宇宙歴798年1月の終わり──
「今日の特集は、フェザーンのファッション界でブレイク直前のニュースタイルをご紹介!今やセレブの間で話題騒然、今後流行すること間違いなし──」
ヤンは舌打ちすると、リモコンの電源ボタンを押してテレビの電源を切った。最近のヤンに「セレブ」という言葉は禁句で、ヤンの目の前で不用意に使おうものならぎろりと睨みつけられて退散する羽目になる。別にヤンがセレブを目の敵にしているわけではない。
今のヤンこそがセレブなのだ(期間限定ではあるけど)。
幽霊戦艦の事件直後ほどではないが、休日は一、二件取材の依頼が入ったし、雑誌記事にコメントを求められたりもした。ヤンをうんざりさせたのは、ダスティ・アッテンボローがその中の一人だったことである。さすがにヤンは憤慨したが
「いやぁ。ずっと黙ってたんですよ。でも、とうとうバレてしまいましてね。うちの雑誌と関係ないだろうって言いましたよ。だけど、先輩の記事があれば売り上げが上がるってデスクが五月蠅いんですよ」
と言われては、取材に協力せざるを得なかった。年末年始は休むどころではなく、なんやかんやパーティーに呼ばれてはスピーチをさせられたり、どこぞの大学で講演をやらされたり(パーティーよりはまだましだった)、果てはどこぞのショッピングモールで一日店長をやらされたり(それも休日を潰して!)、これがセレブだというなら、セレブは最も仕事中毒な連中に違いない、二度とやるもんかとヤンは決意したものであった。
「まぁ、人の噂も七十五日。消費されきったら誰も話題にしなくなるだろう。そもそも人前に出る職業ではないからな」
「課長、そんな他人事みたいに言わないでください。一月の休日は三日しかないんですよ」
ヤンはムライに抗議するも、ムライはむしろ面白がっている様子である。まぁこれでも、ムライはヤンの負担を軽減すべく各所に働きかけてくれたほうなのだ。
幽霊戦艦の一件は、いまだに注目を集めているが、さすがに連日ニュースで取り上げられるほどではなくなっていた。現在は、装甲板と思われる残骸が回収され、その組成について調査が行われているそうだ。本当はコンピュータやデータボックスを回収して調査したいところであるが、行方が分からないらしい。
「そういう調査結果が出れば、調査した人間がまつりあげられる。その時、君はセレブの座を渡してやればいいのだ」
「一刻も早くそうなってほしいですね」
ヤンはぶうたれた。
「ところでグリーンヒル中尉はどうかね。仕事に慣れてくれたかね」
「グリーンヒル中尉ですか。大変助かってますよ。自分にはもったいないぐらいで」
フレデリカは、多忙なヤンの業務を相当肩代わりしてくれていた。フレデリカだってヤンほどではないがいろんな取材の依頼をこなしているはずである。それであの事務処理能力の高さであるから、どうしても頼ってしまうというものである。
「ところで確認しておきたいのですが」
「何かね?」
「グリーンヒル中尉は、課長がスカウトしたんですか。分かっていた上で」
「まさか。こちらの求人に彼女が応募してきたのさ。余程この職場が魅力的に見えたものとみえる。ま、事務仕事の補佐で募集したのだがな」
ムライの言葉に、それは詐欺というものだろう、ヤンは心の中だけでツッコんだ。
「総参謀長のご令嬢であったことも?」
「経歴書を見れば分かることだ。本人は何も言わなかったがな。ハイネセンのオフィスで一生過ごして当たり前なのに志願した。おそらく周囲にも止められただろう。だとしたら本人に相当固い意志があると思わなければ。それに応えてやらんと。そうじゃないかね」
ヤンは思った。そういえば、彼女はあんなに危険な目にあったのに、恨み言の一つも聞いたことがない。
「私は冒険がしたいのです」
ヤンはあの一言を思い出した。一体何が彼女をああさせたのだろうか。
「というわけでだ。少佐、グリーンヒル中尉を呼んでくれないかね。彼女の仕事熱心さに応える仕事を一つ、用意している。もちろん君にも、だ」
「ちょっと待ってください」
いきなり風向きが変わったことに困惑しつつも、ヤンは反論する。
「こっちはいろんな雑用でもうくたくたですよ。彼女だって休息が必要なはずです。それに、我々は顔が知られ過ぎています。秘密作戦に使うなら逆効果ではないのですか」
「だからこそ、だ。立っている者はセレブでも使え、そのための作戦を考えたのだよ。周囲が君の顔を忘れてしまっては、この作戦は使えない」
あっさり反撃を躱され、ため息をつくヤンである。
「ポーカー大会に出場……ですか」
フレデリカが不思議そうな顔をして言った。
「そうだ。2月1日、セレブを集めてチャリティのポーカー大会が開催される。各界のセレブがリゾート地のカジノに集まってお祭り騒ぎをするわけだ。君達には招待状が届いている。大使館宛に、だけどな」
「……よく分からないですね」
ヤンが厳しい顔でつぶやく。どうせろくでもない話であることは確信があった。
「何、簡単なことだ。この大会で優勝する、いや、優勝しなくとも決勝戦まで進んでもらう。君達にやってもらうのはそれだけだよ」
ムライは、算数のドリルでも解いて持ってこい、そんな感じで言い放った。
「おっしゃることの意味が分かりません」
フレデリカが無表情でそう言った。ヤンは何もしゃべらない。そうしないとムライは必要な情報を言ってくれないからである。
「言ったことは単純明快なはずだが。もう一度言って欲しいのかね」
「何故我々にそれが可能と思われるのか、その根拠をご提示ください。あるいは何故それが必要なのか。プラン-Bが必要です」
フレデリカは物怖じすることなく言い切った。
「……課長、あまり若い者をいじめないで頂きたい。私もお聞きしたい。我々のような素人がどうしてポーカーで勝てると思うのか、です。イカサマでもやるのですか」
たまらずヤンが口を挟む。
「やめておけ。素人のイカサマなど、本職からすれば児戯も同然。バレてしまえば作戦は台無しだ」
「では、お断りします。自分も中尉も、命令について任務の遂行を誓うことはできません。課長は無理なことを言っている」
「自分もそう思います。第一、自分はポーカーをやったことはありません」
ヤンの反駁にフレデリカが加勢した。
「……身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ……まぁ、人に言う言葉ではないな。わかった、そこにかけたまえ」
ムライは課長室にあるソファを指し示した。
「麻薬取引?」
「そうだ。中尉。我々は帝国と共同作戦でサイオキシン麻薬の流通ルートを追っているが、大規模取引が近々行われるという確証を取った。そして、取引のための情報交換に、このポーカー大会が使われる」
「なるほど。それを潰すわけですね」
フレデリカがうなずきながら言った。ようやく概略を掴めた、という感じで。
「そこまでは期待しない。それは本職たる我々の仕事だ」
ムライはあっさり否定すると、映像端末を捜査する。端末の上に、二階建てのリゾートホテルの設計図が現れる。
「情報によると、だ。まさに取引の情報交換が、この大会の会場で行われるとのことだ。そこでだ、大会の会場、この中央にある大テーブルが、決勝戦のステージ。ここに、情報収集装置を仕掛ける」
ムライはそう言って、課長のデスクの抽斗から半球状のデバイスを持ってきた。手のひらで握れば拳の中に隠れそうな、レストランの電子呼び鈴を思い出させるような装置だった。
「そこに取り付ければ、後はそこを経由して会場全体を調査することができる。そのための君達だよ。テーブルにこれを取り付けられるのは、招待客である君達だけなのだ」
「ですが、それを実現するためにポーカーで勝つ、というのは非現実的ではないのですか。秘密裏に仕掛けることはできないのですか。ディーラーを買収する方がずっと手っ取り早い」
ヤンは反論する。未だに、この作戦は非現実的だ、そう思っている。第一、その取引というのは誰が誰とやるのか、それすら知らされていない。それすらムライのトリックなのだろうか?
