それには意味があったはずだ
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※企画投稿用です。
夢を見た。
知らない場所。時間はおそらく夜。
薄暗い部屋のストレッチャーに、僕は横たわっている。
僕の足元で、誰かの声が躊躇なく静寂を突き破る。
車椅子に腰かけた男だった。陰気で、気味が悪い。何かを話していたのだけれど、内容はよく覚えていない。
そこで、夢はプツンと途切れてしまう。
次の日もまた夢を見た。
ぱしゃぱしゃと水遊びをするような音と、空っぽの腹が鳴ったような、ぐぅと低く唸る声。
――人がいるかもしれない。足取りが軽くなる。
同時に、鼻をつく厭な臭い。生臭さと、鉄臭いような臭いが入り混じったもの。
その真ん中で、黒い毛だらけの男が、這いつくばっていた。
誰でもいい。とにかく、会話のできる相手が欲しかった。
近づく足音に気がついてか、黒毛の男が振り向く。
人ではない。鼻と顎が前に大きくせり出し、びっちりと生えた口元の毛は、血で赤黒く染まっていた。
次の瞬間、僕はそれに喉元を食い千切られていた。
抵抗する術もなく、薄れゆく意識の底でその生物を見て思う。
これは、獣だ。
目が回るような繁忙期と、目の眩むような厳しい夏が過ぎた頃、部長から遅い夏季休暇を取るように言われた。
急な通告に、明日からどうやって時間を潰そうか、などと考えた時に浮かんだのが、死んだ祖父のことだった。
休日を有意に潰すのには丁度いいだろう。
先祖の供養でもしてやれば、悪夢もどうにか和らいでくれるかもしれない。
陰気な夢にうなされながら、かび臭い部屋で余暇を消化することに気が進まず、浮足だったように身体は自然と荷造りを始めていた。
街に木霊する、つんざくような悲鳴。
手斧に鋤、木の盾、銃。
思い思いの武器を手に、街を徘徊する群衆が、この街の異常性を露わにしていた。
亡霊のように歩く者、憑りつかれたように火を見つめる者、まるで恋人かのように銃をさする者。
その誰もが、僕を見つけると血相を変えて襲いかかってくる。
“この街はよそ者を歓迎しない”
誰かから聞いた話だ。
水銀の銃弾が腹を穿つ。群衆は疲れなど知らぬように僕を追いかけ、追い詰めようとする。
逃げた先で、水路の上に架かる大きな橋へたどり着いた。
水路の向こう側に、何かある。根拠はなかった。だけれど、そう聞いた気がした。そんな気がして、走る。
走った先で飛び込んで来たのは、塞がれた門と、左手の肥大した巨大な獣。
その白濁した獣の瞳だけが、僕の記憶にこびりついていた。
電車に揺られて一時間半。
陰鬱な夢など知らぬ顔した空は憎らしいほどに透き通っていて、宇宙まで見透かせそうだ。
責任だとか義務だとか、社会のそうした軛から一時的に解放された何も抱えていない身体に、残暑の熱は少しばかり暑い。
酷く眠いような気がしたが、自ら進んで悪魔の腹の内へ飛び込む気にもなれないというのが本音だった。
祖父の墓は、実家からそう遠くない教会の共同墓地で管理されている。
宗教一家というわけでもない。ただ、祖父はそういうものに、言ってしまえば、異国の文化というものに憧れがあったのだと思う。
墓地の門を潜る。空気がしんと静まった。ピンと張りつめた糸に指を引っかけたように、身体中の中枢といったものが、一斉に起立する。
物言わぬ石となった祖父を探し、ささやかな花束と、異国の雰囲気にそぐわぬ日本酒の紙パックを一つ供え、手を合わせる。
何を思うでもなく、無心に祖父の永遠の幸福と安寧を祈った。死者の幸福など願う余裕もないほどに、僕の身体は、精神は摩耗していたというのに。そうする他ないのだと思わされるような、厳かな空気が漂っているのを瞳の奥でひしひしと感じていた。
「初めまして――」
声が聞こえた。女性の声だ。
異国風の女性だ。管理人か、あるいは僕と同じ、墓参りに来た人か。
彼女はこちらに気がつくと立ち上がり、微かに笑みを浮かべた。
そんな気がした。
ゆっくりと歩き、近づいてみる。
彼女の背丈は目に見えて僕よりも高い。
背は高いのに身体つきは細い。踵を上げている様子もなかったから、なんとも不思議な感覚を覚えたものだ。
「青ざめた顔をしていらっしゃいます。どこか、具合がよくないのですか」
彼女は銀の瞳で僕の顔を覗き込んで言った。
そこに威圧感といったものはなく、内心で生じた戸惑いの方が大きかった。
「ああ、いや。最近よく夢を見て」
思わず本当のことを口にしていた。
「夢、ですか?」
「ええ。よくない夢です。それで、そういえばしばらく祖父の墓参りに来てなかったと思って。夢がどうにかなるかも……なんて思ったりしましてね」
早口で語りながら、僕は見ず知らずの女性に何を言っているのだろうと後悔する。
女性はしばらく思案するような素振りをした後に、こう言った。
「少し近づきます。目を閉じていてくださいね」
僕が答える間もなく、彼女は僕の手を取って跪く。
