たとえ一条の光でも   作:惣名阿万

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中編

 

 

 

 週が明け、石上と改めて契約を交わしたアキは、『学生らしい生活は二度と送れない』という石上の言葉が脅しではないと痛感した。

 

 トレーニングのメニューや強度、時間といった項目は全て事細かに指示され、経過は渡されたハンドレスマイクを通して都度報告させる徹底ぶり。骨伝導式のマイクスピーカーは運動の邪魔にならないよう首に掛けるタイプで、親機のスマートフォンも石上が用意したものだ。

 学園のトレーナーでない石上は自由にトレセン学園へ出入りすることができず、顔を見せるのは週に一回程度。フォームチェックなどの直接見る必要がある要素を補い、それ以外の日はスピーカー越しに聞こえる石上の指示の下トレーニングに励んだ。

 

 連日のメニューはアキを限界の際まで追い込むもので、それでいて翌日以降にダメージを残すことのない絶妙なさじ加減。少しでも気を抜けば最後まで熟すことができず、張り切り過ぎて量を増やそうとすると厳しい言葉で止められた。

 

 石上が管理するのはトレーニングだけに留まらない。

 食事のメニューや量、食べる順番や時間に至るまで指定され、他にも授業間の休み時間や入浴後から眠るまでの時間など、一日のほとんどに石上の指示が付いた。自由になるのは入浴中と眠る前の短い時間くらいなもので、契約を結んだ直後は度重なるストレスに何度も折れそうになった。

 

 けれど二週間どうにか耐え抜いて挑んだ未勝利戦の後、アキの認識は大きく変わる。

 

 

 

 

 

 

『――アキノリュウセイ、完全に抜け出した! 残り100mでリードは2バ身! これは強い! 後続の接近を許さず、今ゴールイン!』

 

 まるで脚にバネが付いているかのようだった。踏み込んだ分だけ身体が前に出て、今までにない速さにアキ自身が一番驚いた。気付けばゴール板を先頭で駆け抜けていて、足を止めた先に誰もいないのが不思議でならなかった。

 

 呆然としたまま、荒い息を整えることもなくウィナーズサークルへ向かう。

 

 入着すら一度もできなかったレースに勝った。それも驚くほどにあっさりと。嘘のようにすんなりと。

 まるで夢を見ているかのようで、けれど締め付けるような肺の苦しさが現実だと教えてくれた。落ち着いたら目が覚めてしまうのではと、脚は独りでに動いていた。

 

 ウィナーズサークルの前には石上と、同室の先輩であるリーの姿もあった。以前言っていた通り、彼女は7度目の未勝利戦に挑むアキの応援に訪れていたのだ。

 

 片やいつも通りの無表情で何事かを手帳に書き込み、片や口元を両手で覆い瞳を潤ませている。どちらの反応も普段の二人を知っていれば納得で、これは夢じゃないのだと噛みしめる一因となった。

 

「おめでとう、アキちゃん。本当におめでとう」

「ありがとうございます、リー先輩」

 

 涙ぐみながら絞り出した彼女に応える。彼女の涙を見たことでようやく勝利の実感が湧いてきて、アキは目の奥が熱くなるのを自覚した。

 釣られて泣きそうになるのを堪えて石上に身体を向ける。嬉しいことに間違いはないが、ここで泣いているようでは到底その先へはたどり着けないと思った。

 

「あの、ありがとうございました。まさかこんなに早く勝てるとは思いませんでした」

 

 内心の高揚を抑えつけて腰を折る。

 言葉にしたのは紛れもない本心で、どこか侮っていたことへの謝罪の意も込めた。

 

 真摯な態度で一礼したアキを、石上は能面のような表情で見下ろしていた。

 顔を上げたアキの目をじっと見たかと思うと、やがて淡々とした口調で切り出す。

 

「未勝利戦を走るのはこれまでの君と同じく、一度も勝ったことのないウマ娘だけだ。それも年明けまで勝てないとなればトレーナーの付いていない者がほとんどだろう。勝ち方を知らない相手に勝てたからといって浮かれるな」

 

 冷水を掛けるような言葉に息を呑む。

 一つ勝ったくらいで調子に乗ってはいけない。未だ無邪気に(・・・・・・)そう考えていたアキの頭は、石上の指摘で急速に冷えていった。

 

