疲れきった体を三階まで引っ張り上げて、自分の事務所のドアを開けようとした時、ドアに紙が挟んであることに私は気が付いた。
「何かしら、これ」
引き抜いて広げると、お隣さんからの書付だった。
――ごめん、急な依頼が入った。
来週までには戻る。 L――
「うあー......最悪のタイミングね」
お隣さんがいるから、ってライオンの刑事を帰しちゃったけど、それが裏目に出た形だ。
もちろん、彼女のことを責めるわけにはいかない。行きずりで護ってもらっているだけだし、彼女自身は本業である
「まあ、いいか。夜には"彼女"も来るし」
昨日、腹をくくった私は、東海岸に住んでいる友人に長距離電話をかけた。アメリア・ワトソンとしての消息を絶ってから一年近く、電話はおろか電報も郵便も送ってなかったから、向こうはめちゃくちゃ驚いてたけど。
彼女がユニオン
「ふー......疲れた」
考えてみればここ一年、こんなにも精力的に動き回ったのは初めてだった。身体がすっかり鈍ってしまっている。
「それにしても......"基金の目標"が気になるわね」
カーチス・ベンソンは小物だ。私の推理が間違っているような印象を付けるために――つまりブラフのために――あんな余裕たっぷりの言動ができるような、そんな度量はない。
「あの保険金詐欺だけで、連中は優に数十万ドル荒稼ぎしてる。予算の中抜きも含めればもっとよ。それを上回るものなんて......」
しばらく考えてみたけれど何も思いつかず、私は八つ当たり気味にデスクを蹴った。山積みにしていた古新聞がドサドサと崩れて、ぶわっと埃が舞い上がる。
「うぇっ! ゲホッ!」
八つ当たりの罰を受けた私は咳とくしゃみを繰り返しながら、舞い散る埃を慌てて払った。
「けほっ、これもそろそろ処分すべきね......」
床に落ちた新聞を眺めて、私は絶望的な声でそう言った。そろそろ処分すべき、と言いながら後回しにし続けている結果が、この古新聞の山だ。
何にしても疲れ切った今の私には、古新聞を整理できるような体力はなかった。
埃のせいで若干涙ぐんだ目で、ロサンゼルス・タイムズ紙の
「高速道路......そういえば、ここも立ち退きの対象だったか」
見出しは、州議会での高速道路建設予算の審議状況を伝える内容だった。建設予定ではこの事務所がある建物の上を、高速道路の内の一本が通過することになっていて、予算が成立したら私も立ち退かざるを得なくなるはずだった。
「ウォーレン知事は今年中に成立させるって言ってたけど......厳しそうね」
カリフォルニア中が、この高速道路の話でもちきりだった。私のように土地収用の対象になるところに住んでる人々にとっては死活問題だし、それ以外の人々にとっても、実に300億ドルにものぼる建設予算は格好の議論の種だった。
「そういえば、彼らも高速道路の話はしてたわね......」
だからどうした、って話だ。議会審議が大詰めなのもあって、誰もが世間話の話題に高速道路を引っ張り出したがるのだから。でも、それが妙に気になる。
こういう直感は大切にすることにしているので、私はポケットからメモ帳を引っ張り出すと、いつぞやの速記文を開いた。
「あいつら、正確にどんな話をしてたっけ......」
――"で、高速道路の予算はいつ頃通りそうなのかね、ドン?"
"もう通っているはずだったのだがね。誰かさんが300億ドルに引き上げようとしたせいで、紛糾してるのさ......"――
「......いえ違う、もっと前にも何かしら言及があったはず」
――"君だって良い所取りはできないぞ、リーランド。君が建てている家も、その上を通る予定の高速道路も、どちらも政府のカネで建つのだからな"――
「......ああ、嘘でしょ」
私はデスクの抽斗を開けて、中を引っ掻き回すと、市内の地図を引っ張り出した。ペンを取り、記憶を頼りにあのクソ保険がかけられていた住宅地の住所を確認する。
「エッジウッド・グローブ......サンタ・モニカとウィルトンの角。マッカーシー・ヴィスタ......ビバリーとマリポーザの角。クレセント・ハイツ......3番街とケンモアの角。そして、ランチョ・エスコンディード......ファウンテンとセント・アンドリューズの角」
それから新聞に載っている高速道路の建設予定図に、住宅地の位置をバツ印で書き込んでいく。
「全部、高速道路の建設予定地に立地してる......」
突然、下の階の弁護士――州下院議員に知り合いがいる――との井戸端会議の中で出た、議会審議の話を思い出した。
――"全く、信じられないよ"
"どうしたのかね?"
"高速道路の予算案だよ。上院に附託されてから突然、取得補償額を公示価格ベースから時価ベースにするって修正案が出てくるなんて"
"だが財源は確か、州債の予定だろう?"
"そうだよ。後は、連邦政府からの補助金だね。それにしてもこんな額は、流石に州債だけじゃ賄いきれないよ。特別会計を組んで、税収財源もいくらか充てるしかない。こんなことなら、もっと強く反対しておけば......"――
「そういうこと、なの......」
頭の中で推論が組み上がっていく。相変わらず証拠は少ないけれど、これなら保険金詐欺説よりも矛盾は少ないし、ベンソンの態度にも説明が付く。
これは数十万ドルどころじゃなくて、数億ドルの儲け話だったんだ。
「早くポルカにこの事を......」
電話の受話器に手を伸ばしたところで、私は凍り付いた。
階段を登ってくる足音。四人組。靴の重さからして、全員男。
「電話をかける暇はないか」
どう考えても彼らは私のお客だ。招かれざる客の類ではあるけれど。どうにか彼らにバレないように、これをポルカに伝えなくちゃ。
私は犬歯で指を噛むと、古新聞にちょっとだけ血を付けて山の中に放った。市内地図の裏に宛先を書くと、手早く丸めて足を引きずりながら――今この瞬間こそ、あの日以来この足が一番憎い瞬間だった――本棚に歩み寄り、本棚と壁の間に突っ込んだ。本棚の縁にも少しだけ血を着けた。あの子なら、これを見落としはしないはず。
そして悠然とデスク・チェアに戻ると、今や部屋の前で突入準備を固めているらしい男たちを迎えるために、笑みを浮かべてドアの方に向き直った。