その神秘的な光景に儀式めいたものを感じ、思わずぎゅっと目を瞑った。
すぅ、と身体の内側に何かが入り込んでくる感覚。不思議な感覚に、ううと嗚咽を漏らす。
迫り来る群衆、悲痛な叫び、赤いリボン。
昨日見た夢の続きだ。
咳き込む男、狩人を狩る狩人。
墓場に響くオルゴールの音。
「終わりました。目を開けても大丈夫ですよ」
気がつくと彼女は立ち上がり、微笑を浮かべていた。
「もう少し休まれて行ってはどうですか。すぐそこの教会に、休憩所がございますからご案内いたします」
女性の言葉は僕の内心を見透かしているように甘く優しく、身体の芯をさすり、より深い微睡みへと引きずりこもうとする。
「いや、しかし……」
「私がお傍に付いております」
その言葉に内心で安心したのか、どっと滝にうたれたように眠気が下りてくるのを感じた。
休憩所にあったソファに腰かける。それは暖かく、瞳を塞ごうと眼前に添えられた冷たい見えざる手に、穏やかな温もりをもたらす。
塗り潰されていく視界の向こうで、彼女は立ち、夢に目覚めるその姿を見守っていた。
血族狩りの男。
焼き討ちされた街。地を這う銃声。吊るされた獣。
焼け焦げ、血に濡れ、渇いた獣。
死体を繋ぎ合わせた巨人、三人の太った醜男、地獄の炎を吹き出す番犬。
目を開けると、彼女であったものが目の前に横たわっていた。
肌は青白く、生気がない……のは元々のことではあったが、四肢は重力に任せるままに地面に投げ出され、その瞳は虚空を見つめている。瞳の内もまた虚空であった。
瞬きすると、彼女は整然と立ち、ただこう言った。
「お帰りなさい――」
遮光が青白い彼女の頬を、赤く染め上げる。
窓の外を見ると空は昏くなりかけていて、青と赤の入り混じった色に、悪夢から生還した安堵感や、彼女の異様な姿よりも、初対面の、名も素性も知らぬ女性の前で寝息を立てていたことへの気恥ずかしさが勝るのを感じた。
僕が眠っている間、ずっとそこに座っていたのだろうか。
ひとこと詫びを入れて会釈すると、それに応えるかのように彼女は深くお辞儀をした。
宇宙は空にある。
いつかどこかの偉人が遺したのであろう言葉を思い出す。
今日もそんな、星の見えそうな昼の空が印象的な日だった。
目が覚めて最初に思い出したのは、彼女にきちんと礼をしなければならないこと。
悪夢は終わらないが、なんとなくではあるが、その苛烈さは和らいだ気がした。
きっと今日もあの場所にいる。
門を潜ると、声が聞こえた。
そよ風に消え入るような、か細い女性の声。
――夢の月のフローラ
端々しか聞き取ることができない。歌うように祈る言葉。声。
――この夢が、優しい目覚めの先ぶれとなりますように。
近寄る足音に気がついたのか、彼女は我を取り戻したように立ち上がり、僕に向き直る。
「お帰りなさい」
それが当然の挨拶であるかのように彼女は言う。
「昨日はすみませんでした。すっかり寝入ってしまって」
「構いません。あなたに、穏やかな目覚めがもたらされるのであれば」
――どうか、私をお使いください。
彼女はそう言い、また僕の手を取り、跪く。
この女性には不思議な魔力がある。魅力と言えばいいのだろうか。
引き込まれるように目を瞑ると、あらゆるものが頭の中に飛び込んで来た。
水盆の前、見えざる存在の手。
脳を啜る者、目玉を抉る老婆。
白い獣。
“かねて血を恐れたまえ”
ぎい、と扉の開く音。
気がつけば、昨日と同じソファの前に立っていた。
導かれるようにしてこの場所にやってきた。その理由を考える余裕もないほどに、記憶は混濁していた。
夢も現も、曖昧なほどに。
「私がお傍に付いておりますから」
彼女は、赤子を宥めるような口調でそう言って続ける。
「骨は血より出でて、血はほおずきよりも紅く。
血とは知。智慧のことです。
狩人様。血の遺志を求めてください。
私がそれを、普く遺志を、あなたの力といたしましょう」
目を瞑ると普くものの遺志が、身体の中に流れ込んでくる。
割れたように痛む頭骨の隙間から、津波に似た衝動のような眠気が、思考を圧し潰すのを感じる。
今はこの眠りに、おぞましい小人が手を差し伸べ誘う悪夢へと身を投じよう。
不思議と怖くはない。
目覚めたら、目の前に彼女がいる。
健気に自分の眠りを待つ人形のような女性。
それだけが、悪夢に囚われた僕にとっての、唯一の救いだった。
願わくば、安らかな眠りをもたらす彼女に、何か手土産でも持ち帰られればいいのだが。
ああ、髪飾りなんてどうだろうか。
彼女の灰のような髪色に、静かに映える、小さな髪飾り。
この街のどこかに、そんな品があればいいのだけれど。
行ってらっしゃい。狩人様。
あなたの目覚めが、有意なものでありますように。
……らん、らん
鼻歌が聞こえる。懐かしさを感じる、鈴の音に似た声と、ゆったりとした拍子で。
それに聴き入っていた僕は、気がつけば全身の穴という穴から血を吹き出し、死んでいた。