 こんなものは『勝利』ですらない。

 これを『勝利』だと捉えているようでは、アキの夢など到底叶うものではないのだ。

 

「……そう、ですね。確かに、以前はどう走ったら勝てるかなんてわかりませんでした」

 

 駆け引きもなく、自分のペースを守ることだけに終始していた。残りのスタミナを考えてスパートを掛けることしか頭になかった。

 前めに付けるのか、後方に控えるのか。内を突くのか、外を捲るか。位置取りやコース取りだけでも千差万別あり、その上で仕掛けるタイミングなども大きく変わる。

 

 自分のことだけを考えて勝てるのは能力に秀でたウマ娘だけ。

 考えてみればそれは当たり前で、出走者全員でタイムアタックをするようなレースになれば単純な能力勝負になるのは必然なのだ。

 

 走りやすい走り方と、勝つための走り方は違う。単純なことではあるものの、トレーナーのような指導者のいないウマ娘には意外と気付けないものだ。

 それこそメイクデビューの期間が始まって半年が経過したこの時期、未だ1勝もできないウマ娘の多くは第三者の目を得られていないのだから。

 

 石上の言葉へ素直に頷くアキ。

 一方で、隣で聞いていたリーにとってそれは受け入れ難い言葉だった。

 

「どうして喜んだらいけないんですか」

 

 いつになく語気を荒げて詰め寄る彼女に、アキの方が目を見張る。

 

「アキちゃんはこれまでずっと頑張ってきて、やっと前に進めたんですよ。貴方がトレーナーなら、もっとアキちゃんの頑張りを褒めてあげるべきなんじゃないですか」

「俺はトレーナーではないし、称賛するだけで勝てるなら苦労はしない。それよりも今後の話だ」

 

 食って掛かった彼女へ目を向けることもなく一蹴して、石上は続けた。

 

「未勝利戦に勝った君は今後、各重賞を含むOPレースへ参加することができるが、特に重賞へ挑むためには一定以上の成績を収めておかなくてはならない。それは知っているな?」

 

 頷く。それはトレセン学園に入学してからすぐに学ぶことであり、トゥインクルシリーズに挑むウマ娘なら誰でも知っていることだ。

 

 

 

 アキの最終目標は、秋のG1戦線が始まる目前のレース――『セントライト記念』に決まった。

 

 脚の消耗を度外視してでも早熟に仕上げを行ったとして、それでも必要十分な能力に至るのは秋口だろうと石上は推測した。

 また見立て通りにアキが力を付けることができても、出走が遅れればそれだけ他のウマ娘の仕上がりも進む。シニア級までを見据えてじっくりと力を付ける他のウマ娘に対し、勝算のある勝負ができるのは10月までのレースが限度だろうと考えられた。

 

 同時期には2000m以下のレースも幾つかあるものの、こちらは同じクラシック級限定G1の秋華賞や、シニア級も集う天皇賞へ挑むウマ娘の参戦が予想される。瞬発力に乏しいアキにとって距離の短縮は不利を招くだけだった。

 

 アキの素質ではシニア級のウマ娘が出てくるレースで勝算はない。

 クラシック級限定のレースで、かつ前哨戦とされるトライアルレースが望ましい。加えてスピード勝負となりやすい2000m以下よりも長い距離が必要となるだろう。

 

 そうした条件の下、提案された中からアキが選んだのが『セントライト記念』。

 

 中山レース場、外回り2200mの芝コース。

 

 あの日、彼女が勝利した『アメリカJCC』と同じ条件のレースだった。

 

 

 

 最終目標を定めてからというもの、石上が最初に示したのは目標レースまでの詳細な計画だった。勝つために必要な要素のピックアップに始まり、そこには春先に同じ船橋で行われるOPレースへの出走予定も組まれていた。

 

「次のOP戦で2着以上になれなければ、別のレースにも出なければならなくなるだろう。目標まで余計なレースに出ている余裕はない。そのことを肝に銘じておけ」

「わかりました」

「よし。ならもう行け。なるべく身体は冷やさず、控え室でのクールダウンも忘れるな。ライブでの過度なパフォーマンスも厳禁だ。インタビューに関しては任せるが、今後の出走予定は未定だと言うように」

 

