そのウマ娘、星を仰ぎ見る   作:フラペチーノ

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21.白の章─菊花賞

 そこは真っ白な場所だった。

 

 視界内から入る情報が「白」しかなく、全く風景に動きがない水平線まで真っ白な空間。

 音も風も無い。例えるなら波の無い静かな海だろうか。

 そんな場所に俺はいた。

 久しぶりにこの夢を見たなと思いつつ、自分の状況を確認してみると、いつも着ているスーツの恰好だ。

 初めてこの夢を見たときは感覚しか無く、体すら動かせない状況だったのにこの変化はどういう事なのだろうか。

 疑問を覚えていると、突如として視界の真ん中にウマ娘の姿が映る。

 栗毛と言われる茶色の髪を携えて、俺より低めの身長。それであるのにも関わらず、幼さを全く感じさせずに妖艶ささえ感じる立ち姿だった。

 いつも以上にはっきりと見えた彼女が俺に近づいてきて、そっと俺の額に人差し指で触れる。

 すると彼女の口が全く動いていないのにも関わらず、頭の中に言葉が流れ込んできた。

 

『スターゲイザー……スターゲイザーよ』

 

「……なんですか?」

 

 夢の中で返事が出来た事に地味に驚いていると、謎の少女がふっと微笑んで返事をしてきた。

 

『皐月賞、東京優駿、そして菊花賞。トウカイテイオーの軌跡には期待していますよ』

 

 そう言って──正確に言うと頭の中に直接叩きこまれたような感覚なのだが、彼女はそう言い残して消えていってしまった。

 一体どういう事だったんだ……? 

 そう思いながら夢の中で手を顎に当てながら考えていると、どこか遠くからいつも聞きなれた声が聞こえる。

 

「トレーナー! トレーナー! 起きてよ~ 今日は菊花賞だよ!」

 

「あれ……テイオー……」

 

「起きた! なんかいつも時間通り起きるトレーナーが起きなかったからさ。つい」

 

 目をうっすらと開けると、トレセン学園指定のジャージを着た俺の担当ウマ娘、トウカイテイオーがベッドの側に立っていた。

 いままで俺の体をゆさゆさと揺すっていたいたのか、手を布団越しに胸辺りに当てながらの体制で俺を見下ろしてきている。

 ぼんやりとした頭で今の状況を思い出すと、確か菊花賞の出るために現地のホテルで一緒にテイオーと泊まっていたはずだ。

 つまり、俺をわざわざ起こしに来たって事は……

 

「やばっ。遅刻だったか」

 

「ううん。まだ全然余裕あるよ。ゆっくり着替えて大丈夫だからさ」

 

 時計を見てみると朝の七時ごろ。

 確かにいつも起きている六時よりも遅い起床となってしまったが、時間的にはまだ全然余裕はある。

 ホテルを出る時間にも余裕があるし、朝ジョギングする時間もまだまだある。

 どうやら致命的な寝過ごしでは無い事にほっとしつつ、俺がベッドから出るとテイオーが俺の顔を見てにっこりと笑った。

 

「じゃあ、トレーナー。約束通り一緒に走りに行こっ!」

 

「了解。ちょっと待ってな」

 

 俺は顔を洗いながら、彼女に返事をしつつ身だしなみを整える。

 そして、ジャージに袖を通しつつ走るようの靴を履き準備を終えてテイオーと一緒に外に出た。

 そう、今日は菊花賞当日。

 彼女の無敗の三冠がかかった大事な日だ。

 そんな日に彼女は──

 

「えへへ。一緒に走ると気持ちがいいね!」

 