「少佐。敵をなめてはいけない。職員をきちんと管理するのは、ああいう商売の基本中の基本だ。金銭もそうだが、手癖の悪い職員と見なされたら他で商売はできないんだ。簡単ではないよ。君が直接行った方が早い」
「では、もし負けたらどうなるんですか」
「……そうさ、のぅ。なら、そのデバイスを起動させて、テーブルの周りにでも立っていてもらうかな。立ち位置は指定させてもらうかもしれん。中尉、君は付き添いで、連絡役を頼む。距離を取って、接触は控え目に。少佐に何かあっても巻き込まれないようにな」
了解しました、とフレデリカは応えた。ヤンは心の中だけで、やれやれ、と言う。ようやくムライの本音を聞けたと思った。後に、ヤンはこの時感じた違和感を何故もっと突き詰めなかったのか、そう後悔することになるのだが。
「ほぅ……」
夜六時、ハイヤーから降りたヤンは、目の前の威容に思わずため息をついた。ポーカー会場のカジノ『ロワイヤル』は、設計図こそ目にしていたものの、建物の豪華さはヤンの想像を超えていた。
いや、想像を超えるのはここに来る前からかもしれない。フェザーン中心街の高級ホテルからこれまた普段滅多に乗らない、富裕層向けのハイヤーに乗って揺られること一時間、フェザーン湾に面したリゾート地にあるカジノが、今回のポーカー大会の会場である。
いつまでもぽつねんと立ちつくしているので、たまりかねたフレデリカが肘を掴んで引っ張った。我に返ったヤンは、頭をかきつつフレデリカの後をついていった。こんな姿を見ると、尻にしかれっぱなしの夫とその妻……と見えないこともないが、それは将来の可能性の一つであろう。その姿が観測できるかどうかは将来にならないと分からない。
「ヤン・ウェンリー様と、フレデリカ・グリーンヒル様ですね」
受付に居たホテルマンは、二人の顔を見るなり馴染みの客であるかのように、にこやかに会釈をした。二人からコートを受け取ると、二人にそれぞれ一枚の紙片を手渡した。
「カジノのチップ窓口にてお渡しください。今回の大会で使用しますチップをお渡しします。他、必要なものがあればお申し付けください。ご宿泊のご予定はないとお伺いしておりますが、おっしゃっていただければすぐにご用意いたします」
「あ、ありがとう」
ヤンはむしろ恐縮してしまった。
「広い……」
ポーカー大会の会場に入ったヤンは、またも立ちつくしてしまった。少々小ぶりな体育館と思われる広さのホールには、無数のテーブルが配置されている。そして、数えきれないほどの男女が勝負に興じたり、談笑したりしている。その中を、ウェイターや黒服が縫うように動き回っている。
「少佐」
「は、はい」
またもフレデリカに促され、ヤンは会場内に一歩踏み出した。上流階級というものにまるで縁がないヤンと違って、フレデリカはある程度場慣れしているようである。総参謀長の娘であれば、そういうことに慣れるのだろうか。ヤンはそう思ったが口にはしなかった。この日のためにレンタルしてきた(と聞いた)ネイビーのワンショルダーワンピースも自然と着こなしている。ヤンも、ブラックのスリーピース・スーツを着用しているが、軍服に慣れ過ぎたヤンとしては、どうも服に着られている感がしてならない。
場内では数か所にバーが設置されており、そこでは自由に飲み物を注文することができるようだった。ヤンとしてはそれならばと一杯やりたいところであったが、またもフレデリカに止められ、泣く泣くスパークリングウォーターを注文せざるを得なかった。
あちこちで歓声があがり、喜ぶ声、落胆の声、拍手がそれに交じる。ただ、それを発しているのは参加者のみ。ディーラーは機械的にカードを配り、参加者に指示を出している。彼らはこの大会の主役ではないのだ。ウェイターや警備の黒服もそうである。
ふと後ろを見ると、さっきまで居たはずのフレデリカの姿が消えていた。そういえば、チップを取ってくるって言ってたっけ、と思い、今のうちに一杯やっておこうかとウェイターを呼び止めようと思ったその時、背後から声をかけられた。
「ヤン・ウェンリー少佐ですな?」
「はい」
ヤンが振り返ると、そこには長身の男性が立っていた。ダークブラウンの髪はきちんと整髪料でまとめられている。顔立ちは秀麗という言葉すら足りないほどで、目に違和感があると思ったら、左右でどうも瞳の色が違うようだった。男ですら敵わないと思ってしまうような美男、というのは目の前にいる男のためにあるようなものだ。
「……」
「もし」
「あいや、これは失礼。ヤン・ウェンリーです。同盟の大使館に勤務しております。失礼ですが」
「オスカー・フォン・ロイエンタールと申します。北朝の弁務官事務所で書記官をやっております。立場は違えど、ご同輩のようなものですよ」
ロイエンタールと名乗った男は、データグラムを送信してきた。ちらっとデータを見ると、確かに言っていることに間違いはない。
「ああそれは。で、どのようなご用件でしょうか」
ヤンはおどおどしつつそう言った。最近のヤンはやたらと知り合いが増えていて覚えきれないのが悩みなのだ(有名人らしい悩みである)。どこかで何か適当なことを言って、それが尾を引いていないか、それが心配だったのである。
「例えば、どこかでお会いしたとか?」
ヤンはずばり聞いてみた。
「いや。そのようなことはございません。ところで、ウォルフガング・ミッターマイヤーという男を御存知ですかな」
「ミッターマイヤー……ああ、あの」
ヤンは辛うじて思い出した。あのテレビ番組で討論した北軍の少佐である。
「部署は違いますが、少しばかりあの男とは付き合いがありまして。ヤン少佐のことは、実に面白い男であると言っていましたよ。一度お目にかかりたいと思っておりました」
「ああ……それはわざわざすいません」
ヤンはまたも恐縮して頭を下げた。
「ミッターマイヤーは転属してオーディンに行ってしまいましたが、フェザーンという地は私に合っているようで。もう三年、ここにおります。ヤン少佐はどれほどになりますかな」
「私は、そろそろ半年になりますでしょうか」
「ほぅ。どうですかな、フェザーンは?」
「正直、日々がいっぱいいっぱいで。自分に合っているかそうでないかは分かりません」
ヤンは思わず本心を吐き出した。
「はははは。確かに、幽霊戦艦の一件は災難でしたな。あれは、弁務官事務所の航路課でも大騒ぎでしてな。連中、三日間家に帰れなかったそうですよ。それから──」
「少佐」
横からした声に、ヤンとロイエンタールは一斉に振り向いた。箱のようなものを持ったフレデリカが立っていた。
「ああ。中尉、失礼。こちらは北朝の弁務官事務所に勤務しているロイエンタールさんだ」
「オスカー・フォン・ロイエンタールでございます。よろしくお見知りおきを」
ロイエンタールはフレデリカに恭しくお辞儀をした。
「フレデリカ・グリーンヒルです。とくむ──自由惑星同盟の大使館に勤務しております。ロイエンタール様にはお初にお目にかかりますが、よろしくお見知りおきの程を」
フレデリカは箱をヤンに押し付けると、ロイエンタールに敬礼をしかけてそれを止め、ぺこっと礼をした。
