銀河英雄伝説 ファニー・ウォー   作:ブッカーP

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第十四話 祖国は危機にあり ~ 銀河帝国北朝の場合

参考資料1 銀河帝国星系図

 

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参考資料2 銀河帝国北軍宇宙艦隊 戦闘序列

 

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宇宙暦798年、帝国暦489年7月下旬──

 

 

 

 どんな世の中にも例外は存在する。例え、銀河帝国(北朝)首都、皇帝陛下のおわします新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)においても──

 

 当たり前のことではあるが、新無憂宮の中では、厳密なドレスコードが存在する。使用人、出入りの業者、警備員、いずれも身元の調査が都度厳密に行われる他、着用する衣服は厳密に定められている(そしてそれが表向き曖昧なことが、『障壁』なのであるがこの話はここまで)

 

 新無憂宮を公用で訪れる人も同様だ。最低限礼服か礼装の軍服、時代錯誤も甚だしい(という人もいる)宮廷服を着用しないと、例え身元が明らかであっても叩き出される。本来はそのはずだ。

 

 だが例外は存在する。新無憂宮を多少よれの入ったビジネススーツ姿でうろついても叩き出されない人物は存在する。その人物とは──

 

 

 

「どうですか宰相殿!素晴らしい威容ではありませんかな!」

 帝国宰相の執務室に甲高い声が響き渡った。7月だというのに窓という窓は閉め切られ、照明はオフになっている。中央の小さなテーブルの上には映写用デバイスが置かれ、執務室の中央に3Dの映像が浮かび上がっていた。

 

 別にこの時代、3D映写デバイスは珍しいものではない。珍しいものといえば、映っている映像の方である。

 

「以前よりお話しておりました、我が社の新型戦艦、仮称艦名『ブリュンヒルト』であります!」

 執務室では、1メートルにならんとする宇宙船の映像が浮かび上がっていた。純白の船体は、それまでの宇宙戦艦にあった箱型の船体に必要な構造物を付けたような無骨さは見られない。白い円錐のような、曲線をふんだんに用いたフォルムだった。スラスター、アンテナ、砲塔といった、戦闘艦に必要な装備も、自らを過剰にアピールしたりはしない。船体の中に包み込まれているような感じでひっそりと配置されている。宇宙に浮かぶ白鳥、一言で言えばそんな優美な艦体であった。

 

「単に美しさを追求したわけではありません。門閥貴族が乗るフネではありませんからな。優美なように見えて、獰猛な牙も隠し持っております。中性子ビーム砲は12門、通常の宇宙戦艦の1.5倍あります。ミサイルVLSは船腹にあり、同時に10個の目標を攻撃可能です。レールガン発射装置も、もちろん備えております。おっと、武人の蛮用とかそういうことを考えておりますかな?我がラインフォルトの技術陣は、大いに努力をしてくれました。埋め込み式の武装を多用しましたが、弾薬の補給、整備、発射時の工数、いずれも通常戦艦のそれと同等か下回っておりますぞ!」

 先ほどから長広舌を振るっているのは、ラインフォルト財閥の総帥、フランツ・ラインフォルトである。中肉中背と言うにはやや痩せた体つき、細い瞳に眼鏡とぼさぼさの黒髪、胸元を開けたシャツと白い夏向きのスーツ。年齢は40代後半だが、外見はそれより少し若く見える。この男こそが、新無憂宮をビジネススーツ姿で闊歩できる「例外」の男であった。

 

「そして、この船体は防御力も十分備えております。前方投影面積は従来の戦艦の60パーセントを割り込んでおります。つまり、敵の飽和攻撃に対する被弾の可能性が低減しているわけです。また、シールド発生機を適正配置したことにより、正面からの耐ビーム性能は70パーセントもアップしております。門閥貴族共の艦船にあるような防御専用モジュールを用意する必要はございません!!」

 執務室の主である帝国宰相、リヒテンラーデ侯クラウスは辛うじてあくびをせずに、辛抱強くこの男のプレゼンを聞いていた。まぁこの男の魂胆は見え透いている。だからといって粗略に扱うことができないのもまた辛い。

 

 十分ほども話し続けたラインフォルトは、何か喉に異常を感じたのか、ごほごほとむせる。リヒテンラーデ侯はここぞとばかりに反撃に転じる。

 

「ラインフォルト君、君の説明は十分聞かせてもらった。君が提案している新型艦が抜きん出た性能を有していることも、だ。同じような説明をもう三度、聞かせてもらっているからな。で、だ。提示された建造予算では、一隻作るごとに五隻の標準戦艦が作れるのではなかったかね?もちろん、この船が標準戦艦として採用され、工廠で量産が行われた場合で、だ」

 

「また予算の話でございますか」

 ラインフォルトは呆れたような顔をして言った。

 

「その話を聞くのはこれで四度目でございますな。確かに!帝国宰相ともなれば、国のふところを気にしなければならない、そうなのでございましょう。ですが、この新型艦はカネでは決して得られないものをもたらすのであります。そう──」

 

「勝利──を」

 ラインフォルトの目は恍惚としたような感であった。反対に、リヒテンラーデ侯の目つきは、勘弁してくれと言いたそうな感じである。

 

「もし、門閥貴族どもがこの船を手に入れて、量産した暁にはどうされるおつもりですかな──」

 

「ラインフォルト君、君の帝室に対する忠誠は十分分かっておる。そのようなことはあり得ん」

 リヒテンラーデ侯は淡々と答えた。もし、南軍がこのような高コストの船を量産するならば、北軍にとってはむしろ好都合だっただろう。いくら単独の性能が高くても、量が揃えられない艦船には意味がない。今の南軍は人命もひっくるめてコストを厳密に計算する軍隊である。

 

「ともかくともだなラインフォルト君、君をここに呼んだのは新型艦の話を聞くためではない。今度新設する惑星ユグドラシルの新工廠、そのスケジュールを確認するためだ。事前に確認したであろう?」

