たとえ一条の光でも   作:惣名阿万

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後編

 

 

 

 

 

 帰りの途上で降り出した雨は、高速を降りる頃には本降りになっていた。

 

 朝の天気予報になかった俄雨。窓に当たった雫が鏡像の頬を流れ、いつかと同じ涙のように見えた。石上の指導で少しは成長できたと思っていたが、根本の部分は何も変わってなどいなかった。

 

 秋の本番、セントライト記念に出走するための条件を満たすという目的は果たした。石上の言った通り、1着が確定していた中で2着に入れたのは努力してきた成果なのだろう。

 

 けれど、アキは負けたのだ。

 1着ではなく2着だった。それも7バ身という大きな差を付けられての2着だ。

 

 悔しいはずだった。G1にも挑めるような能力がありながら敢えて重賞でもないレースに出てきて、最後まで全力を出すことなく圧勝してしまった彼女が恨めしいはずだった。

 悔しい、はずなのに――。

 

 窓に映った顔は不安に揺れていて、けれど涙は一滴も流れていなかった。

 仕方がないと、そう思ってしまっていた。

 

 サイレンススズカが最後に見せたあのスピード。きつい勾配をものともせず、あっという間に引き離されてしまった。

 ハナを切って逃げていた彼女が、直線に入って尚あれだけの速度を出せるのだ。どれだけ体力がある状態でも、あれだけのスピードを出すことはアキにはできない。

 

 本当に強いウマ娘にはどうやっても勝てないのではないか。

 アキがどれだけのものを費やしても届かないのではないか。

 

 一度過った不安は冷たく淀み、震える身体を抱きしめる。

 

 その時、俯いたアキの目の前へふと紅茶のボトルが差し出された。

 顔を上げると、半ばまで振り返った石上と目が合った。

 

「後ろにブランケットがある。身体を冷やさないようにしておけ」

 

 促されるままにボトルを受け取る。両手に持ったミルクティーは買ったばかりのように温かく、受け取って初めてそこがコンビニエンスストアの駐車場だと気付いた。

 運転席へ座り直した石上はハンカチで髪を拭うとそれを助手席へ放り、一言声を掛けてから車を走らせる。

 

 暗い車内には静かなモーター音だけが流れていた。

 石上が何事かを口にすることはなく、世話を焼かれた負い目がアキを焦らした。

 

 堪らず口を開く。

 

「ありがとうございます。紅茶、頂いちゃって。ブランケットも」

 

 バックミラー越しに石上の目がアキを捉える。

 感情の窺えない瞳がアキを見つめ、いつになくぶっきらぼうな声が聞こえてきた。

 

「担当の体調管理も仕事の内だ。風邪を引かれては今後の予定に差し障るからな」

 

 このまま諦めるかもしれないのに、石上は当然のように『今後』を口にした。

 

 期待や信頼などでないことはわかっている。本人が口にしたように、あくまでも仕事の範疇なのだろう。

 事務的な距離感はけれど、アキにとっては寧ろ心地の良いものだった。託されるものが少なければ、それだけ遺すものも少なくて済むから。

 

 貰ったミルクティーを一口飲む。

 甘い香りと熱が胸に染み入って、長く細い息が漏れた。

 

 窓に映る顔は先程よりも少しだけ色を取り戻していた。

 

 

 

 

 

 

 学園に着いたのは21時を過ぎた頃だった。

 通用口から学園の敷地に入り、校舎寄りの駐車スペースで車が止まる。

 

 礼を述べて降りようとしたアキへ石上は傘を差しだした。見た限り新品のそれもミルクティーと一緒に買ったものだろう。咄嗟に遠慮しかけて、無駄だろうと考え直す。

 もう一度礼を言ってドアを開け、傘を開いて車を降りた。アキが持っている傘よりも二回りは大きなそれを左手に持ち、右肩にはボストンバックを抱えて扉を閉める。

 

 石上の車が走り去るのを見送って、雨粒の跳ねるレンガの上を寮へと向かった。

 

