作品テーマ「ノスタルジー」
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俺との記憶を捨てた幼馴染みと、思い出の場所に向かう。目的はただ一つだけ……。
人工人間覚醒プロジェクト
略称AHAP。人工的に人間の能力を覚醒させる事を目的とした計画の総称。実験段階の計画だが、被験者全員の運動能力、学習能力、記憶力や論理的思考能力などの飛躍的に上昇させる。
しかし、被験者は代償として、今までの記憶や性格といった、被験者本来の人格を全て失うことになる……。
「綺麗な場所だな」
後部座席に座る神田紫音がそう呟いた。バックミラーで彼女を見てみると、窓の外に広がる夕暮れに染まった大海を、慈しむように目を細めて見ていた。上京して早七年が経ち、その間一度もこちらに帰っていなかったが、この辺りは何も変わっていなかった。変わったとすれば、二年前に再会した彼女と俺くらいだろうと思う。今の俺達は社長とその秘書という間柄である。
「なぁ、ここが故郷なのか?」
「住んでいた町はもう少し先ですが、この辺りには二人でよく来ましたよ。目的の場所近くですから」
紫音の問いに俺は前を向いたまま返した。
「そうか。……すまん」
紫音はしばらく海を見つめてから、蚊の鳴くような声で謝罪してきた。ミラー越しにやや小柄な彼女がさらに小さく見えた。
「なぜ謝るんです?」
「思い出せないからだ」
「思い出さなくていいんですよ」
「何故だ? 私の記憶を取り戻すのが君の目的じゃないのか?」
「奇跡が起きるならそれもいいと思ってはいますが、それに期待するほど俺はもう子供じゃありません」
すると紫音は口を閉じて、また海を眺め始めた。納得してくれたのかは分からないが、気の進まない問答を繰り返すことがなくて俺は安堵する。
道路が直線に差し掛かる。俺はほんの一瞬だけ紫音と同じように海の方に目を向けた。運良く今日は風がなく、波の立たない静かな海が広がっている。波立つ海だって嫌いではないが、俺はやはりこっちの海の方が好きだ。
すると、紫音がまた声を掛けてきた。
「なぁ、一つだけ教えてくれないか?」
「何ですか?」
「君は私を憎んでいるだろう?」
つい、ふっと笑いが溢れてしまった。よくこんな直球に聞けるものだなと可笑しかったのだ。それに答えようとして口を開こうとしたが、先に紫音が言葉を続けた。
「分かっているつもりだ。憎まれても仕方ないことを、昔の私が君にしたってことは」
さて、どうしたものか。否ではないことは間違いない。かといって肯定も違う。自分の思いを紫音に全て伝えるには言葉が長くなってしまうし、かといって簡潔にまとめたくもなかった。なにより、こんな車の中で話したいと思わなかった。
俺は少し考えて、
「半分正解で、半分はずれです」
そう勿体ぶった。当然彼女の不機嫌そうな声が飛んできた。
「どういうことだ? もっと正確に話せよ」
「すいません。この話はもう少し先で答えます」
そこで俺は車のスピードを緩めた。
「着きましたよ」
「え? ここが目的地か?」
紫音は辺りをキョロキョロと見渡した。何だか小動物みたいで、つい口角が上がる。俺は駐車スペースに車を入れながら答えた。
「一番近い駐車場がここなんです。少し歩きますよ。上り坂と階段になるんで頑張りましょう」
俺が車を降りると、紫音は少し戸惑いながらも俺に続いて外に出た。
神田紫音と出会ったのは十六年も前のことだった。小高い山に建てられた神社で、一人ずっと祈っている彼女に、いつまで祈っているのだと声をかけたのがきっかけだった。
「友達のおばあちゃんが病気で、治るように祈っているの」
「他人の家族になんでそこまでできるの?」
「だって友達だもん。やれることがあるなら、あたしはやるわ。あたしはお医者さんじゃないけど、せめて神様にお願いくらいはできるから」
「その間に自分のしたいこともできるのに?」
彼女はその時笑って言った。
「これがあたしのしたいことだよ」
その時にはもう、俺は彼女に憧れていたのかもしれない。
それから紫音が自分と同じ学校に通っていることを知り、翌年からは彼女と同じクラスになった。彼女との交流はそれを機に深まっていった。俺たちが出会った神社がお互いのお気に入りだったこともあって、よく二人で出かけたりした。
紫音は俺と違って、勉強も運動も苦手だった。だが代わりに周りを真に気遣うことが出来る人だった。悲しんでいる人、苦しんでいる人がいれば、その人たちが求める最適解の接し方ができた。
年月が経ち、彼女が憧れの対象であると自覚して、そうなれば自然の流れだったと思う。
俺は、神田紫音に恋をした。
中学生になってしばらくした頃くらいに、俺は紫音に告白した。人生で一番緊張した瞬間だったが、紫音はほんのりと顔を赤らめて頷いてくれた。今の所、その時が人生の絶頂期だった。残念ながらそれは長続きしなかったのだけれど。
交際を始めて半年もした頃、紫音から別れを切り出された。理由を聞くと一言、「あたしが弱かった」とだけ返された。