 

「あれは遅延します。当初予定より三か月ほど」

 ラインフォルトはぶっきらぼうにそれだけ言った。

 

「遅延!?聞いていないぞ」

 今度はリヒテンラーデ侯の方が爆発した。

 

「分かり切ったことを聞かないでいただきたい。概要についてはシルヴァーベルヒ君が説明したのではなかったのですか。事前に集約する弾薬その他の物資が、当初予定の倍を軽く超えている現状では、新工廠建設用の資材製造にも影響が出るのです。それが分からない宰相殿ではありますまい」

 

「作戦準備については五月に内示を出してあったはずだ。その時はスケジュールに影響しない、そう聞いていたはずだが、そうではなかったのか」

 なおも、リヒテンラーデ侯はラインフォルトに詰め寄る。

 

「統帥本部が提示した必要物資量であれば、という話です。帝国各所に集積していた物資で大方が賄えることを前提で、スケジュールを出したのです」

 

「前線からの上申はそちらも聞こえているはずであろう。弾薬を節約しながら戦うのは兵士の役目ではない!兵の怨嗟の声が聞こえないのか」

 

「なら申し上げましょうか。昨年から今年にわたりますキフォイザー星域攻勢作戦、連携の取れない攻勢、弾薬をいたずらに消費したにもかかわらず戦果の確認は不十分、警戒の緩んだ補給部隊への攻撃により無駄に失われる物資。成果があがらぬのは仕方がないとしてですな、あがらぬにもかかわらず無駄に作戦を引き伸ばし、物資の消費だけが伸びるこの事態を何とも思わないのであれば、我が軍の勝利などあり得ないでしょう!敵将メルカッツに笑われて、それだけです」

 リヒテンラーデ侯は臍をかんだ。まるでシルヴァーベルヒのコピーが目の前にいるかのようだ。やはりいくら有能だからといえ民間人を軍隊に入れるべきではなかった。それも財閥の重役など──

 

 だが、リヒテンラーデ侯自身がまいた種でもあった。

 

 

 

 帝国内戦というのは、外から見えるイメージとは異なり、南北共に「まず予算と戦い、次に敵と戦う」戦争であった。内戦が三十年を超える長いものになったのも、それが大きな原因である。

 

 人、艦船、弾薬、補給物資、全てに予算が必要だ。そして、それを必要な時に必要なだけ供給しなければ、戦うことすらおぼつかない。

 

 帝国軍の統帥システムは、まず、軍のトップに軍務尚書がある。軍務尚書は軍の基本的な方針を決め、軍内部の人事・財務・軍政などを所管する。そして、統帥本部総長は軍令を統括し、参謀本部を所管する。最後に、宇宙艦隊の差配を司る宇宙艦隊司令長官がいる。この三人は所謂『帝国軍三長官』と呼ばれる帝国軍の最高幹部だった。

 

 そして内戦このかた、帝国軍三長官は内紛を繰り返し、北軍の統帥は混乱を続けていた。理由としては、北朝の支配領域に関する問題がある。北朝の支配領域は首都星オーディンの周辺である中核星域、アムリッツァ星域からエックハルト星域に及ぶ辺境星域、そしてその連絡路と「Uの字」状に曲がった細長い領域であった。そして、一部を除きこの領域は南朝の支配領域と接している。内戦だから当たり前、と言ってしまえばそれまでだが、それゆえに戦略の「重心」を置くことが難しい。オーディンを捨てることができないのは大前提だが、辺境星域、そしてそこへの連絡路を危機に晒すこともできない。ここを喪失してしまえば、フェザーン自治領との連絡が絶たれる。フェザーンとの経済交流がなくなってしまえば、戦争そのものも失うことになるであろう。

 

 結果、兵力・物資を細かく、ばらばらに配置することが必要となり、これが非常に非効率的だと批判を浴びていた。実際、南軍はこれらのこまごまと配置した戦力をヒットアンドアウェイの方式で攻撃し、そのたびに北軍に少なからぬ損害が出ていた。

 

 10年前に帝国宰相の座についたリヒテンラーデは、その改革に乗り出した。当時、北朝の財政は破綻の危機に瀕しており(これは南朝も同様だったが)、三十年に一人の天才財務官僚として知られていた中級貴族のリヒテンラーデは、リヒャルト三世に財務再建を命じられ抜擢されたのだった。

 

 リヒテンラーデは多方面にわたって財務の改善に乗り出した。財務の改善というのは、ひらたくいえば増税と支出の削減(と民間への権限等の委譲)だったから、各方面からひどく恨みを買った。この年まで帝国宰相の座にあること自体が奇跡だという評判がもっぱらだった。ちなみに、全部を書くと本一冊では足りないので、軍事方面の概要だけを述べるにとどめる。

 

 まず、帝国北朝の支配領域を3つの「軍管区」に分割した。首都星オーディン周辺を管轄するオーディン軍管区、辺境領域を管轄するアムリッツァ軍管区、双方の連絡路を維持するシャンタウ軍管区の3つである。それぞれの軍管区は、それぞれ管轄する星域の防衛に責任を持ち、艦隊は軍管区星域内に駐留するものとされた。管轄内の軍事施設においても、一定の裁量権を持つこととなった。

 

 批判は少なくなかったが成果はあがった。慢性的な赤字状態だった軍事予算は、支出の改善によりどうにかこうにか予算の範囲内でやりくりできるようになった。皇帝は満足し、リヒテンラーデへの賞賛の声が高まった。

 

 そして──予想通り軍閥化した。

 

