久しぶり
俺の名前は、彼方翔。
走るのが好きな元最速の異能力者だ。
別に幼馴染と遊園地に遊びに行ったら、怪しい黒ずくめの男たちの取引現場を見てしまい、これまた怪しい薬を飲まされて体が縮んだわけではない。
ただ異能力者としての現役時代に、無茶のし過ぎで最速を名乗る上で大事な足がぶっ壊れちまったから、普通に引退しただけだ。
ま、引退したら引退したで、特にやることもなかった俺は、テレビにたまたま映っていた〝競バ〟を見たことがきっかけで、今の仕事〝トレーナー〟になったのである。
そもそも、俺が走ることを好きな理由は、幼馴染のウマ娘が走るのが速かったからそれに憧れて自分も早くなろうと考えた……んだと思う。
顔は覚えてねぇけど、今の俺を形作ってくれたあいつには感謝してもしきれねぇよ。
あいつ、元気にしてるかな……
それはともかく、トレーナーとしての最初の頃は何も知らないひよっこ同然で、先輩である東条さんにいろいろなことを教わったんだっけ……?
まぁ、そんなことは今考える事ではねぇな。
現実逃避は止めて、目の前のことに集中しろ。
「やぁ、トレーナー君。今までどこに行ってたんだい?」
背中に伝わる感触と重力の方向からして、俺は現在、地面に倒れているのが分かる。
数秒前のことを振り返れば、ゴルシから逃げた俺は、部室に手をかけたと思った瞬間誰かに引きずり込まれて押し倒されたのだということを思い出す。
誰に?
それはもちろん……
「す、すまねぇルドルフ……ちょっとゴルシと追いかけっこを……」
俺の担当ウマ娘であるシンボリルドルフだ。
無敗の三冠。
勝利よりもたった三度の敗北の方を語りたくなるウマ娘。
そして、〝皇帝〟。
ハハッ、俺の〝世界最速〟よりもカッコいいじゃねぇか。
なんて言ってる場合じゃない。
注意深くルドルフの様子を見ると、いつもと比べて少し不穏な空気を纏っているように感じる。
いや、少しなんてもんじゃない。
その内側には、爆発寸前のダイナマイト状態の感情が押し込められているのだろう。
マズい。
非常にマズい。
異能力者時代の仲間達からは鈍感だと言われていたが、このトレーナーになってからは察しの良くなった俺はすぐに気づく。
これは〝掛かっている〟と。
実際、ゴルシの名を出した瞬間、俺の腕を押さえ付けている手に力が入ったのを感じる。
この新年度が始まって仕事に追われていたのだろうか、相当ストレスがたまっていたのだろう。
そんな時に暢気にランニングとか、こうなっても仕方がねぇな。
って、そんなことを考えている場合じゃねぇ!
「……ゴールドシップと追いかけっこ、か。……随分と楽しそうなことをしてたんだね」
マズいマズいマズいマズい……!
なんか声色が〝ルナ〟っぽくなってる……!
こういうときは大抵不安定な時だ。
少しでも受け答えをミスると、何が起こるのか分からない。
まさかこのまま〝うまぴょい〟……絶対ダメだ!!
「と、取り敢えず……押さえつけるのをやめて欲しいかな~なんて……」
「……」
「ハイ! すいません! このままでいいです!」
こえ~……光のない瞳って本当にあったんだ……
それにプラスで向けられた無言のプレッシャー。
それにビビる俺の姿は、プルプル震えるチワワのよう。
最速と呼ばれた男の姿か……これが?
冗談じゃねぇ……とは言えねぇ……
「トレーナーさん、私は別に怒っているわけではないんだよ? ただ、愛バを放っておいて別の女の匂いを漂わせているのが気になったんだ」
ウソダ! ジェッタイウソダ!(ケンジャキ並感)
そういうときは大抵怒ってるんですよ!
ていうかもうほとんど〝ルナ〟だし!
って、ん? 別の女の匂い……まさかゴルシ!?
テメェー! ゴルシー! まさかここまで考えていたのかー!
『あたしと契約しないからだぜ~。ざまぁみろ~』
ゆ、許せねぇ……!
俺は激怒した。
必ずかの邪知暴虐なゴルシに拳骨を落とさなければならぬと決意した。
俺には政治がわからぬ。
俺は、ただの七冠バのトレーナーである。
筋トレをし、愛バと遊んで暮して来た。
けれども邪悪に対しては、人一倍に敏か――『バァン!』――ヒィッ!?
「トレーナーさん。無視しないでよ。目の前にいる私だけを見てよ」
「……」
押さえつけられている俺の顔面のすぐ横に手が置かれていた。
さっきの音からして、叩きつけたのだろう。
ハハハハハハハハハッ!?
やっべぇー!?
