「ぐっへえ!」
背中から思いっきり壁に叩き付けられたあたしの口から、自動車に轢かれたカエルみたいな声が出た。普通なら息を吸って悪態でも続けるところだけど、今回はそうもいかなかった。
なぜなら息を吸うのとほぼ同時に、あたしの喉許に冷たいものが押しあてられたからだ。目の端にちらりと映った刃から、それが折り畳みナイフの類だってことはすぐにわかった。
「......名前は」
その女の声は、あたしの胸辺りから聞こえてきた。こっちを見上げる透き通った水色の瞳は、視線だけであたしを10回くらい殺せそうな殺意を帯びていて、あたしは吸った息を吐き出せないでいた。
「名前。言わないなら......」
ナイフが首に食い込んで、命の危険を間近に感じたあたしは慌てて口を開いた。
「ポっ、ポルカ......尾丸、ポルカ」
「なんか証明できるもの、持ってる?」
「今、出す」
捜査官
ケースを開いて中身に視線を落としている間も、ナイフの切っ先はあたしの喉に押し当てられたままピクリとも動かなくて、まるで安心できなかった。ちょっとでも身じろぎしようものなら、喉の前半周をぱっくり開かれてしまいそうだった。
「......オマル、捜査官補ポルカ。獣人女性、
淡々と証票の記載事項を読み上げる声からは、東部のような訛りが微かに聞き取れた。それともこれはカナダだろうか。
人相を確認するためか、彼女はもう一度目をあげた。
「......オーケイ」
ようやく、彼女はナイフと一緒にあたしから離れた。緊張の糸が切れたあたしは、溜め込んでいた息を一気に吐き出して、その場に座り込んでしまった。
「はーっ......はっ、死ぬかと思った......ところで、あんたは誰なんだ?」
「アタシも同じ質問をしようと思ってたんだけど、まあいっか」
へたり込んだあたしを見下ろす彼女は、身長
鮫の獣人だ。あるいは鯱か。何にしても、これであの捕食者の殺意剥き出しな視線にも説明がついた。
「アタシはがうる・ぐら、ぐらって呼んで。昔、アメの......助手のようなことをしてたの。アメが西海岸に移った後も、手紙のやり取りをしてたんだけど、去年の
あたしが立ち上がって、スカートのお尻をぱたぱたはたいて――うっかり左腕ではたこうとして、痛みに顔をしかめる羽目になった――いる間にも、ぐらの話は続いていた。
「そのアメから昨日、長距離電話がかかってきて、来てほしいって言われたから来た。そしたら、これよ」
ぐらはそう言って、蹴破られた痕跡がありありと残っているドアを指した。
「で、あなたは?」
「ああ......あたしは尾丸ポルカ、
「ええ」
「オーケイ。ポルカは今、保険金詐欺絡みの捜査をしてて、アメリアとはその中で知り合ったんよ。証人兼民間人協力者ってところかな」
「なるほど......アメはあなたに、ヒントを残してる」
「ヒント?」
ぐらの手招きを受けて、あたしは事務所の中へと入った。
室内はごちゃごちゃと散らかっているけど、これは以前来た時からそうだった。つまりアメリアは大して抵抗せず、下手人たちもここを一々荒らさずに帰ったらしい。
デスクの上には、一枚の地図が広げられていた。ロサンゼルスの市内地図だ。丸められていたらしく、端の方がくるりと丸まっている。地図には何か所か、走り書きのような書き込みがあった。
「これがヒント......?」
「たぶん。これはあそこの本棚の奥に、丸めて突っ込んであったの。そこにアメの血がちょっと着いてた」
デスクの左手にある、どっしりと重そうな木製の本棚を指して、ぐらは続けた。
「5年くらい前、ニューヨークで似たような状況に陥った時、同じ手でアタシ宛にメッセージを残してたことがあるの」
「じゃ、これはぐら宛てじゃないんか?」
「違う」
ぐらがさっと地図をひっくり返した。裏面に、書き込みと同じインクで大きな文字が書いてあった。
――