 とても絶好調のようだ。

 

~~~~~~~~

 皐月賞は最も速いウマ娘が勝つ。

 日本ダービーは最も運がいいウマ娘が勝つ。

 菊花賞は最も強いウマ娘が勝つ。

 

 各クラシックレースにはそんなジンクスと言われるものがあり、世間でも割と信じられていたりする。

 そんなジンクスをテイオーは二つ取得しており、後一つ手にすれば誰もが疑うことの無い最強のウマ娘への「一歩」となる。

 だが菊花賞への挑戦は彼女にとって大きな壁になる。

 距離3000mという距離適性への挑戦。これは今までのG1レースの中で大きなチャレンジになる。

 しかもレースは一人で走るわけでは無く、複数人が競い合って走るものだ。

 色々な不確定な状況がある中での菊花賞なわけだが、俺達に不安は特に無い。

 対策は立てた。それにそった練習もした。相手の分析もしっかりした。

 今回、俺とテイオーに隙は無いと信じている。

 

「ねぇ、トレーナー。菊花賞始まるね」

 

「そうだな…… 緊張してるか……?」

 

 京都レース場10R、G1レース菊花賞。それに出るために俺達は京都レース場の控室にいた。

 勝負服に着替えたテイオーが、椅子に座りながら俺の話を聞いている。

 今は待ち時間の為、作戦の最終確認をしながらテイオーと会話していた。

 

「全然? ボクはワクワクしてるよ?」

 

 足を椅子から垂らして、ぶらぶらと揺らしながら俺の話をリラックスしながら聞いている。

 この大舞台で全く緊張していなそうなのは流石テイオーというべきか。

 俺は少し緊張しているが、それが彼女に移らないように実は少し気を使っている。そんな事バレたとしても彼女は気にしないとは思うが、まぁ念のためだ。

 すると、こんこんとドアのノック音がした。

 

「邪魔するでー」

 

「師匠!」

 

「なんや、緊張はしてないようやな」

 

 かちゃりとドアが空く音がして、一人のウマ娘が入って来る。

 テイオーが師匠と呼んだ人物は俺達を今までサポートしてくれた伝説のウマ娘、タマモクロスさんだ。

 トレセン学園の制服を着ている彼女が控え室にまで来てくれたという事は、わざわざここまで応援しにきてくれたという事なのだろう。とてもありがたい。

 

「緊張してたらウチが笑わせてやろうかかとおもうたけど、大丈夫そうやな」

 

「勿論! ボクのことなんだと思ってるのさ!」

 

「おうおう。それくらいの意気込みで行くてええで!」

 

 タマモクロスさんが片手の親指を突き上げて、ぐっとテイオーに突き出す。頑張ってこいと言っているのだろう。

 

「ライバルも多くて大変やと思うけどな…… テイオー、スター」

 

「うん」

 

「あぁ」

 

「まずは走るのを楽しんでいこな!」

 

 走るのを楽しむ。

 俺達がレースの事を真剣に考えすぎるとつい忘れてしまうことを、彼女はわざわざ助言してくれた。とても……ありがたい。

 その言葉で俺達の心が更に引き締まった感じがする。

 タマモクロスさんからの助言を受けて、テイオーと俺が正面を向き合ってこくりと頷く。

 

「ありがとう、師匠!」

 

「ありがとうな」

 

「なんや改まって。 ウチとアンタらの仲やんけ」

 

 わははとタマモクロスさんが褒められてまんざらでも無いような顔をする。

 その姿を見て、思わずこわばっていた心と体がほぐれたような気がした。

 本当にタマモクロスさんは空気を変えるのが得意なウマ娘で、こういう時に緊張を解してくれるのはありがたい。

 

「さて……そろそろ時間だな。行こうか、テイオー」

 

「うん! じゃあ、いこっか!」

 

「頑張ってきいや!」

 

 タマモクロスさんが俺達を見送ってくれるのを背に、ドアを開けて控室から出た。

 控室から出て、テイオーと一緒に少し通路を歩き地下バ道に移動する。

 今まで見慣れてきたと思っていた地下バ道も今日はいつもよりも広く、そして静かに感じた。

 どの場所にいるウマ娘達もどこかぴりぴりとした空気を漂わせており、皆集中しているといった感じだ。