 軍管区司令官は、支配領域に責任を持つ代わりにそれ以外への責任は持たなくてよくなった。ということは、領域の防備や限定的な攻撃、嫌がらせのような南軍への奇襲攻撃と離脱には熱心でも、全軍が歩調を合わせた南軍への大攻勢には真面目に取り組まなくなった。他人のために自分達が損害を受けるということは、任務のうちに含まれていなかったからだ。昨年後半から今年にかけて行われていたキフォイザー星域への攻勢作戦は、まさにその象徴ともいえる戦いだった。3つの軍管区艦隊が攻勢を仕掛けては、犠牲が多く実りの少ない作戦を避けて艦隊を退いてしまう。攻勢を督促されても理由をつけて出てこない。結果、時間ばかりかかってキフォイザー星域のガルミッシュ要塞奪取すらできないという有様だった。

 

 キフォイザー星域作戦の失敗は、軍管区というシステムだけに起因するものではなかった。今から数えると二年前、当時軍管区の軍閥化、その象徴と見られていたのは、アムリッツァ軍管区司令官のクラーゼン大将だった。前職は帝国幕僚総監だったクラーゼン大将は、アムリッツァ軍管区が創設された頃からずっと司令官の職にあり、軍首脳部からはコントロール困難な存在と見なされていた。

 

 リヒテンラーデと軍首脳部は、クラーゼンの排除を、システムの更新によって実現しようとした。まずクラーゼンを元帥に昇進させ、軍務尚書の位を与える。そして、業務再編の一環として、軍務省の財務・軍政の機能を統帥本部に、軍管区間の調整を軍務省にそれぞれ移管(スイッチ)した。そして最後に、当時の統帥本部総長を更迭し、軍務省の軍政を司っていたブルーノ・フォン・シルヴァーベルヒを統帥本部総長に充てたのであった。

 

 誰もがこのシステム更新に驚愕した。第一、新統帥本部総長のシルヴァーベルヒは軍人ですらなかった。大財閥ラインフォルトの最高幹部からの出向で、年齢も30になったばかり。ソフトウェアエンジニアリングの鬼才であり、軍務省の効率化に手腕を振るっていたことは知られていたが、統帥本部のトップとしてはあまりに異彩すぎるという批判が沸き起こった。

 

 シルヴァーベルヒとリヒテンラーデは、共に手を携えて改革に取り組んだ。軍の輸送流通システムの刷新を試み、軍管区が報告する戦況や物資消費情報を基に、弾薬や物資をシームレスに供給する仕組みを作り上げた。これによりよっぽどのことがない限り、弾薬物資の極度の不足が起こらないことになった。

 

 ちなみに、クラーゼンの後任は、クラーゼンの腹心ではあるものの年齢わずか20のミューゼル中将が大将に昇進して司令官となった。しばらくの内は、軍管区内をまとめるので精一杯となる、というのが一般的な予測であった。

 

 リヒテンラーデは勝利した。軍管区司令官から危険人物を除去し、高位ではあるものの権限が限定されている役職につけた。補給システムを改善し、物資の不必要な溜め込みが起こらないことになった。まぎれもない大勝利であった。

 

 そしてリヒテンラーデは今、その『大勝利』に苦しめられている。

 

 

 

 リヒテンラーデが何に苦しんでいるかというと、軍が保有しているはずの「余裕」についてだった。シルヴァーベルヒの作り上げた「システム」は、軍が溜め込んでいる「余裕」、言い換えると「無駄」を削ぎ落とすことで効率化を実現していた。そうすると何が起きるか。身の丈に合わない、と見なされる大プロジェクトが実行困難になるということであった。無理をして消費した弾薬を補充する、あるいは通常想定されるよりも倍する量の物資を溜め込む、こういう行為が難しくなるのである。

 

 話を元に戻すと、ラインフォルトはリヒテンラーデに対し、軍が想定を大幅に超える量の弾薬を注文してくるので、新工廠といった他のプロジェクトは軒並み後回しになりますよ、そう言っていたのだった。

 

「何とかならんのかねラインフォルト君。『ラグナロク』作戦後も戦争がすぐ終わるわけではない。今度は叛乱軍と事を構えねばならないのだ。そのためには、工業力の増大は必要になる。内戦に勝利した後、傷ついた軍隊を抱えたまま叛乱軍が雪崩れ込んでくる事態になったらどうする。今が踏ん張りどころだ」

 

「もちろんです閣下。我々もその期待に応えるべく、かなりの持ち出しをしております」

 

「そうか。この間、君の奥さんとも話をする機会があった。しばらくの間、ラインフォルト銀行は国債の新規引き受けをする気はないと言っておったぞ」

 

「ほぅ、イリーナがそう言っておりましたか。ならば是非に及ばず」

 

「ラインフォルト君!」

 リヒテンラーデは机をどんと叩いて叫んだ。同時にかなりの大きさの雷鳴が鳴り響き、二人はびくりと背筋を震わせた。

 

 

 

「かなり近かったようですな」

 ラインフォルトは3Dプロジェクタのスイッチを切り、執務室のカーテンを開けた。空は曇っているが雨は降っていない。遠くでぴかっと光るのが見えた。雷はまだ鳴り続けるのであろう。ラインフォルトは執務室の照明を点けようとした。点かない。スイッチを何回かオンオフする。それでも点かない。

 

「停電でしょうか」

 

「おおかた、給電設備が故障したのであろう。この間、宮内省が設備更新稟議を出しておった。ま、しばらくすれば復旧するのだがな。予備電源があるからな。それに非常用電源はまだ生きている」

 

「なるほど。設備更新のご用命は是非とも我が社に」

 

「セールストークなら宮内省か工部省に言いたまえ」

 リヒテンラーデはラインフォルトの売り込みにそう言い返すと、ラインフォルトは何かぶつぶつ言っていたようだが帰っていった。宰相に自らの新戦艦を売り込むという目論見は失敗したわけだった。

 

「まったく……」

 二十分ほどして電力が回復した室内で、リヒテンラーデはため息をついた。帝国は衰微し、軍隊はコントロールが利かず、新無憂宮は照明の更新にも苦労する有様。皇帝陛下が静養のため離宮へ行幸しているのが幸いだった。

 