 差し出されたジャージを受けとりながら、石上の指示を頭に叩き込んだアキが振り返る。

 ウィナーズサークルからメディアの待つ表彰台へ移動しようと足を踏み出して――。

 

 直後、耳にか細い声が届いた。

 

「何を、言っているんですか……」

 

 振り向いた先ではリーが見たことのない顔をしていた。

 見たことのない表情で石上を見据えて、開いたままの唇から震え声が零れる。

 

「余計なレース? 過度なパフォーマンスは厳禁? アキちゃん、どういうこと。この人は何を言っているの」

「先輩……」

 

 彼女の疑問もわからないではない。

 トゥインクルシリーズに挑むウマ娘にとっては一戦一戦が大事なレースであり、ウィニングライブは応援してくれるファンへ晴れ姿を届ける舞台だ。石上の口にした言葉はそれを否定するもので、当然だがあまり褒められた言動ではない。

 

 だが、それはアキの夢の為なのだ。

 一度でもいいから重賞で勝ちたいと言ったアキの願いを叶えるため、石上は力を尽くすと言った。事実、石上の教えがなければこの未勝利戦に勝つこともできなかっただろう。

 

「こんな人が、アキちゃんのトレーナーなの? ううん、さっきはトレーナーじゃないって言ってたし、だったらこの人は何の資格があってこんなひどいことを言うの」

「先輩、あの」

「アキちゃん、やっぱりダメよ。こんな人の言うことを聞いちゃいけないわ」

「待ってください、どうしてそんなこと……」

 

 説得を試みるも彼女の耳には入らず。

 ヒートアップした彼女はアキへこう言った。

 

「アキちゃんなら大丈夫よ。ずっと頑張ってきたんだもの。私も協力する。だから……」

 

「やめてください!」

 

 気付けば叫んでいた。

 周囲の人々が何事かと目を向け、それでも頭に血の上ったアキは止まらない。

 

「先輩には、わかりませんよ」

「アキちゃん……?」

 

 困惑する彼女へ詰め寄り、フェンスを挟んで向かい合う。

 

 およそ1メートルの距離。

 けれどアキには彼女がずっと遠くにいるように感じられた。

 

「わかるわけない。努力が成果に繋がった、頑張った分だけ結果を出してきた先輩には、勝てない私の気持ちなんて絶対にわからない!」

 

 吐き出す内に声は大きくなっていった。

 目と鼻が熱くなって、湧き上がる衝動はアキの中で煮え滾っていった。

 

「私は、諦めたくない! どうなったっていいから勝ちたいって、先輩みたいに勝ちたいって思ったのに! それを、先輩が邪魔するんですか!」

 

 感情を眼差しに乗せて、想いを叩きつけて、そうしてから初めて彼女の顔が目に入った。

 

「ごめん、なさい……。そんなつもりじゃ……」

 

 焦ったような、怯えたような彼女を見て、アキの頭が急速に冷えていく。

 

 言い過ぎたと思っても吐いた言葉は取り消せなくて。

 素直に謝れるほど抱いた本音に嘘はつけなかった。

 

「……もう、口を挟まないでください」

 

 口を衝いて出たのはそんな言葉で。

 背を向けたアキは表情を繕って表彰台へと足を繰り出した。

 

 残されたリーは手こそ伸ばしたものの追いかけることはできず、アキの去った後で力なくその場に立ち尽くした。

 

 一部始終を見ていた石上は表情を変えず、リーを一瞥だけして手帳に目を戻す。

書き込む途中で一瞬だけ手を止め、隅に小さく走り書きを残していた。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 初勝利を飾ったアキはその後、徹底的なまでに石上の指示へ従うようになった。

 

 朝は日の出前に起きて入念に身体を解し、寮の玄関が開いた直後から朝練へ繰り出す。

 朝練を終えると汗を流して朝食を取り、午前の授業の後は昼食を手早く済ませてプールで指定の本数を泳いだ。

 午後の授業を終えてからはコースへ出てのトレーニングだ。ダートや坂路といったコースを利用し、筋力と持久力をメインに鍛えていく。

 時間いっぱいまで濃密な練習を積み、夕食と入浴を終えた後は柔軟とアイシングでケアをする。

 眠るまでの1時間余りで課題を済ませ、22時半までには眠りに就いた。

 