 その空気に当てられたのか、テイオーが先ほどのリラックスした表情から一変し、キリっと真剣な表情になる。

 そして俺の一歩前にとんと歩くと、くるりと俺の方に振り向いた。

 

「いってきます、トレーナー」

 

「いってらっしゃい、テイオー」

 

 その顔はいつも以上に頼りがいがある顔で、不覚にもドキッとしてしまった。

 これなら絶対に三冠を取って帰って来てくれるという、そんな確信を抱くほどに。

 レースがある度に恒例となっていたこの挨拶も、彼女にとってスイッチを切り替えるいいきっかけになっているのかもしれない。

 挨拶をし終えると、テイオーが勝負服のマントとポニーテールを揺らしながら出口に向かって歩みを進めていった。

 さてと……俺も移動しますか。

 テイオーを見送った後、俺は一度地下バ道から離れて地上に出る。

 レース場の関係者席に向かっていると、大勢の観客が身を寄せ合うレベルで座っていた。

 多くの観客が無敗の三冠ウマ娘の誕生を待ちかねていると思うと感慨深い。

 まだレースが始まっていないのにも関わらず、大きな熱気と歓声が今の時点で伝わってくる。

 毎回圧倒されるG1の熱狂っぷりに少し酔いながら、関係者席に行き自分の席に腰を下ろした。

 あとはここでパドック入場を待つだけだが……

 

「よぉ。久しぶりだな。覚えているか?」

 

「……覚えていますよ。一応」

 

 何故か俺の隣から気さくに話しかけてくる男性が一人。

 俺と同じ黒いスーツに身を包みながら、清潔感漂う髪型をした小綺麗な三十代ぐらいのおじさん。

 俺はこの人に一度だけ会ったことがある。それは、テイオーが最初のデビュー戦の時の話。

 このおっさんは俺が当時考えた作戦を全て見抜いた上で話しかけてきた、という経歴がある。だから謎に見る目があるのは分かっていた。

 あの時は無精ひげを生やしていて、よれよれのスーツ姿だったが今日は大分ピシッとした姿だった。

 俺は人の顔を一度見たら覚えるタイプのウマ娘なので、彼の事も当然印象に残っていていたのだが、どうしてこんなところにいるんだろうか。

 俺が警戒心を含めた目でじぃーと彼の事を見つめていると、それを感じ取ったのかおっさんが俺に返事をしてくる。

 

「んまぁ、なんだ。菊花賞を見に来たって所だ。メジロ家の秘密兵器と無敗の二冠ウマ娘の対決なんて、生で見たいだろ?」

 

「んまぁそれはそうですけど……」

 

 確かにこの貴重な瞬間を生で見たいのはとても分かる。

 もし俺がトレーナーじゃなかったとしても、このレースは現地でみたいと思うだろう。

 今日は、歴史の一ページに刻まれるかもしれないの日なのだ。

 

「あっ、そうそう。そういえば自己紹介してなかったな。俺は須藤要だ。よろしくな」

 

「スターゲイザーです。宜しくお願いします」

 

 彼──須藤さんが名前を言って来てくれたので、俺も返事として名前だけを簡単に返す。

 俺達が互いに自己紹介をしていると、レース場に設置されたスピーカーから女性の大きな声が聞こえてきた。

 

『さぁ、お待たせいたしました! 京都レース場、第10R、菊花賞に出走するウマ娘のパドック入場が開始されます!』

 

 その言葉が会場内に響いた瞬間、わっと観客が盛り上がりひときわ大きな声が上がった。

 パドック入場はレース前のウマ娘が、ランウェイで自らの勝負服を披露することだ。

 勝負服の披露とパフォーマンスはファンも楽しみにしており、一つの見所になっている。

 

『まず一番人気を紹介しましょう! ここで勝てばシンボリルドルフ以来の無敗の三冠ウマ娘! ファンからの期待を一心に背負い、クラシック最強が期待されています!』

 

「お、来たぞ。お前の担当ウマ娘が」

 

『一番人気! トウカイテイオー!!!』

 

 テイオーがアナウンスと同時に入ってきて、マントをばさりと翻してポーズを取った。

 そして観客席に向けて大きく手を振り、アピールしている。先ほども思ったが程よく緊張し、リラックスしている。本当にいい状態だ。

