お楽しみください。
「あっ痛!」
どたんと何かが重いものが倒れる音。ガシャッという金属の不協和音。松葉杖をついてそろりと一歩を踏み出したタチの、つるりと滑って転倒した音が小さな病院に響き渡りました。
「タチくん!」
慌てて若い看護婦さんが駆け寄りました。床に蹲るタチは声も出せずに歯を食い縛っています。
「…院長先生、早く!」
部屋に駆け込んできた初老のお医者さんが、呼ばれるより前に早足でそばに寄りました。ひどく焦った顔をして、院長先生はやっぱりダメだったと少し後悔しながら、それでも外面上は落ち着いた声で的確な指示を出しました。つまり、骨折が治りかけていたタチの脚を検査し直すのです。
タチは、すぐにレントゲン室に運ばれて……。
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「はい、足をあげて。ゆうっくり、ゆっくり。太腿から、そうです。」
「いたたたたい!」
「がまんがまん。はい、頑張って。……ほら、どうしたの」
訓練用の車椅子に座って足を上げる練習をしていたタチは、突然唇を横一文字に突っ張って、やおら看護婦さんのいない壁の方を向きました。
「…いやだ。どうせ治りゃしないよ。」
看護婦さんは、びっくりして言いました。
「治りますよぉ。確かに、あなたが初めに入院していたところは、ダメだったかもしれませんね。あそこは整形外科専門じゃあなかったんですから。…言っては悪いですが、治療費が安くて先生の情が特別厚いだけの、貧乏な病院ですもの。けれどもここは、骨折したところ専門の病院ですよ。リハビリ中に症状を悪化させるなんて失敗は絶対ありません。タチくん。きみの意欲さえあれば、必ず治るんです。」
「(…まさか。たったの一週間で。)」
「タチくん?やりましょうったら。ねえ?」
看護婦さんはしばらくタチを宥めたりすかしたりして頑張りましたが、タチはただじっと壁を見つめるばかりで何も言いません。とうとう看護婦さんは諦めて、そっとしておいてあげようと決心したのか静かに病室を後にしました。
タチは一人になりました。
途端、じんわり涙が滲み出てきました。
(…ああ、僕はなんてばかな事をしたんだろう。わざわざ石段の八段目に昇って、誰が一番高い場所から跳べるかふざけて競争して。)
悔しくて悔しくて、タチは泣きました。
知っているのです。父さんが悪い奴に騙されて、小さな会社はぺしゃんこに潰れました。借金を返すまで、家族全員が気をつけて節約しなければなりません。それだから、タチが病院に入院できるのは一週間なのです。これでさえもギリギリなのです。
ふわりと風が入ってきてタチの頬にあたりました。
「…タチくん…? お友だちから、御見舞い品ですよ。わざわざ沖縄からのお届けモノですよ。」
さっきの看護婦さんが戻ってきたのでした。タチは向こうの壁を向いたまま、身動きもしません。
「…ここに置いておきますよ。」
看護婦さんは、静かに出てゆきました。
ーーにわかに、タチが車椅子の向きを変えました。
「………。」
黙って、看護婦さんが置いていった包みに近づいて行きます。小さな机の上を覗き込みますと、茶渋の粗末な紙包が寝ていました。袋は、麻紐でちょうちょ結びに縛ってあります。
包みの隅っこに、小さく差出人の名前が書き付けてありました。
「……あらがき、じゅん……潤?」
タチはびっくりしました。それは小学生の頃、タチが沖縄に住んでいた時に仲良くなった男の子の名前だったのでした。今の今まで、すっかり忘れていた何年も前の記憶なのです。
幼い頃の眩しかった毎日を思い出すと、ふいに懐かしいような、何だか苦しいような心地に駆られて、タチは急いで麻紐に手を伸ばし解きはじめました。するりと紐は解けました。中に詰められていた干し草の塊のような緩衝材をとりのけます。…と、タチはあっけに取られて口をぽかんと開けました。
「…シークワーサー?」