 そして、勢いがあるのはあのような男達の居る財閥ばかり。

 

 これが国家の危機と言わずして何だというのだ──

 

 

 

 丁度同じころ、新無憂宮の片隅にて──

 

「姉上!」

「アンネローゼ様!」

 

「ラインハルト、それにジークも。ようこそいらっしゃいまし。随分と間が空いたわね」

 

「その通りです姉上。帝国軍式典の時以来ですから1年と3か月12日ぶりです」

 

「あらあら、計算していたのかしら」

 

 女性の声に、ラインハルトは小さく舌を出すと頭をかいてみせた。このような表情は、けしてアムリッツァ要塞で見ることはできない。片方は帝国軍大将、もう片方は帝国軍少将であり、それを示す軍服を着用しているが、今の二人はできたての少尉とさして変わらない。

 

 目の前の女性──長い金髪と蒼氷色(アイスブルー)の瞳を持つ、容姿端麗ながら穏やかな雰囲気を持つその女性はアンネローゼ・フォン・ミューゼル。ラインハルトの姉であった。

 

「遅くなり申し訳ございませんアンネローゼ様。宇宙港が混雑しておりまして」

 

「あらあらジーク。それは大変だったわね。まぁ、おあがりなさい。予報ではそろそろ雷雨になるそうよ」

 

 

 

 リビングのテーブルには、既に二人を歓迎する準備ができていた。テーブルの中央には直径20センチ近くにもなる大きなザッハトルテが鎮座していた。切り分け用のナイフが添えてある。

 

「今からお茶を入れるわね。二人とも、コーヒーでいいかしら」

 アンネローゼの声に、ラインハルト、キルヒアイスはそろってうなずいた。

 

 

 

 ラインハルト・フォン・ミューゼル、ジークフリード・キルヒアイス、そしてアンネローゼ・フォン・ミューゼルこの三人は、帝国の内戦が生み出した象徴(但しある意味、明るい方)ともいえる存在だった。

 

 ラインハルトが生まれたのは帝国暦467年(宇宙歴776年。ちなみにヤン・ウェンリーはこの時9歳)、誕生日はキルヒアイスが1月14日、ラインハルトが3月14日であった。父セバスティアン・フォン・ミューゼルは下級貴族の身分であったが、工場を経営しており、母クラリベルと共にそれなりに幸せな家庭を築いていた。

 

 そんな幸せが暗転したのは、ラインハルトが5歳、アンネローゼが10歳の時であった。母クラリベルが事故死したのであった。コントロールを失った地上車が歩道に突っ込み、運悪くそこにクラリベルが居たのである。事故の直前、巻き込まれそうになった少年を突き飛ばしたため、自身は逃げることができなかった。

 

 それからしばらくして、父セバスティアンの家業が傾きだした。世の中は財閥による大規模経営がもてはやされる時代になっていた。帝国の成長のため、そして何よりも南朝との内戦に勝つため、経営統合だの買収だので、財閥が急激にふくれあがっている時期にあたっていた。

 

 セバスティアンは自身の力が及ぶ限りそれに抗い続けた。しかし、むなしかった。彼にできることといえば、会社の、そして家族の命運、それが尽きる瞬間を先延ばしにするぐらいだった。借金はかさみ、セバスティアン本人も荒れていった。やがて家業がどうにもならなくなると、そこにアルコールが追加された。

 

 セバスティアンが亡くなったのはラインハルト11歳、アンネローゼ16歳の時だった。家庭は二人ともう一人だけになっていた(この頃にはキルヒアイスはそういう存在になっていた)。セバスティアンの死の直前に会社が倒産し、従業員が離散したのは三人にとって幸であったか不幸であったか。

 

 二人(三人)は、父親が遺した借金に立ち向かわざるを得なかった。アンネローゼは高校を退学し働き始めたが、それだけで借金がどうにかなるものではなかった。

 

 そこにキルヒアイスが一つの案を持ってきた。帝国軍幼年学校を受験するというものである。少年時代から帝国士官の基礎を叩き込み、軍の士官へと育て上げる幼年学校では、在学者は学費が無料で、負債を抱えている場合は支払いを猶予される、という制度があった。それだけ北軍が人材に困っていたということであったが、キルヒアイスはそれに目をつけたのだった。

 

 二人は幼年学校を受験し、合格した。入学した後に気づいたことであったが、ラインハルトは用兵に、キルヒアイスは情報の解析に天賦の才能があった。ラインハルトは戦況図を見れば即時に布陣の弱点を見抜いてみせた。キルヒアイスは集めた不確実な情報から、どれが信頼のおけるもので、どれがそうではないのかを的確に判断してみせた。

 

 四年の就学を経て、二人は幼年学校を卒業した。ラインハルトは当然のように首席となり、キルヒアイスは次席となった。

 

 卒業した後、二人が選択した進路は、見習士官の資格で軍に勤務するというものだった。教官達はそれを聞くと翻意を促した。実際、幼年学校で優秀な生徒はそのまま士官学校に入学し、二年の教育を受けて正式な少尉となるのが一般的なルートだったからだ。見習士官というのは落ちこぼれの卒業生がなるものだったのだ。幼年学校の首席と次席が子猿(アフェンキント)(見習士官の蔑称)だなんて、そう言い切った教官さえ居た。

 

 しかし、二人には選択肢がなかった。一刻も早く収入を得て、アンネローゼに楽をさせなければならなかったからだ。

 

 二人は少尉(仮)に昇進すると、アムリッツァ軍管区に配属され、駆逐艦「エルムラントⅡ」乗組を命じられた。

 

 そこからの栄達は目覚ましかった。初出撃で、南軍の巡航艦撃沈確実の戦果をあげると共に、所属する駆逐隊の司令を務める巡航艦に対して飛んできたミサイルを、広域制圧ミサイルで全部撃破、巡航艦を守り切る戦功をあげたのだった。少尉につけられた(仮)の称号はその日のうちに消滅した。

