教育。
教え育むこと。
何に?
子供たちに。
何を?
勉強を。
なんと馬鹿馬鹿しいことだろうか。
毎日そう思っていた。シャーペンを鼻と上唇で挟みながら椅子に寄り掛かっていた。あと数十分後には始まる授業。その準備をしていたはずなのだが、いつの間にか時計を眺めることばかりに集中していた。
「お疲れ様です」
塾の玄関先から声がする。
講師たちは、玄関先での挨拶で誰が来たかを判断する。
お疲れ様です。だと講師。
こんにちは。だと生徒。
今は講師側の挨拶であったため、出迎えに行く必要も別にない。
せわしない足音を立てて、白石環が背後を通り過ぎていった。
「環、時間ぎりぎりだぞ」
と先輩として軽い説教を吐く。そのころには、シャーペンは手元で行われるペン回しに使われていた。一向に、授業の記録表の準備蘭は埋まっていない。
「どうせ先生だって、準備サボってるんでしょ?」
環は降ろしていたミディアムの髪の毛をゴムで縛るとスイッチを入れた。学生アルバイトではあるものの、誇りを持って彼女は働いていた。
環は去年まで生徒であり、ここの塾で教えを乞うていた。今は大学生となり、講師となってアルバイトをしている。お世話になったのは俺、だ。
結局準備をろくにしないまま、適当に高校生対応の英語のテキストと掌大のサイズの本を1冊取って授業へと向かった。
今日の授業は、ここへ来てまだ授業2回目の高校3年生。波村沙也加(なみむら さやか)はまだ専属講師を決めている最中だった。所謂一か月無料体験、というコース。今週はこの、だらしない男が授業を担当することになったわけだった。
英語長文を読んでいる時に、集中できなくなり、いつの間にか試験時間が終了に迫っているのが悩みだそうだ。
一般的な塾であれば、ここは英語の読解力を上げたり速読の特訓をするだろう。だが、教室長である古城が類推するには、これは「BQ」の仕業であるそうだった。前もって渡されていた沙也加の授業準備シートには、BQの欄にチェックが入っている。
ここのチェックを見て、俺は授業の準備をするのを辞めたのだった。これは授業では解決しなからだ。
授業が始まると、先ずテキストで実力を測った。敢えて長文は出さずに、文法問題で実力を確認する。
見てみるとそこまでできないわけではなかった。
「苦手な所とかある?」
「英文法は力入れているつもりなので、結構自身あります」
質問の答えにはなっていない気がしたが、実際に正答率は良かった。となるといよいよ、試さなきゃいけないのは例の件だけだった。
「確かに。英文法は大丈夫そう、だね…」
実は俺は、昔アメリカに住んでいた経験があり英語を流暢に話すことができるバイリンガルであった。
しかし、どうも日本の受験英語には嫌悪感を抱いていた。現地に住んでいた人間からすれば、大して使わないような文法や語彙ばかりを増やしてどうするんだというのが感想だった。あまり英文法を教えるのは好きではないため、次の問題へ行くことにした。
「じゃあ、長文やってみようか」
と、表情を変えずに言ったせいもあってか、沙也加はちょっと抵抗を示すような顔を見せたのだった。
嫌われてしまうことだけは嫌であったが、これも”仕事”なので仕方がない。
ということで用意してきた英語長文を解かせたのだった。
すると、報告にあった通り、沙也加の意識が解答中に止まったのだった。明らかに呼吸をしておらず、かといって眠っているわけでもないこの状態。
これがBQに襲われた状態なのだ。BQはバッドクエスチョンの略称である。
受験生にとりつき、問題を解く際の問題用紙の世界に身を潜める。そして、子供たちが実際に問題を解いてる際に彼らの意識を襲うのだった。
実際に怪我をするわけでもなく、死ぬわけでもない。ただその際に子供たちが試験を解けずに発するストレスを吸収して怪物たちはひっそりと成長を続けていく。
今まさにBQは沙也加の問題用紙に潜み、彼女の意識を襲ったのだった。
BQが成長しきって現実世界に出てしまう前に、倒すのが彼の仕事であった。
胸の隠しポケットから、本を一冊取り出す。
仕事に入るその前に、注意点を一つ思い出した。
パーテーションを挟んだ向こうにいる環に、壁を叩いて合図を出す。
それを聞きつけた環は立ち上がると、授業をしている生徒たちを、今向いている方向とは反対の方向にどうにかして向かせたのだった。
戦士に変身する瞬間は子供たちには秘密のため、見せるわけにはいかなかった。
