秋のGⅠ戦線は実にタイトなスケジュールである。俗にシニア三冠と呼ばれる秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念は間隔がそれぞれ約1ヵ月ほどしかなく、調整には細心の注意を払う必要がある。
(疲れはなさそうだな。あのラストスパートは気がかりだったが……)
上がり3ハロンのタイムは過去最速だった。バ場が良かったというのもあるが、速すぎるタイムはトレーナーにとっては、あまり嬉しいものではないのだ。
なにせウマ娘の脚は、ガラスの脚と言われるほどに脆い。強すぎる負荷は、いつ故障を誘発してもおかしくない。
(やはりオグリキャップは特別か)
同じ葦毛というだけではなく、タマモクロス曰く、何か運命的なものを感じるらしい。それで気分が昂揚したのだろう。
(しかしさすがにジャパンカップ、錚々たる面子だ)
思考を天皇賞から、次走のジャパンカップへと移す。目の前のPCモニターには参加ウマ娘たちのデータが映し出されていた。
(本命は言わずもがな、凱旋門賞を制したトニビアンカか)
どの雑誌も彼女を本命としている。日本勢はどれだけ彼女に食らいつけるか。来日してからは軽めの調整らしいが、高松はこれを訝しんでいた。
(もしかしたら調整が上手くいってないのかもしれない。それとも、マスコミに隠れて追い込んでいるとか? 凱旋門賞制覇が逆に重石になっている可能性があるな)
当然ながら、フランスと日本の芝は違う。むしろ、世界的に見れば日本の芝はかなり特異なケースとなるだろう。それくらい、日本の芝は世界的にも稀な高速芝だ。
(どちらにしろ、彼女は王道的なレースを好むだろう。むしろ警戒すべきは、こっちかもしれん)
データをアメリカ代表のウマ娘へと切り替える。
ミシェルマイベイビー。身長195cmの恵体のウマ娘。タマモクロスとは、文字通り大人と子供ほどの差がある。
(直接ぶつかれば、簡単に弾き飛ばされるだろうな)
体幹うんぬんのレベルではない。単純にパワーが違う。彼女は勝利数こそ少ないが、入着の回数は多い。侮って良い相手ではない。特に欧米での
(あとは、ムーンライトルナシーとエラズリープライドか)
ムーンライトルナシーは、どちらかといえばスピードタイプだろう。昨年のジャパンカップは5着に終わったが、東京レース場の芝には合っているかもしれない。
エラズリープライドは
(……よし。基本の策は決まったな)
高松はパソコンの電源を落とし、首をゴキリと鳴らした。
◇
「高松トレーナー! タマモクロスの仕上がりは?」
「万全です」
「トニビアンカ対策は?」
「相手がどんな策を弄しようと、正面から喰い破ります」
「オグリキャップが調子を上げてきています!」
「望むところです」
マスコミの攻勢を、高松は平然と受け流す。歩きながらの取材は、高松が足を止めたことで終わりを告げる。
「ここから先はご遠慮願います。彼女の集中を乱したくないので」
唇に人差し指を当て、マスコミを制止する。彼らが黙ったのを確認して、高松は控え室の扉を開けた。
室内では、タマモクロスがソファに浅く腰掛け、瞑目していた。その身体からはかすかにオーラが漂っているようにも見える。
(間違いなく、過去最高の仕上がり。タマモは絶頂の極みにある)
その光景を見て、高松は身震いした。
「おう、トレーナー。戻ったんか」
「すまない。集中を乱してしまったか?」
「いや、ええねん。いらん心配や」
口調は穏やかだったが、その瞳は爛々と輝いていた。発走が待ちきれないといった感じだろう。
(タマモ、キミほど絶頂とどん底を味わったウマ娘もそうはいまい)
幾多の試練を乗り越え、今のタマモクロスがある。高松は不意に感慨深くなって目頭を押さえた。
「タマモ、最終の策を伝える」
「おう、ドンとこんかい」
「今回は後方に構えよう」
高松は最終の指示をタマモクロスに与える。
「……オグリに追いつけんかもしれんで」
「いや、このレースはオグリキャップも控えるはずだ」
「ほう、その心は?」
タマモクロスは試すように笑みを浮かべて高松に先を促す。