 

 二年後には少佐(キルヒアイスは大尉)となり、駆逐隊の一員から駆逐隊のリーダーに成り上がっていた。ある時、ラインハルト率いる駆逐隊はシャーヘン星域を哨戒していたのだが、南軍の部隊と遭遇した。相手は戦艦も含めた五十隻近い大部隊で、当然ながら敵うはずもなかった。即刻撤退して報告をすべき事態だった。

 

 しかし、撤退の具申に対するラインハルトの返答は否、だった。ラインハルトは敵部隊の死角を見抜くとそこから奇襲突撃を敢行した。一撃で敵の旗艦を含む五隻を撃沈破すると、混乱する敵部隊に対して降伏を勧告したのだった。

 

 敵は一も二もなく降伏した。後で分かったことだが、その部隊は南軍の秘密開発兵器を輸送し、フェザーンへ輸送する任務を負っていたのだった。ラインハルトは想像以上の大戦果をあげたのだった。

 

 ラインハルトは中佐に昇進した。それだけではない。アムリッツァ軍管区の司令官であるクラーゼン大将の知己を得ることにも成功した。ラインハルトは、軍管区の期待のホープと見なされたのだった(なお、この時、クラーゼン大将と男色の関係を持ったという根も葉もない噂が流されたが、もちろんこれは事実ではない。ちなみに、噂の出所を突き止め報復したのはキルヒアイスであった)。

 

 19歳の頃には、クラーゼン大将が司令を務める第三艦隊の副司令官となっていた。階級は少将であった。この頃には、南軍や同盟軍にも警戒すべき北軍の将帥と見なされるようになっていた。クラーゼン大将は軍管区の差配で多忙だったので、しばしばラインハルトが第三艦隊を率いて出征し、それなりの軍功を持ち帰ってきた。

 

 20歳になって中将に昇進したラインハルトに、さらなる転機がやってきた。軍管区司令官を長く務めていたクラーゼン大将は、首都オーディンの軍首脳部にとっては野に放たれた虎のような存在だった。帝国宰相リヒテンラーデ侯と軍首脳部は手を組み、クラーゼン大将をアムリッツァ軍管区の司令官職から革職した。代わりに、帝国軍のトップである軍務尚書の地位に充てたが、権限は大幅に縮小していた。

 

 ラインハルトはクラーゼンの後任として軍管区司令官に就任した。成人したばかりの人間が司令官であったが、軍管区内部の評判は悪くなかった。何はともあれ軍で、それも実戦を経験している軍で必要なのは勝利の実績である。ラインハルトの中将在任期間は三か月に満たなかった。

 

 ラインハルトの栄達はアンネローゼにも影響を与えずにはおかなかった。ラインハルト(とキルヒアイス)の勧めにより、彼女は仕事を辞めて服飾の学校に進学し、服飾デザインを学ぶこととなった。それであれば、卒業した暁には独りでも生計を立てることができるからだった。ここでアンネローゼは知己を得ることになる。

 

 マグダレーナ・フォン・ヴェストパーレ──所謂ヴェストパーレ男爵夫人は芸術方面に造詣が深かった。ヴェストパーレ男爵家の当主である彼女は(但し夫人と呼ばれていても結婚はしていない)、その有り余る家産を駆使して様々な方面で芸術家の援助を行っていた。

 

 その彼女がアンネローゼに目をつけた。

 

 とある服飾のコンペでアンネローゼが提出したデザインがヴェストパーレ男爵夫人の目に留まったのだった。そこから付き合いが始まり、アンネローゼは学校を卒業することなくヴェストパーレ男爵夫人のお抱えデザイナーのような存在となっていった。それだけではない。彼女はアンネローゼに、新無憂宮で女官が着用するドレスのデザインという仕事を与え、新無憂宮に住居まで与えたのである。菩提樹の茂る池のほとりにある館──以前は狩猟に出た皇帝の休憩所に使われていたといわれる──それが今のアンネローゼの住居であり仕事場であった。

 

 

 

 アンネローゼとラインハルト、そしてキルヒアイスには話すべきことが山のようにあった。ラインハルトとキルヒアイスには武勇伝が、アンネローゼには宮中のいろいろな噂話があった。噂話はラインハルトにとってもありがたかった。新無憂宮は、帝国軍の中枢でもあり、そこで何が起こっているかは知っておかなければならなかった(もっともそういう仕事はキルヒアイスが専門でこなしているのだが)。

 

「鹵獲した南軍の戦艦が貴族共のものなのか、そうでないのかは艦内を見ればすぐ分かりますよ。何故だか分かりますか」

 

「何故かしら」

 

「使っている食器で分かるんですよ。貴族共のフネは高級な陶器の食器を使っていますからね。乗り組んでいるコックも優秀なんでしょうね。あれを失うのは料理界の損失かもしれません」

 ラインハルトが冗談めかして言うので、アンネローゼはころころと笑った。キルヒアイスは横で満足そうにうなずいている。中央にあるザッハトルテのホールは、もう既に半分がなくなっている。アンネローゼのお菓子作りの腕は一級品、ラインハルトもキルヒアイスもそれは分かっていた。

 

「ラインハルトは随分と忙しいのね」

 

「まぁそうです。でも、姉上のことを思えばこそ。姉上こそ、こんな所で仕事を続けていていいのですか。借金のことなら我々で十分やっていけますよ。第一、アムリッツァ要塞など、いくら給料を貰っても使う場所なんてありませんから」

 

「そんなことはないわ。ヴェストパーレ男爵夫人には十分良くしてもらっているし、受けた恩は返さなければならないわ。それに借金のことだけど、私からも返したいのよ」

 アンネローゼはそこで言葉を切ると、ちらとキルヒアイスの方を見た。キルヒアイスは顔を赤くする。ラインハルトは不思議そうな顔をした。

 

