たとえ一条の光でも   作:惣名阿万

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前編

 

 

 

 秋の長雨は間もなく終わりを迎えようとしていた。

 

 9月に入ってから降り続いた雨は列島各地をぐずつかせ、しつこい残暑をあっという間に押し退けていった。水不足も囁かれた8月の遅れを取り戻すように日照時間は例年の平均を大きく下回り、降水量は全国で記録的な量となった。

 

 長かった秋雨前線の解消が予報されたのは、9月も終わりを迎える第4日曜日。早朝の天気予報では各局とも揃って夕方までに雨は止むと伝え、スポーツのコーナーでは翌週に迫ったG1戦線への予想やコメントが語られていた。

 

 秋のスプリント王は誰か。昨年に続いてサクラバクシンオーの勝利に終わるのか。それとも海外G1を制して凱旋したタイキシャトル、シーキングザパールのどちらかになるのか。いやいや一昨年の覇者ヒシアケボノや新進気鋭のビコーペガサスも侮れない。

 中山の地に快足自慢が揃う日も間もなく。電撃戦が終わった後には阪神、東京と一大レースが続き、トゥインクルシリーズの後半戦も大いに盛り上がることだろう。

 

 祭典の幕開けに間に合ってよかった。

 ファンの多くがそう考え、参戦予定のウマ娘の多くも良好なバ場で走れるだろうことを喜んでいた。足下の重い中でも走れるよう鍛えてはいるものの、コンディションの良い状態で走れるに越したことはない。

 

 世間が安堵の息を漏らす中、件の電撃戦が行われる中山レース場では現在、12人のウマ娘が発走の時を待っていた。

 船橋の雨は未だ止まず。居並ぶウマ娘の多くは鬱陶しげに頭上を見上げ、足下の濡れたバ場を掻く。張り付く衣装に顔を顰める者もいれば、目を閉じてジッと精神集中に励む者もいた。

 

 それぞれの想いを抱いて立つ12人。

 その内の1人はしかし、他のウマ娘とは異なる心境にあった。

 

 すっかり重くなった体操服の裾を両手で摘まんで伸ばしてみる。URA指定服の上には上質な仕立てのゼッケンが重なっていて、桃色に染められた生地の中央には『12』のアラビア数字が白く染め抜かれている。

 感心すべきはそれだけではない。襷の留め具はボタンタイプで紐を結ぶ必要もなく、胴回りもベルトで調整できるので揺れも気にならない。走者に配慮した工夫が随所に施され、デザインと機能性の両面で未勝利戦やOP戦で使用したものとは完全に別物だ。

 

 生まれて初めて着けたそれに、少女は静かに感動していた。

 中央の重賞ともなるとこれほどまでに良いモノを使わせてもらえるのか。今まで着けてきたものとは見た目も作りも手触りも段違いだ。レースが終わったら記念に貰えないか訊いてみよう。なんなら買い取ることになったって構わない。

 

 髪と耳の濡れる中でそんなことを考えていた少女は、係員に声を掛けられ我に返った。

 見れば自分の2つ隣の少女がゲートに収まるところで、視線を転じれば既に内枠から11人が並んでいる。あとは自分が目の前の枠に入るだけだ。背後で扉が閉じられたが最後、目の前が開けた瞬間にはもうレースが始まってしまう。

 

 惜しいと思った。この時間がずっと終わらなければいいと、少女は心から思った。

 この日のために力を尽くしてきて、この日を境に全てが変わってしまう。それが解っているからこそ、少女はこの瞬間が終わらないで欲しいと思った。

 

 係員に促されるまま足を踏み出し、大外の枠へと向かう。芝は踏みしめる度に水音が鳴って、これから走る場所がいかに重くぬかるんでいるかをありありと教えてくれた。

 防水性のシューズも始まる前から泥に汚れていて、新品のそれはすっかり見慣れた色に染まっている。レースが終わる頃には全身に浴びていることだろう。

 

 狭いゲートの中に入り、背後で扉が閉じられる。

 雨が金属製のゲートを叩く音が響いて、そういえばあの日も雨が降っていたなと、少女は思い出した。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 年明けから3週を過ぎた頃だった。

 一日のトレーニングを終えた少女が栗東寮の自室へ戻ると、同室の上級生が遠征の準備を行っていた。週末の重賞に出走するため、明日の授業を終えた後から船橋へ前乗りするらしい。

 

「あら、お帰りなさい。今日もお疲れ様」

 

 顔を上げた彼女は少女の姿を認めると荷造りの手を止め、いつも通りのおっとりとした声で少女を迎えた。反射的に笑みを浮かべて少女は歩み寄る。

 

