結論から言うと、彼女はその提案を受けることに決めていた。
シンボリルドルフの言葉には信用に値するだけの誠実さを感じられたし、そもそも断る理由もさしあたって無いため、その場で結論を出すに至ったのだ。
「では、正式な手続きは後日にでも。この話を受けてくれて感謝するよ」
そう言って、背を向けて去っていく彼女を見送る二人。その片方──トレーナーである人物が、しばらくしてから口を開いた。
「行くことに決めたんだね」
「悪いね。アンタには感謝してるよ」
「何も悪いことはないよ。貴女は、ここで燻ってていいような存在じゃない」
「買い被ってくれるよなぁ」
片腕で頭を掻くワンサイドペア。その口許はへの字に曲がっているものの、トレーナーは別段気にした様子もない。
それどころか、同じくらいの高さにあるその頭に躊躇いなく手を置いて、
「でも、このきかん坊とも会えなくなるかと思うと寂しいね」
「こんな従順なウマ娘も他にいないと思うけどねぇ」
「よく言う」
柔らかい手付きから、ぐしゃぐしゃと掻き乱すように頭を撫でるトレーナーに、ワンサイドペアは笑う。
「ペア」
「……ん」
「頑張っておいで。私はいつでも貴女を応援してる。そして、いつだって、貴女を受け入れる。……辛くなったら、帰ってきなさい」
ぐい、と頭を抱えられ、その肩に顎を乗せる。
トレーナーとしてではなく、彼女を支え続けた一人の友人として耳元で囁かれた優しい言葉に、ペアはゆっくりと目蓋を閉じた。
片腕の無いウマ娘を指導するようなトレーナーなどいないと思っていた。
ペアはそれを当然だと捉えていたし、事実それは当たり前の常識ですらあった。
けれど、今ペアが身体を預けている女性は、周りの意見等知ることかと手を差し伸べた。
「ホント、損な性格してるよ」
トレーナーの実績は、担当したウマ娘に大きく作用される。それは地方だろうと中央だろうと変わらない。担当したウマ娘が良い戦績を残せば、それがそのままトレーナーの名声へと繋がっていく。
その点で言えば、ペアはトレーナーにとっては担当するに当たってメリットというものが存在しない。
それを本人もわかっていたので、適当に複数のウマ娘を担当しているトレーナーに名前だけを借り、模擬レースの戦績くらいは役に立ってやろう、くらいの心づもりでいたのだが。
「あーぁ……。トレーナーも連れていけりゃいいのに」
「それは難しいよ。中央のトレーナーなんて、エリートの中のエリートなんだから」
「んなの、ウマ娘だって同じだし。……失敗したなぁ。今からでも会長様に言えば間に合うかな」
「それが君が中央に来る条件と言うなら、動くのも吝かでは無いが?」
突如横から聞こえた声に、パッと目を開く。
声の主は、些か申し訳なさそうに苦笑しながら、
「……すまない。邪魔するつもりは無かったんだが」
「いや、それは別にいい、んですけど」
やや頭上の耳をへたらせながら言うシンボリルドルフに、ペアはトレーナーから身体を離す。
そして、その視線をトレーナーと彼女に往復させてから、もう一度口を開いた。
「トレーナーを連れていくのも可能、みたいなこと、いいましたかね」
「元より君のようなウマ娘を中央に編入させることが初の試みだ。そこにもうひとつ特例を加えても……まぁ、問題あるまい」
もちろん、色々と覚悟はしてもらうことにはなるが、と続けるシンボリルドルフに、ペアはやや身体をトレーナー側に傾ける。結果、ほんのすこし身体を預けられたトレーナーは、背中に当たる尻尾の感触に苦笑する。
「着いてきてほしい?」
「…………そりゃあ」
彼女にしては珍しく、本当に小さく呟かれた言葉に、トレーナーもまた、覚悟を決めるべきかと鼻の頭を指先で掻くのだった。
そこから、話は早かった。
後日届いた各種書類に二人肩を並べて記入して、中央へと返送。
先にトレーナーだけが中央へと出向き、表向きに編入試験を受けにいった。
表向き、とは言ったものの、もちろんトレーナーの知識が試されていることには変わりなく、本人は戦々恐々、と言った顔で出掛けていくのを見送ったペアは、しかし全く心配をしていなかった。
