空気、雰囲気、ムード。誰が言わなくても、肌で何となく感じ取れるものって言うのはよくある。
今日はそれが顕著だった。
トレセン学園全体に漂う、甘い香り。
ウマ娘達はいつもよりも落ち着きがなく、耳や尻尾が揺れ動いたりしている。
そんな日の放課後に、聴きなれた元気な声が部屋の外から聞こえた。
「ねぇ、トレーナー! ドア開けてー!」
それと同時に聞こえる、ゴンゴンと自室のドアを乱暴にノックする音。
さては、足で蹴ってるな? 普通に壊れるからやめてくれ。
一旦仕事を中断。椅子から立ち上がり、ドアを開けてあげる。
すると、目の前にはテイオーが……顔が若干隠れてるな。
どこから持ってきたのか、山盛りに積みあがった小箱達をバランスよく抱えている。
そのままゆっくりと俺の部屋の中に入ってきて、積みあがった箱を床に置いた。
「ふぅ…… うん、一個も落ちなかったね」
箱をよく見てみると、色とりどりにラッピングされた物がいっぱいある。
そして、どこか嗅いだことある甘い匂いが俺の部屋を包み込んだ。
「もしかして、これ全部チョコか……?」
今日は二月十四日。世間一般的にはバレンタインデーと呼ばれる日である。
~~~~~~~~
テイオーがチョコが入っている容器を、丁寧に床に広げる。
ラッピングが凝っていたり、包装が可愛かったり、リボンがついていたりと、多種多様だ。
「にじゅういち……にじゅうに……個かな。なんかすっごい貰っちゃった」
「いつ貰ったんだ……? これ」
「なんか廊下歩いてたら、わらわら集まってきてさ──」
テイオーに聞いたところによると、放課後になって俺の部屋に向かおうとした際に、色んなウマ娘からチョコを受け取ったらしい。最初に一個受け取った瞬間、一気に増えたのだそうだ。
それで山ほどチョコを貰ったのか。
俺はこういうイベントに疎いが、これが普通なの?
「応援してます! って言って貰ったチョコもあるよ。直接言われると、やっぱり嬉しいね!」
テイオーが、笑顔でチョコを仕分けしながら発言した。
純粋にファンとして、応援する意味で渡した子も多そうだ。
今彼女は、無敗の三連勝。OPクラスのレースとはいえ、学園内で噂が広まるのも早いのだろう。
やっぱりテイオーが応援されていると、俺も嬉しくなる。
どこか感慨深さを感じていると、テイオーが俺に簡素にラッピングされた箱を一つ渡してきた。
「はい、これバレンタインのチョコ。仕事中とかに食べるといいよ」
「ん? あ、ありがとうな」
テイオーから手渡しされたそれを確認してみると、市販されているようなクッキーだった。
でもスーパーとかで見たこと無いし……どこかしっかりしたお店で買ったのだろう。
クッキーを選んだのも、手が汚れないようにと気にしてくれたのか。テイオーはよく細かい所まで気遣ってくれる。
贈り物を貰ったら返さなきゃいけないな。バレンタインだし、ホワイトデーに返すのがいいのかな。
「……」
「え、何?」
何故かテイオーが、じっと訴えるような目で俺の方を見てくる。
どうしたものかと固まっていると、彼女がどこか納得したように「はぁ」と溜息をついた。
「そういえばトレーナー、こういうイベントに疎かったね……」
「へ?」
「バレンタインだよ! バレンタイン! チョコ頂戴!」
テイオーに言われて思い出した。
女性同士──ウマ娘同士とかでも構わないが、バレンタインには友チョコという文化がある。
一応俺はウマ娘。ホワイトデーとかに返すよりも、本当は今日渡した方が一般的なのかもしれない。
だけど、何も準備していないんだよなぁ……
「えーと、ホワイトデーに返すとかじゃ駄目?」
「……」
「……駄目かぁ」
無言の圧力で拒否されてしまった。
今から買いに行くか……? でも、チョコってどこで買うんだ。スーパーとかのじゃ味気無いだろうし。
少し悩んで、携帯のアプリでスケジュールをちらっと確認する。