「お疲れ様です、リー先輩。いよいよ明々後日ですね。勝てば重賞2連勝。私、絶対応援に行きますよ!」

「ありがとう。頑張ってくるわね」

 

 捲し立てるような声援にもおっとり朗らかに応えた彼女は、ふと頬に指を当てて「そういえば」と呟いた。

 

「アキちゃんの次のレースは再来週よね。どこのレース場なの?」

 

 一瞬、ピクリと耳が震える。

 しかし表情だけは動かさず、アキは笑顔のままで答えた。

 

「えーっと、私も中山です」

「そうなの。中山なら応援に行けるわね。じゃあ再来週のレースは、私も応援に行くわ」

「い、いえ! わざわざ来てもらわなくてもいいですよ。レースの後で疲れてるでしょうし」

「遠慮しなくていいのよ。可愛い後輩の為なんだから。アキちゃんの頑張ってるところ、応援させて」

 

 両手を合わせてねだるように。得意のポーズで見上げられて、アキは口を噤んだ。

 色香と可憐さとあどけなさを混ぜて並立させた魅力はいっそ卑怯なほどだ。少なくとも童顔で痩せぎすな自分にはない女らしさがあって、それがアキの反抗の意志を削ぎ落していた。

 

 同性のアキですら魅了する姿に、折れたアキは小さくため息を吐く。

 

「……もう。先輩ってけっこう強引ですよね」

「ふふ。よく言われるわ」

 

 楽しそうに微笑む彼女にもう一度ため息を吐いて、アキはやれやれと顔を上げた。

 荷造りを再開した彼女の脇を抜け、ベッド下の収納から諸々を取り出して振り返る。

 

「それじゃあ、私はお風呂に行ってきます」

「ええ。行ってらっしゃい」

 

 口角を上げたまま再度彼女の横を通過して、寮の大浴場へ向かうために部屋を出た。

 後ろ手に扉を閉め、小さく息を吐く。落ちかけた肩を持ちあげて立て直し、普段通りの歩き方を意識して足を踏み出した。そうして誰もいない廊下を一人で歩いていると、つい押し込めていたものが零れ落ちる。

 

「……ほんと、強引なんだから」

 

 ひとの気も知らないで。

 考えるのも嫌な本心が胸の中心に焦げ付いた。

 

 同室の彼女は一昨年デビューして7戦4勝。うち1勝はグレード2という好成績。

 対して自分は昨夏のメイクデビュー以降6戦して入着すら一度もない。

 

 重賞はおろか未勝利戦にすら勝てない自分を、ともすれば重賞2勝の先輩が応援しにやってくる? そんなの、考えただけでも吐き気がする。

 

 湧き出しそうになる嗚咽を噛み殺して、アキはグッと瞼を閉じた。

 人気のない通路を暗闇に閉ざして歩く。と、ふいに耳慣れた音が聞こえてきた。

 

 開いた目を窓へ向けると、ガラスに細かな雫が落ち始めていた。

 予報では朝まで晴れが続くと言っていたが、通り雨でもやって来たのだろうか。

 

 足を止め、窓へと近付く。

 鏡映しの自分がガラスの向こうからこちらを見ていて、色の無い顔に当たった雨粒が左目から流れて落ちた。まるで泣いているようなそれを見て、アキは(わら)う。

 

 よくもまあ、一丁前に泣いていられるものだ。

 哂って、(わら)って、そうした後で歩き出した。

 

 雨が転機を連れてくるなどと、この時のアキには思いもよらなかった。

 

 

 

 

 

 

 翌日も雨は降り続いていた。しとしとと地面を叩く音を聞きながら授業を受け、放課後を迎える。いつものようにトレーニングへ向かおうと立ち上がったところで、教室の入り口からアキを呼ぶ声が聞こえた。

 

「アキノリュウセイさんはいらっしゃいますか?」

 

 振り向いた先には理事長秘書の駿川たづなが顔を覗かせていた。きょろきょろと教室を見渡して、アキの姿を見つけると儚げな笑みを浮かべる。自分のような一生徒の顔まで知っているということに、アキは少なからず驚いた。

 

「私にご用ですか?」

「はい。実は――」

 

 小走りで駆け寄って訊ねると、たづなは口を開きかけて止まった。

 ちらと視線を左右へ走らせ、半歩身を引いて外へと促す。

 

「ここではなんですから、歩きながらお話ししましょうか」

「……わかりました」

 