もう終わりだ!(レスリング)
もう抵抗は出来ない。
一応、片腕が自由になったとはいえ、腹にはルドルフが跨っていることで肝心の足が動かせない。
もう片方の腕は未だ押さえつけられたまんまだ。
無理やりにでも脱出しようと思えばできないことはない。
でも、そうなった時、ルドルフはどうなってしまうのか……
ルドルフはアスリートだ。
それも行ける伝説と称されるほどの。
並みいる猛者をはねのけて、栄光の冠を七つも被った。
そんな彼女を、俺の事情だけで駄目にしてしまうのは、世間的にもそうだが、まず俺自身がやりたくない。
だったら取れる手段は……
「すまんルナ。お前をほったらかしにしておいて、ゴルシと追いかけっこをしていたなんて……」
「……」
謝罪だ。
それを聞いたルドルフ、いや、〝ルナ〟は黙ったまんまだ。
一応聞いてくれるのだろう。
ジッと見つめてくる瞳が続きを促してくる。
「この新年度一日目。お前はチョー忙しかったはずだ。三年以上もお前の担当をしているからこそ分かる。だけど、そんなお前の忙しさも知らないで俺はサボっていた……」
ルナからのアクションはない。
それが余計に恐怖心を煽ってくるが、俺の口は淀みなく動いていく。
「果てには、お前以外のウマ娘とイチャイチャ……イチャイチャ? していたからこそお前は怒っているのだろう。だけどな……」
もはや自分で何言っているのか訳分からなくなってきたが、これだけは言えると息を大きく吸って宣言する。
「俺の愛バはお前だけだ」
そう、ルナの目をまっすぐ見つめながら言った。
その言葉を聞いたルナは、倒れ込むように俺の胸元に顔をうずめると……
かみ殺したような笑い声を上げる。
ん?
「くっくっく……本当にトレーナー君は面白いなぁ。これだからこそ、いじり甲斐がある」
俺に抱き着くようにしていたルナは、体を起こすと頬に手を当ててそう言った。
「ちょ、おま」
「どうしたんだいトレーナー君? まるで
笑っているルナ。
いや……ルドルフはいつも通りのくだらないダジャレを考えていた。
……って、
「冗談かよ! あぶねぇな! 恐怖心で心臓止まるかと思ったぞ!」
「そうなったら、私が心臓マッサージをして、人工呼吸もしてあげるよ。それこそ
「やめなさい! あの子の調子が悪くなっちゃうでしょうが!」
冗談だったと分かり、空気が一気に弛緩する。
それにしては、目の色とか本気だったんだが……
と、とにかく、俺は用事を終わらせよう。
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目の前で今後の予定を話すトレーナー君。
不器用ながらも、頑張って作って来てくれたのであろう書類の束は、所々よれていた。
おそらく、夜遅くまで頑張ったのだろうことが分かる。
私のトレーナー〝彼方翔〟は、元世界最速だったらしい。
なにも、ウマ娘とは別の人間が行う陸上競技で一番速かったわけではない。
戦場に身を置く〝異能力者〟という超人の集団の中で、一番足が速かっただけと彼は語る。
『俺に、トレーナーの才能なんてこれっぽっちもないのさ。俺にあるのは、〝足の折れた元世界最速〟っていう不名誉な肩書だけ。だから一番を掴めているのはお前が速いからだよ。走れなくなった俺にできるのは、お前がこの先も輝けるように調整することしか出来ないのさ』
違う。
違うんだトレーナー君。
あなたがいてくれたからこそ、私は輝けたんだ。
そう言ってもあなたは謙遜するのだろう。
あなたは、そういう人だから。
そんなあなただからこそ、私はあなたのことを好きになる。
だから、ゴールドシップがあなたとじゃれていたというのを聞いた時には、気が気でなかった。
奪われるくらいならいっそのこと……なんて考えてしまったことを思い返すと、穴があったら入りたい気分になる。
私は世間一般的に言うと〝気性難〟というものに含まれるらしい。
その自覚はある。
彼に対しての出来事では、どうにもそう言った気性が悪さをしてよく迷惑をかけたよ。
……本当に、あの頃を思い出すと恥ずかしくなる。
でも、これも大切な彼との思い出だ。
なくしたいとは思わない。
いつか、彼との思い出を語る時にはいいものになるだろうし。
でも、彼との思い出の中にも他と比べて格別のものがある。
それは、彼に初めて〝ルナ〟と呼ばれた時だ。
今と比べて随分と小さかった私は、その時、えもいわれぬ感情が体の奥底から湧き上がってきたことに困惑していた。
しかし、今になってわかる。
その感情は〝愛〟だと。
そもそも、一般的な人族と比べてウマ娘というのは愛が重い種族と言われている。
その愛ゆえに死傷者が出るほどといえば分かるだろうか。
本能である誰よりも速く走りたいという願望を叶えようとしてくれて、更に思春期を共に過ごしてくれるトレーナーには殊更重い感情を向けるだろう。
私もその一人だ。
だが、私には〝皇帝〟と〝生徒会長〟という肩書があるからこそ、その愛情を押し殺して皆の表に立たなければならない。
でも、私がそれらを捨て去り、ここを卒業することになったら私はどうするのだろうか……
私は卒業しても、トレーナー君はここのトレーナーのままだ。
トレーナー君と離れ離れになる。
それだけは嫌だ。
無理やりにでも……それはいけない。
彼を愛しているからこそ、無理やりはダメだ。
彼にはその気がないのかもしれないが、いずれは私のことを見てもらいたい。
そのためにも……
「逃がさないよ、トレーナーさん」
「ん? なんか言ったかルドルフ?」
「何でもないよトレーナー君」
そう言ってソファに座るトレーナー君に肩が触れ合うまで近づく。
その行動に少し驚いた顔をしながらも、特に何も言うことはないといった様子で話を続けていく。
彼の鈍感さが救いだ。
一先ず、今は、このひと時を楽しもうか。
ちゃんと再現できたかな?
感想待ってます。