走ることが好きだった。
そして自分は速いと思っていた。
いつかGⅠレースで優勝するのが夢だった。
日本一のウマ娘になるのが夢だった。
それが難しいと感じたのは、小学校高学年の頃。中央トレセン学園の入学金と授業料と、寮費やその他諸々にかかる合計金額を知った時。これは無理だと思った。
それでも走ることを諦めきれなかったタマモクロスは、園田のトレセン学園に進学したいと母に告げた。
そしたら母は「とりあえず中央を受けてみたら?」と軽く言った。
受験料だけなら大した金額ではない。それでもタマモクロスにとっては大金だったが、入学金や授業料に比べれば圧倒的に安い。
最初は「どうせ行かへんのやからええねん」と断っていたが、勝手に願書を提出され、記念受験ということでタマモクロスは上京した。
筆記テストと体力テストは、そこそこ上手くいった。面接では緊張してどう答えたか覚えていないが、大きな失敗はなかったと思う。
そして1200メートルのダートでレースを走った。そのコースが選ばれたのは、願書に得意距離を1200メートルのダートを書いたからだ。
その頃のタマモクロスが走ったことがあるのは、地元の市営レース場だけで、そこが1200メートルのダートコースだったからだ。芝コースを走ったことは一度もなかった。
結果は10人中4着と、何とも言えない結果だった。
受験生のレベルの高さを感じながら、内心でこれはあかんなと諦めていた。だがどういうわけか、タマモクロスに届いたのは合格通知だった。
タマモクロスは三度書類を確認して頬をつねってみたが、間違いなくそれは合格通知だった。だが喜んでばかりもいられない。家の経済事情を考えれば、中央のトレセン学園に進むのは現実的ではない。
タマモクロスはやんわりと母に断りを入れた。
だが「子供がそんなこと心配すな!」とゲンコツを落とされてしまった。
結局タマモクロスは、「お金の当てはある。心配せんでええ」という母の言葉を素直に信じて、中央トレセン学園に入学した。
そこからは苦難の連続だった。地元では負け知らずだった自分が、クラスでは下から数えた方が早いくらいに遅い。
コースを変えてみたり、
あっという間に一年が過ぎた。
クラスメイトの大半がトレーナー契約を済ませていた。それが羨ましくて、悔しくて、情けなくて仕方がなかった。
練習方法が間違っているのかとも思い、トレーナーを得たクラスメイトに練習メニューを聞いて、それを真似てみたこともあった。
お盆には帰らなかった。正月にも帰らなかった。家族に顔を合わせるのが怖かった。
春になった。2年生で最後の選抜レース。ここで1着を取る。取れなければ、道はさらに苦しくなる。
結果は3着だった。逃げるウマ娘を差せず、後ろからきたウマ娘に抜かされる。
相手が
タマモクロスは放心したようにコースの脇へと腰を下ろした。
どれくらいの時間、そうしていたのか。聞こえてきたのは、トレーナーたちの声だった。
『あの人、まだフリーなのかな。実績はあるんだろう?』
『前に担当した子は、GⅡをいくつか取ったって聞いたわ』
『俺は担当したウマ娘全員が重賞を取ったって聞いたぞ』
『全員? それってGⅠも?』
『いや、そこまでは……』
本人たちはひそひそ話のつもりだったのだろうが、ウマ娘の聴覚はしっかりと言葉を捉えていた。
渦中の人に目を向ける。そこにいたのは、これといった特徴のない男性だった。とても敏腕トレーナーには見えないが、タマモクロスはこれが最後のチャンスだと思い、意を決して彼に近づいていった。
「……ここは……?」
「ほれ」
「あ? ああ、おおきに」
上半身を起こし、差し出されたマグカップを受け取る。甘い香りが鼻孔をくすぐった。口に含むと温かさが広がり、胃の腑にスルリと落ちていく。
タマモクロスはホッとため息をついて、マグカップを脇のテーブルに置いた。
「いや、ココアが飲みたいわけちゃうねん! って
「全身打撲だ。幸いにも骨折はなく、脳波にも異常はなかった」
そう言われて、タマモクロスはようやく事態を呑み込めたようだ。
「
「ああ、そういうことだ。今日は病院に泊まって、明日もう一度検査する。それで何もなければ退院だ。それと、お母さんから連絡があったから、あとで電話してやれ」
「お
「心配してたぞ」
「……そっか」
後方に構えていたのは、不幸中の幸いでもあった。巻き添えは最小限で済んだし、後ろから来るウマ娘に踏まれるようなこともなかった。
尤も、前方にいれば事故に巻き込まれることもなかったのだが、それを言い出せば切りがない。
極端な話、このレースに出走しなければ怪我をすることもなかった。
(俺の欲深が招いた結果か)
GⅠレースで優勝することは、ウマ娘としてもトレーナーとしても目標のひとつである。それに焦点を合わせて、このレースを選んだ。GⅡやGⅢを目標にしていれば、このレースは選ばなかったかもしれない。
高松は謝罪の言葉を口にしようとしたが、結局はやめることにした。それで満足するのは自分だけで、タマモクロスはさらに気に病むだろう。そういう優しい子だと、高松は思っていた。
(幸い怪我の程度は重くない。切り替えていこう)
「また明日来るから、おとなしく寝るように。何かあったら我慢せずにナースコールしろよ。食べ物と飲み物ならその棚に入れてある。欲しい物があったら売店で買え。ここはトレセン学園と提携している病院だから、
「わーかった。一晩泊まるくらいで大げさなんや。ガキとちゃうねんから」
「ふっ、そうか。じゃあまた明日な。おやすみ」
「うん。おやすみ」
彼女の笑みを見て、高松は安堵して病室をあとにした。
だが彼は気づいていなかった。タマモクロス本人でさえも。
悲劇の足音に。絶望の気配に。