The Black Ceaser
「オオカミ刑事、シラカミ刑事、風紀課へようこそ!」
私とミオが朝日の射し込む会議室に入ると、演壇から緑色の背広を着こんだ男性がそう声をかけてきた。
顔の彫が深く鉤鼻気味のこの人が、私たちの新しい上司、アーチボルト・コルミャー警部補だ。
「そこの席に座りなさい。お二人さんの当座の指導役として、後ろの二人をつける。ちょうど、今座った前後で二人組に分けようか」
「すると、白上はぼたんちゃんとだね?」
背後に座っていたホワイトライオンの獣人で、後輩刑事――風紀課所属という点では先輩だけど――にあたるぼたんちゃんの方を向いて挨拶した。
「みたいですねえ。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくね」
隣では、ミオがポルポルと同じようなやり取りをしていた。こらこらミオ、笑顔で圧をかけるのはやめなさい。ポルカちょっと怯えてるぞ?
「なあ警部補、俺が欲しいと言った獣は一人だけで、こんなにオマケをつけてほしいと言った覚えはありませんがね?」
部屋の奥から、不遜な感じの声が響いた。
声の主は振り返らなくてもわかる。例の高価い背広の男、ロイ・アール部長刑事だ。ロイが発言した途端に、主任は表情を一変させて、嫌悪と怒りを滲ませて言った。
「この二人は課長の御指名だ、部長刑事。思うに、お前がそっちの獣人二人を風紀課に引き込んだからじゃないかね? お前は課長に嫌われてるからな」
「ええ、あんたほどじゃありませんがね、警部補」
主任は部長刑事の方にキツい一瞥を投げてから、ため息を吐いて続けた。
「さてと、では最初の事件といこうか。シシロとシラカミに扱ってもらう分だが、今朝がたユッカ通りのアパートメントで
「ねえ、ぼたんちゃん」
会議室を出て薄暗い署内の廊下を歩きながら、私は前を行くぼたんちゃんに訊いた。
「ロイとコルミャー主任って、仲悪いの?」
「ええ、見ての通りですよ」
ぼたんちゃんは階段を一階に降りながら、何でもないように答えた。
「昔、若き日のロイ・アール刑事が風紀課に配属された時、最初の相勤がコルミャー部長刑事だったらしいんです。以来、二人はあんな感じなんだとか」
「じゃあ、主任は汚職が嫌いな人なのかな?」
「まさか。警部補はたぶん、ロイの汚職の"やり方"が気に食わないんだと思いますよ」
ぼたんちゃんはちょっと苦笑交じりの言い方で答えた。
「汚職に手を付けずに風紀課で昇進するのは、曲芸飛行並みに難しいですよ? 今の課長だって、局長がよその課から引っ張ってきたわけですしね」
そんな会話を交わしてるうちに、私たちは署の横の駐車場に出た。朝日は裏手に建つ消防署に遮られていて、駐車場は涼しかった。
ぼたんちゃんは、フォードのパトカーやビュイックの捜査用車の間を抜けて、奥の方に駐まっている黒い自動車のところに歩いて行った。
「こ、これ?」
「そうですよ?」
目の前の駐車スペースに鎮座していたのは、42年式キャデラックの61型セダンだった。中古なのは間違いないけど、警察の公用車に使われるとは、ちょっと考えづらい。
「あたしの私物です。さ、どうぞ」
めちゃくちゃ困惑しつつ、私はキャデラックの助手席に乗った。うわっ、座り心地いいなこのシート。
シートの革にそっと指を滑らせる。どこも破れてないし、5年落ちとは思えないほどツヤツヤだ。念入りにお手入れされてるのが明白で、これもまた、警察の公用車じゃめったにない。
ぼたんちゃんが始動キーを
「んじゃ、行きますかあ」
ぼたんちゃんは緩く言って、キャデラックを出した。路面を舐めるような、滑らかな走り出しだった。
捜査用車はウィルコックス通りからハリウッド
ぼたんちゃんはアイバー通り側の路地から裏の駐車場に乗り入れて、黄色い現場保存バリケードの外にキャデラックを駐めた。バリケードの周りには、近所の人たちらしい野次馬が集まっている。
「はいはい、ごめんよ。ちょっと通して」
ぼたんちゃんはなんだか、警察官というよりは町人じみた仕草で野次馬を分けて、バリケードの中に入り込んだ。私もその後ろに引っ付いて、二階の外廊下に繋がる階段のところに立つ制服巡査のところに向かった。
