ーーあれはきっと、私が九つの時だったのでしょう。おじいちゃんが目の手術のために入院して、数日の間…正確には二晩と半日だったのですが、おばあちゃんが家に一人ぼっちになったちょうど秋の時節。
お料理のからっきしなおばあちゃんを心配したお母さんが、自分は忙しいのでその代わり、私を送り込みました。私は自分が頼りにされて、ちょっと誇らしげな気分になったのをよく覚えています。ルンルン鼻歌を口ずさみ、行ってきまあす、と元気に赤い靴を鳴らして家を出発しました。
秋の土曜日。優しい風の吹く日、両手にバスケットをさげて歩いたバス通りの景色。全て忘れようとしても忘れられない…大切な思い出です。
♦︎
樹里は赤い靴を履いて、両の手には籐のバスケットを提げて、ある家の門扉の前に立ちました。深呼吸で吸って、吐いて、もう一度吸って。そうして意を決して、チャイムに手を伸ばしました。…どうやら錆び付いているようです。樹里は顔を真っ赤にして、両手の親指が痛くなるほどぎゅうぎゅう押し込んで、それでようやく小さなピンポンの音を鳴らすことが出来ました。
錆びているのは、どうやらチャイムだけではありませんでした。目の前の鉄の門扉は、あっちこっちが赤く剥がれているのです。その格子の間からは、草がぼうぼうに伸びた石畳のようなものが見えていました。
お化け屋敷にも見える少し不気味なお家の前で、樹里はごくりと唾を飲み込みました。…もう引き返せません。ここまで乗り継いできた緑色のバスは、明日の朝にならないと帰ってこないのですから。
ーーギイィ、バタン
ドアの開く音。樹里は、思わずピンと背筋を伸ばしました。バスケットをぎゅうっと握り直します。
(…トヨおばあちゃんに、失礼のないようにするのよ。良い子ですねえって、きっと褒めて頂くのよ。)
樹里は祈りました。…どうか優しいおばあちゃんでありますように。まちがっても、子供嫌いの偏屈な人が出て来ませんように。樹里の作ったご飯を、美味しいねえって笑って食べてくれる人でありますように。
いったい、樹里のお祈りは届いたのでしょうか。
ドアの隙間から、ずいぶん小柄な人がひょいと顔を出しました。白髪の優しそうなおばあちゃんが、じろりと樹里の姿を捜してこちらをはたと見据えました。
「…おいで。鍵は空いてるよ」
そっけなくそう言って、おばあちゃんはパタンとドアの向こうに引っ込みました。
なんだか、樹里は肩透かしを食らったようで、戸惑いながら門扉の真鍮の取っ手に手をかけました。
「……お邪魔、しまあす…」
元気よくしようと待ち構えていた挨拶がしりすぼみに小さくなって、樹里は戸惑いながら家の中へ入って行きました。
バタン。
いきなり後ろでドアが閉まりました。玄関は、橙色の柔らかい光に包まれていました。
急に暗いところに入ったので少し怖くなりましたが、向こうの部屋から真っ白な太陽の光が漏れているのを見て、樹里は少し安心しました。
上を見上げると、トヨおばあちゃんの顔がずいぶん近くにありました。
「泊まる道具はあるね。リュックに入れたのは良い判断だ。…それからバスケットを持っているね。旅支度としてはあんまりよろしくない。一体何が入ってる?」
目があった途端に、そんな事を聞かれました。
…いえ、樹里だって確かに荷物について質問して欲しかったのですけれども。もっとこう、やさしく、興味を持った瞳でバスケットを見てくれると思っていたのです。
樹里は戸惑いながら口を開きました。
「…あのう、お土産です。母さんからは柿が二つ、父さんから、夕食用の牡蠣。それから、一番上の紫のお花は…私がお花屋さんで買ってきたかきつばたです。」
なんだか妙に遠慮してしまって、樹里はできるだけ小さな声で説明しました。
トヨおばあちゃんは、樹里の様子も何にも気にしない様子でズカズカ言いました。
「ふうん。柿、牡蠣、かきつばた。なんだかつまらないね。もっとヘンテコなものくれると思って結構期待してたんだけどね。」
「……私の母さんが、おばあちゃんは季節ものや日本の伝統のものが好きだからって、そう言ったんです。それでてっきり……」
トヨおばあちゃんがジロリとこっちを見つめたので、樹里は急いで黙りました。
おばあちゃんはハアとため息を一つ吐くと、樹里の思ったより案外優しい声音で言いました。
「覚えておきな。何十年も真面目に生きてきたら、馬鹿馬鹿しい事の一つも試してみたくなるもんだ。」
へええ、と樹里が目を丸くしていると、おばあちゃんが続けました。