「グリーンヒル中尉のお顔は、テレビでお見かけしておりました。ですが、実際はずっとお美しい」
ロイエンタールはいきなりフレデリカのまえで片膝をつくと、フレデリカの右手を取って甲に長々とキスをした。フレデリカの顔がみるみる赤くなるのが分かる。
「そんなに緊張なさらずとも。美しき花には敬意を捧げたくなるものです。美は剣よりも強し──私の好きな言葉です」
「あ、あの……」
フレデリカは口をぱくぱくさせていた。
「ところでお二方は、大会にご参加されるのですかな」
「はい、そうですが、ロイエンタールさんは?」
ヤンは聞いた。
「ふむ。自分も運試しといきたいところではありますが、残念ながら今回は付き添いです。高等弁務官の……あそこですな」
ヤンとフレデリカは、ロイエンタールの指し示した方を見た。タキシードを着た老人の周りに数人の取り巻きが居る。雰囲気を見る限り、あまり旗色は良くないらしい。
「それは残念。自分もこういう所はまるで慣れないので、ロイエンタールさんのような先達にあやかりたいと思ったんですが」
「運の良し悪しに先達もなにもありません。ただ一つアドバイスをするとすれば」
「すれば?」
「賭けるときは自信を持って、というところでしょうか。大胆、大胆、常に大胆です。では、お二方のご健闘をお祈りいたしますよ」
ロイエンタールはそう言って去って行った。
「少佐、あの方は?」
「うーん。知り合いの……知り合い」
「知り合いの知り合い?」
フレデリカは眉を寄せて、ロイエンタールが去って行った方を見た。人ごみにまぎれたのか、ロイエンタールの姿はもう見えない。
「それにしても、中尉も美男には弱いとみえる。今まであんな中尉を見たことはなかった」
「少佐、それ、セクハラですよ」
フレデリカは憤然として言った。
「あと、そのチップはあげますから、少佐。頑張ってください。幸運を祈ります」
「君は、やらないのかい?」
「私は連絡役ですから。それにポーカーのルールも知らないので。それでは、また後で」
フレデリカはそう言って、すたすたと去って行った。フレデリカに押し付けられた箱を開けると、コインケースにいろいろな色のチップが詰まっている。事前のルールによると、参加者は一人一万マルクのチップを持って勝負をすることになっている。勝ち続け、チップが一定額を超えると、決勝戦の椅子に座ることができるわけだ。フレデリカの分のチップを加えると、今のヤンには二万マルクの資金があることになる。
「二万マルクねぇ……」
ヤンはため息をついた。ディナールに換算すると、一人の同盟軍兵士の年俸に近い金額だ。ここでは、そんな大金が遊戯の駒として飛び交っている。世界が違うとはこのことか。
「キングのスリーカード、3番のお客様の勝ち」
ディーラーが勝敗を宣告すると、賭けられたチップを回収し、その勝負で勝った客に渡された。
ヤンはこのようなポーカーの大会に出たことはない。友人とポーカーゲームに興じることはあったが、このポーカーはそんなゲームとは全く異なるものだ。
ポーカーが5枚のカードを組み合わせて、役の高低で勝負を決めるという遊戯であることは変わらない。だが、競技ポーカーでは、プレイヤーに配られるカードは2枚しかない。5枚はディーラーが持っていて、計7枚のうち5枚を抽出して、役の高低を決める。そして、ディーラーは5枚の札をいきなりオープンにするのではなく、まず3枚を公開、次に4枚、最後に全部表にして、その都度プレイヤーに選択を迫るのだ。
・支払った賭け金を放棄して勝負から降りる
・賭け金レートに足りないチップを支払い、勝負する
・賭け金レートを吊り上げる(勿論吊り上げた分のチップを支払うことが必要)
なるほどね、ヤンはそう思った。競技ポーカーというものが生き延びてきたのはそういう戦略性の為せる技か、と。手持ちのチップは戦力、ディーラーが持っているカードは戦場という環境だ。そして、ディーラーが持っていて表にないカードは、戦場において誰もが感じる不確実性──『戦場の霧』というやつだ。
特に、手持ちのチップの量というのは思ったより大きいインパクトがある。敵味方の戦力差が丸見えというのは、実際の戦争ではあり得ないことだが、それをカバーするのが手持ちの隠されたカードということか。ただ、カードという要素がなくともチップを沢山持つプレイヤーは、チップの乏しいプレイヤーに比べて大きな圧力を与えることができる。
ヤンは数回勝負に参加したが、なかなか運が向いてこない。手持ちのチップはどんどん減っている。周りのプレイヤーは大きくチップを増やしたプレイヤーも居れば、減らしたプレイヤーもいる。自分にとっての状況はあまり良くない。
「次の勝負に参ります」
ディーラーがそう宣言して、カードを配布した。ヤンの手札はクラブとハートのエース。今までで一番運のいい展開だ。ディーラーが公開しているカードには、クラブとスペードの3がある。これで3かエースが出てくればフルハウス。大きな手だ。
「
ヤンはそう言うと、チップを前に差し出した。さすがにこの時点で降りる人はいない。レートも低いし、まだ表に出ていないカードもある。
ディーラーが4枚目のカードを公開した。ダイヤの3。テーブルの周りがざわついた。3のスリーカードが見えているということは、手元にペアがあればフルハウスは確定だ。プレイヤーがどんどんレートを吊り上げにかかる。チップを一番持っているプレイヤーがレートをどんと吊り上げた。ヤンの手持ちのチップでは出しても勝負に参加できなくなる。
まずいな──折角いい手だと思ったのに、これで皆フルハウスが見えてきたというわけだ。こんな時にチップが少ないのはなぁ──まるで大事な戦局で戦力が足りず、あと五千隻あれば、いや三千隻とかぼやいているようじゃないか。どうしよう。
ヤンはしばし考え、ディーラーに促されると
「
そう言って、手元にあるチップ全てを差し出した。ゲームのレートがどうであろうと、全額を賭ける時だけは参加が許される。ルールの例外規定というものである。ロイエンタールも言っていた。大胆、大胆、常に大胆と。ここは勝負に出るべきだ。
ディーラーが最後の札を公開した。何とスペードのエース。これでフルハウスの場合、ヤンが一番強いことが確定したわけだ。ヤンは必死に表情を変えないように努力した。
「
参加者がカードをめくった。やはりエースと3のフルハウスであるヤンの勝利。テーブルの周りでぱらぱらと拍手があがった。
結果、そのテーブルではヤンの大勝という結果になった。その後、今までの不振が嘘のように連勝を続け、そのテーブルにあるチップを総取りにしてしまった。
「ヤン・ウェンリー様。おめでとうございます。どうぞ、決勝戦にお進みください」
黒服に促され、ヤンは会場の中央にある大テーブルに進んだ。テーブルには10個の椅子があり、それぞれチップを大量に持ったプレイヤーが何人か座っている。
もしかしたら、ギャンブルの才能があるのかもしれない──
ヤンはそう思うようになっていた。今までそんなことを考えたこともなかったが、才能は活かしてなんぼである。退役した後、ポーカーで大金を稼いで、残りの時間で歴史の著述でもやることにするか──まぁ、今回は自分の任務を達成しなければいけないけど。