 ほとんどの時間で石上の指示を受けながら、淡々とトレーニングを積む毎日。

 初めて勝利したレース以降リーとの会話はほとんどなく、時折話しかけてくれる彼女へも素気なく返すことしかできなかった。

 

 嫌いになったわけではない。恨んでいるつもりもない。

 ただ、愛想笑いを浮かべる彼女を見ると嫌でもあの日を思い出して、どうしても意固地になってしまうのだ。無邪気な信頼が苦しくて、応えられなかった自分が悔しかった。

 

 追い立てられるようにトレーニングへ打ち込んだ甲斐もあってか、タイムは日に日に良くなっていった。

 辛く苦しい練習も、結果が出ていれば耐えられる。自分で決めた目標のために、アキは脇目も振らず、痛々しいほど懸命に走っていた。

 

 

 

 そうして1か月ほどが経った頃。

 週に一度の学園訪問日に、石上は一枚の用紙を差し出してきた。

 

「再来週のOP戦の出走者が発表された。目を通しておけ」

 

 言われて用紙を手に取る。

 名前だけが箇条書きにされた中には見知った名前がいくつもあった。

 

 メイクデビューや未勝利戦を勝ち、アキよりも早くにOP戦へ挑んできた同期たち。

 上から順に名前を追っていたアキの目が、最後の一つでハタと止まる。

 

 《サイレンススズカ》――。アキと同じ学年の生徒で、同期デビュー組の中でも傑出した能力を持つとされるウマ娘の名前だった。

 

 年明けという遅めのデビュー戦で驚異の7バ身差を付けての圧勝。それもスタート直後から終始先頭を走っての逃げ切り勝ちだ。

 先々週の弥生賞ではゲートから出てしまうアクシデントがあり、クラシック戦線への不安が噂された彼女だが、実力だけなら同期デビューの中でもトップクラス。そんな彼女がなぜ重賞ですらないレースに出走するのか。

 

 答えは石上の口からもたらされた。

 

「レースの雰囲気に慣れさせるためだろう。本番のゲートに慣れることに加え、距離を伸ばすことでダービーへ向けた試運転の位置付けにしたと、そんなところだろうな」

 

 石上の口調は軽く、さして気に留めた様子はない。

 しかし語られた内容は到底看過できるものではなく、アキを震えさせるには十分すぎるものだった。

 

 ゲートに慣れるため。ダービーへの試運転。

 そんな目的で、あろうことかアキの命運が懸かったレースへ流れてきた。

 

 一覧表をベンチへ置いて、アキは黙したまま天を仰ぐ。

 この期に及んで、運命はアキを蹴落としに来たらしい。2着以内に入らなければいけないレースで、1着の枠は既に埋まったも同然なのだ。残る一つの椅子をアキは名立たる同期たちと奪い合わなければならない。

 

 冬の気配が残る冷たく乾いた風が足元を吹き抜けていった。

 剝き出しの肌に冷風が刺さり赤く染まる。握った拳が震えて、けれど声も涙も出てこなかった。頭の片隅に、そんな無駄なことをしている暇はないと囁く誰かがいた。

 

 

 

 

 

 

 迎えたOPレース本番。

 晴天に恵まれた中山レース場は、サイレンススズカの名を呼ぶ声で溢れていた。

 

 普段であれば客席もまばらになるのがOPレースの常識。

 しかしこの日は満員に近い盛況で、そのほとんどの目がたった一人へ注がれていた。

 

 落ち着き払った立ち姿は風のように軽やかで、飄々としているのにどこか怖いと感じた。

 穏やかな微笑みは余裕の表れか、緊張とは無縁とばかりにターフを眺めている。

 

 13人で行われるレースにあって、サイレンススズカは圧倒的な1番人気に推されていた。

 

 観客の期待は彼女がどんな走りを魅せるかの一点のみだろう。

 他のウマ娘は有象無象に過ぎず、一部の身内を除けば見向きもされない。

 アキがどんな覚悟を持って走ろうと、彼らにとっては関係のないことなのだ。

 

 そこまで考えたところで、アキは我に返って首を振る。

 

 余計なことは考えるな。彼女がどれだけ注目を集めようと関係ない。

 このレースで2着以内に入れなければ重賞制覇の夢は遠くなるのだ。石上が言っていたように、別のレースへ出ることになればそれだけトレーニングの時間が減ってしまう。

 