あー、ここ少しずらせばいけるな。時間的には余裕あるし。
「テイオー、今から街にいけるか?」
「へ? 今から? トレーニングは?」
「ちょっとずらす。お返し何も無いし、一緒に買いに行ってくれると助かるんだが……」
何を返したらいいのか分かんないのなら、本人に直接聞いた方が早い。
下手なものを渡すより、テイオーが欲しいものを買った方がいいだろう。
俺が尋ねると、テイオーが食い気味に返事をしてきた。
「行くっ! ちょっと待って準備してくるから!」
「あ、ちょっと」
物凄い勢いで、テイオーが部屋から出ていく。
竜巻のように過ぎ去った彼女は、部屋に静寂と──
「……これどうするんだよ」
──持ってきたチョコを置き去りにして。
~~~~~~~~
「~♪」
放課後の予定を変更して、トレセン学園から一番近いショッピングモールに移動する。
隣にはご機嫌のテイオーが、とことこと歩いていた。尻尾もびゅんびゅん揺れている。
あの後、準備すると言った彼女だが特に何も変わったようには見えない。
結局制服のままだし、財布とか持ってきたのかな。
時間帯というのもあってか、人も多く、トレセン学園の制服もちらほら見かける。
がやがやと騒がしい人混みの中、俺はテイオーに尋ねた。
「テイオーが欲しいチョコとかあるのか? 別にチョコとかじゃなくても構わないけど」
「一応あるかな。なんか、エアグルーヴが言ってたお店なんだけどね。美味しいチョコとかがあるらしいよ」
テイオーに先行してもらって、ショッピングモール内を歩く。はぐれないように手を繋ぐほどとかでは無いが、なるべく近くの距離を保つように気を付けながら。
彼女の後ろをついて行くと、急にテイオーの動きがピタッと止まった。
目的地に着いたのかと思ったら、目線がとあるお店の中にいっている。
彼女の目線を確認してみると、そこには見たことのあるウマ娘が座っていた。
「あっ、カイチョーだ。私服じゃん! かっこいいー!」
トレセン学園の制服ではなく、どこか優雅さを感じる緑のシャツにGパン。そしていつもはしていない眼鏡をかけた、カイチョーことシンボリルドルフがそこにいた。
お店──喫茶店なのだが、コーヒー片手に読書をしている。それだけで、どこか絵になるのだから流石はシンボリルドルフ。
そんなルドルフを前に、テイオーが喫茶店の入り口でうろうろしている。
話しかけたいが、オフの彼女に突撃するのもどうかと思っているのだろうか。
すると、こちらに気が付いたのかルドルフの耳がぴこんと跳ねる。
俺達の方を見て、右手でちょいちょいと手招き。来ていいって事かな?
それを見たテイオーが、速攻で喫茶店に入っていった。行動が早すぎる。
俺達の買い物は、いったん中断する事になりそうだ。
~~~~~~~~
「やぁ、久しぶりだね。スターゲイザー」
喫茶店に入った俺達は、ルドルフの連れというていでテーブル席に案内された。
彼女と向き合う形で、俺とテイオーが座る。
ルドルフとこうして話すのは、彼女の言う通り大分久しぶりだ。
前にしっかり話をしたのが、テイオーと模擬レースをセッティングした時だから……十ヶ月くらい前? まぁお互い会う機会も無かったし、こんなものか。
テイオーからはずっと、ルドルフの話を聞いているけど。
「何か頼むかい? ここはコーヒーが有名なお店でね。私お気に入りの喫茶店なんだ」
ルドルフに言われたので、メニューを見てみると多種多様なコーヒーの名前がずらーっと並んでいた。
コーヒーってこんなに種類あるのか……
俺はコーヒーは飲めないことはないけど、好んで飲むほどでは無いかなって感じだ。
とは言っても、何も頼まないのもあれだし適当にコーヒー頼んでみようかな。
「ボク、この期間限定のはちみつパフェで!」
「カロリー大丈夫か……?」
「ト、トレーニング増やすからっ!」