この際に子供たちの注意を逸らすのが環からすれば毎回大変であるそうだ。2,3回目くらいから直接愚痴られるようになった。授業に集中できないんだとか。
といっても、こちらも戦闘に集中できなくなるから、ここは教え子として一踏ん張りしてほしいところだ。
漸く、取り出した本を空中で放した。
腰の手前で本のページを開くと、開かれたページがベルトのように飛び出して俺の腰に巻き付いた。一本の栞を更に懐から取り出す。
それを差し込んだ。
刹那、体が問題用紙の世界へと吸い込まれていった。こうして俺はこの塾から一瞬姿を消したのだった。
現実世界から問題用紙の世界へと移動する空間にて、合言葉を告げる。
「変身!」
まるでレスキュー隊が用意する緊急スロープをくぐるかのような要領で変身コードを叫んだ。栞に書かれた「A C E」の文字が実体化する。
俺の体をアルファベットのエネルギー体が包み込んだ。Aの文字は胸を包み、鎧となる。Eは背中に張り付き、ブースターとなった。俺はこれで急加速攻撃や軽い空中飛行が可能となる。Cの文字は2つに分身して、両肩に張り付いた。
そして最後にAを額に、Eを横向きにした仮面を装着した。
こうして、仮面ライダーアグニスへの変身が完了したのだった。
さあ、授業開始だ。
問題用紙の世界に到着した。
そこはやはり英語の長文の世界なだけあって、辺りはアルファベットの羅列で埋め尽くされていた。見慣れた風景ではあるが、こうまでして文字が並んでいる光景を見ると集合体恐怖症にでもなりそうな勢いではある。
目の前にいるのはアンダーラインBQ。アンダーライン型の怪物は今まで何度か見てきた。沙也加は下線部の問題で引っかかっていたらしいが、今回の下線部の問題は一癖あった。
下線部がABCと3つ立て続けにならんでおり、いつものアンダーライン型の怪物よりは強いオーラが漂っている。身体中に生えた黒い棒を手裏剣にして飛ばせることは分析済み。
いつものやつと違う点は、右手に持った三節棍のような武器だ。下線部が3つ並んでいたことにかけているのだろうか。どちらにせよ、通常よりは面倒な戦闘になることが予想された。
先に攻撃を仕掛けてきたのはBQの方。武器の三節棍を振り回してくる。背中のブースターを起動させ、上方へ飛行する。相手の攻撃を避けて、跳び回し蹴りを決める。
相手が怯んだ隙を見て、連続でパンチを決めていく。相手が吹っ飛んだ所に、ブースターで加速し、勢いよく追い討ちのパンチを更に打ち込む。
そろそろ決めようか。
必殺技を打つために栞を引き抜いてもう一度差し込んだ。
『エピソードピリオド』
右足にエネルギーが集まる。ブースターで勢いよく浮上する。AとCの形をしたエネルギー体が右足に合体する。もう一度ブースターを蒸し、相手に向かって飛び込んだ。
右足が相手の体にぶつかるや否や、Aの文字がドリルの如く回転して相手の体を粉砕させる。アサルトクラッシュエピソードを決めた俺は、相手に背を向けて着地した。
怪物の体は見事爆散したのだった。
その際、ある小型物体が俺の目の前に降り注いだ。相手の肉片かと思いきや、それはあからさまに硬い鉱物だった。よく見れば文字が書いてある。ROK。なんの文字かわからなかったが、ベルトにはめているブックマークと全く同じ形をしていた。
このような戦利品を得るのは初めてだった。思わずまじまじと見つめてしまったが、今特にベルトが反応するわけでもなく、使い所はまた今度という形になってしまうようだ。
問題用紙の世界から帰った俺は、意識を失っていた沙也加に声をかけた。
気絶していた所から我に帰る沙也加。これで難なく問題も解けるだろう。気絶していたことをかなり謝罪されたが、別に気にしなくていいと言った。
「もう一度始めから読み直していいから、解いてみて」
沙也加は俺の言葉を信じて首を縦に振ってくれた。
「....」黙々と英文を読み始めた。「あれなんか。いつもよりわかるかも」
と呟くと先程とは打って変わって凄いスピードで問題を解いていった。
数分後、沙也加は無事問題を解き終わった。採点をすると、見事7割近く正解をしていたのだった。
「なんだ。やればできるじゃないか」
「今日は不思議と調子が良かったです!またお願いします」
その一言で俺は面食らった。
「また?」
「次も先生がいいです」
「お、おう」
と取り敢えず返事はしたものの、内心うんざりしてしまう自分がいた。またと言われると自分の仕事が増える。
どちらの仕事方が楽なのか、最近はわからなくなってきた。
沙也加の受験がどうなるかは、またの話だ。