雨…飴玉、アメリカ、アメジスト。
こんな言葉の遊戯をしたことはないですか。初めの文字のふたつだけを連ねて、なにか面白そうな物語を考えるのです。
眠れない夜に、暗闇が風の音さえも飲み込んで、しいんと静かすぎる掛け布団の中で。羊の数を数えるのもいいでしょう。毎日飽きもせずにそれで眠れる人は立派です。でも、ちょっと違うことを試してみるのもいいと思うのです。目を瞑って物語を考えていると、次第に夢想はふくらんでゆきます。海の波が砂浜をさあーッと攫っていくみたいに世界中に広がって、ああ主人公は私自身だった、と気づいた時にはまわりすべてがもう夢の空間なのです。
さて、六月のある晩…何日だったかは、忘れてしまいました。とにかく、あれはちょうど梅雨の時期でした。小糠雨がひんやり窓の網戸から流れてきて、あれえ布団がカビちゃ困るなぁ、なんて思いながら右手だけ伸ばして窓を閉めたのはハッキリ覚えているのですから。
ええ、梅雨だからと言って、紫陽花を愛でたりする遊び心は私にはありませんでしたよ。夜ですから外は真っ暗、そうでなくとも金属に縁取られた灰色の窓から見えるのは、隣の家の鉄筋コンクリートだけで緑色の欠片もない殺風景ばかりと決まっているのですから。
…さあ、そんな夜の夢日記です。ふと適当に思いついた飾り気も何もない題名ですが、案外気に入っています。さあっといきなりふき込んだ時に、枕を少しだけ濡らしてくれましたね。ーーー『雨』
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「おっかさん、外はねぇ、ゴーゴーザーザー物凄い雨だったのよ。せっかく掲げた学校のアメリカ国旗が、千切れそうに捲れ返っていてね。みんながそのまま放っといたから、もう今頃飛んで行っちゃったんじゃないかしら。」
エヴァが頭のてっぺんからつま先まで、川に飛び込んで泳いできたんじゃないかと思うくらいびっしょりの格好で玄関に飛び込んできて、しかも突然そんなことを言ったのですから。お母さんはもう大慌てでふわふわのタオルを引っ掴み、エヴァの方へ鞠玉みたいに飛んできました。
エヴァを特大のバスタオルに埋めながら、お母さんは太っちょの体をゆらゆら揺らします。
「まあ随分帰りが早かったのねぇ。気のいいスクールバスのおじさんが気を利かせてくれたのかしら。」
「そうよ、そうよ。先生たちがいろいろな所に電話をかけてね。…あ、おっかさんそんなにゴシゴシ拭いちゃ痛いわよ!…それでね、忙しいってくるくる走り回るの、まるでメイプル・ツリーの葉がダンスしているみたいだったわ」
「それは大変でしたねぇ。次に先生方に会ったら、先日はご苦労さまでした、お陰さまでエヴァは無事に家に辿り着けました。ちゃんと、目を見てそう伝えるんですよ」
「分かってまあす。…こうでしょう?」
エヴァがくすぐったそうに体の向きを変えると、お母さんの方にキラキラした紫の瞳を向けました。
「…ね、私の瞳はママ譲りのアメジスト。私はなんだってママにそっくりなのよ。おひさまが照ってる五月の朝が一番好きなところとか、けれども雨の日に窓ガラスをつたう灰色の水も大好きなところとか。クリスマスのキャンディーを何より楽しみにしているのも、八歳のママとまったく同じだったのでしょう?」
「そうですよ。でもね、お母さんはそんなに恥ずかしがり屋じゃあなかったわ。先生に出会ったら、先生が口を開くより前にハロー、とちょうどこんな風にごあいさつしたものですよ」
「…ふうん」
エヴァの水に濡れた金髪が、首筋にぴったりと張り付いてピカピカと光り輝いて視えました。あかあかと紅潮した頬っぺたと、うっすら紫色の唇。さっきまで雨に濡れて冷え切っていた彼女の健康的に肉のついた肌は、もうあたたかみを取り返していたのです。それどころか、カッカと熱を放っているようでした。
突然、お母さんが手を止めました。ちょっとばかりぎゅっと眉根を寄せて、エヴァの頬に手を当て、それから呟くように、険しい声で言ったのです。
「熱すぎるわ。ええ、おかしいわ。」
おかしいわ、おかしいわ、と繰り返しながら、お母さんはエヴァをリビングに連れ出しました。それからエヴァの服をすっかり脱がせると、さっきの倍もあるタオルを新しく取ってきて、まるでミイラにするかのようなすごい勢いでぐるぐる巻きつけました。もともと分厚いタオルを幾重にも巻いたので、とうとう最後はスノゥマンみたいに膨れてしまいました。
「今、あついチキン・スープをこさえますからね。エヴァはそこの肘掛け椅子で、あったかく、じいっと待ってなさい。…そう、眠って仕舞うのがよいでしょう、きっとあっという間ですよ。」
そこまで言われて初めて、エヴァは自分が高い熱を出していることに気付きました。