そのトレーニングを考えるのは俺なんですけど。チョコも貰ってたし、あれ全部食べるとなるとカロリーがとんでもない事になりそうだ。
「
……え、今なんて? ルドルフがダジャレ言ったように聞こえたんだけど。
隣に座っているテイオーに目配せすると、こくりと頷かれた。
どうやらこれが割とデフォルトらしい。
なんとか注文し終えて、待つこと数分。
店員さんがパフェとホットコーヒーを運んできてくれたので、砂糖の用意をしておく。
ブラックは飲めないので、角砂糖二つを投入する。ミルクとかはあんまり入れない方がいいらしい。
息を吹きかけてコーヒーを一口。……正直よく分かんないな。
少し高めのコーヒーだったので何とか味わっていると、テイオーがパフェを頬張りながら質問をした。
「そう言えば、カイチョーはなんでここにいるの? いつもは生徒会室にいるよね」
「いや、最近働きすぎだとエアグルーヴに言われてしまってね。追い出されてしまったよ」
ルドルフが苦笑いしながら答える。
まぁ、働きづめなのは良くない。学生でここまで働いているのは、ルドルフくらいじゃないだろうか。
「後は……今日はバレンタインだから、かな」
「あー…… カイチョーのとこ凄そうだもんね」
彼女たち曰く、この時期になると生徒会室がチョコで埋まるのだそう。
シンボリルドルフにエアグルーヴ、ナリタブライアンという錚々たる生徒会メンバーは、チョコが集まるのも納得のメンツである。
貰ったチョコを放置するわけにもいかないらしく、常温保存や冷蔵保存とかに分ける作業もするらしい。
手紙とかが付いていると、一つ一つ読むらしいのだから本当に真面目だ。
「私が生徒会室にいたら、また雪崩れ込むかもしれない。だから、少し変装してトレセン学園から離れているんだ。簡易なものだが、しないよりマシだろう」
片手に持っていたカップをゆっくり置きながら、ルドルフはそう語った。
彼女の「ふぅ……」と吐いた息を皮切りに、しばらくの間、喫茶店特有の静かな時間に浸る。
そういえば、父親がコーヒー好きだったな。よく分からない機械と共に、コーヒー豆が置かれていた気がする。
少しばかり家族の事を思い出していると、カツンとガラスと金属が触れる音が響く。
音が出た方向に耳を向けると、テイオーがパフェを完食したみたいで、暇そうにメニュー表を眺めていた。
ルドルフがそれを見て「ふふ」と微笑みながら、口を開いた。
「ところで…… テイオー、最近のレース成績には目を見張るものがあるな」
「ふっふーん! ここまで無敗だからね! 凄いでしょ!」
「うむ、才気煥発……これからも期待しているよ」
「任せてよ! ボク達は強いからね!」
ふふんと、胸を張ってテイオーが自慢する。
ルドルフはずっと、テイオーの事を気にかけているんだな。
テイオーは、ルドルフに宣戦布告したはずなのだが…… こうして見ると微笑ましい先輩と後輩にしか見えない。
「いつか────私に牙が届くことを楽しみにしているよ」
一瞬で、雰囲気が変わった。レース前のウマ娘のような、ビリっとした空気感。
いや、それ以上。それこそまるで、皇帝のような──
「あ、いや、すまないね。驚かせるつもりは無かったんだ」
ルドルフが謝罪をしてふっ、と元の柔らかい状態に戻る。……ちょっと怖かった。
少しバクバクしている心臓を落ち着かせながら、目線を上に向ける。すると、店内の時計が目に入った。
確認してみると入店してから、既に一時間程度過ぎていたらしい。
時間帯的に、そろそろお店にいかないと帰るのが遅くなってしまいそうだ。
「テイオー、そろそろ行こうか。遅くなってもあれだし」
「あ、うん。……ばいばい、カイチョー!」
少し放心していたらしいテイオーの肩を、ぽんぽんと叩いて帰る準備をする。
お会計はルドルフが「持つよ」と言ったが、流石に払わせられないのでなんとか断った。