 栗東寮の玄関を潜り、貰った傘を傘立てに立てて靴を脱ぐ。石上のお陰で制服まで濡れるようなことにはならなかったものの、足下だけはさすがに防げなかった。

 靴下までをその場で脱ぎ、脱いだ革靴ごと手に持った。そのまま内履きのスリッパをつっかけ、寮長へ帰寮報告をしてから人のいない廊下を進む。

 

 自室へ入ると、同室のリーが扉の前にいた。

 手提げバックを持っているのを見るに入浴へ向かうところらしい。

 

「あ……お帰りなさい、アキちゃん」

「はい。ただいま、帰りました」

 

 ぎこちなく挨拶を交わして脇に避ける。寮の部屋は学生向けにしてはゆったりとした間取りではあるものの、荷物を持ったまますれ違えるほどの幅はない。

 

 困ったように笑ったリーが礼を口にして、アキの脇を通り抜ける。

 そのとき、彼女の目がアキの手元に落ちた。

 

「もしかして濡れちゃったの?」

 

 普段なら下駄箱に仕舞うはずの靴を手に持って、靴下までも脱いでいれば一目瞭然だった。

 静かな廊下には雨音も流れていて、言い逃れのしようもない。

 

 曖昧に苦笑いを浮かべたアキへ、リーはふっと息を吐くと穏やかに微笑んだ。

 

「お風呂、一緒に行きましょう」

「……はい」

 

 逡巡して、頷く。

 2月の一件以来気まずさが残っているのは確かだが、それにしても彼女の笑みを曇らせるのは本意ではなかった。

 

 道を譲ったリーの脇を抜けて部屋へ入り、手早く準備を整える。

 扉の前で待っていた彼女と一緒に部屋を出て、並んで浴場へと向かった。

 

 

 

 

 

 

「アキちゃんと一緒に入るのは久しぶりね」

「そう、ですね」

 

 一通り身体を洗った後で湯船に浸かる。

 壁に背を預けたアキの隣へリーが腰を下ろした。自分よりも余程女性的な肢体に視線が寄せられ、羨望が顔を覗かせる。

 

 そんなアキの内心も知らず、リーは自身の肌を撫で、その途中でハタと止まった。

 

「その痣、もしかして……」

 

 視線が膝へ向いているのを見て、ハッとしたアキが水音を立てて手を当てた。

 反射的に隠したものの既に遅く、リーの目は心配げに細められた。一か月前の焼き直しになることを恐れたアキが俯き、両手を強く握る。

 

 しかし、アキの予想に反してリーの声は穏やかだった。

 

「アキちゃんが沢山トレーニングをしているのは知ってるわ。朝もすごく早く起きているし、ご飯の間もずっと誰かと電話している。それはきっと、アキちゃんが言っていた『勝ちたい』って気持ちがあるからなのよね?」

 

 頷き、けれど顔を上げることはできないまま答える。

 

「石上さんは、あの人は私を勝たせるために面倒を見てくれているんです」

 

 チームに入れず、トレーナーも付かず、独りで走るしかなかったアキにとって、石上は初めてアキだけを見てくれる存在だった。

 たとえそれが仕事の一つに過ぎないとしても、アキにとっては数少ない味方だったのだ。

 

「初めて会った時に言われたんです。私にはレースで勝てるだけの才能がないって。このままがむしゃらに続けるだけじゃ一度も勝てないだろうって」

「そんなことは……いえ、ごめんなさい」

 

 咄嗟に否定しかけて、けれどリーは口を噤んだ。

 彼女の気遣いを心苦しく思いながら、アキは力なく笑む。

 

「先輩も知ってますよね。デビューしてから一度も勝てないまま一年が過ぎて、トゥインクルシリーズを引退しなくちゃいけなくなった娘が何人もいること。石上さんがいなかったら、私もきっとそうなっていました」

 

 それはトレセン学園で学ぶ生徒なら誰もが知っていること。

 一部の強いウマ娘が輝きを放つその裏で、人知れず起きている残酷な現実。

 トゥインクルシリーズに挑むウマ娘は全員が前者を目指していて、けれど叶えられるのは極一握りだけ。

 