包みの中身はすだちによく似た、沖縄特産の柑橘だったのでした。
みっつの水々しいシークワーサーが、ゴロンと仲良くテーブルに転がり出ました。
「…なぜ、突然に……潤はこんなものを送ったんだろう?」
タチは呆然とシークワーサーを見つめました。そもそも、一体潤は、どうやってタチのいる病院の住所を知ったのでしょうか。
タチはしきりに首を捻りながら、包み紙ごと手で持ち上げてベッドに運んでいきました。
病院特有の真っ白な壁にピッタリくっついたベッドには、まっさらなシーツ。少しの汚れもゆるすまじと綺麗に洗われてある布団の上に、タチは反抗するような気持ちで干し草の緩衝材をぶちまけました。みっつのシークワーサーは、大事に並べてシーツの上に置きました。
「…こっそり一人で食べてしまおうか。いや、少し切れ目を入れて置いておけば部屋に良い匂いが薫るかもしれない。」
タチは車椅子を横向きにベットにつけ片足を床に下すと、ゆっくりと体をずらしてベッドに乗り移り始めました。…本当は看護婦さんの見ている前でやるべきなのですが、呼んでこようとはどうしても思えませんでした。
「うわあっ」
おしりをベッドにつけた瞬間です。
病室に潮風がビュウゥッと吹き荒れて、突然ベッドのシーツが真っ白に泡立ちました。タチはあっと叫ぶ間も無くずうんと沈み込んで周りを群青の泡に囲まれました。冷たい泡に揉まれて髪がぶわあっと逆立ちます。
落ちます。落ちます。どこまでも落ちてゆきます。
「くあっぷ、っあぐ」
タチは無我夢中でもがきました。
もがいているうちに、落ちる速さはだんだん遅くなっていきました。だんだん泡は溶けてなくなり、視界がさあっと開けた頃、ついにタチはぷかんと宙に浮かびました。タチは目を見開きました。冷たい夜空のような光景が、すぐ目の前をどこまでも広がっていたのです。
(…あれえ。僕は海に落ちたようだぞ。)
タチはあたりを見まわしてそう思いました。そうです。いつか赤い夕焼けの日に飛び込んだ時の、意外な暗さに驚いた沖縄の浅い海です。ゆらりと珊瑚礁が身をよじって脚に絡みつこうとするのを振り払って、タチはもう少し上の方に向かって泳ぎました。
「ーーハアイ。タチ。」
「やあ、潤。本当に久しぶりだねえ。」
そこら中を赤や黄のカラフルな魚たちが泳いでいるのと全く同じ自然さで、Tシャツに短パン姿の潤が……ちょうど別れてから八年分の歳をとった潤が、海の中に浮かんでいました。
ーー八年前と同じ、人懐っこい笑顔。魚みたいに華麗に泳ぐ、近所で一番の素潜りの名人。
タチは、潤がそこにいる事になんの不思議も持ちませんでした。だって、居たんですもの。それだけです。タチは、ただ笑顔を浮かべて語りかけました。泡が口からぶくんと漏れ出します。
「…ねえ。教えておくれよ潤。きみのシークワーサー、どうやって送ったんだい。それに僕はどうして今海にいるの。不思議だな、ちっとも息苦しくないよ。」
タチが問いかけると、ぷかぷか浮きながら潤は目を丸くしました。
「忘れっちゃった?タチ、あのガジュマルとキジムナーさあ。きみにあげた木彫りのシーサー、ずうっとポケットに入れているんじゃないの?」
言われて、タチは急いでズボンのポケットを探りました。
途端、コツンと何か硬いものに手が触れました。出してみると、それは紛れもなくあの木彫りのシーサーでした。
ーーあったのです。あの時にもらったシーサーの木彫り人形が。
タチが驚いて顔をあげると、潤はどうだい、とでも言うように誇らしげな顔で腕を後ろに回しました。
その顔を見ているとタチは何だか申し訳ないような気持ちになって、そわそわ落ち着かなくなりました。何故って本当は、タチはシーサーの事なんかすっかり忘れていたのです。すべて思い出したのはたった今でした。タチと潤はは八年も前に遊んだ時、確かにガジュマルの木のある潤のうちで、キジムナーとプレゼントの交換をしたのでした。
「…僕、失くしちゃったと思ってた。潤もキジムナーも、忘れちゃったと思ってた。」