ヤンの鼻っ柱が伸びきったところで、決勝戦が始まった。
数回勝負が行われ、勝ったり負けたりで大きな変化はなし。ヤンとしては、適当なところでムライから渡された情報収集デバイスをテーブルに取りつけ、後は勝負に専念したかった。デバイスには粘着テープが貼ってあるので、テーブルに押し付ければそれで任務は完了、そのはずだ。ヤンはポケットに手を入れて、デバイスがあることを確認した。
「次の勝負に参ります」
ディーラーが勝負の開始を宣言した。ヤンは配られたカードを見る。またもクラブとハートのエース。さっきはここから大逆転で勝利した。大丈夫、いける。
ヤンは一気にレートを吊り上げた。周囲のざわめきが大きくなる。他のプレイヤーが皆、しかめ面になった。勝負に応じるプレイヤーもいれば、降りるプレイヤーもいる。ディーラーのカードは4枚公開されていて、6のペアがある。5枚目で6かエースが出ればまたもフルハウスである。いけるぞ、ヤンはそう感じた。
ディーラーが最後のカードをめくり、ヤンは驚きのあまり瞠目した。
ハートのエース。まさか、そんなことはあり得ない。
「ヤンさん。
ディーラーに促され、しぶしぶヤンはカードを表にした。周囲のざわめきが一気に大きくなる。周りのプレイヤーが一斉に目をむいているのが分かった。ハートのエースがヤンの手持ちに1枚。ディーラに1枚の計2枚。場に2枚あることなどあり得ないのである。ヤンがイカサマをしている。そう思われても仕方のない状況なのである。
黒服が実に自然な動きでヤンの後ろに立つ。
「ヤンさん。少しお話をお伺いしたのですが、よろしいですか」
そう言われてはヤンも従うしかなかった。
ヤンが通された部屋は、ちょっと上級の管理職が居る部屋のように見えた。ホテルの部屋を思わせる広さ、執務用の机と椅子、応接用のソファーセットが見える。何もないラグの上にスチールパイプの椅子があるのがいかにも場違いだった。
ヤンは身体検査をされ、情報収集デバイスを取り上げられた。ヤンがあっと声をあげるより前に、黒服は別の職員にそれを預け、ヤンをスチールパイプ椅子に座らせた。
「ヤンさん。大人しくしていれば手荒なことはいたしません。大事なお客様ですから。大使館までちゃんとお送りいたします。お連れの方もです。残念ながら、もうフェザーン中のカジノに出入りすることはできないでしょうが」
黒服が表情を変えずに言った。まぁ、そうだろうな、ヤンは納得した。白昼堂々イカサマをやったということになれば、カジノがそんな客を許容するはずがないのである。
しばらくして、外に出ていった職員が戻ってきた。黒服に何やら耳打ちする。黒服の表情が変わったのにヤンは気が付いた。
「ヤン・ウェンリー」
そう言って黒服はブラスターを突き付けた。最早お客様扱いではなくなっていた。
「痛い目に遭いたくないなら答えてもらおう。『ウルトラマン』はどこにある」
「
「そうだ。隠しておくのは貴様のためにならんぞ」
ヤンが要領を得ずという感じなので、黒服は語気を荒げてそう言った。
「いや、だとしたら人違いではないのですか。私はそんな男は知らない。私は、ある人から麻薬取引の情報収集の依頼を受けて情報収集用のデバイスを──」
「ふざけるな!!」
ヤンの言葉に黒服が激高した。
「あのガラクタの中には何の情報も無かった。何もだ。メモリもセンサーも入っていない!もう一度言う。ウルトラマンはどこにあるのだ?」
「いやどこにと……」
ヤンは反論しかけて黙った。どうも話が嚙み合わない。この黒服は、ヤンの全くあずかり知らない別の人間を探しているのではないか。それとも、ムライがいつものようにヤンを表に立てて裏で何かやってるのか。こんなことになるんだったら、パトリチェフに一言言っておくべきだった。調子よく引き受けてしまったおかげでこのざまだ。
「そうか。メモリーを体に埋め込んだな……アレクセイ。スキャナを持ってこい」
黒服は手下を呼んで何やら命じた。しばらくするとアレクセイと思われる職員が、クリケットのバットのような、細長い板に柄のついた器具を持ってきた。黒服はヤンに手錠をかけて椅子に縛り付けた。職員は、ヤンを撫でるように頭、首、腕、胸、腹、脚、あらゆる所に器具を押し当てた。別に痛むわけではないが、何とも嫌な気分だった。
「反応ありません」
「無いだと……あり得ん。いや……強制誘導催眠によって開錠鍵を記憶させられたのかもしれない。共和主義者の悪魔め……アレクセイ、本部へ向かうぞ。感覚調整水槽を使う」
「感覚調整水槽──」
ヤンの顔から血の気が引いた。感覚調整水槽というのは、タンクベッドと殆ど変わらない器具であるが、タンクベッドが人間の感覚を適度に刺激することによって、人間の回復力を極限まで引き出す道具なら、感覚調整水槽は刺激を剥奪する器具である。人間は感覚を完全に遮断すると、短時間で精神に異常を来す。もちろん、最低限の刺激は与えるので、精神障害者一直線となるわけではないが、拷問としては最上級のものだ。そんなことをされたら──
黒服はそんなヤンの考えなどおかまいなく、縛っていた縄をほどくと、ヤンを立たせてブラスターをつきつけながらせっついた。ヤンとしては逃げたかったが、手錠をかけられた状態で二人に監視されているのではどうしようもない。
三人は部屋を出て廊下に出た。誰も居ない廊下を歩いていこうとしたその時──
前を進んでいた男がうめき声をあげて倒れた。後ろで黒服が何か動いたようだが、短い叫び声をあげて倒れたようだった。後ろで何者かが駆け寄る音がした。ヤンは振り向くと、あっと驚きの声をあげた。
「フェザーン情報部に何かされたくなければ、俺についてきてもらう」
銃を持ったロイエンタールがそこに居た。
ロイエンタールは特殊な器具で手錠を外すと、ヤンを連れて廊下を早足で歩いた。途中、いろいろな所を曲がる。どうも、職員の区画らしく、事務所やキッチンを通ることもあったが、ロイエンタールはおかまいなしに歩いていく。ヤンもついていくしかない。
しばらくすると、裏口から外に出たらしく地上車の駐車場が見えた。入口の喧噪とは違って、こちらは街灯も少なく静かなものである。ロイエンタールは、小ぶりな地上車を見つけるとヤンを後部座席に乗せ、自分も乗り込んで猛スピードで駐車場を出ていった。
「ロイエンタールさん。ありがとう」
「男から礼を言われるいわれはないが、とりあえず受け取っておく。といっても、まだ命が助かったわけではないと思うが──」
地上車はフェザーン湾の高速道路を離れて、暗い林道を走っている。ロイエンタールを見る限り、手動で運転しているようだ。しばらくすると後ろから甲高いモーター音をたてて近づいてくる地上車が見えた。
「何だあれは?」
ヤンが叫んだ。
「何だだと?追っ手に決まっているだろう。あの音は──南朝の連中だ」
ロイエンタールは叫び返した。
「音で分かるのか」
「音で地上車の型が分からないのか?」