 教室では言えないことなのだろうか。

 アキは訝しんだものの、特に断る理由もないので頷く。内容によってはトレーニングの時間が短くなってしまうかもしれないが、それで誰に迷惑を掛けるわけでもない。

 

 促されるままに教室を出て、たづなの後に付いて歩く。

 廊下には放課後の喧騒が満ちていて、トレーニングに向かう者やお喋りを続ける者など様々なウマ娘が視界を通っては消えていった。

 

 たづなの後ろを歩いて気付いたのは、すれ違う生徒が一人の例外もなく彼女へ挨拶をするということ。たづなもそれらへ律儀に応えるあたり、これだけの人望があるのも頷ける。

 

 ともあれ、そうした理由で生徒がいる限りたづなに話す余裕などあるはずもなく、結局呼ばれた理由を聞くことができたのは校舎を出てからだった。

 

「あなたにお客様が来ているんです。外部からいらした方ですよ」

 

 顔だけ振り返ったたづなに言われて、アキは首を傾げた。自分を訪ねてくるような知り合いはいなかったはずだが、わざわざトレセン学園まで来るなど何処の誰だろうか。

 

 アキの在籍している『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』はURA直轄の養成機関であり、国内最大のレースシリーズである『トゥインクルシリーズ』に参加するウマ娘の大半が所属している。

 

 トゥインクルシリーズのレースでは優勝者にスポンサーからの賞金が入る。このため学園所属のウマ娘は十代半ばでありながら大金を獲得していることも少なくない。

 必然、彼女たちを狙う悪人も出てくるため、学園側は厳しい管理体制を敷いて敷地内へ立ち入る者をチェックしている。

 

 こうした経緯もあって、学園内へ部外者が立ち入る機会はほとんどない。

 にもかかわらず、アキを訪ねてきた人物というのは外部の者らしい。親族であればそれらしい言い方をされるはずだがそういうわけでもなさそうだ。

 

 考える程に首を捻るアキを見て、たづなはクスっと笑いを漏らした。

 彼女のその笑みが苦笑いだったことに、アキは小さな引っ掛かりを覚えた。

 

 

 

 

 

 

 たづなに連れられて辿り着いたのは本棟の応接室だった。

 ノックをして扉を開くたづなに付いて室内へと足を踏み入れる。

 

 中央のソファに座っていたのは30歳程の男だった。

 男を一目見たとき、アキは何となく『寂しそう』だと感じた。自分でも何故そう思ったのかはわからず、二度三度と瞬きをする間に振り向いた男を見て、今度は『冷たそうな人』だとも思った。

 

「来たか。では掛けてくれ。早速だが話を始めたい」

 

 対して、アキを一瞥した男は鷹揚な態度で着席を促しただけだった。ろくな挨拶もなければ、自己紹介すらしない。

 初対面の相手に随分な態度だなと思いながらも、笑顔を貼り付けたたづなに肩を叩かれ、おずおずと対面に座る。

 

 一人掛けのソファに浅く腰を下ろしたアキは、背筋を伸ばして男を見据える。

 ぱりっとしたビジネススーツに身を包んだ男は棚に並んだ商品を見るかのような眼差しをしていて、これからされるだろう話が楽しいものではないのだと悟った。グッと握った両手を膝に押しつけ、男が切り出すのを待つ。

 

「まずは初めましてと言っておこう。俺は石上(いしがみ)。お父上の依頼でここへ来た」

 

 言いながら、男は名刺をテーブルの上に差し出した。

 男が手を放した後で手前に滑らせ、そこに書かれている文字を読む。

 

 『レースコンサルタント 石上政光(いしがみまさみつ)

 

 シンプルなデザインの名刺にはこれに加えて連絡先だけが記載されていた。

 男の名前に聞き覚えはなく、それ以上に『レースコンサルタント』というのがどんな仕事なのかもわからない。

 

 だが、男の言葉からアキを訪ねてきた理由だけはわかった。

 

「お父さんの依頼、ですか」

「そうだ。知人を通じてではあるが、お父上からの依頼であることに変わりはない」

 

 アキの父は地元の自動車会社に勤めている。詳しくは知らないがそれなりの地位にあるとも聞いていた。こうしてトレセン学園に通うための学費を出してくれたのも父で、まだ現実というものを知らなかったアキへ「やれるだけやってこい」と言って背中を押してくれた。

 

 メイクデビュー以来連絡すらできていないこともあって、随分と心配を掛けていたらしい。目の奥が熱くなるのを堪えて、アキは握った右手を鳩尾へと当てた。

 

 と、丁度そのタイミングで、たづながテーブルへ二人分のコーヒーを置く。

 

「どうぞ」

「頂こう」

 