「パドックを見た限りだがな、意欲的なやつらが多そうだ。先行のポジション争いは熾烈なものになるだろう。そこで体力を削られるのはうまくない」
「……なるほどなぁ」
「その上で重要なのが、逃げるウマ娘が出るかどうかだ。早いペースか遅いペースか、見極めた上で仕掛けどころを探ってくれ。こればっかりは指示できん」
「了解や。今さらペース乱すなんてポカはせえへんわ。ほなら、いっちょ世界、獲ってくるわ」
そう言ってタマモクロスは右手を突き出す。高松は小さく笑って、自分も右手を突き出した。お互いの拳がぶつかり合う。
タマモクロスは控え室の扉を開け、ターフに向かって歩き出した。
◇
『本日のメインレース、国際GⅠジャパンカップ! 芝2400M、天候は晴れの良バ場! 本バ場入場です!』
出走ウマ娘たちが次々とターフへと降り立ち、その度に観客席から歓声が上がる。特に、日本勢の登場にひと際大きな声援が上がった。
ゴールドシチー、オグリキャップ、そしてタマモクロス。
『さぁ、ついに登場です。世界の強豪を抑えての堂々1番人気。春シニア三冠を軽々奪取!』
(何が軽々か。好き勝手言いやがる)
高松はアナウンサーの紹介に悪態をつく。楽に勝てたレースなどなかった。どれも厳しい闘いだった。何より、その言い方は他のウマ娘に失礼だろう。
そんな高松の心中など知らず、アナウンサーは紹介を続ける。
『世界へ挑む白い稲妻! タマモクロス!』
彼女が登場した瞬間、海外のウマ娘たちから威圧を込めた視線が送られる。だがタマモクロスはそれを平然と受け流した。
『出走は取り消した2名を除く14名! 全員ゲートに入りました』
スタート前の一瞬の静寂。それが――解放される。
『スタートしました! 正面スタンド前の先行争い! 飛び出したのはロングリブフリー! 外からシャーリースカイも来ています! そしてオグリキャップも前に出ている! 現在4、5番手あたり!』
「なにっ!?」
オグリキャップの先行策に、高松は思わず前のめりになった。
(あの位置は……マズくないか? 後ろにトニビアンカ、後方外にミシェルマイベイビーがいる)
トニビアンカに探られ、ミシェルマイベイビーとはまともにぶつかる可能性がある。
(いや、タマモにとっては悪くないが……。タマモは後方3番手か。少し内よりなのが気になるが、良い位置だ)
そして高松の予想通り、ミシェルマイベイビーがオグリキャップに仕掛ける。
(オグリキャップと並んでも、なおデカいな。オグリキャップも負けてはいないようだが……力に力で対抗するのはスタミナを消耗するだけだぞ。どうやらあれを捌く技術は、まだないようだな)
オグリキャップは、元々駆け引きの上手いウマ娘ではない。押し引きの判断がつきかねているようにも見えた。
結局オグリキャップは、ミシェルマイベイビーのパワーに押されて少し位置を下げた。
向こう正面を通過して、タマモクロスは気づく。
(このペースは、ちょい遅いくらいか?)
みんな機を窺っているのだろう。肉体的な疲労よりも精神的な疲労を感じる。
レースは第3コーナーへと差しかかった。
(さすがは世界でも名うてのウマ娘やんな。抜け出す隙があらへん)
絶妙な位置取りでのコーナーワーク。無理に入り込めば、小躯なタマモクロスは簡単に弾かれるだろう。
そこで生まれるロスを考えると、外に出した方が賢明ではある。
タマモクロスは外に進路を取った。
外から速度を上げ、何人かのウマ娘を追い越す。その中には、宿敵の姿もあった。息は乱れ、疲労の色は濃い。
(同情はせぇへん。作戦をミスった。それだけのことや)
レースに絶対はない。すべてが思い通りにいくレースなどない。
(この程度で沈むんやったら、それまでのことや)
最後のコーナーを曲がり、レースは終盤へと突入する。
『最後の直線に入ります! 先頭はメジロデュレン! トニビアンカはまだ中団か! 大外からタマモクロスが来た!』
(ここや! ここに一切合切! 全部ぶち込む!)
『タマモクロスが一気に来た! 現在先頭! ゴールドシチーは苦しいか! トニビアンカはまだ来ない! オグリキャップ差し返すか! いや内をついて――』
(来たかっ!!)