 テイオーがサービスをした瞬間、観客席からわーっと声が上がって耳が痛くなる。だがその分テイオーが人気である証拠でもある為、とても嬉しくなってしまった。

 テイオーがランウェイから退場して、パドックの方に降りて軽く準備体操を始めた。

 それを確認したのか、実況の方が次のウマ娘を紹介し始める。

 

『お次のウマ娘を紹介しましょう! ダービー二着と惜しい戦績を残しながらもファンに押されて二番人気! レグルスナムカです!』

 

 その声と同時にレグルスナムカがステージに入場してくる。

 和服をモチーフとした勝負服に身を包みながら、きりっとした表情で堂々とステージの上に立っている。

 これは皐月賞、日本ダービーの時以上の集中力かもしれない。

 

「二番人気に押されるだけあるな。いいバ体をしている」

 

 須藤さんが彼女の姿を見て、ぽつりと冷静な分析を呟く。

 レグルスナムカが勝負服をアピールした後にパドックに降りる。

 すると準備体操をしていたテイオーに近づき、何か話をしている様子が見えた。

 彼女の事だ。きっと宣戦布告辺りをしているのだろう。

 

『次のウマ娘を紹介しましょう! あのメジロ家の秘宝。ステイヤーの能力を推されての三番人気! メジロマックイーンです!』

 

 その名前が呼ばれた瞬間、会場がまた声援に包まれた。やはりメジロ家という名前はかなり影響が大きいのだろう。

 今まで何回も関わってきた彼女だが、勝負服を見るのは今回が初めてだ。

 その姿を確認しようと、パドックが映る正面のモニターに注目しているとはっと息を吞んだ。

 黒を基調とし、メジロ家カラーと呼ばれている白、緑を配色したのを着用して入場した彼女だが、パッと見ただけで分かる。すさまじい集中力だった。

 

「これは……やばいな」

 

 須藤さんもその姿に驚いたのか、若干引いた様子で彼女の事を評価する。

 俺もレース前の彼女を生で見るのは初めてだが、ここまでのプレッシャーを感じる立ち姿とは思わなかった。

 優雅さと気品さを漂わせながら一礼をすると、パドックの方に降りる。

 しかも会場全体がメジロマックイーンのオーラに包み込まれたように、少し声援が小さくなっていたのが恐ろしい。

 一体どれだけ脅威になるのか今からでも恐ろしい。

 

『四番人気を紹介しましょう! ファンからの期待が厚く、菊花賞でもいい成績を残すことを期待されています! ナイスネイチャです!』

 

 その実況と同時に黒を基調とし、ワンポイントとして赤と緑をつけた勝負服を着たナイスネイチャがその姿を現した。

 ほどよくリラックスしているのか、手をひらひらと振りながら歩いてきている。

 表情は笑顔で、「たはー」とでも言っていそうな感じすらあった。

 だが、その表情は一瞬で一変する。

 気合を入れる為だろうか。顔を自分の手の平でパンと叩くと先ほどまでの姿は無く、しゅっと気合の入った表情に切り替わる。

 レースに向けて気合をいれたのか、その恰好のまま彼女はパドックに降りて行った。

 

『さて続きましては──』

 

 その調子のまま実況の方が次のウマ娘に紹介に移っていると、隣にいた須藤さんが俺に対して話しかけてきた。

 

「二番人気から四番人気までの子。テイオーの知り合いか? 随分と手ごわそうだな」

 

「えぇ、どの子たちも強いのは俺が良く知っています」

 

 普段から色々なところで見ているからこそ分かる。彼女達は一筋縄ではいかない。

 そして忘れてはいけないのは、俺はトレーナーとして何もノウハウが無いという事だ。

 トレーナーになってから一年程度しか経ってない俺が三冠に挑むのは少し怖いが、これはテイオーを信じるしかないだろう。

 大丈夫だ、きっと勝てる──いや、勝つ。

 俺が決意を新たにしていると、パドック入場が終わり本バ場入場の時間になっていた。

 テイオー達がぞろぞろとターフの上に移動してゲートの中に入る。

 

『さぁ京都レース場、第10R、菊花賞! 勝つのは無敗の二冠バか! それともメジロ家の意地か!? それとも伏兵か!』

 

 全ウマ娘がゲートインし、そして──

 

『スタートしました!』

 

 ガチャンという音と共にウマ娘達がスタートし、ターフを蹴る。