「やあ、ウォリス巡査」
「どうも、シシロ刑事。現場は5号室、一番右奥の部屋です」
「ありがと。それと、こちらシラカミ刑事。今日から風紀課だから、顔を覚えといて」
「どうも、ウォリス巡査。地取りは......」
「ストップ。ほら行きますよ、フブキ先輩」
「え、でも......」
私の質問を遮って、ぼたんちゃんはとっとと二階に上がって行ってしまった。
「フブキ先輩、ここは黒人向けの安アパートなんです。こういうところは壁が恐ろしく薄っぺらいんで、なんでもかんでもご近所に筒抜けなわけですね」
「でしょ? だからこそ地取りが......」
「逆です」
廊下の途中で、ぼたんちゃんが振り返った。
「こういうところだからこそ、地取りは骨折り損なんです。みんな揃って知らぬ存ぜぬの一点張りですからね。でもそうしなきゃ、彼らは追い出されますから。家からも、黒人社会からもね。どうも、ロジャー」
廊下の途中で現場写真係のロジャー・ベケット技師とすれ違って、ぼたんちゃんが挨拶した。ぺこっと会釈を返してきたロジャーに、私も声をかける。
「もう上がり?」
「ああ、撮るべきものは撮ったんでね。あとは君たちと、カラザースの仕事だ」
「それじゃあ、後は任せて」
ドアが開きっぱなしの一番奥の部屋に、ぼたんちゃんに続いて入った私の鼻を襲ったのは、とてつもない腐敗臭だった。
「ぅあっ!」
まともに吸い込んじゃった私は、引き攣った声を上げてしまった。ロジャーがまだいたら、失笑されてたこと間違いなしだ。
「おはよう、シラカミ刑事」
いつもと変わらず、緑のツイードの背広に身を包んだマルコム・カラザース検屍官が、特に何の感慨もない声で挨拶してきた。
「そういえば、シラカミ刑事は殺人課にいる間、屋内の腐爛死体を扱ったことが無かったかな?」
「おはよう、マル。これが白上の初めてだよ。目が痛い......」
「手で擦らないように」
ぶんぶん集ってくる蠅を追い払いながら、私は蚊の鳴くような声で返した。腐った死体は何度か扱ったことがあったけど、それらは全部屋外の物だった。
戦時中も幸いにして、屋内にほったらかしにされて腐りきった死体には遭遇しなかったんだ。あの頃はもっと酷いものも色々見たけど、臭いという点では、これはシンプルに最悪クラスだった。
「すごいね、これ......」
「マシになった方だと思いますよ?」
ぼたんちゃんが、マルと同じような何でもない顔で室内を歩きながらそう言うと、マルも頷いてそれを肯定した。
「異臭がするとの通報を受けて、現着したウォリス巡査が窓を開け放ったのが小一時間前。だから、その時よりはずっとマシになっているだろうな」
「うへえ......ところで、身許はわかってるの?」
「免許証によれば、そっちの椅子に座っているのがタイロン・ラモント。で、こっちで横になってるのがコーネル・タイリーだそうだ。いずれも死後二、三日は経過しているが、噴出はないので丸四日は経っていないだろう」
「コーネルなら知ってますよ」
ぼたんちゃんが床の上の
「そっちのタイロンと、他二人と一緒にジャズ・バンドを組んでたんです。コーネルがトロンボーン、タイロンがドラムでした」
「ぼたんちゃん、ジャズが好きなの?」
「多少は。あたしはそれより、コーネルが売りさばいてたクスリの方に興味があったんですけどね」
「売人だったの?」
「ええ」
ぼたんちゃんはしゃがみこむと、椅子に座って下を向いてるタイロンの顔をのぞき込みながら続けた。
「三流って言葉すら褒め言葉になっちゃう程度、でしたけど。この仕事を始めた時、思った以上に稼げたらしくて調子に乗っちゃって、ジャック・Dの不興を買ったんですよ。でも、モルヒネを扱ってるって話は聞いてないんですけどね......」
「このモルヒネ、白上もイタリアでお世話になったよ」
私は床に落ちてたプラスチック製のチューブを拾い上げた。歯磨きクリームのチューブに似ているけど、大きな違いは出口に注射針が付いてることだ。
――1.5cc
モルヒネ酒石酸塩液
1.5ccあたり1/2グレーン