「まぁ、困ったことがあったら何でも私、あるいはキルヒアイスに言ってください。何でもやりますよ。何でも」

 

「あらそうなの?何でもすると言ったわね」

 

「もちろんです」

 

「フェザーンに行きたいと言ったら?」

 

「もちろんお望みのままに」

 キルヒアイスが答えた。

 

「自由惑星同盟はどうかしら?」

 

「……姉上、本気ですか」

 ラインハルトはぎょっとして言った。

 

「あらあら。ラインハルトは、私が貴方を困らせると思っているのかしら。別に、オーディンを出ていく気はないわよ。私はここで十分よ」

 

「もしアンネローゼ様がお望みなら」

 キルヒアイスが言った。

 

「自由惑星同盟でも、たとえ銀河の外でもどこへでもお供します。今すぐ、三人で亡命してもいいのですよ」

 

「あらあらジーク。意地悪な質問をしたかしら」

 

 その時、轟音が鳴り響いた。新無憂宮の中か、それに近い場所に雷が落ちたようだ。三人ともびくっとしたがそれ以上のことはない。ただ、それまで点灯していた照明が消えてしまった。

 

「停電?」

 ラインハルトが言った。

 

「どうやらそのようですね」

 キルヒアイスがこたえる。

 

「最近、給電設備が老朽化しているんで、更新の工事をやるらしいって話が回ってきているわ。いつするのかは分からないけど」

 とアンネローゼ。

 

「姉上を停電のまま放置するとは、新無憂宮の連中ときたら」

 

「ラインハルト。そんなことを言うもんじゃないわ。今でも職員の方が復旧に向けてがんばっているはずよ。それに」

 

「それに?」

 

「昔を思い出すわ。古い家で、電気がよく止まったわよね。あの時はラインハルトも怖がりさんで、ぐずるラインハルトを母さんか私がよくなだめたものよ。覚えているかしら」

 

「姉上、そんな昔のことを──」

 

「そんなことがあったんですか」

 キルヒアイスが言った。照明がないので、どんな表情をしているかは分からない。

 

「と、とにかく調べてきます。管理棟はどこですか」

 

「ラインハルト、管理棟は2キロも向こうよ。そんな所までどうしようと」

 

「地上車がありますから!」

 ラインハルトは止めるのも聞かず飛び出していった。外で、地上車が走り出す音が聞こえる。どうやら本当に管理棟に問い合わせに行ったらしい。

 

 

 

 しばらくして、照明が突然点灯した。どうやら停電から回復したようだ。

 

「あらあら」

 アンネローゼが困惑したように言った。管理棟に問い合わせに行ったラインハルトを呼び戻すにはもう間に合わない。帰るまでにしばらく時間がかかるだろう。

 

「そういえばジーク」

 

「何でしょうか」

 

「これは思い付きなのだけど。今、ラインハルトはすごく大事なお仕事をしていらっしゃるでしょう?」

 

「そうですね」

 

「ラインハルトはいい子だから、そんなお仕事も立派に成し遂げると思うけど、辛いこともあると思うの。これは今までもそうだったと思うけど。ヴェストパーレ男爵夫人の受け売りだけど、人は心が折れなければ何度でも立ち上がれる、そういう生き物だそうなのよ」

 

「わかりますわかります」

 

「だから、何かメッセージを残しておきたいの。ラインハルトの心が折れそうになったとき、見返して、立ち直るためのメッセージ。何か一言、それだけでいいの。私とジーク、一つずつ」

 

「それはいいアイディアですね」

 キルヒアイスは同意した。アンネローゼは隣の仕事部屋に行って、3D画像レコーダを持って戻ってきた。

 

「それで、何と言いましょうか。『負けないで』『私がついている』とか?」

 

「うーん、どうかしら」

 アンネローゼは首をひねった。キルヒアイスは他にもいくつか候補をあげたが、アンネローゼはそれら全てに首を振った。

 

「フィーリングに合わないわね。もう少し大仰なのがいいかしら。ラインハルトって、結構おだてると調子に乗るじゃない。心が沈んだ時には、そういうのが合うかもしれないわよ」

 

「なるほどそうですね。それでは──」

 キルヒアイスはある言葉を口にした。それを聞いたアンネローゼは、しばらく考え込んだ後に、それにしましょうとこたえた。

 

「では、始めましょうか。アンネローゼ様、レコーダの準備はいいですか」

 

 

 

 さらに丁度同じ頃、新無憂宮、民政尚書公邸──

 

 

 

 新無憂宮の敷地内には、尚書(省のトップ。現在の大臣にあたる)の公邸が建てられている。国務・軍務・財務・内務・司法・学芸・宮内・典礼・民政・工部と10の省があり、それぞれに尚書がいるから、公邸は10個ある……と言ってしまえば簡単なのだが実際はそうではない。軍務尚書は軍務省から勤務するのが通例であるため、公邸は長らく使う人が誰もおらず取り壊されてしまった。工部省は技術官僚の牙城であり、比較的歴史の浅い省なので公邸そのものが存在しない。民政省も歴史の浅い省なのだが、こちらには公邸が存在する。

 

 他の公邸とは違い、ひどく小ぢんまりとした建物であったが、他の建物にはない目印がこの建物には存在する。公邸の庭に植えられている、3本の梅の木であった。

 

 公邸の中の尚書執務室、その中央には小さな丸テーブルと椅子が置かれていた。部屋の主、現民政尚書マリーンドルフ伯フランツは、その椅子に座って窓から見える梅の木を見るのを密かな楽しみとしていた。

 

 そして、今は椅子がもう一つ増えて、来客が座っている。ヒルデガルド・フォン・マリーンドルフ、マリーンドルフ伯の一人娘で今年21歳になる。くすんだ短い金髪とブルーグリーンの瞳を持つ、美少年めいた容姿は、父親よりも母親の影響を濃く受けていたとのことだった。女性にしては珍しい傾向であった。母親は既にこの世に居ないため、実際に確認することはできない。