ロイエンタールの返答に、ヤンはうんうんとうなずいてしまった。恐らくロイエンタールの本職は警官か、あるいは「秘密」の付く方の警官なのであろう。本職ならそういうものなのかもしれない。南朝の「そういう人」が使う地上車の型が分かれば、音で分かるものなのかもしれない。
「近づいてくるぞ」
「当たり前だ。何もしないのに遠ざかってどうする」
どうもロイエンタールの受け答えはピントがずれてるな、ヤンはそう思った。後部座席を見回したが武器らしきものはない。運転席を覗き込んだが、ロイエンタールが陣取る運転席にはディスプレイすらない。計器がいくつも並ぶ、何ともクラシックなダッシュボードだった。
追ってくる車の方で何かがチカっと光った。次の瞬間、ビシッと音がして後部の強化ガラスに大きなヒビが入る。
「撃ってきたぞ!」
「分かっている!死にたくなければ掴まってろ!!」
ロイエンタールが急ハンドルを切ると、未舗装の作業用道路と思われる道に入っていった。ガタガタして座るどころではないが、投げ飛ばされたくなければ掴まっているしかない。シートベルトを探したが後部座席にはそれもなかった。一体この地上車はどうなってるんだ。
もちろん追っ手がいなくなったわけではないが、距離が詰まりにくくなっている。恐らく、道路状態が悪いのでスピードを出しにくいのであろう。
ロイエンタールは曲がりくねった獣道を相変わらずのスピードですっ飛ばしていた。追っ手は距離こそあまり詰まらなくなってきたが、追跡をやめることはない。
突然視界が開けた。街灯がないからはっきりと見えるわけではないが、林から出たために月の光りをあてにすることができるようになったのだ。この先にあるのは……結構な幅のある川と、地上車が通るには幅の狭すぎる橋が一本あるだけ。おい、まさか──
ヤンの懸念など意に介さず、ロイエンタールは一直線にその橋に突っ込んだ。落ちる──ヤンが覚悟したのも束の間、地上車は橋の上をスピードを落とさずに突っ込み、そのまま対岸へ渡り切ったのだった。後方では急ブレーキの音がする。さすがに普通の地上車では、この橋を渡り切れないと思ったのであろう。
ロイエンタールが地上車を止めたのは、追っ手を撒いてから三十分ほど走った後のことだった。空き地のような場所に地上車を駐めると、しばらく歩いたところにあった小さな山荘に入るよう、ヤンを促した。
本来ならここでヤンは抵抗するか、こっそり逃げるべきだったかもしれなかった。ただ、ロイエンタールは銃を持っているし、ヤンの運動能力ではここから逃亡できる可能性は万に一つもなかっただろう。それにヤンにも、ロイエンタールに聞きたいことがあった。
山荘の中は殺風景もいいところだった。照明は一つ、テーブルと机はあるが椅子は一つだけ。一体何のための山荘なのか分からなかった。
「さて、ここまで来たんだ。積もる話もあるだろう」
ロイエンタールが銃を突き付けながら言った。
「ああ。そのウルトラマンとやらのことか」
「話が早くて助かる。さて、出してもらおうか」
「ロイエンタール。その前に聞いておきたい。ウルトラマンとは一体何なのだ。何故、フェザーンだけでなく、南北朝まで皆、狙ってくるのだ?」
ロイエンタールは何も言わなかった。しばらく視線を泳がせると、銃をホルスターに仕舞って口を開いた。
「知らん」
「……は?」
「だから俺も、その核心については知らされていない。俺が知っているのは、それを何としても確保すること。南朝、フェザーン、同盟の連邦捜査局が動いていること。その在処を知っているのがヤン・ウェンリーだということだ」
「連邦捜査局──」
ヤンはうめいた。連邦捜査局といえば、同盟にある捜査機関の一つであるが、軍の影響力が極めて低く、軍の情報局に匹敵する情報捜査能力を持っていることで知られている。
「だからそのために」
「そうだ。フェザーンの連中を出し抜くのは苦労したが。ヤン、ポーカーをやっていておかしいとは思わなかったのか?」
「……特に何も」
それを聞いたロイエンタールは、はぁとため息をつくと額を揉んだ。
「その調子なら、お前にはギャンブラーの素養は無いと見ていいな。お前の相手をしていたディーラーは、フェザーン情報部の手下だ。お前さんが変な動きをしないように、わざとゲームをコントロールしていたんだよ。ディーラーが手心を加えれば、勝ち続けるなんてわけもない。ま、勝ち過ぎると怪しまれるがな」
「そうだったのか──」
ヤンはがっくりと頭を垂れた。実力だと思っていたのになぁ──
「で、だ。ここまで話したからにはもう一度聞こう。ウルトラマンは、どこにある?」
「そのやり取りは無益だと思う。私も君も、謎の正体が分からないようでは答えようがない。北軍の中で分かっている人が居れば、その人を呼んで欲しい。それなら協力ができるかもしれない」
「……感覚調整水槽に入るかもしれんぞ」
「そんな暇はないと思う。同盟軍が動き出していることを考えるならば」
ロイエンタールの脅しに、ヤンはきっぱりと答える。もうどうにでもなれ、そう思っている。
「それもそうだな、ならばもっとエレガントに行こう」
ロイエンタールは胸ポケットに入れてある万年筆を素早く取り出すと、ヤンに向かって投げつけた。ヤンの肩あたりに突き刺さる。ヤンは痛みを感じたのも束の間、強烈な眠気に襲われ、意識を失った。
フレデリカ・グリーンヒルは、父親に対して複雑な感情を持っている。いや、全くの他人からしたら、それは憎悪と呼べるものかもしれない。ただ、フレデリカ自身がそれを公に認めることはない。
自由惑星同盟軍の有望株士官、ドワイト・グリーンヒルと、軍のとある士官の親戚である母親との間に生まれたフレデリカは、当然のように大きな愛情をもって育てられた。父は将来有望な士官であるが故に家を空けがちだったが、母親がその空虚を埋めていった。
そんなグリーンヒル一家の団らんは、野外のキャンプで行われることが多かった。母親の趣味が野外活動全般であり、夫の方もそれを苦にすることはなかったからだ。フレデリカが小学生になる頃には、一家で山歩きをすることもあった。いつかは一家で登山をしたい、というのが母親の口癖だった。フレデリカもそれを拒否することはなかった。山や海の大自然に触れるうちに、まだ見ぬ世界を自らの力で切り開く「冒険」に大きな興味を持つようになった。
残念ながら、母親の願いは果たされることはなかった。フレデリカが小学校中学年のとき、母親が亡くなったからだった。交通事故だった。
妻を亡くしたドワイト・グリーンヒルにとって、フレデリカは忘れ形見であり、決して失ってはならない、傷つけてはならない存在となった。グリーンヒルは、娘のために、そして娘の安全のためにあらゆる手を尽くした。そして、それこそがフレデリカにとっての厄災となってしまったのだ。ドワイト・グリーンヒルは一転して娘の冒険や野外活動好きを危険視するようになった。娘を野外活動に連れていくこともなくなった。
冒険にのめり込むフレデリカにとって、父親の「愛情」は鬱陶しい以外の何物でもなかった。すれ違った愛情が抑圧にならなかったのは、ドワイト・グリーンヒルの職務が多忙であり、一人娘の育成に十分時間をかけられなかったからだった。