「でも、でもアキちゃんは頑張ってて……」

「頑張るだけじゃ、どうにもならなかったんですよ」

 

 アキはどうしようもない程に後者だった。

 石上に会ったことで道は続いたものの、脆く崩れかけた道の果てには崖しかない。

 

「頑張ってるのはみんな一緒です。誰だって勝ちたくて努力して、自分にできる精一杯でレースに臨んでる。でも、1着になれるのは1人だけなんです」

 

 それでも、見たい景色があったのだ。

 崖の先端、或いは飛び下りなければ見られない景色を、見たいと思った。

 

「私は、どうしても勝ちたかった。一回でもいいから華やかなターフに立って、勝ちたかったんです。たとえその一回を最後に走れなくなったとしても」

 

 絞り出すように語るアキの横顔を、リーは涙を堪えて見つめていた。

 

「…………それが、その痣の理由なの?」

 

 どうにか訊ねたその問いに、アキは苦笑いで応じた。

 

「先生やたづなさんには黙っていてもらえますか。こんなことがバレたら多分、止められちゃうから」

「それは、そうよ。アキちゃんの将来のためだもの」

 

 縋るように言ったリーへ、アキは小さく首を振る。

 

 

 

「将来なんていらないんです。私は今、この瞬間に、勝ちが欲しい」

 

 

 

 答えて、頷いたそのとき、不思議なほどに腑に落ちた。

 

「……そっか。そうだったんだ」

 

 どうして忘れていたんだろうか。

 どうして今さら壁の高さなんかを怖がっていたんだろうか。

 

 そんなこと、初めからわかっていたじゃないか。

 

「ありがとうございます、リー先輩。お陰で大事なことを思い出せました」

 

 彼女と話して、自分の気持ちを見つめ直して、改めて思った。

 

「私は、勝ちたいんです。何があっても、どんなに難しくても、絶対に勝ちたい」

 

 思い出すことができたのはきっと、彼女がきっかけだったから。

 

「先輩がそうだったように。重賞で、ターフの上で、たくさんの人たちの前で勝ちたい。そのためなら何だってやるし、後でどうなったって構わない」

 

 確かに頷いたアキへ、リーは何度も問いかける。

 

「一日中あの人に指示をされても?」

「はい」

「レースやライブを楽しめなくても?」

「はい」

「……怪我をして走れなくなっても?」

「はい」

 

 間断なく頷いたアキを見て、その意志を受け取って、リーは小さく息を吐く。

 

「…………そう。わかった。ううん、本当は納得なんてできないけど、でもアキちゃんがそこまで言うんだったら、どうあれ私は応援する」

「ありがとうございます、先輩」

 

 久しぶりに屈託なく笑ったアキに、リーも思わず笑みを零した。

 

「せめて何か手伝えることはない? ずっとってわけにはいかないけど、出来る限りアキちゃんの力になるから」

「ありがとうございます。でしたら、先輩にお願いしたいんですが――」

 

 

 

 

 

 

 その夜、二人の会話が途切れることはなかった。

 

 すれ違っていた時間を埋めるように。

 日付が変わるまで話をして、隣り合って眠りに就いた。

 目が覚めた翌日もゆっくりと寮で過ごし、穏やかなまま週明けを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 月曜日の午後。授業を終えたアキはリーを連れて集合場所へと向かった。

 石上はすでにトレーニングの用意を済ませていて、リーの姿を見ると僅かに眉を揺らした。

 

「ローズフェアリー、か。先週の日経賞に勝利し、通算勝利数は6勝。G2で3勝を収めたシニア級ウマ娘。君の同室なのだったな?」

 

 アキが力強く頷く。その目に過日の迷いはなく、契約を結んだ時以上の覚悟が窺えた。

 

 そのままアキの隣へ目を移す。

 