テイオーが先にレジの方に向かったので、俺が後を追おうと立ち上がると、ルドルフに呼び止められた。
「テイオーを、よろしく頼むよ」
「言われなくても」
~~~~~~~~
別れ際の挨拶をルドルフと交わして、喫茶店を後にする。
少しの時間移動すると、テイオーの言っていたお店に辿り着いた。
どうやらケーキのお店らしく、ショーケースにずらりとスイーツが並んでいる。
バレンタインフェアをやっていた為か、チョコ系のケーキが多かった。
その中からテイオーに好きなケーキを一つ選んで貰い、購入。
ショコラショートケーキを箱に包んで貰い、丁寧に持ち帰る。
すっかり日が落ちた道を歩きながら、トレセン学園の寮に帰寮した俺達は、玄関で別れを告げて各々の部屋に戻った。
チョコは俺の部屋に置きっぱなしなのだが、テイオーにお願いされたのでここで保存しておくことにする。
一人しかいない部屋だし、スペースには余裕あるしな。部屋の冷蔵庫に入れるだけ入れておこうか。
そう思いながら自部屋への道を歩いていると、後ろから声が聞こえた。
「あ、あのっ!」
振り向いて確認すると、トレセン制服を着た黒毛のウマ娘がどこか緊張した様子で立っていた。
手を後ろに組んでおり、落ち着きが無くもじもじしている。
何か俺に用があるのか……?
「こ、これっ! バレンタインのチョコです! お、応援してます! これからも頑張ってくださいっ!」
そう言って、全力ダッシュでどこかに走り去ってしまう。
漫画だったら、「ばびゅん」なんて効果音が付いたのだろうか。凄い逃げ足だった。
状況が理解できずに、ぽかんとしてしまう。
だが、手に残った贈り物だけが今の出来事は現実だと証明していた。
部屋に戻った後、彼女に貰った物を見てみると、随分綺麗にラッピングされている。
なるべく傷つけないように中身を出すと、また可愛らしい箱が出て来た。
テーブルの上に置いて、箱の蓋を取り外してみる。
中身は……チョコでコーティングされた、ホタテ貝のような形の焼き菓子が複数個入っていた。マドレーヌかな? これ。
形が不揃いだから、多分手作りだと思うし……
なんかこう、俺の為に作ってくれたと思うと、自然に頬が緩む。
そんなマドレーヌを箱から一つ取って、口の中に入れる。
歯を立てると、ふんわりとした食感が伝わって来る。
その後に、周りに付いたチョコと、うっすらと感じるはちみつとレモンの風味が舌に溶けていった。
……美味しい。
この絶妙な甘さは、きっと作ってくれたウマ娘の気持ちも入っているのだろう。
俺はぐっと背伸びしながら、気持ちを切り替える。
わざわざ応援してくれたウマ娘だっているんだ。これは、やる気を入れてトレーニングメニューを考えなくては。
俺の役目は、テイオーを勝たせる事。
きっとあの子だって、彼女の活躍を見たいだろう。
そう考えると、どこかいつも以上にやる気が出る。
その日は、貰ったチョコのおかげで頭が回ったのか。
かなり作業が捗って、いつもより集中する事が出来たのであった。
すっかり人の気配が無くなったとある道を、彼女は一人で歩く。
人工的な光が煌煌と、その道を照らす。
歩を進めていると、どこからかガサガサと聞こえる音。
「にゃぁ」
びくりと尻尾が跳ねてしまったが、その正体は黒猫。
首輪も付けていない為、野良猫だろうか。
「ふふ……君も迷子かい?」
彼女の質問に、黒猫は「にゃぁ」と答える。
暗い背景に対して、琥珀色に輝く目がじっとこちらを見つめてくる。
「そうか…… 私も一緒だよ」
そう呟いた言葉は闇に溶けて、消える。
この道は、一方通行。真っすぐ素直に進めば、迷子なんてありえない。
だが、彼女は間違いなく迷子だった。
前に進む事しかできない。後には振り返れない。
これを迷子と呼ばずして、なんと呼ぶべきか。
彼女が空を見上げると、綺麗な半月がくっきりと見える。
その光に照らされた
欠け堕ちた
月の裏は、今はもう見る事が出来ない。