太陽は西に大きく傾いて、木々は影を長々と地に伸ばしている。
田畑に囲まれた小さな家の前を、幾度も行きつ戻りつした挙句、陽子は意を決して扉を叩いた。
震える手は弱々しく木の板にあたり、はね返される。
撫でたような音しかたてない拳を握りなおし、ゆっくりと叩きなおす。
今度は、少しはましな音がした。
「あの……、すみません……」
かすれた陽子の声に、はい、と語尾を上げ怪訝そうな若い女の声が返ってくる。
ぱたぱたと土間を駆けてくる足音。
逃げ出しそうになる足を全力で押しとどめて、陽子は大きく息を吸い込んだ。
「はいはい、どなた?」
年は陽子より幾つか上。粗末な身形だが、顔はふっくらとやさしそうな女だった。
目の前に立つ見慣れない者の姿に、微かに眉が寄せられる。
不審がられないよう、せいいっぱい何気ない様子を装った。
「あの、旅の者なんですけど、もうすぐ日が暮れそうで……それで、あの、軒先でも、貸して頂けたらと……」
言い澱む陽子に、女がちらと笑った。
どことなく苦笑めいていて、嫌な笑い方ではない。
「なんだい、宿に泊まる路銀がないの?」
「……はい」
前の里では衛士を呼ばれたが、その前は物置をねぐらに貸してもらい、かわりにその家の仕事を手伝った。
だから、陽子は拝みこむ。
「あの、薪割りでもなんでもしますから。一晩だけでいいんです」
お願いします、と頭を下げた陽子の後ろから、別の声がかかった。
「
「お帰り、
「なんだ坊主、一人で旅してんのか?」
女と同じく貧しいみなりだが、がっしりとした手足はよく日に焼け、笑った顔は人懐こかった。
「兄と、はぐれて」
楽俊を兄と言っていた先日までの癖でついそう言ってから、しまったと思ったが、今更訂正しても怪しまれるだろう。
困って俯いた陽子に、男が近づいた。
「なんだ、おい、そりゃ大丈夫なのか?」
心配そうな声音に、ただ頷くしかない。
「行き先はわかってるのかい?」
花昌と呼ばれた女に聞かれて、もう一度頷く。
それでかい、と女の溜息混じりの声がした。
「この子、路銀がないんだってさ。宿に泊まれないから、働くかわりに軒先貸してくれって」
「ああ、兄さんが金を持ってたんだな。なんだ、そうならそうと早く言えよ。見てのとおりのボロ屋だが、寝る場所くらいあるさ」
いかつい掌が、陽子の背中をどんと叩く。
おもわずよろけてむせこんだ肩を、花昌が支えてくれた。
「あんた、加減してやんなよ。こんな細い子に」
花昌に睨まれて、潤旋が悪い悪いと笑った。
結局、部屋で寝ろという二人の勧めを固辞して、陽子は裏手の納屋を借りた。
潤旋はいまどき遠慮深い奴だと笑い、花昌は気を使わないでいいんだよと言ってくれたが、これ以上の迷惑はかけられなかった。
潤旋の言ったとおり、若夫婦の暮らしはけして豊かではなさそうだったが、それでも楽俊母子の家よりは家財もあったし部屋も多い。
花昌から暖かい粥の椀を受け取りながら、二人の面影が胸をよぎって辛かった。
うちは貧乏なんだ、と言った楽俊の言葉を思い出す。
自分は半獣で田圃も家も貰えないから、母親が一人で二人分の稼ぎをしないといけないんだと。
そんな自分たちですらかつかつの暮らしなのに、見ず知らずの、まして海客の自分を匿って、世話してくれた。
いつか雁にと貯めていたという金がどれほど大事なものなのか、今になってようやくわかる。
闇の中、快く納屋を貸してくれた夫婦に感謝しつつも、陽子は眠れなかった。
藁の上に布を敷いただけの粗末な寝床だが、いままでのことを考えればどんな柔らかい寝台より暖かく嬉しいのに、目をつぶっても眠ることが出来ない。
午寮では、楽俊は見つからなかった。
はぐれた陽子を探しているのだろうか。
諦めて家に帰ったろうか。
あの、午寮の門前。
倒れ伏す人々の中で、彼もまた怪我を負っていたようだった。
どの程度の傷だったのだろう。ささいな怪我なら倒れたりはすまい。
もしや、命に関わるような怪我だったら?
怪我人のなかにも死骸のなかにも見つからなかったと、あの行商人の母親は言ったが、本当にいなかったのだろうか。
半獣は一段下に見られると、楽俊が言っていたような気がする。
怪我をしても、もしや死んでも、真っ当な扱いをしてもらえないのだとしたら?
戻れば良かった、と今でも思う。
でも、戻ったとして自分になにができるというのだろう。
巻きこんで、怪我まで負わせて、そのうえさらに海客を匿ったと罪に問われるかも知れないのに?
戻れないから、進むしかない。
楽俊が雁に行け、と言うのなら、そうするのが一番いいのだろう。
だから、どうしても雁にいかなければならない。
たとえそれがどんなに難しいことでも、そうしなければ彼ら母子の親切が無駄になるから。
はぐれてよかったんだ、と思う反面、傍らに灰茶の毛並みがないことが、どうしようもなく心細いことがある。
道々たくさんの事を教えてくれた彼。
警戒心をむき出しにした陽子に、それでもいやな顔一つしなかった。
ずっと、一人だった。
月影をくぐりぬけてきたこの世界で、人に裏切られ、天に見捨てられ、自分は一人きりなのだと思っていた。
でも、あの小さな手のぬくもりを知ってから、傲然と顎を上げて天を
一度優しさに触れてしまった胸に、今更な孤独が染みて痛い。
酷く寒かった。
空気は温み、季節は次第に暖かくなっている。今も風のない屋内にいるというのに。
奥歯を噛んで、陽子は震える肩を抱きしめた。
会いたい。
会って、許しを乞いたい。
親切を疑い、警戒するだけで感謝もしなかった、見捨てて逃げた愚かな自分を許してくれと。
でも、今の陽子に彼を探すすべなどないから。
自分にできることは、彼が指し示した道を辿りながら、ただ祈るだけで。
頑張るから。
頑張って、なんとしてでも雁へ行くから。
どうか、どうか無事で。
無事でいて。
嗚咽は、梢を揺らす風鳴りにまぎれて誰の耳にも届かなかった。
初稿・2004.12.14
【花昌・かしょう】
【潤旋・じゅんせん】
これも手持ち流用・笑
このへんはわずか1ページくらいで簡単に説明されてますが、時間で言うならニヶ月が経過しているんですよね。
二ヶ月といったら、そう短い時間じゃないわけで、陽子にせよ楽俊にせよ、お互いとても気にかけていたんじゃないかと。特に陽子なんて、自分を取り戻した直後なわけだから。
えー、ところで、陽子篇があるなら楽俊篇もあるんですな、これが。
でも楽俊側の話は結構二次創作で見かけるんですよね~
今更書いても二番どころか五番煎じくらいになっちゃいそうだと思いつつ書いた(笑)のがありますので、後日アップします。