 躊躇いもなく男は一緒に置かれたスティックシュガーを手に取った。フレッシュはなく、代わりにもう一本置かれていた砂糖も全て投入。相応に甘くなったであろうコーヒーを口へ運び、何事もなくソーサーへ戻した。

 

 コメントはなし。味に対する文句もなく、社交辞令を口にするつもりもないらしい。

 たづなの方も特に気にした様子はなく、ポットの傍らで自分の分を手にしている。

 

 小さくない違和感を覚えながら、アキも自分のカップへ手を伸ばした。

 

 フレッシュとスティックシュガーを一つずつ投入し、スプーンで混ぜる。普段よりも少し長めに攪拌し、音を立てないよう慎重にソーサーへ置く。右手で取っ手を摘まみ、左手をカップへ添えて口元へ運ぶ。湯気の立ち昇るそれをゆっくりと喉へ滑らせた。

 

 温かいコーヒーが胃に落ち、熱がじんわりと身体へ染みていく。後悔と郷愁とが徐々に薄れ、ついでに違和感へも触れない決心をしたところでカップを置き、黙したままの男へ問いかけた。

 

「それで、えっと、その依頼というのはどんなものなんですか?」

 

 アキが問うと、二口目を味わっていた男は何でもないことのように答えた。

 

「メイクデビューに敗れて以来勝ちのない君に会い、今後の展望を訊き、可能な限り願いを叶えて欲しいと、そういう依頼だ」

 

 オブラートに包むどころか火の出るような直球を投げ込まれて、アキはショックを受けるよりも先に呆気に取られてしまった。いっそブラックジョークの類なのではと疑い始めたところで、横合いから底冷えのする声が流れてくる。

 

「言い方、というものがあると思いますが?」

「依頼の内容をその通り伝えただけだ。他意はない」

 

 何食わぬ顔で言う男に、たづなは笑顔を引き攣らせた。同時に極小さな声で「この人は……」と呟くのが耳に入る。案外と気安いやり取りを見て、やはり二人は知り合いなのだろうかとアキは訝しんだ。

 

 見たことのない冷たい眼差しを向けるたづなと、それをまるきり無視する男。

 思わず苦笑いが浮かんで、そうした後でふっと浮かべた笑みが変質した。

 

「そっか……」

 

 みなまで言われずともわかった。わかってしまった。

 

 アキの父はレースに詳しいわけではない。母もウマ娘でこそあるものの、レースやそれに類する競技へ関わったことはないはずだ。両親ともにレースに関しては素人と言っていい。

 

 恐らく動画サイトか何かで観ていたのだろう。両親からの愛情を疑ったことはなく、そんな二人がアキの走るレースを観ないはずがない。

 きっと、素人目にも判るほど無様だったのだ。チームには入れず、トレーナーも当然居らず、独力で続ける努力だけではどうにもならないと思われた。だから父はこんなことをしたのだ。

 

「つまり、引退するよう説得に来たんですね」

 

 考えてみれば当たり前のことだった。トレセン学園に入学するウマ娘は誰もがレースで勝つために努力を続けていて、一部の才能ある者だけがチームに入り、トレーナーの指導を受けられる。

 この学園だけでも毎年百人以上のウマ娘がデビューしていて、他の学園の生徒も含めればそれこそ数えきれないほどのウマ娘が勝利を巡って競っているのだ。一度も勝てずに引退していくウマ娘など枚挙に暇がない。

 

 だからこそ、アキは目の前の男が引導を渡しに来たのだと思った。

 しかし、男の反応はアキの思ったものとは違っていた。

 

「それを決めるのは君だ」

「……どういう意味ですか?」

 

 問い返すと、男は妙に落ち着いた口調で説明し始める。

 

「言ったはずだ。君の願いを叶える手伝いをすると。お父上と結んだのはそういう契約であって、引退を強いるものではない。尤も、諦めるというのであれば止めはしないが」

 

 煽るような物言いに、アキは沸々と怒りが湧いてくるのを自覚した。

 腹の底で高温の感情が煮え狂い、男の挑発的な眼差しで噴き上がる。

 

「願いを叶えるって、それじゃあ、私を勝たせてくださいと言ったら叶えてくれるんですか? 一度も入着すらできない私を、勝たせてくれるって言うんですか!」

 

 そんなことは不可能だと、誰でもないアキ自身がわかっていた。いっそ引退を強要された方が気も楽で、それでも諦めきれないからこそ自棄になってそう叫んだのだ。

 

 だというのに――。

 

「もちろんだ」

 