「ふん。よし決めた。柿も牡蠣もかきつばたも、全部夜に後回しだ。あんたの母さんから聞いてるよ。樹里、あんた天ぷらが得意料理なんだろう、夕食に作る予定だって。…だから昼は、なんか突拍子もないものを食べる。」
…その時樹里は、母さんの言葉を思い出していました。
あの人は掃除も洗濯も、庭仕事も。お料理以外はなんでもできるんだから。そうです、トヨおばあちゃんは、母さん憧れの主婦だったと言います。
しかし、今はちょっと違うようだと樹里は思いました。
五年前に会った時は、いったいどうだったのでしょう。樹里はまだ幼かったので、覚えていません。母さんは、おばあちゃんの変化を知っているのでしょうか。
樹里は不思議な心地でおばあちゃんを見上げました。そうしたら、ここにきてから初めておばあちゃんが嬉しそうな顔で唇を綻ばせ、こんな宣言をしたのです。
「ーーよし、昼食はかき氷だ。」
「え?おばあちゃん?…」
「…あのう、かき氷マシンはあるのですか?」
「ないよ。」
樹里は、どう言ったらいいのかわからずに一瞬口をつぐみました。だって、そうでしょう。お昼ご飯にかき氷。しかも今は九月で、もう薄いカーデガンが必要な季節なのです。
「…ど、どうやって作るんでしょう。」
樹里はやっとの事で、それだけを言いました。
かき氷マシンがなければ、どんなに食べたいと思っても食べられないのがかき氷なのですから。
「どうって、氷で作るんだよ。」
トヨおばあちゃんは事もなげに言いました。
…ですから、本当にどうやって作るつもりなんでしょうか。
「ああ、倉庫にトンカチがあるから。取ってきておくれ、エノコロ草がぼうぼうのボロ屋だよ。右の壁見ればぶら下がってるからすぐわかる。」
…まさか。
「と、とんかちで割ったのを食べるんですか。」
「そうだよ。早くしな、昼餉の時間はもう一時間も過ぎてるんだ。」
樹里はとびあがって、ほっぺたを透き通るように青くして、そうして荷物を全部玄関に放り投げると大変に慌てて庭に飛び出しました。
…けれども、しばらくして樹里は手ぶらで家に戻ってきました。
すぐさま台所に駆け込んで、おばあちゃんの姿を探します。
見つけたら、開口一番こう言いました。
「…おばあちゃん。台所の卸し金を使えばきっと簡単ですよ。」
「……………あ、なるほど。」
いつもトンカチで氷を割っているのでしょうか?
樹里が戻ってきた時には、トヨおばあちゃんが、やけに手慣れたようすで妙にギザギザの跡がついた氷の塊を木の盥にあけて、ちょうど蜂蜜の瓶を用意したところでした。
どうにも気まずくなって、しいんと静まりかえってしまって……とうとう堪えきれなくなった二人が、いっぺんにふき出しました。
「まあまあ、馬鹿な事をしたいと言っても、頭まで悪くなっちゃ敵わないね。…いや、それはそれで楽しそうだが。」
そんな事を言って頭をかくおばあちゃんに、樹里は言いました。
「おばあちゃん。何故だかさっぱりわからないけれど、今樹里はとっても面白いの。身体中が楽しいって悲鳴をあげてるみたい。人生、今日ここからなんでもうまくいく気分よ。」
二人は笑って笑って、笑い続けました。
そうして、樹里が最初苦手に思ったトヨおばあちゃんも、いつの間にかすっかり良い人のようになっていたのです。
ようやく笑いを納めたおばあちゃんが、こちらを振り向きます。
「そうさ、あんたの言う通り。人生、うまくいくよ。あんたのアイデアと私の我儘で作り上げるこのかき氷に誓ってね。」
そう、樹里の顔を真っ直ぐに見て、ニヤリと笑ったのでした。
♦︎
あの日から数えて、ちょうど十五年目。
おばあちゃんは、死にました。二度と会うことは叶いませんでしたが、私の記憶には艶やかな燕子花のパープルや柿や貝の牡蠣と一緒に、ニヤリと笑ったあの顔がはっきりと焼き付いています。
そうです。おばあちゃんの言う通りでした。
人生、うまくいくのです。
辛い時は、雪の降る日も油蝉の外で煩く鳴き喚く日も、黙って氷の塊を卸し金ですりおろしました。空っぽの牛乳パックに水を入れて冷凍室に突っ込んで、いつでもトンカチでかち割れるように準備しておきました。
…拝啓、天国のおばあちゃん。
貴方のおかげで、私はどんな時も腐らずに乗り越えられました。
氷の冷たさと蜂蜜の甘さが沁みる日に。
私はいつでも、貴方のあったかい贈り物を思い出します。
私たち家族が贈ったバスケットのお返しは、ちゃんと届けられていたのですね。
ーーありがとう、おばあちゃん。
貴方と私の、一生の思い出。
今回のテーマは、「かき」でした。
柿、牡蠣、かき氷、かきつばた。キイワードがあると、話が書きやすいと気づいた今日この頃です。