とりあえずウチは
食卓のうえには新聞、煙草、灰皿、そして紙マッチがある。新聞は最近取り沙汰されている精神科医に関するもので、ウチはあんまり興味が無い。とはいえ、ブラック夫妻が精神医学に興味がある可能性を、小さく頭の隅にメモしておく。
マッチには市内の
勝手口から外に出てキッチンの窓の下に向かうと、確かにそこにチラシに描かれていたのと同じボイラーがあった。下部には都市ガス本管からの給気管と水道本管からの給水管、そして邸内の温水配管への給湯管がある。はずなんだけど、給湯管の一部が無くなっている。
チラシと見比べると給湯栓のある部分だ。ちょうど、現場にあった血塗れの
「ミオ」
寝室に行ってみると、フブキがクローゼットの前から手招きした。
「
フブキが手渡してきたのは一枚の切符だった。大陸横断鉄道の一つ、パシフィック・ノースウェスト鉄道のものだ。ロサンゼルス・シアトル間の往復切符で、去年12月の消印が押してある。
領収書が一枚クリップ留めしてあって、これとは別にシアトルへの片道切符を買ったらしい。
「それにこの寝室も」
「確かに。このベッドは一人用だし、」
「あれもブラックさんが一人で写ってる。隣の部屋はもう見たの?」
「見たよ。奥さんの寝室だね」
フブキがクローゼットの向こう側に目をやって、
「シングルのベッド。一人で写った写真」
「なるほど」
ウチは写真立てに歩み寄ると、裏の蓋を引き開けてみた。
「フブキ」
「それは気が付かなかったな」
写真の裏にはちょっとした恋文があった。
「"私のエイドリアン、あなたがいないととても寂しいわ。早く帰ってきて、ダーリン!"か。このニコールって人は、他人の旦那さんに随分入れ込んでるみたいだねえ」
「旦那さんもみたいだけどね、入れ込んでるのは」
壁の向こうの、奥さんを透かして見るようにしてフブキが続ける。
「あの人が知ってるのかどうか、確かめに行こうか」
フブキと寝室を出ようとしたとき、ベッドサイドにキャヴァナーズ・バーの紙マッチがあるのが目に留まった。やっぱり旦那さんの行きつけか。
「フブキ、ちょっと先に行ってて」
「交換台です。お困りですか?」
「警察です。
「お繋ぎします」
交換手が交換機のダイアルを廻す。
「R&Iです」
「オオカミ。
「ご用件をどうぞ」
「キャヴァナーズ・バーの住所をお願いします」
「少々お待ちください......キャヴァナーズ・バー。アリソ通りとヒューイット通りの角、ユニオン
「ありがとうございます」
住所をメモすると、お礼を言って受話器を置いた。
居間に戻って、すでに質問を再開していたフブキの隣に腰を下ろす。
「......従業員とは距離を取るよう言っていたのですが。いつも二人で呑みに出かけていましたけど」
"何の話?"
"領収書のモーガンさん"
フブキと小声で交わしてから、ウチが質問する。
「それはいつもキャヴァナーズ・バーで、でしたか?」
「どうしてご存じですの? 仕事終わりのエイドリアンは、実質的にあそこに住んでいるようなものでしたわ」
「旦那さんはそこで過ごす時間が長かったんですね?」
「最近までは。この頃、主人は仕事でシアトルに行くことが多かったので」
目で合図して、主導権をフブキに戻した。
「昨日、なにかいつもと違うことがありましたか? 些細なことでも構いません」
「その、主人は昨日、早く帰宅しました。あんな時間に帰ってきたことは、これまで一度もありませんでしたのに」
「それから?」
「それから、すぐに出て行ってしまいました。主人は普段7時ごろまでキャヴァナーズにいるんですの」
フブキが手帳にメモを取って、質問を続ける。
「旦那さんの寝室の写真について伺っても?」
「何をお知りになりたいんですの?」
奥さんは、急に居間の壁紙の模様が気になりだしたらしい。
「主人が最近、その、出張先のシアトルで撮ったものですわ」
フブキが身を乗り出して追及する。
「あの写真、ずいぶん面白いことが書いてありましたね? あなたが気が付かないはずがないと思うんですけどね、奥さん」
自分は気が付かなかったくせに、と思ったけど、声には出さないでおいた。
「ニコールさんって、どなたですか?」
「無礼でしてよ、その物言いは。......でも写真立ては見ましたわ。主人はわたくしのことを阿呆だと思ってますの。でも、女ってそういう事に鋭いでしょう」
涙声で言って、同意を求めるようにウチとフブキの方を見る。
背後でビコウスキー刑事が所在なさげに身体を動かす音がした。
「主人がわたくしを捨てるつもりだったのか、あるいは犯罪に巻き込まれたのかはわかりませんけども。わたくしは主人の無事を祈るばかりですわ」
その言葉にウソはなさそうだった。
「では、あなたの昨晩の動向を説明してもらってもいいですか?」
「なんてことを、わたくしを疑っているのですか? よくもそんな――」
「現状では奥さん、あなたの立場は非常に疑わしいと言わざるを得ません」
今にも泣きだしそうな奥さんに、ビコウスキー刑事が咳払いをして付け加える。
「疑いを晴らすためにも、この確認は必要なんです」
「昨日は一晩中ここにおりました。もちろん、エイドリアンを待ってのことですわ!」
「それを証明できる方はいますか」
フブキが例の、職業的仮面で聞いた。
「それは......いいえ、わたくしは一人でしたので。エイドリアンの夕飯を作って、待っていたんですの」
帰ってきませんでしたけど、と付け加えるブラック夫人はとても打ちひしがれているようで、ウチには嘘をついているように見えなかった。