とある葦毛のウマ娘   作:乾燥海藻類

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第09話 絶望の沼

「どうしようもない愚か者だ! 俺は!」

 

握りしめた拳から血が流れることにも構わず、高松は呪詛を吐くように続けた。

 

「認めないだけで改善するとでも思ったのか! すぐに治療するべきだった! ルドルフ会長に土下座をしてでも助けを乞うべきだった! 無能の極みだ!」

 

必要なのは心理カウンセラーか精神科医か。ともかく高松の手に余ることは確かだった。

喉の渇きを覚えて、テーブルのペットボトルをひったくるように手元に寄せる。

 

「クソッ!!」

 

空になったペットボトルが、握力に負けてベコリと音を立てる。

とそこで、ポケットのスマホが着信を告げる音を奏で始めた。相手はつい先ほど口にしたウマ娘だった。

自分を落ち着けるようにゆっくりと深呼吸をして、通話状態にする。

 

「ちょうど、貴女に連絡しようと思っていたところです」

 

そこで言葉を区切った。これから口にする言葉は、交渉でも取引でもなく、ただの懇願だ。

 

「……助けて下さい」

 

高松は恥も外聞もなくそう言った。

 

 

 

 

 

道が(ひら)いた。

彼と、高松とトレーナー契約を結んだ時、タマモクロスは確かにそう思った。

考え抜かれた練習メニュー、レース理論、肉体のケア。なるほど、これはみんながトレーナーを欲しがるわけだと(せつ)に感じた。

 

自分は速くなっている。自分は強くなっている。

模擬レースの結果がそれを物語っていた。

お盆に帰省した時に良い報告が出来ると心が躍った。

だが実際に帰省してみると、予想だにしないことが起こっていた。

体調を崩した母が入院していたのだ。

 

問題はそれだけではなかった。

母の勤め先の社長が申し訳なさそうに、返済について話したいと言ってきた。

 

『デビューはいつになるのか?』

『賞金が振り込まれるのはレースが終わってすぐなのか?』

『できれば年内にまとまった額がほしい』

 

何のことはない。トレセン学園入学時に母が用意した大金は借金だっただけの話だ。聞くところによると経営がなかなか厳しいようだった。

それを踏まえてタマモクロスが出来ることは、一刻も早くデビューして賞金を得ることしかなかった。

 

無理を言ってデビューを早めて貰った。そして勝った。もう一度勝った。目標金額には達した。しかし今後のためにももう少し稼いでおきたい。

GⅠレースに出ることにした。その前にレースをひとつ走り、差しの練習をするらしい。タマモクロスは気持ちよく応じた。

そこで転倒事故に巻き込まれた。

 

誰が悪いわけでもない。そのウマ娘とて、望んで転倒したわけでも、望んで巻き込んだわけでもなかろう。

怪我も大したことはなかった。謝罪も受け入れた。それで終わったはずだった。だがそれは悪夢の始まりだった。

 

前走でアクシデントはあったが、GⅠレースに出ることに変更はなかった。皐月賞を見据えて、ホープフルステークスに臨む。

スタートは上手くいった。中団前目の好位を狙えるだろう。だがタマモクロスの思惑とは別に、脚はどんどん前に行く。

後ろから聞こえてくる怒号のような足音に急かされるように。

気がつけば(・・・・・)前には誰もいなかった。

 

先頭まで来ても脚は緩まない。後ろから迫ってくる気配が否応なしに不安の影を落とす。

スタートからスパートをかけていたような走りが最後までもつわけがない。背後から迫る暗影を拒絶するように、目をきつく閉じ、耳をペタリと塞ぎ、口を一文字に噤んだ。

気がつけば(・・・・・)レースは終わっていた。

 

ただ調子が悪かっただけ。タマモクロスはそう思っていた。だがその見込みは甘いものだった。

次のレースで、彼女はようやく理解した。

自分は恐れている。転倒することを。巻き込まれることを。バ群に飛び込むことを。

 

 

 

 

 

恐怖症とは特定の対象や状況に対し過剰な恐怖心を抱いている状態をさす。

治療には薬物療法と心理療法があるが、基本的には心理療法の行動療法(暴露療法)となる。

例えば高所恐怖症では、2階の窓から外を眺める。それを克服したら3階から、続けて4階からと、程度の低いものから順番に慣らしていくといった具合だ。

 