 淡々と、ただ事実を述べるように男は断言した。

 思わず息を呑み、そうしてしまった自分に怒りを覚えてアキは噛みつく。

 

「っ……。で、デタラメなことを言わないでください!」

「デタラメではない。君が勝ちたいと望み、相応の覚悟があると言うのであれば、俺は君の願いを叶えるために全力を尽くそう」

 

 それでも表情一つ変わらない男に、アキの心は揺れた。

 世の中の厳しさを少しだけ知って斜に構えてはいても、アキはまだまだ多感な16歳。一見すると頼れる大人の男にこうも乗せられれば、夢見がちな部分が顔を出すのも仕方のないことだった。

 

 先程までとは別の意味で笑顔を引き攣らせたたづなが見ているとも知らずに、アキはもじもじと手を揉んで、恐る恐る夢を口にする。

 

「……有馬記念でも、ですか?」

「それは無理だ。初めから不可能なことは叶えようがない」

 

 すげなく一蹴され、さすがに高望みが過ぎたとため息を吐く。

 気を取り直して自分自身へ問いかけ、これくらいならと希望を込めて口にする。

 

「…………じゃあ、重賞なら勝てますか?」

 

 か細い声で投げられた願いを聞き届けた男は、ほんの僅かに目を細めて答える。

 

「勝てる」

 

 これまでで最も力強い宣告だった。心臓が大きく跳ね、身体の奥からむず痒い何かが湧き上がってくる。自然と口角が上がり、二つ返事で応えようとして――。

 

「睡眠以外の全てを費やせば、一度だけなら勝てるだろう。その1勝を最後に、二度と走れなくなるかもしれないがな」

 

 続いた言葉の不穏さに、身体を満たす熱が一気に冷えた。

 

 ウマ娘にとって走ることは本能だ。

 特にある時期を迎えたウマ娘にとっては何にも代えがたいものとなる。男女問わず思春期が訪れるのと同様に、年頃のウマ娘には『走りたい』という衝動が訪れるのだ。

 より速く、誰より駿(はや)く――。トゥインクルシリーズに挑戦するウマ娘は、そうした方向にこの衝動が向き、心身ともにレースで走ることに傾倒していく。

 

 十代半ば頃に生起するこの変化は《本格化》と呼ばれ、トゥインクルシリーズは本格化を迎えたウマ娘だけが挑むことができる。それは決して資格としての意味ではなく、走行能力が段違いに高まるためだ。

 

 一方で、この期間は生涯に照らすと瞬きの間という程に短い。

 およそ4年。長くても6年程度しか続かないこの期間を終えると、ウマ娘の走行能力は著しく落ちる。それでも人間の何倍も速く、長く走ることができるが、時速60㎞を超えるスピードを維持することはできない。

 

 どんな名ウマ娘にも終わりはある。

 本格化が終わり、速く走れなくなったウマ娘は例外なく引退し、第二の人生を送ることになるのだ。そこに早いか遅いかの差はあっても、避けることは絶対にできない。

 

 しかし、男が口にした結末はそんな安らかなものではなかった。

 自身の脚で立って歩き、走るのは、ウマ娘にとって食べること、眠ることと同等の意味を持つ。事故などで歩行能力を喪失したウマ娘の多くが自死に至るのは、そうした本能が根本にあるからに他ならない。

 

 二度と走れない――。それはアキを含む全てのウマ娘にとって絶望そのものであり、そんな未来を迎えるかもしれないと言われて、平静でいられるはずもなかった。

 

「走れなくなる……? それ、どういうことですか?」

 

 声が震えるのを自覚しながら、それでもアキは訊ねずにはいられなかった。

 男は軽くため息を吐いて視線を逸らし、右手をおざなりに振って答えた。

 

「どうもこうも、重賞に勝ちたいと思うのなら、それだけのリスクを負う必要があるということだ」

 

 あまりにもあんまりな態度にたづながまたしてもムッと眉間を寄せる。

 たづなの眼差しを受け、男はもう一度ため息を吐いて表情を改めた。脇に置かれた鞄から何やら分厚い紙束を取り出し、アキの方へ滑らせながら続ける。

 

「ここに君がこれまで走ってきた模擬戦、新バ戦、未勝利戦の結果と内容を分析した資料がある。これは前金の範疇だから、仮に依頼を断るにしても持ち帰ってもらって構わない」

 

 取り上げて中を見ると、男の言う通りそこにはアキがこれまで走ったありとあらゆるレースの結果が載っていた。ご丁寧にも評価と敗因のおまけ付きで。

 