 とうとう菊花賞が始まった。ゲートが開いた瞬間、俺の気持も更に引き締まってきゅっとする感じがする。

 今回テイオーは十八人の中での二枠。皐月とダービーと違って慣れない内枠になってしまっているが、今回の作戦において外枠か内枠かは関係無い。

 なぜなら──

 

『おっと!? トウカイテイオー出遅れか!? 最後尾からのスタートです!』

 

 ──今回の作戦は追い込みだからだ。

 スタートした直後、テイオーが出遅れかと思われてしまったのか会場内がざわつく。

 隣にいる須藤さんなんて驚いたような顔をして、目を開いてターフを見ている。

 そう、菊花賞という舞台でわざわざ追い込みなんて作戦を取ったのはいくつか理由がある。

 まず一つ目は。

 

『他のウマ娘は出遅れ無しの綺麗なスタートです。先頭に立ったのはフジヤマケンセイ。次にシンクルスルーが続いています。メジロマックイーンは五番手。レグルスナムカが六番手です』

 

 テイオーが絶対にマークされる事を見こしていたからだ。

 その証拠にマックイーンはいつもより少し後ろに、レグルスはいつもより少し前で走っている。

 そう、いつもテイオーが走っているであろう位置に。

 予想的中といったところだろうか。思わず笑みが零れ落ちてしまいそうになる。

 

「先行のウマ娘がいつもより多い…… なるほどな、これを見こして追い込みにしたか」

 

 須藤さんの言う通り今回は若干だが、先行のウマ娘が多い。

 マークする気満々だったのかもしれないが、悪いが誰にもマークはさせない。相手のペースには最初から乗らないのが正解だ。

 追い込みにしたのはそれだけではない。

 二つ目の理由として、作戦がほぼ絶対に成功する点というのがある。

 先行にこれだけ多くのウマ娘が固まっていたら作戦を立てたとしても、邪魔されたり苛烈なポジション争いでめちゃくちゃにされてしまう事が多いだろう。

 しかし追い込みならその問題点も無い。

 無駄なリソースを脳に割かないならば、その分スタミナを温存できる。

 どこで仕掛けるか、どこでスパートするか、どこに誰がいるか…… これは追い込みの特権だ。

 だが、勿論問題点もないわけではない。

 

「テイオーは元は先行だろう? 脚質を変えたらスタミナを無駄に使わないか?」

 

 脚質変更は基本無茶とされている。何故ならがらりと走り方を変える事はその分スタミナを消費し、自分の今までのペースを捨てる事に等しいからだ。

 だがここも勿論対策済み……というか、谷口さんとタマモクロスさんに感謝しなければいけないのだが。

 そう。タマモクロスさんが来てくれたことにより、追い込みを教えてくれる人が一か月付きっ切りでいたのだ。

 しかも、彼女は天皇賞春を走っている。3200m長距離のノウハウすら持っているという事だ。

 そんな彼女とワンツーマンのトレーニングをしたテイオーは、一か月という夏合宿の間に自前の呑み込みの良さで追い込みの脚質を習得。

 何も無茶や血迷って追い込みをやっているわけではない。必ず理由があってやっているのだ。

 あともう一つに、走っているウマ娘にいつテイオーが仕掛けてくるか分からないようにするというのもある。

 これは副産物になってしまうが、走っている側からしたらたまらないだろう。

 さて……俺達のレースを始めようか。

 

『京都レース場の坂を超えてウマ娘達がホームストレッチに入っていきます! 多くの観客が迎える中、自分のペースを維持できるのかにも注目です!』

 

 十万人を超える観客の声援が、ターフの上を走っているウマ娘達に浴びせられる。

 この声援で驚いてしまい掛かってしまうウマ娘の子もいるみたいだが、テイオーは全く問題ないようだ。

 見た感じ、今回は誰も掛からずに自分のポジションに位置取れている。

 第四コーナーを通過してポジション争いが終わり、全体的にスローペースでレースが進んでいる。

 

『先頭に立っているのは一バ身差フジヤマケンセイ。二番手にシンクルスルーがあがってまいりました。メジロマックイーン、レグルスナムカは中団先行の位置。ナイスネイチャは中団やや後ろ。トウカイテイオーは未だに最後尾であります』

 

