年の瀬の船橋には澄み切った冬晴れが広がっていた。
頬を刺すような風も温かな陽光が和らげていて、身体を動かさずともあまり寒さは感じない。揃えた両脚はひざ掛けに覆われ、腿の上に両手を組んで飛ばないように抑える。
およそ3か月ぶりの外出だ。医者からは渋られたものの、根気強く説得を続けたお陰で許可を得ることができた。口添えをくれた者がいたことも大きいだろう。一生徒に過ぎないアキを理事長が認識していたことには驚いたが、感謝しているのは間違いない。
胸に残った温かさを抱きながら、ゆっくりと過ぎていく景色を眺める。
国内で1,2を争う知名度を誇るレースだけあって観客の数はあの日とは比べものにならないほど多い。座席のほとんどは既に埋まっていて、出走者が本バ場入りする頃には満員になるだろう。
トレセン学園に入る前から憧れていた最高の舞台。
だが不思議と悔しいとは思わなかった。
夢にまで見たこの場所で、自分は束の間の夢を見ることができた。
あの日、あの瞬間だけは、アキもこの舞台の主役だったのだ。
嬉しさと誇らしさと、ほんの少しの独占欲が顔を覗かせ、アキは笑みを漏らした。
「なんだか嬉しそうですね」
後ろから掛けられた言葉に振り返る。
いつも通りの服装で微笑むたづなと目が合って、アキはこくりと頷いた。
「そうですね。こんなに早くここへ来られるとは思っていませんでしたから。たづなさん、ここまで連れてきてくれてありがとうございます」
レースを観に行きたいと願い出たアキに、世話役を買って出たのはたづなだった。関東の地理に疎い両親に代わって車を運転し、車椅子に乗せたアキをここまで押してきたのだ。
座ったままはにかむアキの姿に一瞬だけ寂しげな表情を浮かべたたづなは、すぐに小さく首を振った。
「それは貴女がしっかりと約束を守ったからですよ。療養に専念して、取材が来ても余計なことは言わない。そう約束していたんですよね?」
石上との契約を言い当てられて、アキは思わず振り返る。
視線の先で、たづなはどこか懐かしむような眼差しを浮かべていた。
「あの人の使いそうな手口ですね。本人は今頃海外にでもいるんじゃないでしょうか」
呆れたように言うたづなを見て、やはり何かあったんだろうと推察する。
初めて石上に会った時も知らない仲ではなかったようだし、あのたづながこうして愚痴にする相手というのも他に知らない。
どこか遠くを見ているようなたづなに、以前は躊躇った疑問を口にした。
「たづなさんと石上さんは、どんなお知り合いなんですか?」
問うと、たづなは苦笑いを浮かべて何事か逡巡し、やがて諦めたように答えた。
「あの人が学園のトレーナーを辞めたきっかけを知っている、というだけですよ」
半ば予想通りの答えに、アキは問いを重ねる。
「トレセン学園のトレーナーだったんですか?」
「短い間だけでしたけどね」
そう言って、たづなは顔を上げた。
雲一つない快晴を見上げ、懐かしむように続きを語り始める。
「初めて担当したウマ娘が怪我をしてしまって、あの人はその責任を取るために学園を去ったんですよ」
どこかで聞いたような語りだしにアキは引っ掛かりを覚えた。
その間にも懐古の吐露は続く。
「先代の理事長は今の理事長以上に多忙で一人一人にまで手が回らず、マスコミが押しかけてくるのを防げなかったんです。セキュリティも今ほど厳重ではなくて、漏れ出た情報から怪我をしたウマ娘が元々怪我をしやすい体質だとわかってしまった」
或いはその件を機にトレセン学園のセキュリティは強化されたのかもしれない。
少なくとも現在は取材も事前申請が大原則で、そこにはアキの知らない背景があるのかもしれないと、思わず身震いした。