タチがそう言うと、潤はあからさまに顔を顰めました。
「忘れるはずないさあ。僕たちが、魚好きな妖精のキジムナーのために何時間も釣りや素潜りをして、そのかわりにもらった大切な贈り物じゃないかあ。」
…そう、そうでした。
真っ赤に燃えるような髪をふり乱した妖精が、潤とタチのために彫ってくれた魔法のシーサーです。
『ーーこれで二人は繋がってるんだぁらなぁ。世界の法則なんてぜんぶ吹っ飛ばしちゃうんだあ。』
そう言って、恥ずかしそうに向こうへ走っていった、妖精キジムナー。
魔法の人形だとは、キジムナーは一言も言いませんでした。それでも、潤とタチはよくわかっていたのです。
「オレは、毎日ポケットに入れていたぜ。そうしたら、今日の朝に変な感じがしたのさあ。オレは台所に行って迷わずシークワーサーをとってきた。紙で包んで、縛って、それからポケットのシーサーをぎゅっと握ったらもう “道” が開いたんだからな。」
「“道“?」
「そうさあ。この海がそうだ。オレたちふたり意外には、だあれもいない。八年前の沖縄の海と、なんにも変わってないだろう。」
潤の言う通りでした。
タチは怪訝な表情から一転して幸せそうに笑うと、昔みたいに潤の手を取って泳ごうと平泳ぎに体をくねらせ……
「痛っ!」
突然、右足に鋭い痛みが走りました。
びっくりして顔を下に向けると、タチの足はーー骨折しているので当たり前なのですが、雪のように白いギプスでぐるぐるに巻かれていました。
「ダメさあ、慌てちゃあ。」
潤が笑いながら水中を滑るように泳いできて、くるりとタチに並びました。
「ほうら、水の中はリハビリにはこれ以上ない格好の場所さあ。いいだろう、絶対に転ばない。」
タチには、何だか潤がこっそり訓練の様子をクスクス覗いていたような気がしました。
しかしそんなことはまったく気にしないで、タチは潤の言う通りに、足の動くところを少しずつフィンみたいにゆらし出しました。
「そうそう、時間は無限さあ!夢も希望も海の水とおんなじだけあるんだもんなあ!」
潤は顔中で笑いました。ニカッとこちらを向いてふいに言ったのです。
ーーだから。ちからぁ、抜いて。頑張れ。
…その言葉が合図だったかのようでした。タチはいきなり臍の内側をぐいっと引っ張られて、あっと叫ぶ間も無く暗闇と泡の中に放り込まれたのです。潤のほうへ手を伸ばして繋ごうとしましたが、もう無駄でした。
もがいて潤の名前を呼ぶうちに、タチの体はどんどん上へ運ばれていって……
「ーーどうだい、眠って気持ちはすっきりしたかなタチくん。」
「…あ…院長先生」
タチはベッドに倒れ込んだ格好のまま、はっと目を開きました。上から立派な白衣の眼鏡のおじさんが、優しそうな笑顔でタチの顔を覗き込んでいました。
タチはゆっくりとあたりを見回します。院長先生の隣には、さきほどの看護婦さんが心配そうに身を小さく縮めながら立っていました。
「きみは、とても気持ちよさそうに眠っていたね。どうかな、リハビリはやる気になったかな。」
「……シーサー」
院長先生の声に被せるようにして、タチは思わず呟きました。
「ん、何か言ったかい。」
院長先生の声も耳に入らず、急いで病院着のズボンのポケットを探ると……ありました。ゴツゴツしているのに何だか優しい、木彫りのシーサー。キジムナーのシーサー。
ぽろりとタチは涙を落としました。
ぎゅうっと小さな木の塊を握りしめます。潤は沖縄に、キジムナーも沖縄に。それでも、みんなあの広い海でひとつに繋がっているのです。
ーー夢も希望も、海の水とおんなじだけ。
突然タチは顔をあげて、元気よく院長先生に言いました。
「やるよ、リハビリ。僕、一週間で松葉杖なしで歩けるようになってやるよ。」
タチの宣言に、院長先生も看護婦さんも、なんだかほっとしたように肩を落としました。
ミンミンゼミの鳴き声が、急に風に乗って窓から流れ込んできました。夏の病院に、シークワーサーの香りが静かに広がっています。