フレデリカは(周囲の支えはあったものの)一人で生活することが多くなった。ただ、親との交流が十分でなくともフレデリカには何の問題もなかった。自分が必要とするものを自分で用意できること、それは冒険の一丁目一番地であった。余暇ではガールスカウト活動に従事し、父親の助けを借りることなく野外活動に勤しんだ。
中学に入ると、部活動で陸上競技に打ち込むようになった。父親はどちらかというと文化的な活動をさせたかったようだが、フレデリカはその考えを一蹴した。冒険のためには体力が必須だったし、陸上競技ではフォア・ザ・チームなどといった、団体のために個を曲げるということをしなくて済むのがよかった。それは父親の「愛情」を想起させるものだった。
高校に入ると、陸上競技よりも魅力的な存在に出会った。ロック・クライミングと疑似EVA(宇宙空間での作業を模したレクリエーション)である。岸壁をよじ登るそれは、(実際はそうと言い切れないものの)生命と引き換えにスリルを味わうことができ、彼女の冒険に対する渇望をそれなりに満たしてくれた。登攀が成功した時に感じる達成感は格別だった。船外作業服を着て、宇宙空間を遊泳、作業する疑似EVAは、前後左右上下全て星の海という体験を彼女に与えてくれた。
高校を卒業してからの進路については一悶着あった。父親からは、有名大学への進学を勧められた。彼女の学力なら、入学には問題なかったが、それを選択した場合、どうということはない企業に就職し、どこかで結婚して家庭を持つ、といった平凡な運命が待っているように思えた。彼女自身の能力で運命を切り開く、という行為はできないように感じた。
フレデリカは父親に対し、軍の士官学校に入学することを告げた。
父親の反対は今までにも増して激烈なものがあったが、それはフレデリカにとっての想定内だった。自分の道で将来を切り開く魅力に比べれば、父親が設定した障害など物の数ではなかった。彼女の身体的能力、頭脳は、士官学校入学には何の問題もなかったし、父親の「妨害」を避けつつ受験するやり方は十分心得ていた。
むしろ失望は、士官学校入学の後に訪れた。同盟政府の国力伸長政策、そして長い休戦状態の結果、軍は女性を「保護」しようとする傾向にあった。具体的に言うと、生命の危険がある任務に繋がりそうなキャリアパスを妨害しようとする、ということであった。
実にくだらない、彼女は憤激した。冒険の結果命を落とさなくても、どうということのない交通事故で命を落とすこともある。そこにどのような違いがあるというのか。自分の生命は自分のものだ、選択のリスクを許容できるなら、自由に使って何が悪い、そう思っていた。
彼女の懸念は、入学してから2年が経過して具体的になった。2年の基礎教育を終え、専門課程を選択するにあたり、自分の選択肢が大幅に制限されていると感じた。何かしら宇宙で冒険する、そういうキャリアを選択したはずなのに、選びたい選択肢には何かしらの邪魔が入った。
最初は戦闘艇のパイロットになろうと思った。しかし、その道は既に存在しないことが明らかになった。戦闘艇が花形の兵器だった時代は既に過去のものであり、戦闘艇部隊は生え抜きのパイロット達が仕切る場所になっていた。士官学校において、戦闘艇戦術を専攻する学科は、数年前に廃止となっていた。
ならばと艦長職へと続くキャリアパスを得るべく、兵器科や航法科を志望したが、こちらはこちらであまりに競争率が高すぎ、抽選の結果弾かれることになった。宇宙戦艦に搭乗することは、当時の士官学校生の大半が熱望するところであった。当時、宇宙艦隊は長く続いた停滞の時代が間もなく終わり、軍近代化が始まることが確定していた。つまり、新型艦が次々と配備されるということである。人気が集まるのも当然だった。
もちろん、父親の圧力というのもあったのだろう。教官達は決してそれを認めなかったが、フレデリカはそれが存在することを確信していた。教官は口々に言った。グリーンヒル候補生、君の記憶力、情報分析力、それは前線よりそれ以外で活かせるものだ。君は、適材適所という言葉を十分意識すべきだ。皆、口を揃えてそう言ったものである。
結局、本人にとっては不本意だったかもしれないが、情報処理科に進むことになった。適性と希望が一致するわけではないが、それはマネージメントすべき事項となった。
傍目から見て、専門課程に進んでからのフレデリカは順風満帆だった。成績は優秀で、卒業論文でも暗号分析に関する立派な論文を提出した。情報処理科を次席で卒業し、彼女は少尉になったのだった。しかし、本人としては全く良くなかった。ハイネセンの情報処理に関するオフィスで、軍人としてのキャリアを全うすることは、彼女の望むキャリアプランでは全くなかった。これでは何のために軍人を志したのか分からない。
彼女はハイネセンで働きながら、自分の冒険心を満たせる職場を探し続けた。自分が持っている資格やキャリアで働ける職場を。フェザーンの同盟大使館が補充人員を募集していることを知ったのはそんな時だった。入国管理局の情報処理手伝いその他、募集要項にはそう書いてあった。
彼女は一も二もなくフェザーン行きを志願した。とにもかくにも、ハイネセンを出なければ自分の希望する仕事にありつけない。そういう思い込みがあった。いくつかの障害はあったものの、彼女は何とかそれを乗り越え、フェザーンへの転属を勝ち取った。
予想通り、いや、予想に反して特務支援課は、その表芸とは全く異なる裏の顔があった。彼女の新しい上司は、キャリアや適性を全く斟酌することなく任務に投入した(少なくとも彼女にはそう見えた)。だが、それは彼女が求める冒険そのものだった。異世界から来た謎の戦艦、それはまさに彼女が求め続けていたものだった。死にかけながらも何とか脱出に成功するのもそうだった。これは天職だ──彼女は確信した。いつまでもこの職場にしがみついてやる。彼女はそう決めていた。
そして今の彼女は──状況も分からず一人おいていかれている。
ヤンが黒服に連れていかれる少し前──
フレデリカは壁際にあるバーカウンターの椅子に座って、会場を眺めていた。ドリンクをおかわりすることもなく、声をかけてくる男性も適当にあしらい、ただ、何か状況に変化がないかを確認しつづけていた。もし、彼女が情報工作担当官だとするなら、彼女は基礎の基礎がまるでできていないことになる。彼女は全くその場から「浮いて」いるのである。
驚くべきことに、ヤン少佐は連戦連勝を続け、決勝戦進出を果たしているようだった。一体どんな魔法を使ったのか分からなかった。イカサマでもしたのだろうか。本人はポーカーの経験などほとんどないと語っていたが、それも韜晦か。
まぁ、それはどうでもよかった。中央にある決勝戦用の大テーブル、そのどこかに情報収集デバイスを取りつけてくれば、今回の任務は終わりのはず。それを見届けて撤収すればよい。
腕時計がわずかに震動した。ように感じた。いつもコミュニケータの機能を腕時計と連動させているフレデリカは、反射的に腕時計を確認した。何もない。そうよ、今回はそのような機器は持ち込んでいないはず。一体なぜ──
