──……
──……あれから……
──……あれから何歩進んだ?どれくらい進めた?
──……そもそも方向はあっているのか?このまま進めば山を下りられるのか?
最初はそんな疑問に支配されていた頭も、だんだんと何も考えられなくなっていった。相変わらず視界は白い闇で埋め尽くされていて、自分が歩けているのかさえも分からなくなってくる。前に進んでいるようでただその場で足踏みをしているだけではないか?
手足の感覚などとっくになくなっている。
体全体が暖を求めて震えている。
唇もきっと真っ青だ。
鎧に積もる雪がさっきより多くなっている気がする。
視線を下に落とす。
──ゆきがきれいで、きもちよさそうだ
「あ」
普段なら出さないであろう間抜けな声を一つ上げて男は倒れこんだ。足がもつれたのか、力尽きてしまったのか、それとも自分から倒れたのかは男自身にも分からなかった。
ただ、なんだか雪は柔らかく、優しく自分のことを受け止めてくれたような気がした。顔に直接感じる冷たさも、鎧から感じる冷たさも、先ほどまでと違って心地よい温度に感じていた。体に積もる雪さえも愛おしくなり、手が雪に埋もれていく様子を恍惚とした表情で眺めていた。
男は幸せな気分のまま、静かにやってきた睡魔にあらがうことなく目を閉じた……
──………………
──…………
──……
『立てないか?』
二度と浮上するはずのなかった男の意識が戻る。何かが自分の前にいる気がした。
『ずいぶんと冷やされてしまったようだな』
耳もほとんど機能していないのでなんと言っているかは分からない。ただ声が聞こえている、ということに反応して男の目は覚めていた。少しかすれたような、それでいて響く、そして深い慈悲を感じる優しげな男の声であった。不思議なことに、
『もう大丈夫だ』
もう一度声が聞こえたかと思うと、男の両脇に手が差し込まれ、ゆっくりと体が持ち上げられ始めた。自分は重装備なのにこんな軽々しく持ち上げるとは凄い力持ちだな、と凍り付いた頭が考える。そして膝立ちの状態までもってこられたとき、男は
氷が削られて人の形をしているような
顔に当たる部分は黒い氷に赤い光が二つ輝いていて、両方共が男の顔に向いている。その光と目が合った男は不思議な気分に陥っていた。なぜか自分という存在が酷くちっぽけだと思い、舞っている雪と同じだと理解して、吹き飛んで崩れて無くなってしまいそうになった。そうならないのは、男を支える二本の氷の腕があるからだった。
もう一つ異形には特徴的な点があった。体は氷でできているようなのに、青い炎がその表面を駆け巡るように動いているのだ。時には頭、時には足の方へとせわしなく動く青い炎は一瞬たりとも同じ紋様は見せず、自由気ままに氷の表面で遊んでいるかのようだった。氷の体を光らせていたのは、この炎の明かりだったのだ。
気づくと、男は涙を流していた。それは助かったという安堵の気持ちからくるものでも、恐怖で狂ってしまったわけでもなかったと、
そして顔のようなところの赤い光が細くなったのを見て、
『よく頑張ったな』
そして
もし第三者が見ていれば驚きで叫び声を上げただろう。突然異形の炎が一気に大きくなり、あっという間に男の体を包み込んでしまったのだ。しかし人が燃えるような不快な臭いも煙もなく、ともすれば神話に謳われるような浄化の炎で男を癒しているかのようだった。
事実、男の体は見る見るうちに生気を取り戻していった。血が通うようになったことで唇は健康的な赤に戻り、冷え切っていた手足の温度を戻していった。固く氷のようだった体が解きほぐされ、屈強に鍛えあげられた肉体を取り戻していった。
同時に男の意識はただただ「
異形も男の抱擁を嫌がることなく、まるで子供をあやすかのように男の背中に回した氷の手で撫で続けた。その手があんまりにも優しくて、切なくて、畏れ多くて、男は号泣し、大きな声もあげるようになっていた。二人を包む青い炎はどんどん大きくなり、大きくなるほどに男の頭の中は雪のような白に染まっていった。
──もう、ゆるされていいんだ
それが、男が最後に思ったことだった。