 2月の勝利の後、アキとリーが言い合う姿は目の当たりにしていた。

 修復困難なすれ違いを起こした二人だ。アキが連れてきたとはいえ、リーの方に協力の意志がないのであれば無理強いはできない。

 

 反発は根深いだろうと予想していた石上はしかし、真摯な表情で「協力します」と言い放つ彼女に目を見張った。

 成り行きとは到底思えない眼差しに、石上もようやく腹を括る。

 

「いいだろう。併走相手としても申し分ない。では早速だが、一本走ってみてくれ」

 

 言って二人を坂路へ送り出す。

 

 笑顔さえ浮かべて並ぶ二人を見て、石上はふっと苦笑いを浮かべた。

 

「大人しく折れておけばいいものを。まったく……」

 

 脳裏に過った光景にため息を吐き、一度だけちらと本棟へ目を向けていた。

 

 

 

 

 

 

 初めての併走を終え、息も絶え絶えなアキをリーは複雑な表情で見つめる。

 

「ハァ……ハァ……リー先輩、ありがとう……ございました」

「え、ええ……」

 

 本気で走ったつもりはない。同じシニア級ならともかく、アキは未だクラシック級だ。能力に差があるのは当然で、だからこそ彼女はアキの全力に合わせて走っていた。

 そうだとしても――。

 

(アキちゃん、貴女は……)

 

 物足りないと思った。思ってしまった。

 面倒見の良い彼女はアキ以外にも併走を依頼されたことがあり、その中にはアキと同じクラシック級のウマ娘もいた。その娘たちと比べても、アキのスピードは足りないのだ。

 

 ここに至り、ローズフェアリーはようやく理解した。

 

 初めて未勝利戦に勝ったとき、アキが何故あれほどまでに激昂したのか。

 共に走ったからこそ、その一端を肌で感じた。

 

 これがアキの全力なら、重賞で勝つのは難しいだろう。掲示板に残るのも厳しいかもしれない。血の滲むような努力を経て尚、アキよりも速い娘は数多くいる。

 

 そうまでして何故走るのか。

 走れなくなってまで挑むことに意味があるのか。

 

 喉まで出掛かった問いを呑み込み、彼女はアキへ手を伸ばした。

 

「――さあ立って、アキちゃん。少し休憩したら、もう一度走りましょう」

 

 声が震えそうになるのを堪えてアキの手を掴み、引っ張り起こす。

 アキがどんな想いで走っているのか知った今、それを無下にするようなことは二度と口にしたくはなかった。

 

 頷くアキを見て、リーは微笑む。

 自分よりも小さなアキが抱いた覚悟に、リーは今度こそ支えになることを誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 リーの支えを得たアキは石上の指導の下、これまで以上にトレーニングへ打ち込んだ。

 

 時に感心され、時に称賛され、それ以上に後ろ指を指されながら、アキは自身を追い込んでいった。

 

 オーバーワークに悲鳴を上げる身体を騙しながら、効率を徹底したトレーニングで自らを鍛える。

 

 食事すらも身体づくりに最適化して、起きている時間のほとんどを一つの目的に捧げた。

 

 梅雨が明け、夏が過ぎ、秋を迎えても尚、アキの意志は揺らぐことはなかった。

 

 

 

 終わりへと至るその道程は、ついに最後の一歩を迎える。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 金属製のゲートを叩く雨音が、アキの意識を現実へと引き戻した。

 

 まだ半年も経っていないというのに、もうずっと前のことのような気がしていた。

 

 辛く苦しく、それでも充実していた毎日。

 もう一度やれと言われればごめんだが、代わりに後悔も一切ない。

 

 尊敬する先輩に支えられ、頼りになる指導者に鍛えられて、ここまで来た。

 

 パドックへ向かう直前、控え室を訪れた石上は契約満了を告げ、一言だけを残して部屋を出ていった。

 

『君の覚悟と意志に敬意を表する。8か月の間、よく頑張った』

 

