません。最初から完璧な長なんて居ないんですよ」
その時モエギは漠然と……いつか自分もこのヒトにそう言われたい、このヒトの喜びになりたい……そう思った。
そしてそれが、彼女のそれからの大きな原動力となる。
近々西風の里近くまで行ってユユとカワセミに会う、という約束をして、モエギは大長を見送った。
柴を納屋に片付けて、母屋に戻ると、気配がおかしいのに気付いた。
いきなり母屋の戸口が開き、モエギは後ずさった。
立っていたのは、地上に出て来た閻魔様かと思える大男……砂の民の総領だった。
西風の小娘をギロリと見下ろす閻魔様の後ろから、罰悪そうなハトゥンと、おろおろした老夫婦が出て来た。
「西風の長娘よ、砂の民の集落に勝手に住み付くとは、どういう了見か?」
「総領殿……」
「蒼の里の仲介で普請の約束はしたが、まだ正式に同盟も結んでいない。何か申し開きがあるか?」
モエギは言葉に窮した。
本当の事は言えない。
両部族はまだどっち付かずの関係だ。
この老夫婦が西風の長娘と血縁があるなんて明るみに出たら、彼等の立場を波立てる。
「親父、このヒトはただのお節介なの。根っからの世話焼き気質なんだ」
「お前に聞いていない!!」
ハトゥンはしゃっくりしたみたいに黙らされ、モエギはカラカラに乾いた口を開いた。
「ただ年寄りだけの家が気に掛かって、立場もわきまえず手出ししてしまった。申し訳ない……」
「では、立ち去って貰おう。我が部族の年寄りはうちの者が面倒を見る。今後も心配は無用だ」
「親父、若い者はもう仲良くやってんだ。正式に同盟を結んだって良いじゃないか」
「お前は肝心な事が見えていない!!」
総領は地の底から響くような声で一喝し、その場の者は縮み上がった。
「今、西風の里に力が有るように見えるのは、蒼の里からの駐留者が居るからだ。本当の意味で西風の里が一人立ち出来なくては、我々が同盟を結ぶ価値は無い」
「本当の意味とは……私が母者のように、この土地の風を制する力を持ち、蒼の里の助力を必要としなくなればいいのか?」
一生懸命問いかける娘を、総領はまた一蹴した。
「お主は浅黄殿のような術者になれるか?」
「………………」
「お主は、お主の器量で長となる道を探れ。里の者も、浅黄殿におんぶに抱っこの時代と変わって行かねばなるまい」
「親父、そんな悠長な事を言っていたら……」
「ヒヨッコが黄色いくちばしを挟むな!!」
総領の一喝で再び一同縮み上がったが、モエギだけはすっくと立って、閻魔様のギョロリとした目を見据えていた。
「いつになるかは分からない。だけれど私は西風と共に在る。必ず皆と一緒に里を立ち直らせる。その時、対等の立場でお会いしに来る」
「おお、極上の酒を用意して待っておるぞ」
閻魔様は初めて笑った。
モエギは納屋の横の自分の馬を引き出し、ふと思い出して、お婆さんの所へ引き返した。
懐から麻の表紙の書物を抜き出す。
「これ、ありがと……」
「返さなくていいよ、モエギちゃん」
「婆さん?」
「この書物が好きだって言ってくれたでしょう。前の持ち主もきっと、書物は好きなヒトの所に在るのが良いって思っているよ」
黙っていたお爺さんは、いきなり家に駆け込んだ。どうするのかと思っていると、残りの書物……数冊ばかりだが……を、まとめてモエギに差し出した。
「持って行ってくれ。ワシ等はあんたに、他に何もしてやれん」
モエギは書物を抱えて、暫く止まった。
それから目をしばたきながら、総領を振り向いた。
「私はこのヒト達にお礼がしたい。少し時間を頂けるか?」
総領は意外にあっさり頷いた。
娘は、背筋を伸ばし、息を吸って目を閉じる。
口から流れ出るのは、春を迎える山峡の詩(うた)。
何度も読み返して、胸に刻んで暗誦してしまった、彼女の一番好きな詩歌。
老夫婦は静かに聞き入り、ある時点で雷に打たれたような衝撃を受けた。
亡き息子がそこに居るような錯覚に襲われたのだ。
あの子と同じ、スカシユリを思わせる、明るいオレンジの瞳……
詩歌は春間近の山の空気にきれいに染み入り、
ハトゥンも、そして総領も、黙って静かに聞いていた。
詠み終えると、モエギは老夫婦の手を握り、総領に礼をして、馬と共に駆け去った。
去り行く娘を見送って、総領は厳めしい顔を緩めてハトゥンに言った。
「同盟は対等に結ぶべきなのだ。どちらかが力劣ると、ただ支配されるだけになる。そうなってしまっては、儂だって浅黄殿に顔向け出来ん。解るな」
「ああ、俺、まだまだ甘チャンだ。アイツに置いて行かれちまう」
「全く、憎まれ役はいつも儂だ」
そして、まだ動揺冷めやらぬ老夫婦に向いた。
「すまぬ事をした」
「は……」
「総領としては、やはり西風の娘がここで暮らすのを見過ごす訳には行かぬのだ。それに、あの娘はまだ、前へ前へ進まなくてはならん。いつかまた此処へ戻る時があるやもしれぬが、今は次の階段を登る時なのだ」
「そうなのですか」
老夫婦は娘の去った方向の空を見上げた。
「では私達も祈りましょう。あの子が目指す者になれますよう、祈りましょう」
「気の長い話だよなぁ」
ハトゥンは両手を頭の後ろで組んで一緒に空を眺める。
馬鹿息子には解らんか……
総領は目を細めて山谷を見回す。
シンとした冬山の見た目は変わらないが、空気は明らかに和らぎ、木々は目覚め、生き物が動き出している。
今しがた、急にだ……!
あの娘と酒を酌み交わせる日は、そう遠くは無かろう。