 

 マリーンドルフ伯が盆にグラスを2つ載せてやってきた。グラスの中には琥珀色の液体と球体の物体が入っている。マリーンドルフ伯が毎年作っている、梅の蜂蜜漬けから作るドリンク(と漬けられた梅)だった。元はといえば、マリーンドルフ伯の妻、つまりヒルダの母親が趣味で作っていたものだった。彼女が亡くなった後は、マリーンドルフ伯が梅の収穫とドリンクの作成を行っている。もちろん、外部の人間にこれを出すことはない。相伴にあずかれるのは、ヒルダを除けば古くからの執事や使用人ぐらいである(それも滅多にないことだが)。

 

 ヒルダはそのグラスを嫌そうに見つめた。このドリンクが別に不味いわけではない。それは分かっていた。梅の木がマリーンドルフ伯親子の思い出と濃厚にリンクしている。それも分かっている。だが、呼ばれた目的が目的だ。

 

 マリーンドルフ伯とヒルダはしばらく無言だった。マリーンドルフ伯の方がグラスの液体を二口ほど飲む。ヒルダは手をつけようとしなかった。

 

「お父様」

 

「なんだ。飲まないのか。好きだっただろう」

 

「そうですけどね。お父様は私にこれを飲ませるために、わざわざフェザーンから呼び戻したのですか?卒業研究がかかっているこの大事な時期に」

 

「……」

 マリーンドルフ伯は答えない。何か、時機をうかがっているようだ。

 

「もう。お父様がおっしゃらないなら私から言いますよ。どうせ結婚の話でしょう?この間、FTLライブ通話を強制切断したことをそんなに恨みに思っていらっしゃるの?まぁ、確かに私が悪うございましたが。で、どこから見合いの話が来たのですか?」

 

「分かっているなら話が早い」

 

「で、お相手は?」

 

「……そんなものはない」

 

「は?」

 ヒルダは口をぽかんと開けた。もちろん年頃の娘であり、門閥貴族の一人娘であるから、結婚話が舞い込んだことは一度や二度ではない。時期が時期なら皇后の話もあったかもしれない。マリーンドルフ伯爵家というのはそういう格式の家であった。

 

「お前が見合いで結婚するわけはないだろう。いや、その気なら明日にでも話をまとめてくるがな。どうせ話を用意したって、適当に理由をつけてぶち壊しにするのだから。私も暇ではないのだ。先日の帝都での大規模デモの後始末がようやく終わったと思ったら、今度はローゼンタールの工場で解雇反対のストライキの話が出てきている」

 

「もちろん聞いております。お父様のせいではないでしょう。解雇反対のストライキには、対象者に一時金を給付して、ラインフォルトの新工廠に引き受けさせればいいのでは。雇用対策基金にはまだ残高があるのでしょう?」

 

「おい」

 

「何でしょうお父様」

 

「誰から吹き込まれたのだそれは」

 

「私の思い付きですわ。私も新聞ぐらいは読みますわ」

 マリーンドルフ伯は大きくため息をついた。これがヒルデガルド・フォン・マリーンドルフである。貴族の子女なら興味を示しそうな物事(アクセサリ、ファッションや音楽、色恋沙汰を含めた社交等)にほとんど興味を示さず、幼い頃は野山を駆け回り、成長してからは政治や戦争の研究に没頭していた。愛読書はニッコロ・マキャヴェリ『君主論』では、話の合う友人がいるわけもなかった。18歳になってから、当たり前のようにフェザーンの自治州大学に留学を決め、マリーンドルフ伯が止めるのも構わず家を飛び出していった。

 

「……常に男だけが政治をするわけではないのだがなぁ。ヒルダ、男を相手にやりこめようとするのはやめておけよ。結婚とか色恋とかそういうのではない。風評というやつだ」

 

「分かっております。それで?」

 

「だからお前の胸中を聞くために呼んだのだ。心に決めた相手がいるのか」

 

「おりませんわ」

 

「では、興味のある人は?」

 

「それもおりません。今は卒業研究と卒業することだけで頭の中がいっぱいです」

 

「では、こちらから言うぞ。カストロプ家の四男はどうなんだ。丁度お前と同じ年だろう」

 

「本気でおっしゃってるのですか。ルーカス様は過去の人でしょう。使用人に狗をけしかける人のところに輿入れをせよと?」

 ヒルダの回答に、マリーンドルフ伯は、なんだ分かっているんじゃないかと心の中だけで呟いた。アンテナを張っているのはいいことだ。張ってないよりもずっと。

 

「レムシャイド伯の次男はどうだ。三つ上のはずで独身のはずだ」

 

「アントン様には決断力がありませんわ。虚栄心が強く情緒不安定、大事の前に身を惜しむ人と聞いております。そのような方と奈落の底に墜ちる気はございません」

 

「……」

 マリーンドルフ伯は黙った。同時に驚いてもいる。どうやらヒルダはヒルダで、自分の身の振り方をそれなりに調べていたのであろう。ならば、ヒルダの心中を把握しておかなければ。

 

「お父様、もう終わりですか」

 

「まだだ……シュライヒャー家の長男はどうなんだ。この間成人したばかりだが」

 

 

 

 マリーンドルフ伯は思いつく貴族の子弟、その名前をあげてみたが、ヒルダの方はいつもの調子で明快に却下してしまう。その中の何名かは既に結婚していることを逆に指摘されるありさまだった。そのやり取りを聞いている人がいれば、むしろやり取りに快感を覚える人がいるかもしれない。

 

「こうなったら、南朝の貴族の子弟から選ばざるを得ないぞ」

 

「冗談はおよしになって、お父様」

 

「では、カール・フォン・ブラッケはどうだ。年は少し上だが結婚していないはずだ。彼ならお前に口でやりこめられることはなかろう」

 

「お父様は格式などどうでもいいのですか」

 

「お前の花嫁姿が見られるのであれば」

 