「既にわかっているだろうが、君には才能がない。真っ当にトレーニングを積んだ程度では重賞に勝つなど夢物語だ。死ぬ気で鍛えてようやく届くかというところだろう。そして、その1勝を最後に君の脚は限界を迎える」

 

 容赦のない酷評を恨めしく思う反面、どこか嬉しいと感じる部分もあった。

 トレーナーのいないアキにとって、この資料は初めてアキのことだけを扱ったものだ。たとえ厳しい言葉しか書かれていないとしても、自分のことだけを見て、自分のことだけを考えたこの資料は、多くの慰めよりも嬉しく感じられた。

 

 恨めしくて、怖くて、けれど嬉しくもある。複雑に絡み合った胸の内をどうしたらいいかわからず、アキは資料と正面とで視線を行き来させることしかできなかった。

 

 そんなアキの心情など知らぬとばかりに、口を開いた彼は能面のような顔で断じる。

 

「諦めるのなら早い方がいい。今ならまだ夢を夢のまま飾っておけるだろう。勝てないと知りながら走り続けるのも否定はしない。だが、もしも重賞に勝ちたいと望むのなら――」

 

 一瞬、冷たいだけだった瞳が揺れるのを、アキは確かに見た。

 

「覚悟しておくことだ。学生らしい生活は二度と送れないと。トレーニングは過酷で、走るレースは最小限になり、終われば二度と走れない。それがわかっていて、それでも君は夢を見続けられるか?」

 

 夢の為に人生を(なげう)つ覚悟はあるか。

 

 問われて思わず肩が震え、胸が苦しくなった。

 感情が渋滞を起こしていて、自分がどんな表情になっているかもわからない。

 ただ止むことのない震えと、走っているときのような苦しさがあった。

 

「あなたはひとの気持ちを何だと思って……!」

 

 閉口したアキの代わりにたづなが声を荒げる。

 横目に睨んで受けた彼は、これまで以上に低い声で返した。

 

「口を挟むなと言ったはずだ。出来ないのなら出ていってくれとも」

「止めずにいられると思っているんですか!」

 

 何も言えずに立ち尽くすアキの前で二人が視線をぶつける。

 どちらの表情も真剣で、それだけ自分のことを考えてくれているのだと思った。それが妙に嬉しくて、滅茶苦茶に混ざり合っていた頭がクリアになっていく。

 

「ありがとうございます、たづなさん。私は大丈夫ですから」

 

 振り向いたたづなはアキの顔を見ると目を見張り、堪えるように眉を寄せ、唇を噛んで俯いた。

 

 心苦しく思いながら、改めて正面に向き直る。

 感情の窺えない表情で待つ相手の目を見て、アキは躊躇いがちに訊ねた。

 

「……石上さん、でいいですか?」

「ああ。好きに呼んでくれて構わない」

 

 許可を得て、小さく息を吐く。

 

「では、石上さん。すぐには決められないので、三日後にお返事をしてもいいですか?」

 

 今すぐに決断することはできない。

 混乱したアキにはそれだけがわかって、だからこそ選んだ答えは保留だった。

 

 石上はすぐに頷いた。或いはアキが迷うことを見越していたのかもしれない。

 

「では三日後、月曜の同じ時間にまた来よう。――立ち入り許可の申請をしたい」

「……理事長にお話ししておきます」

「よろしく頼む。ではな」

 

 手早く次回への根回しを済ませた石上は、それきり振り返ることなく応接室を出ていった。

 

 残されたアキは力が抜けてソファに背をもたれ、たづなはアキのカップにコーヒーのお代わりを注いだ。静かにカップを傾けるたづなへ礼を言って、湯気の立ち昇るコーヒーを口にする。

 

 身体の奥へ落ちていく熱を追いかけて、複雑に絡み合った感情に手を掛ける。

 結局この日はトレーニングを取り止め、一日の残りを考えながら過ごした。

 

 自分はどうしたいのか。本当に勝てるのか。走れなくなるのは本当なのか。

 仮に勝てるかもしれないとして、走れなくなってまで勝ちたいのか。

 

 ルームメイトのいない部屋で、アキはじっと手を見つめる。

 微かに聞こえる雨音は、乾いてひび割れた所に染み込んでいくようだった。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 二日後。昼食を済ませたアキは中山レース場を訪れていた。

 

 冬晴れの船橋には突き刺すような風が吹いていて、身震いしたアキはマフラーを口元にまで押し上げた。耳穴の空いたニット帽を深くまで被り、ポケットのカイロを弄びながら場内を歩いていく。

 