背中にぞくりとした気配を感じて、タマモクロスは宿敵が迫ってきたのを悟った。
(いや、
前走、秋の天皇賞で感じたプレッシャーとは違う気配に、タマモクロスは肩越しに視線を送った。
(アイツ……かい!?)
『オベイユアマスターだ! オベイユアマスターが来た! オベイユアマスターが内に切り込んで先頭に立った!』
(チィ……ウチとは競り合わんつもりか。けど、逃がさへんで!!)
残りは200mを切ったが、まだ脚は残っている。タマモクロスは残る力を全て注ぎ込み、その末脚を唸らせる。徐々にその差が詰まっていくが、タマモクロスは瞬間的に悟った。
(クビ差……届かへん)
極限まで集中しているからこそ、未来が見えてしまった。
奥歯がギシリと音を立てる。タマモクロスが諦めかけたその時――世界が停止した。
色の消えた世界の中で、奇妙な獣がいた。
目の前に突如として現れたのは、四つ足の獣だった。顔の位置は自分よりも高い場所にある。灰色に近い白の毛色をした、巨大な獣。
首の短いキリン、というのが妥当な表現だろうか。
その巨獣が、じっとこちらを見つめている。
――情けねぇな
「な、なんやとッ!?」
獣が喋ったことも驚きだが、初対面でいきなり罵られ、タマモクロスは面食らった。
――それでも俺かよ
「なんやねん! いきなり現れてワケわからんこと抜かしよって!」
――二度もアメリカ野郎にやられるなんて我慢ならねぇぜ。勝つ気がねぇなら、さっさとその身体よこせよ
「はぁ!? せやからワケわからんっちゅうねん。身体よこせってなんやねんッ!!」
――まあ、んなこと無理なのは分かってんだがよ
ブルルッと盛大なため息を零す。それがまたバカにされているようで、タマモクロスは激昂しかけた。
――おまえの走りはそんなもんじゃねぇだろが。四つ足だろうが二つ足だろうが関係ねぇ。魂に刻まれた走りを思い出せ。
風が吹く。
その風に攫われて、白い獣は消え去った。
世界が、動き出す。
ゴールまで残り50mを切った。この差は覆せないだろう。高松は切歯扼腕したい衝動を必死に押し殺していた。
まさかあのノーマークだったアメリカのウマ娘が、このレースのためだけにずっと三味線をひいていたとは予想だにしていなかった。
(ここまで徹底して情報を隠すとは、向こうが一枚上手だったか。まさかこのレースのために……ここまで……?)
半ば勝利を諦めていた高松だったが、タマモクロスとオベイユアマスターの差が縮まっていることに気づいた。
タマモクロスのフォームが、わずかに変化していることにも。
(
オベイユアマスターの流麗なフォームと、オグリキャップの超前傾フォームの、いいとこどりをしたようなフォームだと感じた。そして直感する。あれこそが、タマモクロスの理想のフォーム、完成系だと。
(この土壇場で掴んだというのか。なんというレース勘)
これまでも、窮地に立たされることで何かを掴むということはあった。追い詰められることで進化する。それがタマモクロスというウマ娘の真価であるのか。
『外からタマモクロスが伸びてくる! 先頭は依然オベイユアマスター! この2人だ! この2人だ! オベイユアマスターが逃げる! 負けられないタマモクロス!』
実況が興奮気味にまくしたてる。ターフを駆ける二筋の軌跡。そして、黒き流星を白い稲妻が喰い破った。
『タマモクロス! タマモクロスです! タマモクロスがわずかに前! タマモクロスがジャパンカップを制しました!!』
◇
「おめでとう。タマモ」
「トレーナー! 聞いてんか! なんかな! 変なんに
タマモクロスは興奮冷めやらぬ様子で、高松のもとに駆け寄ってきた。
「変なん?」
「そや! なんかな……こう……こう……あれ? なんやったっけ?」
「いや、俺に訊かれてもな」
タマモクロスがコテンと首を傾げる。それを見た高松は苦笑した。そして、頭頂に疑問符を浮かべているタマモクロスにタオルとドリンクを渡す。
「まあ、話はあとでゆっくり聞こう。まずはウイニングライブだ」
「ん、せやな。ウチのセンターはもう見飽きたかもしれんけど、ちゃんと見といてや!」
そう言って、タマモクロスは駆けて行く。
結局、彼女が出会った「ナニカ」を思い出すことはなかった。