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村に着いた軍は
何しろ応援が村に到着したとたん、白く染まっていた山が一瞬で深緑の山に戻ってしまったからだ。誰もが驚き戸惑っていると、一人山に向かった男が戻ってきた。しかし男も「突然目の前の雪が消えた」と狐につままれたような顔をしていた。どういうことかと応援のリーダーが男に事情聴取を行うことになったのだ。
──雪山を登ろうとして雪に足を乗せても、いつの間にかその一歩手前に戻ってしまっていた
──何回も試したが進むことができず、試しに石などを投げこんでみても同じだった
──特に天気も変わらず山の頂上まで良く見えたので、そのまま監視をすることにした
──しかしつい先ほど少し目を離した瞬間雪が消えてしまっていた
──試しに雪があったところに足を乗っけてみても特に何も起きず、良く分からないが村に帰ってくることにした
それが男の供述だった。
山に雪が積もっていたのは軍も視認していたので村ぐるみの嘘とは思われなかったものの、結局何が起こったのかは分からず軍はそのまま撤退することとなった。ただ、また起こるかもしれないという村人の心配もあったので、期間限定で何名かの兵士を駐留させることとなった。
その兵士たちも1年ほどで都に帰っていったが。
実は駐留していた兵士たちは軍の人間ではなく、ブライト教会*1から派遣された魔に特化した暗殺集団であった。元々軍が村から応援の要請を受けた時に、軍団長が念のため教会にも応援を要請していたのだ。山まるまる一つを変化させる力に軍だけでは対応しきれない可能性がある、という冷静な判断があったためだ。
教会に属する者たちは雪が消え去った後の山を調査し、本当にわずかであるが邪悪な魔力を見つけ出すことに成功していた。しかし、その魔力も特徴を記録できるほど残っておらず「あった」ということしか言えなかった。そのため山から村に視点を変えて、二つの疑いを調査することにしたのだ。一つは、村が魔のモノを召喚するための儀式を行ったのではないか、ということ。もう一つは、雪山から帰ってきた男が魔に魅入られているのではないか、ということだ。
しかし村の調査はあっという間に完了し、白だと確定。余力ができたため、男に対して気づかれないが隙のない監視体制を敷くこととなった。それも次の年の夏が終わるまでであったが。結局その間にきた冬の山は普通の雪山であったし、季節
結局、軍と教会というブライト王国*2の二大戦力を動かしたものの原因不明のまま終わったこの事件は「夏の雪かぶり事件」「季節外れの不思議雪」「入れない白雪」など様々な呼ばれ方をされるようになった。その噂が都中に広がり、観光客が増えて収入を得られるようになったのは村にとって嬉しい誤算であった。村人は魔のモノが居たなどとは知らないため、この不思議な雪山をあやかるようになるのは自然なことで、それに教会が良い顔をしなかったのも当然と言えるだろう。
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それから数年後、村から町になった場所から旅立つ一人の男がいた。
「もう自分の力は必要なさそうだから、別の場所で人を守りたい」と言った男の意思を尊重し、村だった頃から住んでいた者たちは全員で男を見送った。男も最後まで名残惜しそうに振り返り、手を振りながらも一歩ずつ町から離れていった。町の皆は「きっと次の場所でも男は活躍するだろう」と目に涙を浮かべつつも笑顔で語り合った。
数年という単位では気づけなかったのだ。
もし十年近く注意深く見ていれば、村人たちは気づいたかもしれない。
男はあの雪山事件以来、
町が全く見えなくなるところまで歩いた男は、突然正道を外れて獣も通っていないような草木へ分け入った。
まるで、自分が歩くべき道がそちらだと分かっているかのように。
まるで、自分が行くべき場所へ最短の一直線で向かうかのように。
「
そう呟いた男は柔らかな笑みを浮かべ、その目に綺麗な青い炎を躍らせていた──
(第一話 フローズン・ミステリー 了)