 見てみると逃げが二人、先行が大体九人、差しが七人、そして追い込みがテイオーただ一人だ。

 第一コーナーに差し掛かり第二コーナーに入ろうとしているが、未だに動きは無い。

 やはり菊花賞という長距離の状況で直ぐに仕掛けるとスタミナ的に難しいのだろう。

 結果、動きがあったのは第二コーナーを通過したあとだった。

 

『第二コーナーから向こう正面に入ります。おっとここでトウカイテイオーが少しずつ前に動き始めました! それにつられてかナイスネイチャも動き始めます!』

 

 仕掛けたのは俺の担当ウマ娘のトウカイテイオー。スパートでは無く、少しずつ前進するといった感じだ。ここから仕掛ければ俺の考えが合っていれば「必ず」間に合う。

 テイオーが動き始めた瞬間、ナイスネイチャも少し前に上がり始める。

 これはネイチャがテイオーにつられて少し掛かったのか。これは、ラッキーだと思う事にしよう。

 

「さてここからが鬼門だな。二回目の淀の坂が来るぞ」

 

 須藤さんが言っている淀の坂とは京都レース場にそびえ立つ坂の名称の事でここは全国にあるレース場の中にある坂の中でも一番キツイと言われている。

 この坂は第三コーナーと第四コーナーの途中にあるのだが、実は菊花賞のスタートはこの坂の途中からスタートするのだ。

 するとどういう事が発生するのかというと、ただでさえ高低差のある坂を二回も登らなければいけないという事が起こる。

 高低差4.3m。上り坂の距離は約370m。正直このレース場を作った人は、何を思ってこの坂を設計したのだろうかと考えるほどの急坂。

 この坂を3000mの長距離の中で登山しなければいけない。3000mと言われている菊花賞だが、走っている側からすればそれ以上のスタミナが要求されるだろう。

 その鬼門の二回目に今差し掛かろうとしている。

 

『さぁ問題の第三コーナー登りに差し掛かろうとしています! 中団がやや固まった感じになってきたか!』

 

 上り坂に突入した瞬間、ゆっくりと上がっていくウマ娘が多く見える。

 スパートというわけではないのだろうが、そろそろ仕掛けるタイミングと言う事だろう。

 かくいうテイオーも徐々に進出し、現在は追い込みから差しくらいの位置に進出している。

 この坂を登る練習も、俺達は山にいった夏合宿で散々してきた。

 テイオーステップに切り替えて、スパートをかけずに坂を登る練習。

 今まではスパートと同時にテイオーステップを使ってきたが、今回は坂を登るために一回使う。小刻みに飛ぶようなテイオーステップは坂を走る走り方に最適なのだ。

 それこそ菊花賞の坂でスパートをかけたようなウマ娘もいるが、あれは真似するのは無理に等しいので除外する。

 全くスピードを落とす事もなく、坂をするすると登っていくテイオー。

 その最中にも他のウマ娘を外側から抜かしていき、順位を着実にあげていく。

『中団からメジロマックイーン、レグルスナムカと上がってまいりました。更にサクラコンゴオー、ナイスネイチャにトウカイテイオーも上がってきた! ここから一瞬たりとも目を離せません!』

 

「トウカイテイオーが追い込みになった時は驚いたが、ここまでなると納得だな。レースをコントロールしている」

 

 隣にいた須藤さんが顎に手を当てながらこくりと頷きながらそう言った。

 追い込みの作戦をしようと俺が提案したのは夏合宿が始まる前。

 更にそこから山でのスタミナ強化に坂の登り方の練習、追い込みのペース配分。

 これらを全て駆使して走っているテイオーなら……負けは無い。

 

『下り坂に突入して中団の集団が徐々に動き始めています! おっと、ここでトウカイテイオーが更に上がってきた!』

 

 下り坂に突入した瞬間、テイオーの体がぐっと沈んでスパートの体勢に入る。

 そう。ここから下り坂を利用してのロングスパートだ。

 いつもの先行集団にいたら、ここでスパート出来る体力は残って無かっただろう。競り合いに、タイミング。全てがその場のウマ娘次第になってしまうからだ。