確かに、身体中がポッポッと熱いようなのです。体の芯に暖炉があって、焚木をゴウゴウ燃やしているみたいでした。暖炉の火は、雨に濡れて冷たくなったエヴァの指先や唇を溶かして、それでも満足することなくドンドン燃えひろがり、いよいよ熱っぽく踊り狂います。
途端に目の前が霞むような気がしました。それは目の奥がカッカと熱くなって、それから涙が滲み出て来たからでした。エヴァは肘掛け椅子にゆっくり腰をおろすと、はあと一息つきました。風邪を引いたのも何かしら因果関係ならば。きっと急に体を冷やしたりあっためたりしたので、体が吃驚したのでしょう。
エヴァはお母さんの言った通り、このままぼんやり熱っぽい気持ちに身を任せて眠ってしまおうと思いました。
…その時。
雨が叩きつける窓際に、キラリと小さな光が反射しました。うすい紫の雫のような、優しい宝石の光。エヴァが瞳を小さく見開きました。
ーーアレハ、オッカサンノ指輪ダワ。
エヴァは思わず手を伸ばしました。…いいえ、伸ばしたつもりだったのです。何故ってエヴァはタオルにぐるぐる巻きで、親指の一本さえ動かすことは出来なかったはずなのですから。
しかしエヴァは手を伸ばし、そのアメジストの指輪を捕まえて、そおっと手のひらに乗せることが出来たのです。
「ねえ、指輪さん。かあいそうねぇ、窓際に置いてきぼりなんて。本当に綺麗なアメジストなのに。」
エヴァは両の手のひらを、ちょうど水を掬う時のように合わせて口に近づけて、そんな風にささやきました。
ーー違うわ、違うわよ
「……?」
水晶のように透き通った指輪の上にちょこんと腰掛けたうす紫の妖精が笑ったのが見えたような気がして、エヴァは瞬間跳ね上がるように顔を上げました。
…幻でしょうか。
…ええ、ええ。そうに違いありません。
何故って、エヴァは熱が出ているのですから。朦朧として、空気の揺らいだのやら遠くで弟がおふざけに鈴を鳴らしたのを間違えたに決まっているのです。
そう心を納得させて前を見据えたエヴァ。
けれども。やっぱりちょっと気になるのでした。確かめるだけよ、幻だったと確かめるだけなのよ、言い訳のようにそう何度も心の中で繰り返しながら、エヴァはそおっともう一度手のひらに目を落としました。
「…ハロー、エヴァ! 元気そう、とはとっても言えないのねぇ。貴女が風邪をひいたのは何時ぶりかしら。」
エヴァはあんまりびっくりして、今度は手のひらを勢いよく閉じました。パシン、とかなりいい音が響きました。ドックンドックンする心臓が、耳のすぐ後ろに鳴っています。エヴァは息を潜めて、できるだけゆっくりとまわりを見回しました。誰もいません、おっかさんも弟も例え歌を歌っても聞こえないくらい遠くにいるようです……ほんの少しだけ安心してから、エヴァは心を落ち着けて、もう一度手のひらを開いてみることにしました。
「…あら吃驚した。いきなり手を閉じるから、私妖精なのに潰れちゃうんじゃないかと思ったわ。このアメジストの指輪が死んじゃうまでは、私だって死ねないって解ってたのにあらまあおかしいわ」
くつくつ笑って、まるでそこにいるのが当たり前とでも云うように堂々と、妖精がエヴァを見上げました。指輪と全く同じくらいの大きさで、透き通った腕や足は、お裁縫箱の中の針みたいに細い妖精。しかし今にもポキッと折れてしまいそうな体は、案外頑丈なようでした。なぜって、エヴァがさっき勢いよく手を閉じたのにもかかわらず、背中の繊細で美しい羽には傷ひとつついていないのですから。
「あら忘れてた、言いたいことがあったんだったわ。…ねえ、貴女言ったわね。置いてきぼりなんてかわいそうにって。そんなんじゃあないのよ。置いてきぼりって云うのは、そこにあることを忘れられたり、二度と連れて行く気がなかったりする時に使う言葉でしょう。エミリアは、そんな薄情な人ではないんだから。」
…エミリア。エヴァのお母さんの名前です。
「あ、でもねえ、いかにも忘れられた憐れな古品ですって格好だったのは認めるわ。だって窓際ですもの。おひさまの光に輝いているんならまだ綺麗かもしれないけど、こんな嵐で灰色の曇り日になんて、くすんで見えても仕方ないと云うものでしょう。」
言い終わると、妖精は気どって顎に手を当てました。エヴァが、まあ綺麗だわ、優雅極まりないわ、なんて興奮して熱心に見つめる間に、妖精はフワリとエヴァの手の中を飛び立ちました。そうして宙でタランと一回転して、ちょっと後ろへ行くと窓枠のそばに腰掛けたのです。
「…ねえ、妖精さん」
エヴァは夢見るように囁きました。
「おっかさんは何故に指輪を置いていったのかしら。あのアメジストはねぇ、ショッピングで、それともパーティでもいいけれど、とにかくおっかさんが嵌めていないのは見た事がないくらいに大事なものなのよ。うっかり忘れられたんじゃなけりゃ、どうしてあんな場所に置いたのかさっぱり判らないわ」