地方のトレーナーとはいえ、そもそもトレーナーとしての資格を得てウマ娘の指導を行える時点で優秀なのは間違いない。それに加え、ワンサイドペアという特殊なウマ娘を担当するに当たって、彼女の知識はことウマ娘の身体においては高い知識を保有しているのだ。
結果、平均水準にはやや届かないものの、力量としては問題無しとの通知が届き、胸を撫で下ろしたトレーナーは、しかしまだまだ勉強不足だと改めて背筋を伸ばしていた。
「はぁー。やっぱり中央は違うねぇ。ハゲだらけの芝だった地方が早くも恋しい」
「設備の水準はどこを見てもトップクラス。練習場とはいえ、本物のレース場に限りなく近いものが用意されてる……。どう? 走りにくいとかある?」
「こうも良い芝だと寝転びたくなるね」
「問題なしと。じゃあ、好きにやっておいで」
トレーナーの次は、ウマ娘であるペアの出番である。
各種運動能力の測定。つまりは、走りの編入試験といったところだ。
とは言っても、編入そのものはほぼ確定している。過去のペアの出場してきた模擬レースのデータはほぼ全てが中央により記録されており、実際の走りはシンボリルドルフがその目で確認済み。つまりは既に問題なしと判断されている。
因みに、座学も問題無く通過済みである。口調や態度は不良のそれに近いペアだが、実は普通に秀才である。
(に、してもだ)
いくつかの測定をそれなりにこなしながら、ペアはそれとなく辺りを見回す。
ギャラリー、と言うほどでは無いが、ぽつらぽつらと見学に来ている人間やウマ娘がいるのは確認済みだ。
反応はほぼほぼ同じ。片腕が無いことに驚愕してから、それ故に特異なフォームで走らざるを得ない自分の姿にもう一度驚く。あまり今の時点で注目されるのが嫌なペアは、全力こそ出していない。
今目立っても、それはただの悪目立ち。そんなのは甚だごめんだった。
の、だが。
「さて、最後は私と並走してもらおう」
「はっ?」
ギャラリーがざわつく。
それも当然だった。その言葉を放っていたのは、いつしか現れていた、ジャージ姿の会長様だったのだから。
「距離は……そうだな、君の得意距離にしようか。2400辺りにしようか?」
「……これ、やんなきゃダメか?」
「どうせなら、今の君の全力を肌で感じてみたくてね。画竜点睛、必要なことだと諦めたまえ」
「……わかっててやんのかよ、性格悪いぜ」
どうやら、悪目立ちしたくないが為に手を抜いていたのがバレていたらしい、とペアは肩を落とす。
が、下降気味だった彼女のテンションは、次に耳に入った言葉で勢いよく燃え上がることになる。
「君に合わせるから、好きに走るといい」
穏やかな口調とは裏腹に、自分の発言の意味をしっかりとわかっているであろうその表情。
つまるところ、挑発である。
「良い顔になった。では、始めよう」
言うだけ言って、スタート地点へと向かうシンボリルドルフ。
その背中を、歯を剥き出しにして睨み付けるペアの肩を、トレーナーは慌てて叩いた。
「ペア」
「言ってくれるじゃねぇの」
「ペアってば」
「わぁってる。別にぶちギレた訳じゃねぇ」
そのまま揺さぶってくるトレーナーの顔に尻尾をぶつけるペアは、一度大きく深呼吸した。
好きに走れ、それに合わせる。自らが格上だと確信しているからこそ放てるその言葉。ペアの性格上、並の相手ならば真っ向から噛み付き、容赦なく潰しにかかるのだが。
「さっすがに、相手が悪い。歯が立つ気すらしねぇのは初めてだ」
こうして同じ芝の上に立つと良くわかる。今から隣を走る相手は、今まで見たことも無い化け物だと。
その気になれば、今までペアがやってきたように、無慈悲に叩き潰されるだろう。
走る前から負ける気しかしないのは、ペアにとって初めての経験だった。
「トレーナー」
「……なに?」
「やっぱり、この話受けといて良かった」
けれど、今彼女は笑っていた。
隣に立つトレーナーも、見たことがない表情。
尖る犬歯が光る、獰猛な笑み。好戦的で、攻撃的な笑い。
しかしそれ以上に──
──あぁ、貴女がこんなに楽しそうに笑えるのなら。
「……えぇ。私も、そう思った」
トン、とトレーナーは片手で彼女の背中を押した。
レースに出向く彼女に、いつもそうしてきたように。