 午後3時からのメインレースは既にパドック入りが始まっていた。

 中央の幕から一人ずつ出走者が出てきては各々のパフォーマンスをしていく。この日行われるのはG2のレースなので、参加者は全員指定の体操服姿だ。ジャージを投げるパフォーマンスがされる度に大きな歓声が上がり、固定ファンのいるウマ娘は名前を叫ばれることもある。

 

 同室の彼女は全部で9人いる出走者の8番目に姿を現した。

 それまでの娘たちと同じようにジャージを脱いで投げ、胸の前で小さくガッツポーズを作る。メリハリの効いたスタイルと可憐な仕草に、観衆から大きな声が上がった。

 

 落ちたジャージを拾って、彼女は観客の声援に手振りで応える。と、その目が上段にいるアキを捉えた。嬉しそうに相好を崩し、それまでにも増して大きく手を振る。

 いくつもの眼差しを受けながらアキは手を振り返した。自身の羞恥が理由で知らぬふりを決め込めば間違いなく彼女は気を落とすだろう。それが理由で調子を崩すようなことは絶対にあってはならない。

 

 全員のパフォーマンスが終わると、出走者たちは各々準備運動を行っていく。柔軟や軽い運動でのウォームアップは、係員が声を掛けるまで続いた。

 これから彼女たちは地下バ道を通り、ターフへと向かう。間近に迫った発走の瞬間に、選手だけでなく観客の緊張も高まっていくのがわかった。

 

 スタンドへと移動したアキは、中段よりもやや高い位置にあるスペースへ陣取った。この場所なら大型スクリーンと手前側コーナーの中程までが見渡せる。

 

 ゲートへ向かう9人に、スタンドから大きな歓声が響く。

 国内最大規模のG1程ではないものの、スタンドはほとんどの座席が埋まっていた。轟く声援も決して劣るわけではなく、ターフに立つウマ娘の側も抱く闘志は負けていない。

 

 観ているだけでも胸が高鳴る。心臓が鳴る音を耳にして、アキは自分が高揚しているということに気付いた。

 トレセン学園へ入る前、両親に連れられて訪れた小倉での光景を思い出す。照り付ける日差しの中、想いのぶつけ合いを制したそのウマ娘は、アキの知る誰よりも輝いて見えた。

 

 あの場所に立ちたい。そう思ったことを覚えている。

 どうしてもあの場所に、レース場の只中に立ちたいと思ってトレセン学園への挑戦を決めた。新バ戦、未勝利戦と出走してターフに立つことだけは叶ったものの、それはアキの思い描いた夢の一端に過ぎない。

 

 あの場所に立ちたい。多くのファンが観る重賞の芝に立ちたい。

 彼女のように堂々と、多くの声援を受けて、応えてみたい。

 

 そして、その末に――。

 

 不意に華やかなラッパの音が鳴り響く。

 レースの始まりを知らせるファンファーレだ。中山2200mの旅路へ挑む彼女たちへ、勇壮な調べが送られる。

 

 枠入りが始まり、奇数番からゲートの中へと収まっていく。

 稀に緊張などで脚が止まる娘も出てくるのだが、今回はそんなトラブルもなかった。同室の彼女が入り、大外9番のウマ娘の枠入りが終わると、場内は水を打ったように静まり返った。

 

『さあ、各ウマ娘とも、態勢整いました。第38回アメリカJCC、今――』

 

 ゲートが開く。瞬間、大歓声に実況の声が遮られた。

 出遅れはなく、一斉に走り出した9人は1コーナーへ向かって駆けていく。

 

『一回目の坂を駆け上がって、ハナを奪ったのは一昨年の覇者ニイツクロス。中山外回りのゆったりとしたコーナーへと掛かっていきます。二番手はアマノタイショウ、三番手にローズフェアリーが続いていく』

 

 彼女――ローズフェアリーは三番手の好位につけ脚を溜める作戦のようだ。集団の最前に立ち、前二人の陰で最内を走ってロスを抑えて走っていく。

 

『なだらかな丘を登り、間もなく向こう正面へと入ります。先頭は依然としてニイツクロスが3バ身のリード。2番手にアマノタイショウ。その後続いてローズフェアリー。2バ身離れてインサイドスルーが後続集団の先頭を駆けていく』

 

 各ウマ娘ともに睨み合い、順位に動きがないまま残り1000mを切った。

 誰が最初に動くか牽制し合う中、3コーナーの入り口で彼女が仕掛ける。

 

 徐々に垂れてきたアマノタイショウの外へ。コーナー回りの遠心力を利用して踏み出した。追い上げ態勢に入った後続より一瞬早く、先頭を捉えに挑み掛かる。

 