 愛想のない石上が、最後の一瞬だけ笑みを浮かべたのには驚いたものだ。

 振り向く直前、悔しげな表情をしたのも見えていた。彼が過去にどんな経験をしたのかはわからないが、自分のことまで引き摺るようなことはしないで欲しいとアキは思った。

 

 恐らく、石上は既に船橋(ここ)にはいないだろう。事態の収拾と火消しの手配をした上で、自身は姿を隠すと言っていた。

 自分の我儘のために迷惑を掛けるのは心苦しいが、石上曰くそれも仕事の内らしい。

 

 いつかお礼を言える日が来るだろうか。

 何気なくそう考えたところで係員が両脇に抜け、雨音を破るように拡声された音が届く。

 

『枠入り終了。各ウマ娘、態勢整いました』

 

 導かれるように右脚を引いてスタートの構えを取った。

 

 歓声が嘘のように消え、ただターフの緑だけが目に映った。

 音の消えた世界で、降りしきる雨粒さえも緩やかに見える。

 

 合図のないスタートの瞬間。ゲートの開くその一瞬がアキの目にゆっくりと映った。

 

 考えるまでもなく身体が動いた。

 

 前触れなく開いたゲートの間を抜け、柔らかい芝へと踏み出す。

 飛び出したアキの横には誰も居らず、開けた視界と湿った空気が迎え入れた。

 

 数瞬の間を置いて、内から二人が前へ出る。完璧なスタートを切ったアキに焦ったか、ハナを奪うため過剰なスパートで先行していった。

 

 先を走る二人を見ながら、けれどアキは速度を変えなかった。

 石上から何度も言われたことだ。逃げるウマ娘を無理に追う必要はなく、敢えて下がる理由もない。道中は中団へ着け、何よりペースへ気を配るようにと。

 

 中山の2200m外回りはスタート後に直線が続く。名物の急坂も含め、第1コーナーへ入るまでに各々得意な位置を取るのが通例だ。

 ましてや今日は雨でバ場が重い。パワーの要求されるこのコースで、序盤にスタミナを浪費するのは悪手だと教え込まれていた。

 

 先頭から4番手の位置に着け、アキはなだらかな第1、2コーナーの丘を登る。

 ゴール前に聳える急坂と違って傾斜の緩やかな坂だが、重バ場のこの日は長く足を取られる難所へと変わっていた。

 

 半バ身前の内側で表情を歪めるライバルを見て、アキは小さく笑みを浮かべる。

 軽く蹴るだけで前に進む硬い芝と違い、ダートや重バ場で走るにはパワーと何よりコツが要る。この感覚を磨くために石上はダートでのトレーニングを積ませてきたのだ。

 

 丘を登り切り、緩やかな下りに差し掛かった。気を抜けばスピードの出過ぎてしまうこの場所で、芝の柔らかさはより大きく牙を剥く。

 ライバルが足下のぬかるみで普段以上の消耗を強いられる中、アキは悠然と好位を維持していた。呼吸を整え、周囲を確認する余裕すらあるほどだった。

 

 何ということはない。他のウマ娘と違ってアキに余裕があるのは、今日ここで走ることだけに全てを費やしてきたからだ。

 クラシック戦線で戦い続ける彼女たち、ましてや菊花賞への前哨戦として走っているウマ娘とは、積み上げてきた対策の質も量も違う。

 

 秋雨の続いた後の涼しく湿った空気も。

 連日行われたレースと雨による芝の荒れ具合も。

 中山の外回りという比較的珍しいコースと距離も。

 

 全てを味方につけた。そうなるようにトレーニングを重ねた。

 限界を超えて尚愚直に続けてきたのは唯一つ、『重賞で勝ちたい』という夢の為。

 

 通過点の一つに過ぎない他のウマ娘とでは比べものになるはずもなかった。

 厳然たる才能の壁を隔てて余りある差がそこにはあった。

 

 向こう正面の短い直線が終わり、『8』の数字が書かれたハロン棒を通り過ぎて。

 残りの距離と先頭までの差、後続の顔色をも窺って、アキは予定通り勝負に出た。

 