「あの怪我は仕方のないことだったんですよ。本人は覚悟の上で走っていましたし、あの人はその娘の想いを汲んだだけだった。でもマスコミは無理を強いて怪我をさせ、引退に追い込んだと責任を追及しました」
当時を知らないアキにもその恐ろしさはわかる気がした。
そして今、アキ自身がそうした憂き目に遭わずにいるのは石上のお陰に他ならない。
「連日押し寄せるマスコミには誰もが迷惑していました。トレーニングにも悪影響が出始めて、けれど完全に追い出すことはできなかった。だからあの人は一方的に謝罪会見を開き、自分だけが責任を被って学園を辞めていったんです」
最後にもう一度空を見上げて、たづなは僅かに口を引き結んだ。
青空のどこかをじっと睨むように見た後、ふっと息を吐いて普段の彼女へ戻る。
「――はい。ということで昔話は終わりです。言っておきますけど、あの人が担当したのは私ではありませんよ。私は『駿川たづな』で、今も昔も理事長の秘書ですから」
念を押すように言ったたづなと目が合って、その奥に秘められた色に納得する。
詰まるところ、その『ウマ娘』は未だ許せずにいるのだろう。石上に対するたづなの態度も、その『ウマ娘』の気持ちを思えばこそなのだ。
「わかりました。お話してくれてありがとうございます」
素直に頷いたアキへ、たづなは満足げな笑みを浮かべる。
「もうすぐレースが始まりますね。行きましょうか」
「はい。お願いします」
止まっていた車輪が動き出して、関係者用の観戦スペースへと向かう。
中山レース場を一望できるそこに着いたその時、選手たちがターフへと姿を現した。
華やかな勝負服に身を包んだ12人のウマ娘たち。
その中には、黄金と黒の薔薇をあしらった『彼女』の姿があった。
● ● ●
『彼女』――ローズフェアリーはアキの憧れだった。
名前の通りに華やかで女性的な容姿も。
優しく穏やかで、それでいて少し天然なところも。
そして、レースの際にだけ見せる怜悧な騎士の如き迫力も。
トレセン学園に入学したその日、初めて寮の部屋で出会った時から、彼女はアキにとって唯一無二の存在だった。
未勝利戦に勝った日にすれ違い、OP戦で負けた日に本音を交わした。
以来彼女はアキの夢を応援してくれた。どれだけ苦しい想いをしても、彼女の支えがあったからこそ乗り越えられた。あの日、怪我をしてからのアキを欠かさず見舞ってくれたのも彼女だ。
そんな彼女も、G1の舞台では勝ち星を得ることができずにいた。
昨年の菊花賞を含めて5戦し、5位入着が2度あるのみ。実力者揃いのシニア級にあって、国内最高の格を持つレースで勝利するのは途方もなく難しいことだった。
けれどこの日、『有馬記念』に挑むにあたって、彼女はアキへ言った。
『アキちゃんさえよければレースを観に来て欲しいの。貴女が観ている前で、貴女が戦った場所で、私は絶対に勝つから。諦めないで走る姿を、アキちゃんに見届けて欲しい』
彼女にそうまで言われて否とは言えなかった。
だからこそアキは担当医への説得を続け、たづなの付き添いの下、ここを訪れることができたのだ。自身が走りきり、そして倒れたこの場所に戻ってこられたのは、すべて尊敬する先輩のお陰だった。
万感の想いで見つめる先で、ローズフェアリーは最高のスタートを切った。
集団前方の好位に着き、機を窺いながら足を溜めている。
優駿の集う有馬記念において、彼女の前評判は高くない。人気も8番手の伏兵扱いで、他に実力も実績も備えたウマ娘は数多くいた。
それでも彼女は一切動じることなく、吞まれることもなく、静かな闘志を纏い先頭を狙っていた。上位人気が揃って後方に控える中、中団5番手からチャンスを待つ。
