西風の里から少し離れた砂漠の岩山のてっぺんで、モエギはすくと立っていた。
胸に当てた手の中に何かを握っている。
風が強く吹いて、振り向くと、水色の髪の妖精が馬と共に居た。
「ボクに何か用か……」
モエギの手の中には、橙色の珠の付いた櫛が握られていた。
「この石で呼び掛ければ、あんたに伝わるかと思って」
「伝わるけれど、そんな便利に使われても困る」
相変わらず突き放した言い方だが、モエギにはもう分かっていた。
このヒトが困ると言ったら、ただただ困っているだけなのだ。
心が冷たい訳じゃない。
だって、こうして来てくれているじゃないか。
「言いたい事があって」
「手短に頼む」
「身体は、もういいのか?」
「絶好調って訳でもないけれど、こうして眼は開いているな」
「すまない」
「何が?」
「まだ不調だったのに、沈んでしまった私を呼びに降りて来てくれた。ああいうのって、消耗するんだろ?」
「……まぁ」
「それで折角回復しかけていたのに、また寝込む羽目になっていたんだろう? すまない」
「そんなに謝られても困る」
「んん、じゃあ、ありがとう」
「…………」
「ありがとう」
「あぁ……まぁ……」
「それと、自分の為に何か出来た、と思う」
「そうか」
「それだけだ、じゃあな」
馬に手を掛けるモエギに、カワセミはポソッと言った。
「良かったな」
「うん」
馬に跨がって遠去かるモエギを見やりながら、カワセミは口の中でボソボソ呟いていた。
「ヒトに物を教えるなんて金輪際ゴメンだ。ユユで懲りている。結局放って置けなくて、一生教え続ける羽目になる」
碧緑の髪の後ろ姿は、地平の陽炎に溶けて行く。
「でも……キミの背中なら」
水色の妖精は馬を飛び立たせ、西風の娘を追った。
――もう少し、押してもいい。
***
鼻の頭も見えない闇の中の砂の原。
細いカンテラを頼りに、トボトボと歩く二つの小さな騎馬があった。
一人がグラリと傾く。
「ソラ、おい、ソラ! 寝るなよ、しっかりしろ」
「う、はぅぅ……」
馬を寄せて肩を揺するシドに、ソラはやっと生返事をした。
「こんなに簡単に迷っちゃうなんて……」
「方向分からない? ソラ」
「だめ……何も見えなさ過ぎる。月も星も無い夜は、ヒトを惑わす妖魔が徘徊するって、旅商人のおじさんが言ってた」
「怖い事言うなよぉ」
「ごめん……」
モエギが失跡した事に関して、カワセミもユユも何も教えてくれなかった。
先日やって来た大長も、モエギを信じて待ちましょうの一点張り。
二人は、普請に来るハトゥンにカマをかけてみた。
モエギは多分ハトゥンの身近に居ると思っていたのだ。
「ねぇ、モエギ様の着替えをハトゥンに渡して置きなさいって、大長様に言われたのだけれど」
「え? それっていつの事?」
「ちょ、ちょっと前です」
「おかしいなぁ。モエギがうちの集落を出た事は、大長にも言ったんだけれど」
「ハトゥン様の側に居ると思ったから安心していたのに!」
暗闇の砂漠でシドは親指の爪を噛んだ。
「ハトゥン様は知らないんだ。大長様達だって。モエギ様は、皆が頼りにするから平気な振りをする癖がついているだけで、本当はめちゃめちゃ寂しがりの怖がりなんだ」
「こんな真っ暗な夜、独りぼっちで、どんなに心細くしていることか」
そう思うと二人、居ても立っても居られなくなって、厩の夜飼いを済ませるや、馬を引き出して里を抜け出したのだった。
今すぐモエギの側に行って、寂しくない状況にしてあげたい。
モエギの居付きそうな遺跡や風穴を探してみようとしたけれど、闇夜に地形の変わりやすい砂漠で、あっさり方向を見失った。
「飛んでみる?」
「こんな真っ暗な中を?」
ソラは、シド程は馬で飛ぶのは上手ではなかった。
「焚き火の明かりが見えるかもしれないよ」
「……うん」
二人は助走を付けて大きくジャンプした。
それでも地上に何も見えない。
「もう一つだ」
シドは馬を急き立てて、更に二段三段と跳んだ。
「ま、待って」
ソラは慌てて着いて行こうとしたが、暗闇の恐怖が先に来た。
恐怖はすぐ馬に伝わる。
「ああ……っっ!」
馬が暴れてバランスを崩したソラは、鞍から滑った。
――ヒュオッ!!