 第3コーナーの途中。下り坂の終わりが見えたその地点で強く地を蹴る。

 

 内を走るウマ娘が目を見張るのがわかった。パワーとスタミナの求められる今日のコンディションで、残り800m近くを残してのスパートはどう考えても早仕掛けが過ぎる。

 

 常識的な判断で追従を躊躇った彼女を置き去りにして、アキは先頭二人へと迫る。

 泥音を立てながら急接近するアキに、前の二人は驚きを露にした。

 

 春先の敗戦を経て、アキは自分がスピードに劣ることを思い知らされた。

 石上曰く、それはどれだけ鍛えても才能がモノを言う部分であり、アキのトップスピードでは後方から追い込むような戦術は取りようがないらしい。

 

 速度で劣るアキがそれでも勝とうと思ったら、できることは一つしかない。

 

 下り勾配で得た速度を利用して逃げる二人へ並び、4角の急カーブで速度を落とした瞬間に抜き去る。速度と遠心力で前に出て、残る直線と坂での根競べに持ち込む。

 

 誰よりも早くスパートを掛け、追いつかれる前にゴールする。

 それがアキに残された唯一の勝ち筋だった。

 

 緩やかな3コーナーから、小回りになる最終4コーナーへ。

 焦ってペースを上げた先頭のウマ娘すらも振り切って、アキが最前に立った。

 

 ぬかるんだ地面を強く踏みしめて、急カーブを駆け抜けていく。

 

 瞬間、内ラチ側の脚に激痛が走った。

 痺れるような、焼けるようなそれを噛み締め、アキはいっそ獰猛に哂う。

 

 今更どうなっても構わない。それこそ最初からわかっていたことだ。

 たとえ健が切れようと、骨が砕けようと、片脚だけになっても走りきる。

 

 だって――勝ちたいから。

 

 勝ちたい。勝ちたい。どうしても勝ちたい。

 

 ここで、この場所で、先輩が勝ったこの中山で、私は勝ちたい。

 

 身の程知らずでも。

 二度と走れなくなっても。

 立ち上がることすらできなくなったとしても。

 

 私は、勝ちたい。

 

 だから――。

 

 

 

「負ける、もんかぁ……!」

 

 

 

 悲鳴を上げる肺を振り絞って、心の底から叫んだ。

 酸欠で狭くなった視界にスタンドが映る。

 

 どよめきと驚きと、それ以上の興奮があった。

 客席にいる人々の視線が全てアキへと集まっていた。

 

 溺れるような苦しさの中、言葉にできない歓喜がアキを貫く。

 

 ずっと、これが欲しかった。

 

 小倉で見た誰かも、同じ部屋の彼女も、眩しい程に輝いて見えた。

 同じものが欲しいと思いながら一度は諦めたそれが、今だけはアキを包んでいた。

 

 幸せな時間はあっという間に過ぎていった。

 

 脚はもうどちらもが悲鳴を上げていて、痛みで視界が漂白されるようだった。

 酸素の足りないせいで視界は狭く、気力だけが身体を前へ運んでいた。

 本能が脚を止めようとして、意地がそれを押し止めていた。

 

 地獄のような夢の時間が終わり――。

 

 ちょうど1バ身の差を付けて、アキは誰よりも早くゴール板を駆け抜けた。

 

 

 

「……勝っ……た……」

 

 

 

 噛み締めた瞬間、限界が訪れた。

 

 全てを出し切ったアキが堪えきれずに倒れ込む。

 痛みと苦しさに意識が遠のき、観客の歓声も悲鳴も最早聞こえなかった。

 

 ぼんやりと薄れてゆく視界の中、ふと空を見上げる。

 降りしきっていた雨はいつの間にか止んでいて、暗い雲に切れ目が走っていた。

 

 差し込んだ光がアキの頬に触れる。

 そっと撫でるようなそれは温かく、耐え難い痛みも柔く溶けていくようで。

 

 

 

 競技者『アキノリュウセイ』の最期は、そんな穏やかなものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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