翌日、紫音は学校から消えた。彼女の家まで行き、彼女の母親に話を聞いて、彼女がAHAPの被験者になったことを知った。その後も色々話をされたと思うが、よく覚えていない。
覚えているのは、俺が紫音に憧れていたように彼女も俺に憧れていて、それに彼女は耐えられなかったという理由。そして、その時から神田紫音を憎むようになったことだ。
なだらかな石階段を俺と紫音は上がっていた。その前にやや急な上り坂を上り切ったが、お互い対して息も上がらなかった。昔の紫音は途中で息切れしていたのを思い出す。
すぐ後ろから「おい、」と紫音の声が飛んできた。
「まだ着かないのか?」
彼女が言い終わるのと、俺が立ち止まるのは同時だった。
「到着です」
俺は紫音の方へ向き直った。そこは少しだけ広めの踊り場で、右手に伸びる石階段のずっと先に、紫音と初めて出会った神社が見えた。
「ん? ここで到着なのか? あそこの神社じゃないのか?」
「ええ。最初からここが目的地でした」
俺は神社とは逆の方を指さした。紫音の視線がそれに釣られて動く。そして、彼女が息を呑むのが分かった。
目の前には、橙色の海が視界いっぱいに広がっていた。車の中で見ていたそれよりずっと、ずっと広い。この踊り場でしか見られない絶景だ。
「俺も紫音も、ここが大好きでした」
しばらくの間、俺も紫音も口を開かなかった。静かな海を眺めていると、まるで時間に取り残されたようだった。
ふと、紫音を横目に見る。どんな顔をしているかと思えば、彼女の目から一筋の涙が零れていた。
「どうしたんですか?」
驚いて聞くと、紫音は一度首を左右に振って、海を見たまま話し始めた。
「すまない。悲しいわけじゃないんだ。いや、うん、どうだろう。なんて言えばいいのか……」
言葉を選んでいるのか、紫音は少しだけ沈黙する。零れっぱなしの涙を拭ってやりたい衝動に駆られるが、俺は動かなかった。彼女に対して、今の俺にはまだその権利がないと思ったのだ。
少しばかりして、「何の根拠もないが、」と前置きしてから、紫音は再び話し始めた。
「私はこの景色を知っている。覚えていないし、思い出せないけれど、私は確かにここにいた。きっと君と一緒に。そんな感じがするんだ」
「そうですか。確かに何の根拠も無い話です。でも嫌な話でもありません」
「そうか。だが、君と今この景色を見て、間違いなく断言できることは一つある」
「なんです?」
「今の私になるために、ここを捨てた昔の私は、間違いなく愚かだったということだ」
その言葉が俺の頭を駆け巡った。身体中に浸透していって、悪いものだけを流していくような、そんな気分だった。済んでしまえばなんとも呆気ないと思う。俺の目論見はこうして達成してしまったのだ。
「さっきはぐらかした質問を答える前に、俺も質問していいですか?」
「何だ?」
涙を拭い紫音がこちらに顔を向けた。秘書になって毎日のように見ている顔が、今は別の顔に見えた。それは俺の初恋相手によく似た女性で、俺をどこかで恐れているように表情が強ばっている。
「あなたは俺に罪悪感を抱いていますか?」
「でなければ君を秘書にしていない。近しい方が、仕返しもやりやすいと思った」
「なら、そんなものはもう捨ててください。俺が憎んでいるのは、十年も前にいなくなった神田紫音だけです。最初こそあなたに重ねてしまう時もありましたが、今はこれっぽっちも憎んでいない。これが質問の答えです」
ようやく言うことができた。彼女の側に居続けて、彼女が前の紫音とは別の人だと思えるようになって、少しずつ育っていった気持ちだった。
「俺の今日の目的は、俺が元カノに抱いている思いと同じものを、あなたにも抱いて欲しかったんです」
「君は、それでいいのか?」
「ええ。だから、そんな顔しないでください」
紫音はほんの少しだけ葛藤するような様子を見せた。しかしそれが終わると、ようやく表情が少しずつ柔らかくなる。そうして、「そうか」と小さな声で彼女は返した。優しくて、安心したような声だった気がする。
俺はもう一度海を眺めた。十六年前から見なれた景色はがまるで別の場所のようだった。きっと、隣にいる今の紫音のせいだろう。俺にとってここは思い出の場所以上に、今の紫音との場所に変わってしまったのだ。
そんなことを考えて、俺はふと思い出して口を開いた。
「そういえばここ、俺が前の紫音に告白した場所なんですよ」
何の気なしに言ったつもりだったが、彼女は目を丸くした。顔が赤いのは照れかそれとも夕日の色だろうか。
「突然なんだ。告白のつもりか」
まさか、と俺はさも可笑しそうに答えた。
「今のは初恋相手の思い出話ですよ」
「……全く紛らわしいんだよ」
「でも、また二人でどこかに出掛けませんか? あなたに話したいことがたくさんあるんです」
「おい、いいかげんにしろ。その言い方ではまるでデートの誘いだ」
「今のはそのつもりですけど」
何を言われたのか理解した紫音は、今度は間違いなく照れて顔を真っ赤にした。
俺は今、神田紫音に恋をしている。