身体が持って行かれそうな風。
シドは馬にしがみ着く。
「ソラ、何処? ソラ――!!」
慌てて見回して、息を呑んだ。
碧緑の髪をなびかせて、モエギの騎馬が風の中、真っ直ぐに浮かんでいた。
腕の中に硬直したソラ。
「大丈夫だ。心配すんな」
静かに言って、ふわりと、本当にふわりと、地上へ降下した。
まるで草の馬みたいに。
「何をしているんだ、こんな所で」
ケロリと聞かれて、二人は答えに窮した。
「道に……迷って」
腕から下ろされたソラが、小さい声で言った。
「そうか、ああ、星が無いもんな。待ってろ」
モエギは下馬して二人から離れ、砂原の高い所まで歩いて行った。
そこにすぅっと立ち、肩を下ろして背を伸ばす。
唇から流れ出るのは、砂漠の夜の星の詩。
風がモエギの側に集まる。
最初は小さく、段々に大きく、そしてうねるように。
二人の少年は茫然と眺めていた。
風の中、緋色のマントがざぁと舞い上がる。
次の瞬間、砂上の西風の娘の姿が、くっきりと浮かび上がった。
天上の雲が吹き飛び、煌めく星々が姿を現したのだ。
「これで帰れるだろ」
美しく影を落とす砂の風紋を背景に、娘は穏やかに微笑む。
二人は茫然としていた。
本当にモエギ様なのだろうか?
砂漠の妖魔が見せる幻覚なんじゃないかしら?
「シド、ソラ!」
名前を呼ばれて二人、ビクッとなった。
「どうした、腹減ってんのか?」
やっぱり、本物のモエギ様だぁ~~!
「モエギ様~~っ!」
「モエギ様ぁ・・」
二人は駆け寄って、両側からしがみ付いた。
何の事はない、寂しかったのは自分達だったのだ。
「……バカ」
モエギはしがみ付かれたまま、じっとしていた。
それから一回鼻をすすった。
「風……使えるようになったんですか?」
少し落ち着いたシドが聞いた。
「ん、『使える』ってのとはちょっと違う」
二人はモエギの話し方が、以前と全く違うのに気が付いた。
別人のように静かで穏やかだ。
「『風を流す』という感覚はまだ分からない。ただ、他人だったヒトが、心が分かり合えて友達になれたように、風が近くになった。友達だから頼みも聞いて貰えるし、行きたい方向が分かって手も取り合える」
「…………」
いつの間にかモエギが一段も二段も高い所に居る。
二人は予想外な事実に戸惑った。
いや、喜ばなきゃいけないのに。
何でこんなに複雑なんだろ……
「里へは戻る。ユユにも会いたいしな。だが今晩はここに居る。お前達は帰れ」
すっきりと言うモエギに、二人は何も言えなくて、そのまま馬に跨がった。
二人がちゃんと里の方向へ向いたのを見届けて、モエギは再度風を起こして舞い上がった。
砂漠へ来てから……眠っている時間以外は、殆ど風の中に身を委ねて詠(うた)っていた。
まったく不思議な切っ掛けだった。
老夫婦に貰った書物の詩歌が、心の閂(かんぬき)を外し、能力を開いたのだ。
幸せになりたい
幸せにしたい
大切なモノたち
詩歌はそんなモエギの想いに共鳴した。
まるで彼女の為にこの世に存在したように。
それを教えてくれたのは、カワセミだった。
「キミはもう扉の真ん前まで自力で辿り着けていた。答えも手の中にしていたんだ」
***
砂の地平に赤い月が昇る。
珠(たま)が割れた欠片(かけら)のような、下弦の三日月。
月明かりに長い影を落とす西風の里を見下ろして、カワセミとユユの二頭の騎馬が、上空高くに浮かんでいた。
さっきまで真っ暗だったのに、今は満天の星。
何処かで誰かが風を流したんだろう。
「アタシ、ここが好きだわ」
「うん……」
「明日でさよならなのね」
「うん……」
「よぉく目に焼き付けて置くわ」
「うん……」
カワセミは馬を寄せて、鞍に差していた一枝を、ユユの膝に乗せた。
「あら」
池の対岸の砂地に咲く、緋色の山丹花(サンダンカ)。
「頑張ったアタシに、ご褒美?」
「それでいい」
「うふふ」
ユユは嬉しそうに 花房を髪に差した。
「ここではこんな干らびた土に咲く花があるんだな」
「強い、土地ね」
「……来て良かった」
「でしょ」
その足許の地上に小さな灯りが揺れ、二人の少年が里に帰り着いた所だった。
馬繋ぎ場には大長が居た。
二人を見て何を聞くでもなく、大きなポットを掲げて迎える。
「馬乳酒を沸かし過ぎました。一緒に飲んで下さい」