 なんとしても2着以内に入らなければ。

 両手で頬を叩いて雑念を追いやり、ゲートの開く瞬間を待ち構える。

 

 内枠から飛び出したアキは、道中を3番手の好位で進めた。

 

 このレースは目標とするセントライト記念と同じ2200mの右回り。

 中山のこの距離でのレースに特化したトレーニングを積むアキにとっては好材料の多いレース――そのはずだった。

 

 才能の差は容赦なくアキへと襲い掛かった。

 

『各ウマ娘、最終コーナーをカーブして直線コースに入ります! さあ、中山の直線は短いぞ。後ろの娘たちは間に合うか!』

 

 逃げるサイレンススズカに必死で食らいつき、2番手で直線へ駆け入る。

 中団から3バ身程のリードを保ったまま、坂の手前でアキは彼女の1バ身半差にまで迫った。

 

『先頭はサイレンススズカ! 2番手アキノリュウセイが距離を詰めてきた! 後続も徐々に進出し、前の2人を追いかける!』

 

 サイレンススズカとの差は徐々に詰まり、後続との距離は変わらず3バ身あった。

 坂路でのトレーニングは山ほど繰り返してきた。中山名物の急坂も、アキにとっては後続の接近を凌ぐ盾となるはず。

 

(このまま粘り続ければ、きっと……!)

 

 そうして残り200mを過ぎ、坂の入り口へ足を踏み入れた瞬間――。

 

 背筋が凍るような悪寒が走った。

 

『おっと、ここでサイレンススズカが更に加速した!』

 

 突如膨れ上がった緊張感。実況の声と共に大きな歓声が耳に入った。

 身も凍るような威圧感が前方から押し寄せて、一歩踏み出すごとに離れていった。

 

 追いかけろ。追いかけろ。追いかけろ!

 追わないと。付いていかないと。何が何でも足を繰り出さないと……。

 

 無我夢中で追いかけるアキを、けれど彼女はあっという間に置き去りにしていった。

 

『サイレンススズカ! 強い、強すぎる! 坂の途中で尚も加速し、見る見る内に後続を引き離していく!』

 

 経験したことのない速さだった。

 まるでこちらが止まっているかのような、圧倒的な瞬発力。

 

 追いつけない。勾配を踏みしめ、速度を上げたその一歩でわかった。

 

『やはり、やはり強いぞサイレンススズカ! 2番手アキノリュウセイとの差を4バ身、5バ身と開いていく。余力を残したまま、今ゴールイン! 圧巻の勝利だ!』

 

 サイレンススズカに遅れること、およそ1秒。

 間近に迫った3番手をどうにか振り切って、アキは2着へと滑り込んだ。

 

『勝ったのはサイレンススズカ。7バ身差を付けての圧勝です。2着にはアキノリュウセイ。クビ差3着にハルカナコウウが入りました』

 

 全力を出した苦しみに喘ぎながら、アキはそっと視線を上げる。

 

 先頭で駆け抜けたサイレンススズカは軽やかな足取りでクールダウンをしつつ、観客の歓声に応えていた。あまり息が上がっていないのを見るに、全力を出したのかどうかすらわからない。

 

 悔しいとすら思えない差がそこにはあった。

 

 名門の出とはいえ、同い年の相手に指先一つ届かない。

 クラシックを彩る逸材とはこれほどなのかと、悔しさを通り超え、いっそ尊敬すら覚えた。

 

 あれほどの才能があって初めて『挑める』ものなのだ。

 にもかかわらず同じ場所に立ちたいなどと、分不相応にも程がある。

 

 圧倒的な才能を目の当たりにして、アキの心には脆く(ひび)が走っていた。

 

 

 

 

 

 

 スタンドの最前列、関係者観覧席の一角で、石上は相変わらずの能面を湛えていた。

 

「ご苦労だった。サイレンススズカという格上がいる中で目標を達成できたのは、ここまでの努力の賜物だろう。これで秋の重賞への出走条件は満たせた。順調そのものと思ってもらって構わない」

 

 淡々と成果を語る石上に、けれどアキは眉を顰めたまま俯いていた。

 様子の違いに石上も気が付き、手帳から目を外して問いかける。

 