『ここでローズフェアリーが仕掛けた! 3コーナー途中、坂の下りで得たスピードを更に上げてニイツクロスに迫る! 後続のウマ娘たちもペースを上げてきました!』

 

 いよいよ動きを見せたレースに観客の興奮も高まった。

 

 膠着が破れたことで後続集団も差を詰めに掛かり、穂先となったリーは猛然と先頭へ迫っていく。

 逃げる先頭のウマ娘も蓄えたリードを守ろうとペースを上げる。内側の有利を最大限に利用し、一度は詰まりかけた差を立て直した。

 

『第4コーナーを抜けて、ニイツクロスが直線に入った。ローズフェアリーは外! 一番人気、クイーンオブルビーは中団から内を突く!』

 

 角度の浅い3コーナーに対し、鋭角になる4コーナーでリーはスピードを落とすことなく外へと膨らんだ。内に3人分ほどのスペースを開け、荒れの少ない芝を駆けていく。

 背後には続々と追い込み勢が迫り、前の二人を大波のように呑み込みに掛かった。

 

『さあ300mの直線勝負だ! 先頭はニイツクロス。外からローズフェアリーが上がってくる。クイーンオブルビーは中央突破を図るか。上位人気3人の叩き合いは残り200。ここから中山の坂が立ちはだかる!』

 

 ゴール目前、残り180m地点に待つのが中山レース場最大の特徴である坂だ。

 高低差2.9mの急坂。ここまで2000mを走り、スタミナも残り少ない中での登坂は、スタミナとパワー、何より精神力が要求される難所と言われている。

 

 上り坂に踏み入って、先頭のウマ娘のペースが落ちた。早めに逃げ切りを図った結果、想定以上にスタミナを浪費していたようだ。

 対してリーの方は序盤中盤に風避けを得た功が活きていた。差し切り態勢に入った後続を背に、力強く坂を駆けあがっていく。

 

『ニイツクロスいっぱいになったか。ここでローズフェアリーが先頭に立った! しかしクイーンオブルビーも徐々に差を詰める。大外からアクィラヒロインも飛んできた!』

 

 傾斜の急な坂を登りながら、三人のウマ娘が熾烈なデッドヒートを繰り広げる。

 三人ともに最早体力はギリギリで、気力で脚を踏み出しているのが観ているだけのアキにもはっきりとわかった。

 

『ローズフェアリー先頭! 内からクイーンオブルビー、外からアクィラヒロインが迫る! 残り100m! ローズフェアリーが粘る! クイーンオブルビー懸命に追う! アクィラヒロイン、強烈な末脚! ここでクイーンオブルビーを交わした!』

 

 先頭を追う二人の内側、栗毛のウマ娘の勢いが落ち、前との差が詰まらなくなった。その間に大外を駆けていたウマ娘が頭一つ先に出る。

 さらに差は詰まり、先頭の彼女とは残り3/4バ身程度。ジワジワと近付き、二人がほぼ横一線に並ぶ。

 

『ローズフェアリーか、アクィラヒロインか! ローズフェアリー! アクィラヒロイン! ローズフェアリー! ローズフェアリーだ! ローズフェアリー、粘り勝ち!』

 

 気付けばアキは叫んでいた。

 言葉にならない絶叫は悲鳴にも似て、身体の奥から震えが湧いてきた。すっかり熱くなった手をポケットから出して、冷え切った金属の手すりを掴む。心臓が脈打つままに小さく跳ねて、駆け出したい衝動をどうにか堪えた。

 

 周囲の怪訝な目はまるで気にならない。ただ走りきった彼女だけを見ていたかった。

 

『お見事、ローズフェアリー! シニア級へ進出して最初の重賞を制しました!』

 

 実況と歓声に応えるように、リーは胸の前で手を振る。

 走り終えたターフの上を晴れやかに、走る前よりも軽やかに、跳ねるように歩いていく彼女の姿を目にして、どうしようもなく思う。

 

 

 

 勝ちたい。

 

 勝ちたい。勝ちたい。――重賞(ここ)で勝ちたい。

 

 

 

 想いは胸を埋め尽くし、不安や躊躇いを押し出した。

 たとえどんな結果になったとしても、夢を諦めるよりずっといい。後悔することになったとしても、後悔すらできないまま抱えて生きるよりマシだ。

 

 冬空の下、胸に灯った種火は内側からアキを温める。

 

 憧れの場所へ、彼女が輝くあの場所へ、自分も立つために。

 

 勇気ひとつを胸に抱いて、アキの挑戦が始まった。

 

 

 




 
 
 
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