会場が大きくざわめいたのはその時だった。ざわめきの方向を見ると、ヤンが立ち上がり、黒服に連れ去られようとしていた。
何かあったのか──
すぐにでも後を追うべきであった。彼女はそう思った。
いや、緊急事態として連絡すべきか、そうも思った。今の彼女は武器どころか、何かに使えそうな道具一つ用意していない。それでヤン・ウェンリーを取り戻せるとはとても思えなかった。それなら、ムライに連絡して増援を呼び寄せるべきかもしれない。いや、今はそんな緊急事態に該当するのだろうか?単にヤンの体調が悪くなっただけかもしれない。
いずれにせよ状況を確認しなければならない。そうでなければ子供の使いだ。
フレデリカは椅子から立ち上がった。ヤンの連れていかれている出口に向かおうとして──
がっしと、肩を掴まれた。
思わぬ事態に彼女は後ろを振り返り、そして、彼女の肩を掴んだ人物を確認して、目を瞠った。
「お父様──」
「一体どうしてここへ。ハイネセンに居るのではなかったのですか」
「軍人だ。出張など日常茶飯事のことだ。久しぶりに会えたんだ。夕食でもどうだね」
間違いない。自由惑星同盟軍総参謀長にしてフレデリカの実父、ドワイト・グリーンヒル中将が後ろに居た。見慣れた軍服姿ではなく、タキシードに蝶ネクタイという出で立ちは、辛うじて様になっている。もうすこしお腹が引っ込んでくれればマシになるのだけど。
「フェザーンへ出張なんて聞いたことがありません。それに、今は
フレデリカは口を尖らせて答えた。父親は、私情を表に出すタイプではないと思っていたのだが、どうやらフレデリカのイメージが違っていたようだ。
「業務かね。それなら、ここでの業務はもうない」
「業務の判断は、直属の上官のみが行えるのでは」
「ならば確認してみるかね」
そこまで言うので、フレデリカはしぶしぶ会場を後にした。
「業務終了!?どういうことですか」
案内された休憩所でムライに通信したフレデリカであったが、予想もしない回答に驚愕した。といっても休憩所にはフレデリカの他にはグリーンヒル中将しか居ないので、注目を集めることはなかった。
「言った通りだ。ヤン少佐が居なくなったから、会場で連絡役の必要はなくなった。状況は中尉も理解していると思うが」
「ヤン少佐が居なくなった!?ご存じなんですか?」
「無論だ。会場は監視している。君達に伝えなかったのは謝るが、作戦上の都合と理解してくれ。ヤン少佐の安全については、こちらが引き継ぐ。君は親子水入らずの時間を過ごしたまえ」
「!?!?いえ、いくらなんでもそれは」
「では。命令することにしよう。グリーンヒル中尉。現場を撤収し、グリーンヒル総参謀長に同伴したまえ。後の行動は自由だ。明日は休暇を与えるので、明後日にオフィスで会おう。中尉、復唱だ」
「はっ、グリーンヒル中尉、現場を撤収し、総参謀長に随行致します」
「よろしい」
それだけ言ってムライは通信を切ってしまった。
グリーンヒル中将がフレデリカを連れて行ったのは、フェザーンのダウンタウンでも少しひなびた所にあるチャイナレストランだった。思いっきり盛装である二人の出で立ちに似合わないことこの上なかったが、グリーンヒル中将は何でもない風にその店に入ると、店員とあれこれ話をした。個室に通されたところをみると、どうやら予約を取ってあったらしい。
個室はグリーンヒル中将とフレデリカの二人であれば十分余裕があったが、椅子の数を見るとどうも四人で利用するものらしかった。四人も座れば狭いんじゃないの、フレデリカはそう思ったが口にはしない。
出てきた料理も、ごくありふれたものばかりだった。チャーハンに麻婆豆腐、春巻にオレンジチキンとコーンスープ、テイクアウトする中華と見分けがつかない。湯気が盛大に立っていることだけが違いだった。
それでも、夜十時を回って、ろくに食べ物を口にしていないこともあって、フレデリカは箸を伸ばした。オレンジチキンを一つつまんで口に放り込む。意外と美味い。
二人はしばらくもくもくと箸とレンゲを動かして、供された料理を口に運んだ。フレデリカとしては空腹が満たされるのは有難いことだったが、どうにも料理に野菜が少なく、脂っこいことが気になった。父親が同じようなペースで食べているのを見ると、もう、50を過ぎているんだから食事のバランスには注意してもらわないと、そう思えてしまう。
「お父様」
料理が八割方片付いたところで、フレデリカが言った。
「何だね」
「何か、私に用事があったのでしょう?まさか、夕食のためにわざわざ課長を動かしたわけでもないでしょうに」
「……そうだな。お前、もっと情報活動をやりたいんなら、周囲の空気を読んで自然に振舞いなさい。あれでは何か企んでいることが丸わかりだ」
「!!?お父様!いつからいたんですか」
「ロイエンタール少佐に挨拶をされていたな」
「そ、そこから……というかあの人は軍人なんですか!?」
「そんなことも分からなかったのか……まぁ、私も少尉になりたての頃は軍人の匂いなんて分からなかったからそんなものか。ま、次からは周囲に気をつけたまえ。私に気づかないようでは監視のうちには入らんぞ」
グリーンヒル中将はため息をついて言った。
「まぁとりあえず、本題に入るとしよう。フレデリカ、左手を出してくれ」
「??」
フレデリカは訝しんだが、言われた通り左手を差し出した。グリーンヒル中将は懐から銀色の棒のようなものを取り出す。棒は万年筆を一回り大きくしたような大きさで、棒の先の方には赤色に光る球がはめこんであった。
グリーンヒル中将は、フレデリカの右手薬指につけてあるファッションリングに棒を近づけた。ちか、ちかと光球が点滅する。しばらくすると光球の赤色が緑色に変化し、そして消灯した。それを確認したグリーンヒル中将は、棒を胸の内ポケットに仕舞う。
「よし。これにてOKだ。ありがとう、フレデリカ。任務完了だ」
「任務完了……いったい何ですか?」
「秘密任務だ。本来なら任務の存在すら知られてはならないレベルのものと考えていい」
「概要を教えてもらえますか」
「教える必要はない」
「そんなことはないでしょう。私を任務に巻き込んでいるなら、課長にも説明があったはず。お父様に聞かず、課長から聞けと?それでもいいですけど。もしかして、課長も事情を知らないとか?」
グリーンヒル中将は、目をしばしば開けたり閉じたりすると、やがて話し出した。
「ムライ君も同じことを言っていたな……実の肉親より、他人の方がものが見えるというのか。よかろう、但しこれは絶対の絶対に他言無用だ。誓えるか」
「誓います」
「これだよ」
グリーンヒル中将は、先程仕舞った銀色の棒を取り出した。
「これだ。この棒に収納された機密情報、ウルトラマンだ」
「ウルトラ……マン?」
「
「私が!?どうして」
「その指輪は、典礼局のドールトン大尉から借りたものだろう」
「どうしてそれを」
事実だった。ヤンほどではないものの、公的なパーティーに出慣れていないフレデリカは、服装やアクセサリーに関するアドバイスを典礼局のドールトン大尉から受けていた。指輪は、そのドールトン大尉経由でレンタルしたものだった。