「どうした? どこか痛むのか?」

 

 真っ先に怪我を疑う辺り、オーバーワークを自覚しているのだろう。

 或いは過去にそうせざるを得ない経験をしているのか。

 

 けれどアキは俯いたまま石上を見ることもなく、消え入るような声を零した。

 

「……本当に、勝てるんでしょうか」

 

 歓声に溶けかねない声を器用に拾い上げ、石上が目を細める。

 

「重賞の、それもG2ともなれば、相応の実力あるウマ娘が出てきますよね。彼女ほどじゃないとしても、その娘たちはみんな私よりも才能に恵まれたウマ娘のはずです」

 

 反問の投げられないことに耐えかね、アキはゆっくりと震える声で吐露する。

 段々と声は大きくなり、同じだけ震えも強くなっていった。

 

「サイレンススズカさんに引き離されたとき、わかったんです。どれだけ練習を積んでも、脚が壊れるまで頑張ったとしても、彼女のスピードには追いつけないって」

 

 それが才能の差だと、石上は以前から言っていた。

 

 名門と寒門。それぞれのウマ娘の間には、厳然たる才能の差がある。

 それは筋繊維のバランスや質から生じるトップスピードの差であり、スタミナの基となる心肺機能の差であり、恵まれた体格から繰り出される筋力の差であると。

 

 重賞の、それもG1へ挑むようなウマ娘は皆これらの才能を有していて、その上で更に特定の才能にも秀でている。

 寒門どころかぽっと出のアキがまともに太刀打ちできるはずもなく、だからこそアキは未来を擲って挑むと決めたのだ。

 

 けれどもし、そうまでしても差が埋まらないとしたら。

 

「重賞で勝てるウマ娘は、みんなあれぐらいのスピードを持ってるんですよね。ううん、今日の彼女は本気じゃなかったんだから、もっと速い娘もたくさんいる。そんな娘たちを相手にして、私なんかが勝てるわけ……」

 

 未勝利戦を勝って、トレーニング毎にタイムは良くなって、どこか楽観していた。

 そもそも自分には才能がないのだと、そんな当たり前のことすら忘れかけていた。

 

 限界を超えて自身を追い詰めながら、それでも耐えてこられたのは希望があったからだ。

 明確な差を見せつけられて、微かなその光の間にはいくつもの壁があると悟った。

 

 傷だらけになりながらも独り進んできたアキは、最早限界を迎えていた。

 

「では、諦めるか?」

「っ……」

 

 縋るように言ったアキへ、石上は冷淡なまでに言った。

 

「今ならまだ取り返しがつくだろう。以降のトレーニングを止めて療養に努めれば、少なくとも日常生活において走れなくなるようなことにはならない」

 

 ある意味で、それは救済だった。

 底の見えない崖へ飛ぼうとするアキの手を引く、耽美な言葉だった。

 

「ご両親は喜ぶだろう。無茶な挑戦を諦めて引退すれば、今後の人生は普通に過ごしていける。叶うかわからない夢を追いかけて歩けなくなるよりは余程上等だ」

 

 常識的に考えれば、石上の言う通りにするのがいいのだろう。

 

 諦めて、見ないふりをして、普通の人生を送る。

 夢は叶わなくても、「叶っていたかもしれない」と希望を抱き続けることはできる。永遠に叶わない、腐っていくだけの妄想だとしても、生きる糧の一つにはなるはずだ。

 

「結論は2日後に聞こう。元より明日は一日休息に充てる予定だったからな」

 

 石上は結論を急かさなかった。改めて考えろと、言外に促していた。

 

 どちらを選んだとしても彼は淡々と受け入れるだろう。

 惜しまれるよりも、喜ばれるよりも、それはありがたいことだと思えた。

 

「もしも続ける気があるのなら、来週までに併走相手を考えておけ。シニア級の、なるべく重賞経験者が望ましい。こちらでも手配できるよう手は回しておくが、効率を考えるなら君の交友関係の中から選ぶのが妥当だろう」

 

 取ってつけたように言い添えて、石上はアキを控え室へ送り出した。

 ぼんやりと言われたことを反芻しながら、アキは地下バ道へと向かう。

 

 西の空には予報にない暗雲が立ち込め、しめやかな風が雨の気配を運んできていた。

 

 

 

 

 

 

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