なるほど。あたしの喉を切り裂く前に、名前を訊いた理由はこれか。
「......オーケイ。じゃあ、地図の方を見てみるか」
地図を表に戻して、どこに何が書き込んであるのか確認していく。
「エッジウッド・グローブ......マッカーシー・ヴィスタ......ランチョ・エスコンディード......クレセント・ハイツ」
ランチョ・エスコンディード以外の名前に心当たりはなかったけど、書き込みのある住所には心当たりがあった。
「エッジウッド・グローブとマッカーシー・ヴィスタは、場所的にエリシアンが造成してる住宅地だな......クレセント・ハイツも、たぶんそうだ」
ステファンズさんの家があった辺りだ。買い取りが済み次第、造成工事が始まるんだろう。
「でも、これがどういう......」
「それと、これもたぶんヒントよ。そこの古新聞の山の中に突っ込んであったんだけど」
ぐらが、デスクの端に置いてあった古新聞を差し出した。理由は聞かなくてもわかる。発行人欄の端の方に、新しめの血の染みが着いてるからだ。
「どれどれ......これの地図にも書き込みがあるな。この住宅地と同じところか?」
そのように見える。そしてもしそうだとすれば、エリシアン・フィールズ
「偶然の一致、にしちゃ出来過ぎだよな。アメリアはたぶん、こっから何かを閃いたんだ。一体何を......」
アメリアの執務椅子に座り込んで頭を振り絞って考えたけど、何も考え付かなかった。
「これじゃ大して利益がねえじゃねーか......土地収用の対象になったら、基金は退役軍人たちに返金しなきゃいけねえはず。もちろん保険金詐欺の分は連中の懐の中だけど、これじゃ何のために中抜きや手抜き施工をしてまで納期を早めたのか、そこが説明がつかねえな......」
不正建築に応じた業者連中へのキックバックも必要なはずだ。最終的な目的が保険金詐欺だったにしても、返金が行われれば中抜き分の儲けは実質チャラになるわけで、あの金の亡者みたいな連中とは妙にそぐわない気がした。
「んー......全然わからん」
「ねえ」
しびれを切らしたように、ぐらが声を上げた。
「アメを攫ったやつだけど、心当たりがあるなら教えて」
「大ありだよ......あ」
慌てて腕時計に目を落とすと、もうじき8時半になろうとしているところだった。
「やっば、もう行かないと遅れちまう!」
「どこに?」
「ん? アメリアを攫ったやつのところに」
「何しに?」
「お金貰いに」
初対面の時と寸分違わぬ殺意の視線を向けられて、あたしはひゅっと息を呑んだ。
「......冗談だよ。って言うか、向こうがお金あげるって招待してくれたんだけど、まあ十中八九お金の代わり銃弾を喰らわせようって肚だろうな」
「なのに、行くの?」
「当然。アメリアが攫われた以上、余計に行くしかなくなったしな。たぶんだけど、そいつの家にアメリアもいるはず」
あいつらは前にも、アメリアを始末しようとして失敗している。モンローはアメリアが始末されるのを、自分の目で見届けたいはずだ。あたしを家に呼びつけたのも、たぶん同じ理由だろう。
「なら、アタシも着いて行く」
「......わかった。正直猫の手も借りたいところなんだ、サメなら大歓迎だ。銃は持ってる?」
「いらない」
青いコートがはためいて、その下からさっきの折り畳みナイフとは比べ物にならない、ばかでかいナイフが両手に現れた。軍放出品の
「これがアタシの牙で、これ二本で充分」
その目は間違いなく真剣だった。伊達や酔狂抜きに、ナイフだけで何人も殺したことがある目だ。
「わかった......じゃ、最後の質問だ」
「なに?」
「タクシー代、折半でいい?」
お手上げ、という感じで両手を上げて――ナイフはすでに、コートの下に消えていた――ぐらは言った。
「飛行機で来たから。財布はすっからかん*1よ」
「ちぇっ」