「ブラッケ様は確かに頭の回る方ですが、私のような人間と一緒になって私が束縛するのは、国のためになりません」

 

「国のためよりも、お前自身のことを考えておくれ」

 

「お父様」

 

「書生論なら聞かないからな」

 

「いいえ、聞いていただきます。南朝クレメンス様がお倒れになってから二か月以上経ちますが、回復したという話は聞いておりません。南朝の政府は過労という症状しか発表しておりませんが、向こうのマスコミでは重度の脳梗塞という話が一般的です。それに対して何の取り締まりも行われておりません。つまりは、報道が間違っていないということです」

 

「……」

 

「もし、クレメンス様に何かあれば、帝国は大きく動きます。その時、間違えた決断をしていたらどうなるのでしょうか。その時悔いても遅すぎますわ」

 

「……で、クレメンス様に万一のことが明日あったとしたら、いつ動くのだ」

 

「それは分かりません」

 ヒルダはあっさり言い切った。

 

「それでは意味がない。ヒルダよ。世の中の動きに気を配るのはよい。貴族というのはそういうものだからな。だが、貴族が以前の威勢を失って随分と経つ。今や帝国はあの四大財閥が全てを仕切っている。私のやることといえば、彼らの後始末に過ぎん」

 

「お父様、それは言い過ぎでは」

 

「だから、今、この時点で自分の幸せを掴んでおくことが必要なのだ。帝国が大きく動こうと、お前なら十分疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)の時代を泳ぎ切ってみせようよ。泳ぎはまだやるのか」

 

「トライアスロンは略式であれば。いずれは完全(フル)にも挑戦してみたいですが」

 

「……まだやってるのか」

 マリーンドルフ伯はぼやいた。ヒルダはサンバーン体質なので、日焼けがほとんど肌に残らない。だからいくら野遊びをしても、それに気づく人は少なかった。

 

「ともかくもだ。お前がその調子なら、マリーンドルフ伯爵家はお前の代で断絶してしまうぞ」

 

「養子を取る話はどうしたのですか」

 

「それはやめにした」

 

「お父様──」

 ヒルダは眉をひそめた。マリーンドルフ伯がずいと乗り出す。

 

「いいか。この銀河広しとはいえ、マリーンドルフの名を持つものは二人しかいないのだ。お前と、私だ──」

 

 その瞬間、ぴしゃーんと雷鳴が鳴り響いた。随分と近い場所に雷が落ちたようである。照明もふっと消えた。どうやら停電が起きたらしい。照明そのものはしばらくして回復した。民政尚書公邸は比較的新しい建物なので、新無憂宮の他のブロックよりも電気のトラブルに強いのである。

 

「???おい、ヒルダ──」

 マリーンドルフ伯は周りを見回した。ヒルダの姿がない。しばらくして分かった。テーブルの下にいる。体を丸めてぶるぶる震えている。

 

 しばらくしてヒルダは起き上がり、何もなかったかのように椅子に座りなおした。

 

「ヒルダ、何の真似だ」

 

「子供の頃から雷というと、身を隠す場所にいつも迷います」

 

「馬鹿な。そんな猿芝居は、もっと意中の相手の前でやるものだ。私の前でやったって、何も出ないぞ」

 

「そうですか。では、もう一年お待ちくださいませんか。一年経てば卒業です。その頃には、世界が一変しているでしょうし」

 

「随分と確信があるようだな」

 

「確信はありません。予感です」

 ヒルダの言葉に、マリーンドルフ伯はふぅと息を吐き出した。まぁいい。今日だけで最後まで押し切れるとはマリーンドルフ伯も思ってはいなかった。ともかく、ヒルダが自分の身の振り方にまるで頓着していないということはない、それだけでも分かったのは収穫だ。

 

 

 

 マリーンドルフ伯はグラスを手に取った。一気に飲み干す。ヒルダは相変わらず手をつけようとしないので、ヒルダの方のグラスを手に取る。

 

「まったく、女が男と同じことをしようとするのはいいが、幸せになるのは難しいと思うのだがな。現実を見た方がいいだろうに。そんなに日常が不満なのかねぇ。ラインフォルトのところの一人娘のように」

 

「あら」

 耳ざとくマリーンドルフ伯の独り言を聞き取ったヒルダが振り返った。

 

「私のことは何とでもおっしゃって構いませんが、アリッサさんのことをそういう風に言うのは感心しませんわ。あの人は、心に決めた殿方がいらっしゃるはずですから」

 それを聞いたマリーンドルフ伯は、グラスを取り落としそうになった。

 

「何だと。本当なのか」

 

「本当ですわ。本人から聞きましたもの」

 

「誰なんだ、相手は。それは聞いたのか」

 マリーンドルフ伯の声は少々上ずっていた。アリッサというのはフランツ・ラインフォルトの一人娘である。当然ながらラインフォルト財閥、その後継者候補と思われていたが、これまた親と喧嘩別れして今は別居している。名前を変えて生活しているという噂だった。だが、その結婚話となれば、帝国中の関心事といっても間違いではないはずだ。何故今まで何の情報も漏れていないのだ。

 

「そこまでは。フランツ・ラインフォルト様かイリーナ様に直接お聞きになった方がよろしいのでは。恐らく知っているでしょうから」

 教えてくれるかどうかは分かりませんが。それでは失礼します──ヒルダは最後にそう付け加え、執務室を出ていった。

 

 ヒルダは父親に嘘をついていた。ヒルダは、想い人が誰なのかそれを知っていた。当の本人は懺悔の代わりに、それをヒルダに告げていたからだった。

 

 だが、それを父親に言ってしまったら、マリーンドルフ家を帝国内紛にまつわる陰謀に巻き込んでしまう、その確信もあったのだ。それはマリーンドルフ家の危機に他ならなかった。

 

 

 




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第十五話 祖国は危機にあり ~ 銀河帝国南朝の場合

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