H.L. Noire   作:Marshal. K

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A Walk in Elysian Fields #7

 

 

「ごめんねーししろん、おまるんもうすぐ帰ってくると思うから!」

「大丈夫、別に急いでるわけじゃないから」

 

 ダウンタウンにあるおまるんのアパートメントで、あたしは食卓(ダイニング・テーブル)の椅子の一つに腰かけて同期の帰宅を待っていた。テーブルの上では着々とお夕飯の用意が進んでいる。

 ねねちゃんが言うには、おまるんは定時より遅くなる時には必ず電話をかけてくるってことで、それは相勤員だったあたしの経験則にも一致していた。いまのところ、電話はまだない。

 退勤直前にある情報を掴んだあたしは、最悪の事態を避けるために急遽この家に飛んできたんだけど、その推測が悪い方に外れたんじゃないかって予感が厭でも膨らんでくる。

 

「ねえししろん、ほんとにご飯食べてかなくていいの?」

「ええよ。帰ったらラミちゃんが用意にかかってると思うし」

「おーなんだ? ノロケかあ? このこのお」

 

 ジャガイモとリーキのスープをテーブルに並べながら、ねねちゃんが冷やかしてきた。それに笑って返そうとしたとき、あたしの耳が階段を上ってくる足音を捉えた。足音はこの階の廊下に出ると、そのままよろよろしながらこっちに向かってきた。あたしの真剣な顔が目に入ったのか、ねねちゃんも廊下の方に目を向ける。

 足音の主はこの部屋の前に着くと、そのままドアに思いっきりドシンとぶち当たった。

 

「きゃっ!」

 

 ねねちゃんが驚いて悲鳴を上げた。怯えた視線を送ってきたねねちゃんに、そこで待つように手で合図をしながら、あたしは左腋下に吊った拳銃に手を置いて玄関ドアに歩み寄った。

 ドアに当たった誰かさんは、そのままドアにもたれかかっているらしかった。あんまり厚くない扉板越しに、ぜえぜえ荒い息を吐いているのが聞こえる。

 悪い予感が的中したのを悟って胸の内で唇を噛みながら、あたしはドアを引き開けた。

 

「おまるん!?」

 

 ドアに寄り掛かっていた同期が室内に転がり込んでくると、背後のねねちゃんがそう叫んで駆け寄ってきた。あたしは念のために廊下に顔を突き出すと、誰もいないのを確認してドアをしっかり閉めた。

 

「おまるん、おまるん大丈夫!?」

「だい、大丈夫。そんな心配すんなって、階段踏み外した、だけだから」

「そんなわけないでしょ、そんな顔して!」

「顔?」

 

 土埃に塗れたおまるんの顔は、腫れあがった右頬もさることながら両目も真っ赤っかだった。明らかに泣きはらした顔だ。こいつは階段を踏み外したくらいで泣くようなタマじゃ......いや待って、感情ジェットコースター女だからそれもあり得るかも。

 

「いいって、ねね。自分で歩けるから」

「ケガ人は大人しくしてなさい! ししろん、そっちの肩お願い」

「あいよ」

 

 立つのも辛そうなおまるんに――本人には嫌がられながら――肩を貸して、ソファの上に座らせた。

 

「ほらおまるん、服脱いで」

「いいから、自分でできるから」

 

 反抗期のガキと世話焼き母さんみたいな構図だな、なんて考えながら、あたしはねねちゃんを手伝っておまるんの服を脱がせ始めた。

 上衣(チュニック)は土埃塗れな上にあちこちが裂けていて、まるで舗装された地面で転げ回ったような感じだった。汚らしい染みもいくつかできていて、ちょっと嗅ぐと甘酸っぱい、不快な臭いがした。反吐だ。同じ臭いは、べとべとしているおまるんの鼻と口の周りからもしている。

 

「はい、じゃあ次はシュミーズね。ばんざーい」

「待って、待って! 下着くらい自分で着替えるから!」

「もんどーむようだー!」

 

 さっきまでは間違いなくおまるんのことを心配してたはずなのに、ねねちゃんはもうおまるんを脱がすことを楽しみ始めてるみたいだった。それともこれは空元気なんだろうか?

 そんなねねちゃんも、シュミーズを胸の上まで一気にまくり上げた途端に黙った。その表情から再び笑顔が消えていく。あたしはねねちゃんの肩越しにそれをじっくり眺めてから、努めて明るい声でおまるんに言った。

 

「やったねおまるん、これで当分ユーラシア大陸の地図には困んないよ」

「あっても嬉しくねえよ......」

 

 おまるんのお腹の上の方、ちょうどおっぱいの下あたりに、黒々とした痣が横一文字に広がっていた。制服巡査が使うような(オーク)の警棒か、棍棒(ブラックジャック)の類で思いっきり殴られたらしい。少なくとも、階段でこけたわけじゃないのは間違いない。

 

「ねえおまるん」

「なに?」

 

 見事なユーラシア大陸を両腕で隠して丸まったおまるんに、あたしはさっきまでと違って感情を排した声で訊いた。

 

「あたしさ、ちょっと小耳に挟んだんだよね。"さる著名な紳士"の身辺を嗅ぎまわってる、獣人の刑事がいるって。聞いたところによると、その刑事は今日の退勤際に"説得"を受けることになってたそうじゃん」

「......」

 

 おまるんはうつむいたまま何も言わない。

 

「ちょっと訊きたいんだけどさ、おまるんはどう思う? その刑事は"説得"を受け容れて、捜査を止めると思う?」

「......止めるんじゃねえのか。そう言う連中はあれだ、見込みのない"説得"はしねえだろ」

「だろうね......じゃあ訊き方を変えようか。その刑事は止めたいのかな? それとも......止めたくないけど止めざるを得ない、のかな?」

 

 おまるんがぱっと目を上げて、あたしの方をにらんだ。紫玻璃色(アメジスト)の瞳に強い炎が宿って、視線がまるで錐か何かみたいにあたしを刺し貫いた。ほんの一瞬とはいえ、獣人として格上のあたしを心胆寒からしめたその視線が――あたしには嬉しかった。

 

「たぶん、お前が思ってる通りだよ、獅白」

「じゃ、あたしからねねちゃんに提案」

「えっ!?」

 

 完全に置いてけぼりにされて、それでもヒリつく空気を感じてか今まで黙っていたねねちゃんが、突然の指名を受けて素っ頓狂な声を上げた。

 

「しばらくあたしの家に遊びに来ない? 泊りがけでさ」

 

 ひょっとしたら、おまるんを死地に追いやる行為かもしれない。

 でも、それでもあたしはこの、ともすると青臭いまでの正義に燃えるフェネックを止めることは、絶対にできなかった。

 

 

 

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