雨の雫のように透き通った体をもつ妖精が、会ったばかりの時とそっくり同じようにくつくつ笑いました。
「そりゃあもう、雨だからよ。轟々イレクトリック・レイルカーみたいに風が唸ってねぇ、黒雲がモクモク湧いて地球全部を覆っちゃうような日が来たら、それこそアメジストの最高に輝く瞬間!ああ今からぞくぞくしてきたわ」
随分とおかしなことを云う妖精ねぇ、とエヴァは考えました。宝石が輝くのは、日光の下に、星灯りの下、月灯りや、燃ゆる火のそばに決まっています。アメジストって、はてそんなに不吉な石だったかしらと頭を悩ませるのですが、まったく思い当たる節がありません。
「と云うのもね。太陽の光は強いのよ、何よりも。儚いアメジストなんか一遍に貫かれて、どんどん命が漏れ出してしまうんですから。けれどもねぇ。
ーーはんたいに、雨の空になったなら。」
妖精が一際光り輝き、透明な髪までがシャランと煌めいたように見えました。
「……淡い茈色が、そばにいる人を慰めるために一層輝くのよ!」
妖精がうれしそうに飛び立ち、渦を巻く小さな虫サイズのハリケーンが其処ら中に光の粒子を撒き散らしました。よくよく見れば、妖精が魔法で巻き起こす旋風の真ん中になにか、金色の粘り糸のようなものが集まっているようです。まるで砂糖を大鍋で溶かした時のベッコウ色のような、…いいえ、まさにそれそのものなのでした。
妖精がケシの粒より小さく細い指をくるりと回します。すると、それに合わせて空中の粘り糸がぎゅっと互いに引き寄せられて、あっという間に小さな小さな飴玉ができあがったではありませんか。
「ほうら、できた。雨とキャンディのおまじない、舌でとろけ喉には潤い、病気の膿を沈めちゃう。さあ召し上がれ、あーん。」
エヴァはなんだか妖精の勢いに呑まれるようになって、口を大急ぎに開けました。
「そうら。」
予想よりもずいぶん優しい掛け声とともに、妖精の魔法の飴玉が舌の上に乗っかりました。
「んぎゅっ」
瞬間、思わずエヴァは目を瞑りました。
…あまずっぱいのです。まるで百万個の桃の果樹に囲まれたみたいに、咽せ返るような強い薫り。
ジュワジュワといくらでも滲み出てくる果実の汁が、エヴァの全てを溶かして葬り去ろうというかのようでした。しかし不思議なことに、それら全ては優しく、慈愛に包まれた純粋な愛で出来ているのでした。
………ヴァ、エヴァ
頭のてっぺんから爪先まで、熱い汁が全身を駆け巡って沸騰したかのような感覚が一気に身を震わせます。ああ、眩暈のように世界がぐるぐる回っていて止まりません。エヴァは一層ぎゅっと体を縮めて……
まったく唐突に、全ての味と薫りが消え去りました。
「……エヴァ、エヴァ」
「はっ。……あ、あれ私って今まで…。おっかさん?」
エヴァが目を開けると、なんだかよい匂いが鼻をつうんとつきました。慌てて体を起こすと、目の前から妖精と金色の桃飴は綺麗さっぱり姿を消して、代りにエプロン姿のお母さんが、湯気がもくもくと湧き上がるチキン・スープの鍋を両手に捧げ持っていたのです。窓を叩く雨の音は、幾分か小さくなったようでした。
「エヴァ、起きましたね。そうら、ご覧なさい。よく眠っていたようでしたから、あっという間にスープが出来ましたよ。…お皿に掬いますから、ゆっくり冷まして頂きましょうね。風邪のうちは無理をしないで、一杯だけで我慢するんですよ」
エヴァは、びっくりして言いました。
「……あのぅ、おっかさん。私、なんだかもう治ってしまったみたいなの。」
お母さんはエヴァの顔色を見て、そしてスープの鍋をテーブルにごとんと置いてからあらためてエヴァの頬っぺたに触れました。それからもうエヴァの顔色をもう一度じっくり眺め回してから言ったのです。
「あらまあ、本当に治ってしまったのねぇ。あなたが寝ている間に、一体何があったのかしら。」
それはね、妖精さんがね…、とエヴァは嬉しそうに答えようとして、手に持っていたはずの指輪の感触がないのに気がつきました。それどころか、お母さんに体中ぐるぐる巻きにされたタオルのせいで、手を一寸も動かすことが出来なかったのです。
あれは全部夢だったのかしら、とエヴァはちょっと泣きそうになって、お母さんの方を振り向きました。
…途端、エヴァはあっとさけぶところでした。
今日はお出掛けの日じゃないのです。ですから、これはいつもだったら起こらないことなのです。ああ、お母さんは何もかもを初めから知っていたのでしょうか。
ーーお母さんの左手のすべすべしたお指に。
あの妖精が守るアメジストの指輪が、紫色にキラキラ煌めいていたのでした。