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「"一本打てば心と体の痛みから解放され、二本打てばこの世から解放される"って衛生兵が言ってたなあ」
「こいつら、三本打ってますよ」
ぼたんちゃんがタイロンの左腕を指して言った。腕はすっかり変色していたけど、肘の裏の静脈注射の痕は見間違いようがなかった。
「マル、即死だったと思う?」
「さあ、どうかな」
検屍官はコーネルの方の死体を調べながら答えた。蠅だけじゃなくて蟻もたくさん集っている。
近寄ってみると、目、耳、鼻、口と開いてるところのあちこちから蟻や、白いウネウネしたものが出入りしていた。蛆だろうか。
「解剖してみないと断言できんが、少なくとも三本目を打ってから死ぬまでの期間は、相当短かったろうな」
「そっか......ねえ、ぼたんちゃん」
「何ですか?」
「このモルヒネ、誰が仕切ってるのかな?」
「さあ。サン・ペドロの貨物船を襲った誰か、でしょうね」
引揚船を兼ねた徴用運送船クールリッジが、今年の頭に強盗に遭った。私とミオも盗犯課にいた時に、便乗してた獣人陸軍兵やヒスパニック系海兵隊員の事情聴取にかり出されたんだ。
「ジャック・ドラグナか、ミッキー・コーエンか......ジミー・アトリーが
「なんだか......体系立てられてるみたいだね?」
「体系立てられてたんですよ。昔はね」
寝室の方を調べてたぼたんちゃんがこっちを向いた。寝室にはアイバー通りに面した窓があって、階下の安酒屋のネオン
「ジミー・Uが居なくなってからというもの、この辺りは無法地帯ですよ。麻薬に関して言えば、ですけど」
「だったら白上たちが一層頑張らなきゃじゃん......ちょっと、ぼたんちゃん」
私は、コーネルのポケットから取り出した財布片手に、ぼたんちゃんを手招きした。やってきたぼたんちゃんに財布から抜き取ったメモを手渡す。
「何ですか、これ......"J. J. はKTI-FMがお気に入り"?」
「J. J. って誰か、心当たりある?」
「うーん......いや、無いですね」
私も無い。そもそも、なんで他人のラジオの好みをメモして、後生大事に財布にしまってるんだろう。
「彼女とか?」
「かもしれませんね?」
ぼたんちゃんは笑いを含んだ声でそう言い残して、今度は
私はコーネルの財布を置くと、マルに向かって訊いた。
「ねえ、タイロンの財布はどこ?」
「そこの、ポップコーンに埋もれてるやつだよ」
椅子の脚元に、この部屋に無数にある
開くと、州の運転免許証が目に入った。
「どれどれ......タイロン・アンソニー・ラモント。住所はここ。誕生日は1924年9月30日。ってことは、あと一か月足らずで23歳だったのか」
そして、札入れの部分にはドル紙幣と一緒にメモが一枚。
「......なにこれ?」
メモには絵が描いてあるだけだった。左からさくらんぼ、鐘、WINの三文字。特に解説や注意書きみたいなものは無い。
「あの、フブキ先輩」
台所からぼたんちゃんが戻ってきた。片手に例のカップを持っている。
「そこに転がってる
「え? いや、見てない」
拾い上げて、ひっくり返して確認する。
「......なにこれ? セロファン・テープの切れ端、かな?」
「当たりです。で、これ」
ぼたんちゃんは持ってたカップをひっくり返して、底がこっちに見えるようにした。黄色っぽい、細長い紙製の箱がテープで張り付けてある。箱にかかれた赤い文字は小さかったけど、こっちからも充分に読み取れた。
――
モルヒネ酒石酸塩液
警告:中毒性あり
ニューヨーク、E. R. スクイブ
「......頭いいなあ。こうすれば昼日中でも、通りのど真ん中で麻薬取引ができるわけだね」
「みたいですね。他に見るものがないなら、向かいの皇帝のところにポップコーンを買いに行きません?」
「そうだね」
私は短く答えて、自分の手に持っていたカップをもう一度まじまじと見た。
ローマ人らしい――たぶんカエサルなんだろう――顔が青いインクで印刷してあって、お店の名前が大書きされていた。
――