 だが今回は作戦が誰にも邪魔されない追い込み。

 ここからスパートかけるスタミナは十分確保しているはずだ。

 しかも今回は全体的に先行集団に固まったため、全体がスローペース。これもテイオーがいつも先行位置で走っているからこその恩恵だ。これも彼女の追い込みの作戦のメリットになっている。

 行け……テイオー。

 

『さて600mの標識を通過しました! レグルスナムカ、ナイスネイチャ共に進出! 前の逃げの集団はやや苦しいか? おっと、ここでメジロマックイーン更に動いた!』

 

 全て順調にいっていた。進出を仕掛けるタイミングも間違っていない。

 上り坂でテイオーステップを解禁。下り坂でその勢いのままのロングスパート。

 誰にも邪魔されない外側からの走り。

 全てが噛みあっていた。だが、ここで予想外の出来事が発生した。

 五番手のテイオーの一つ前の位置にいた()()()()()()()()()()()()()()()()

 俺が予想していたマックイーンのペースだと、もうちょっとスパートをかけるタイミングが遅いはずだ。

 今までマックイーンのレースに普段の彼女の練習を見てる限りでも、ここからスパートをかけられるほど彼女はスタミナお化けじゃなかったはずだ。

 しかも先行の脚質で位置取り争いをしていた上に、かなり速いペースで前に前へ徐々に進出していた。

 なのに……何故ここまで。

 

「まさか」

 

「彼女、入ったか」

 

 マックイーンの姿を見ると、先ほどまでの雰囲気よりも一段階ほど深度が下がったようなオーラを出し纏っている。

 黒い勝負服に纏われる黒いオーラは曲線になり、彼女を包み込む。

 その姿はまるで、黒い弾丸。

 俺は以前この姿を間近で見たことがある。それは夏合宿、タマモクロスさんとテイオーとの対決の時にみた光景。プレッシャー。そして圧。

 間違いない、彼女──メジロマックイーンは領域に入っている。

 

「ッツ! まずい!」

 

『さぁ、残り400m! 現在トウカイテイオーが二番手にまで上がってきました! メジロマックイーンは先頭をキープ!』

 

 残り400m。

 メジロマックイーンが全てのウマ娘をかわし、一番先頭に立つ。

 テイオーは今の時点で二番手まで進出できた。だが、彼女との距離──一バ身差は縮まらない。

 それは他のウマ娘も同じでテイオーの後ろにいるレグルスナムカにナイスネイチャも彼女の事を抜かせないでいる。

 これは予想外すぎる。

 俺は「今まで」のマックイーンの影ばかりを追っていて、「今の」マックイーンを見ていなかった。俺の……責任だ。

 

「さて……彼女は入ったぞ。お前達はどうする?」

 

「……」

 

『さぁ残り200m! 最後の直線です! メジロマックイーンか!? トウカイテイオーか!?』

 

 今までの俺だったら、ここでテイオーに謝る事しか出来なかっただろう。

 テイオーばっかに頼って、彼女の才能に甘えてきたのが無いと言えば嘘になる。

 だが、今は違う。テイオーを信じるだけじゃない。

 

 ──お前がウマ娘である理由はなんだ? 

 

 その答えは簡単で一番近くに有った。

 俺が。俺だけがテイオーと一緒に走れる。

 ウマ娘のトレーナーなら、彼女と同じ目線で走る事が出来るのだ。

 それはきっと観客席にいるときだって同じだ。きっと今ならば──

 

「いけぇぇぇぇ!!! テイオー!!!」

 

 今まであげたことの無いような大声を、俺は喉から叩き出す。

 座ったままではあるが、絶対にターフで走っているテイオーに声が聞こえるように。この大勢いる観客の声にも負けないように。

 ターフで走っているのは彼女だけじゃない、俺もいるぞ、と。

 そう語りかけるように出した声は彼女に届いたのか。テイオーが一瞬ふっと微笑んだような気がした。

 そして、その直後。俺の体からがくりと力が抜けて、意識が消えてしまう。

 

 ──観客席にいた俺の記憶はここで途切れている。

 




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