バ群恐怖症の場合は、まずは2人の間に突っ込むことだが、これには問題がある。

タマモクロスは併走や模擬レースは普通に行えるのだ。レースという特殊な空間でのみバ群恐怖症は発症する。それが治療を面倒にしていた。

そう都合良く少人数のレースなどないし、あったとしても治療に都合の良い状況になる保証はない。

 

また恐怖症にかぎらず、病気と向き合うことは必要である。

今まさにタマモクロスは自分の病気と向き合っていた。

脳内に設置された円卓には5人のミニタマモクロスが会議を繰り広げている。

 

「こらどうにもならん。引退や引退。引退して地元のネジ工場に就職しよ」

気弱なタマモAが言う。

 

「無茶でもなんでも突っ込めば分かる。なんでも試してみるもんや」

強気なタマモBが言う。

 

「それができんから議論しとんやろ。はき違えるなや」

中立なタマモCが言う。

 

「バ群が苦手ならバ群に入らなければええやんか」

利発なタマモDが言う。

 

「やっぱそれしかないか」

議長のタマモクロスはそう結論付けた。

 

要するに大逃げか追い込み一気で大外から捲るということだ。現実的なのは後者だろう。

タマモクロスは瞳を開いた。

 

 

 

 

 

タマモクロスのバ群恐怖症は日常生活に支障をきたすようなものではなかった。普通に授業を受け、普通に食堂で食事をし、普通にトレーニングをして、普通に模擬レースもやれる。

厄介なものを抱えてしまったが、タマモクロスもクラシックロードを進むと決意した者である。

それに、どうせ試すのなら大舞台の方がいい。

 

「……本気か?」

「本気や。弥生賞に出る」

 

タマモクロスが皐月賞に出走するには賞金額が足りないため、優先出走権を得る必要がある。そのトライアルレースに選んだのは弥生賞だった。

弥生賞は3つあるトライアルレースで最も人気のあるレースだが、今年は少し事情が違っていた。

デビュー前から評判の高かったブロッサムスターが出走するのだ。

 

ブロッサムスターはデビューから2戦を快勝しており、ホープフルステークスでも優勝候補とされていたが、骨膜炎に罹り回避していた。

つまり有力ウマ娘の中で唯一、中山の芝2000mを経験していない。

よって彼女との対決を避けるため、多くのウマ娘は他2つのレースを選ぶだろう。理由は勝率を上げるためだったり、手の内を隠すためだったりと様々だろうが、出走人数が少なめになるのは予想できた。

段階的な治療が実質的に不可能な以上、やむを得ない処置であった。それがまさかGⅡレースとは思わなかったが。

 

そして来たる弥生賞。高松の予想通り、出走人数は9人と例年よりもやや少ない人数だった。

作戦は前走と同じく追い込み。タマモクロスは最後方からレースをスタートした。

レースはやや遅いペースで進んでいった。これは逃げや先行するウマ娘たちが余力を残す展開であり、後方で構えるウマ娘たちにとっては美味しくない展開である。

特に、徐々に位置を押し上げるというのが不可能なタマモクロスは、どんなに前が遅くとも、かわして前に出るという選択肢がない。

 

ゴール前で観戦していた高松は激しい焦燥に焼かれていた。

第3コーナーを回っても、タマモクロスの位置に変更はない。もうすぐ第4コーナーが終わり、最後の直線に入る。

 

(判断が遅いッ!)

 

高松は無意識に(もも)を叩いた。

内か外かは状況次第と言ったが、タマモクロスは内に突っ込むつもりはさらさらなく、大外一気という弱い考えに支配されていた。

 

さらに思考が実行に移されるまでに、わずかなタイムラグがあった。それに加えて、必要以上にバ群を恐れたのか、タマモクロスは観客のほとんど目の前と言っていいほどの大外にまで膨らんでいた。

 

(1着は厳しい。3着も……どうだ?)

 

中山の直線は短い。坂があるといっても、条件はみんな同じだ。タマモクロスにだけ有利に働くというわけではない。

高松にできることは祈ることしかない。

その祈りがとどいたわけではないだろうが、タマモクロスはギリギリで3着に入線した。

 

 

 

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