『残り1000メートルを通過し、各ウマ娘の動きが激しくなってきました。先頭は依然としてニイツクロス。2番手に3バ身を付け、3コーナーのカーブに掛かっていきます』
そうして向こう正面を超え、カーブへ差し掛かる瞬間、彼女は勝負に出る。
春に勝利したアメリカJCCよりも300メートル長いコースで、以前よりも早くにスパートを開始した。
『緩やかなカーブの最中、後続が徐々に差を詰めていく。おっと! ローズフェアリーがここで進出を開始! 残り4ハロンでの早仕掛け、最後まで保つのでしょうか』
普通なら最後までスタミナが保たず、直線の坂で失速してしまうだろう。
伏兵の仕掛けた勝負に後続は動揺し、僅かに歩調が乱れた。それでも歴戦のウマ娘たちはすぐに割り切り、各々の最も得意とするタイミングで勝負に出る。
『さあ4コーナーを回って直線コースに入ります! ここで先頭は早くもローズフェアリー! 逃げるニイツクロスを捉え、坂へと向かっていく! 後続もグングンと差を詰め、ローズフェアリーに迫っていきます!』
その時、一瞬だけ彼女の目がこちらを捉えた気がした。
思わず応援の声が詰まり、気付いたときにはもう彼女は前だけを見ていた。
『内を突いてエアグルーヴ! 外からマーベラスサンデーも伸びてくる! 前はローズフェアリー、粘っている! 大外コットンライトも飛んできた! 残り200を切って中山の坂を12人が駆け登る!』
先陣を切って坂へ踏み込んだ彼女だったが、さすがに国内最高峰のレース、上位人気のウマ娘たちは勢いよく背後に迫っていた。
『マーベラスサンデーとコットンライト、ローズフェアリーを捉え、ついに一騎討ちへ持ち込んだ! エアグルーヴは伸びが苦しい! マーベラスサンデーとコットンライト、勝つのはどっちだ!』
万事休す――。
そう思った矢先、もう一度強く地面を蹴る姿を、アキは確かに見た。
『――いや、まだだ! ローズフェアリーだ! ローズフェアリーが差し返した! 三つ巴の競り合い! 三人共が一歩も譲らない!』
クビ差の内に三人が並ぶ意地のぶつかり合い。
抜きつ抜かれつを繰り返し、縺れるように横一線でゴール板を駆け抜けた。
『そのまま並んで、今、ゴールイン! 勝ったのはマーベラスサンデーか、コットンライトか、はたまたローズフェアリーか。写真判定に入ります』
スタンドがどよめきに包まれる。
客席から見た限りは同着で、三人の内誰が1着でもおかしくはなかった。
胸の高鳴る音が聞こえる。心臓の脈打つ振動が伝わる。
いつの間にか握っていた手は汗が滲んでいて、目の奥の熱が身体を震わせた。
生涯で最も長い1分が過ぎ、ついに掲示板へ数字が灯る。
『出ました! 写真判定の結果、1着はローズフェアリー! 苦戦の続いたG1戦線、初めての制覇が暮れの中山となりました! 2着はコットンライト、3着にマーベラスサンデーです!』
透き通った空へ大歓声が沸き上がった。
人気の差を跳ね返し、不屈の意志で勝利を掴んだ『薔薇の騎士』の名が、年の瀬の日本に響き渡る。
立ち上がって手を叩く人々の中、同じように手を叩くアキの目から涙が溢れた。
頬を伝って落ちた雫は膝に落ち、アキ自身も気付かぬほどに小さく震えていた。
星明りの下、スポットライトに照らされた少女が一人。
黄金と黒の薔薇を胸に抱き、艶めく尾を揺らして彼女は微笑む。
「レースに携わる全ての方々に。
応援をくださったファンの皆さんに。
諦めないことの苦しさと大切さを教えてくれたあの
心からの感謝と共に、この歌を捧げます」
数多に広がる綺羅星の中、流星のように儚く輝いた『少女』へ向けて――。
「聞いてください。――『ユメヲカケル!』」
万感の想いを込めて歌うその姿は、後に一つの奇跡をもたらした。