「指輪そのものが情報の受信機でありメモリーなのだ。送信機が極近距離に近づくと、情報の受け渡しが行われる。そして今、再度送受信が行われ、この棒に情報が受け渡された。情報の中身を聞かないでくれ。私にも閲覧資格は与えられていないのだ」
フレデリカは息を呑んだ。総参謀長すら閲覧できない機密情報、そして──美は剣に勝る。私の好きな言葉です──
「で、では、ヤン少佐は?」
「特務支援課が動いている。大事には至るまい。少佐には、囮になってもらったんだ」
「……」
「ヤン少佐は、情報の世界では意外と知名度があるんだよ。だから、目立つように動かしておいて、注目が集まるように仕向けた。もちろん本人は何も知らないし、下手に有名人だから口封じというわけにもいかん。時間が稼げるのだ。もちろん、情報の受け渡しだけなら別の手はある。だが、この情報の重大さを考えると、漏洩した事実そのものを無かったことにしなければならなかった。だから、わざわざ事を大きくしたのだよ。大山鳴動して鼠一匹、となれば、関心そのものが急激に薄れる。世の中そういうものだ」
「……」
「これで答えになったかね」
「……分かりました」
フレデリカは喉の奥に山ほど積み上げていた言葉をそのまま呑み込んだ。言いたいことを言える相手ではある。向こうもそれを一応は受け止めるだろう。しかし、それを行うことを己の中にある反抗期が押しとどめた。
「最後に聞いておこう」
「……」
「本当に、ハイネセンに戻る気はないんだね?」
「ありません」
「フェザーンに居るうちは、これ以上に危険な目に遭うことは確実だ。それでもか?」
「わかってます」
「これから帝国との戦争が再開しても、かね?」
フレデリカは迷った。父親が、ちゃんとした根拠を基に話をしているのか、娘を手元に置きたいがために与太を言っているのか、判断がつかなかった。だが、軍服に袖を一度通した以上、冒険を欲した以上、彼女に言える回答は一つしかなかった。
「私は、ここに残ります」
「わかった」
グリーンヒル中将は大きくため息をつき、それだけ言った。そしてウェイターを呼んで、タクシーを呼ぶように言ったのだった。
同じ頃──
「クローゼ、対象の反応は?」
「ありません、大佐」
ヤンとロイエンタールが居た山荘には、さらに十名近くの人間が集まっていた。全員が帝国北軍の軍服を着用している。昏倒したヤンはベッドに寝かされ、体のいろいろな所に電極が取りつけられていた。電極から伸びるケーブルは、一つの機械に繋がっていた。
「関連ワードを五百パターン組み合わせてチェックしましたが、ノイズレベルの反応しかありません。この結果を見る限り、ヤン・ウェンリーはシロとしか思えません」
「何だと」
大佐の軍服を着た男が地団駄を踏んだ。ヤン・ウェンリーは、ロイエンタールが注射した急性睡眠薬により昏倒しているのだが、睡眠薬の中には自白成分のある薬剤が混ざっており、記憶に新しいワードを音声で「聞かせる」ことによって、脳または身体のいずれかに反応が出てくることになっていた。それが何もないというのである。
「あり得ん。漏洩した情報がヤンに引き渡されたことは確実だ。本国もそう言っている」
「ですが、漏洩した可能性、です。漏洩した犯人が検挙されたわけではない」
ロイエンタールが取りなすように言った。
「貴様の行動に問題があるのだ、少佐」
「目標は確保しましたが」
「それはいい。だが、何故定時連絡もなくほっつき歩いて、緊急通報もなく予備のセーフハウスに搬入した。おかげでこちらはフェザーン情報部と南朝の本隊、双方とやり合わなければいけなかった」
「部外者の妨害は想定されることです。作戦が順調に行かないことも。おかげで、身柄は確保できたのです。大佐は任務を果たされたのです」
ロイエンタールの言葉は表面的には阿っているように聞こえるが、そうではないことは大佐が一番良く知っていた。弁務官事務所の保安責任者である大佐にとって、形式上は部下であるが、社会秩序維持局からの出向者で、自由行動ばかり行っているロイエンタールの存在は煙たいどころではなかった。
「クローゼ、ロイエンタール少佐は本当に正しい薬剤を注射したのだろうな。間違っていた可能性は?」
「ありません。そもそも急性睡眠薬でも、ある程度の自白作用はあります。もちろん、特殊薬剤がある方が確実ではありますが」
クローゼは大佐に答えた。話は少しそれるが、クローゼは以前、妻に秘密の愛人の存在がばれそうになっていた時、ロイエンタールに『適切に処置』してもらったことがあった。
「これではっきりしたでしょう。本国が言っているような情報漏洩など無かったということが」
「しかしだ」
大佐は吼えるように言った。ならば何故、南軍やフェザーンの情報部が動いている。これこそ漏洩が確かにあった証ではないか。曖昧な情報を基に、あれだけの人間を動かすなどあり得んぞ。
「なればこそです。ならばこそ、彼奴等に望みのものを与えるチャンスとなります。彼等には彼等の欲するものを与えましょう。『漏洩』したと思われる情報を。別に中身が何であろうと問題はありますまい」
ロイエンタールの言葉に、大佐はなおも唸っていたが、しばらくすると納得したのか、あるいは緊張の糸が切れたのか、よかろう、と吐き出した。情報漏洩を突き止めるより、偽情報を流し込む作戦の方が利益があると思ったのかもしれない。ロイエンタール、ヤンの処置は任せた。しくじるなよ。
「お任せあれ」
ロイエンタールは執事が主人に対してするような、右手を胸に当てた礼をして見せた。大佐はそれを嫌そうに眺めていたが、部下に撤収を命じると、山荘を出ていった。外で地上車が動き出す音がする。部下達もそれに続くように、ヤンの体から装置を外すと、荷物をまとめて山荘を出ていった。
他の人間が居なくなったことを確認したロイエンタールは、胸ポケットから注射器を取り出すと、簡易ベッドに寝かされているヤンの左腕に注射した。これで一時間もすれば目が覚めることだろう。
ロイエンタールは注射器を投げ捨てると、山荘から出る。フェザーン行政府の喧噪とは無縁な別荘地は、時折聞こえるフクロウの鳴き声以外はいたって静寂なものだ。街灯もところどころにしか存在しないため、星の海がはっきり見える。
「ラグナロク、か」
ロイエンタールは呟いた。北朝上層部で秘密裏に計画している、南朝への大攻勢計画。それは、南朝および南軍の完全なる打倒を目的としている。ただ、概要についてロイエンタール本人も知っているのはそれぐらいで、その全貌を知る人間はあまりにも少ないとされている。
「星々が天から落ち、大地と山が震え、木々は倒れ、山は崩れ、あらゆる命が消える。好機であることは分かる。だが、好機過ぎて、目的のために人は手段を選ばんだろうな」
ロイエンタールはそこまで言い切って、暗い道を歩いて行った。かれの地上車に戻るには、山荘から少し歩かなければならなかったからだ。
次回予告
失敗に終わった、南軍のアムリッツア要塞破壊作戦。ヤンは、同盟大使館に届けられた秘密報告書を読むことになる。そこには、同盟軍内部の闇、その一部が綴られていた。
第十一話「薔薇の騎士」