銀河英雄伝説 ファニー・ウォー   作:ブッカーP

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第十五話 祖国は危機にあり ~ 銀河帝国南朝の場合

参考資料1 銀河帝国星系図

 

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参考資料2 銀河帝国南軍宇宙艦隊 戦闘序列

 

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宇宙暦798年、帝国暦489年8月中旬──

 

 

 銀河帝国南朝、キフォイザー星域ガルミッシュ要塞は、南朝が保持する宇宙要塞で、ガイエスブルク要塞に次ぐ重要な要塞である。建造時期は、アムリッツァ要塞、ガイエスブルク要塞よりやや前だが、宇宙港の機能、自己防衛機能は十分すぎるほどにある。

 

 そして、南朝にとって欠くべからざる存在である。そもそもキフォイザー星域は、南朝首都のブラウンシュヴァイク星域と隣接しているのである。ここが失陥すると、ブラウンシュヴァイク星域は、オーディンから来る艦隊、シャンタウから来る艦隊の二つで挟撃されることになるわけだ。何としても保持しなければならない。

 

 昨年の後半から今年のはじめにかけて、この星域は大規模な攻防戦の舞台となった。帝国北軍が今度こそとばかりに、この星域に攻勢を仕掛けていた。南朝も総力をあげて防衛につとめ、どうにかこうにか撃退に成功した。いや、北軍が攻勢に飽きて撤退したと言った方が適切かもしれない。今年になってからの、どうにも統制の取れない散発的な攻撃を見ていると、そうとしか思えないのである。

 

 この要塞には、南軍の二個艦隊が駐留している。ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ大将率いる第五艦隊と、アーダルベルト・フォン・ファーレンハイト少将率いる第七艦隊であった。後者は司令官の戦死により、新司令官として着任したばかりであった。本来は四個艦隊であるが、状態が比較的良い第六艦隊と第八艦隊は、フェザーン方面に進出し情報収集にあたっている。

 

 そのガルミッシュ要塞のメルカッツの私室に、ファーレンハイトが入ってきた。お互い、下級貴族出身のたたき上げ軍人であるため、年齢差はあったが二人はウマが合った。

 

「よく来てくれた」

 メルカッツはそう言うと、従兵に目くばせした。応接用テーブルに小さなショットグラスを二つ置くと、そこにグラス半分ほど、どろっとした透明の液体を注ぐ。メルカッツがグラスを一つ取ると、ファーレンハイトも当然のようにもう一つを手に取った。

 

「再会を祝して」

「祝して」

 二人は杯を飲み干した。中身はアルコール度数の高い火酒(シュナップス)である。まだ人類が地球という星のみで生活していた頃、寒い海の上で暖をとるための、船乗りの風習であったが、今は何の意味もない儀式のようなものだ。でも、メルカッツもファーレンハイトもこのような『船乗り』の風習にこだわる方だった。もちろん、量が少ないから酔っ払うことはない。従兵は飲み干したグラスを素早く片付けると、コーヒーを二人に置いて出ていった。

 

 そもそも二人は同じ艦隊の上司と部下だった。メルカッツは第五艦隊の司令官、ファーレンハイトは副司令官だった。ただ、補給その他をめぐるいざこざで、ファーレンハイトはメルカッツが止めるのも聞かず、上層部に直言を繰り返し、その報復としてフェザーンの航路帯警備司令という閑職に飛ばされたのである。本来は、もう少し早く、第七艦隊の司令官になる予定だった。ただ、昨年から今年にかけての北軍攻勢により第七艦隊は甚大な損害を被り、司令官も戦死してしまったため、ファーレンハイトとしては命拾いしたかっこうになる。

 

「こうして同輩として共に働けること、慶賀の至りだな」

 

「同輩なんてとんでもない。これからもご指導ご鞭撻を乞い願うところです、メルカッツ提督」

 

「万卒は得易く、一将は得難しだよ。ファーレンハイト君。フネは造ることができる。なんなら叛乱軍から買い付けてもいい。そのための政府予算もあるのだからな。だがな」

 それだけ言って、メルカッツはコーヒーを一口すすった。

 

「死地において動じない大将、それこそが今後必要となるのだよ。陛下の病いよいよ重く、その日はいつかやって来るのだ。その時に、卿の真価が問われるぞ」

 

「提督、滅多なことをおっしゃるものではない」

 ファーレンハイトが止めようとした。

 

「なに、心配ない。陛下のご病状は過労であると、宮内省はずっと言っておるが、もう誰も信用してはおらん。第一、もし、過労が事実であるとするならば、ご平癒祈願の記帳所が開設され、誰もかれもが押し寄せているこの現状をどう説明する?」

 メルカッツは口の端を歪めながらそう言った。ファーレンハイトは小さく頷く。

 

「北軍は、それに合わせて大攻勢を仕掛けるそうですな。キフォイザー星域の戦いが児戯に見えるような規模の。そうなれば我々はどうなってしまうのでしょうか。メルカッツ提督のお考えや如何に」

 

「まったく!ようやく敵を追い返して一息つけるかと思いきや、まだ敵には余力があるとみえる。あのシルヴァーベルヒという男は、ミサイルを無限に取り出すポケットでも持っているのか、そう思えるな。郷土防衛艦隊は、第五と第七は大きく傷つき、艦隊の体を為しておらん。第六と第八はまだ大丈夫だが、第八の司令はトゥルナイゼンの孺子(こぞう)、口舌の徒に過ぎん。とにかく使える連中からどんどん死んでいく」

 

「トゥルナイゼンには実績があります」

 

「そうだな。ただ、成り上がるというのはだな、あまり難しいことではないのだ」

 

「そうなのですか、メルカッツ提督」

 

「そうだ。他人の三倍の運を持っていればいいのだからな」

 メルカッツの冗談?にファーレンハイトはくすりと笑った。メルカッツにとっては、その何十年にもなる軍歴の中で、普通の人間の三倍、いやそれ以上の運を使ったであろう。

 

「だが、生き残り、こうやって艦隊を指揮する側になると、個人の運だけではやっていけん。トゥルナイゼンもいずれ分かるはずだ。まず、生き残った側としては、失った分の兵力をどこから戦力を集めてくるのか、それが問題だ。親衛艦隊は十分な戦力を持っているが、ガイエスブルク要塞とブラウンシュヴァイク星域をいったりきたりしているままでは意味がない。でも連中はそれでいいと思っておる」

 

「そのことなんですが」

 ファーレンハイトは少し声を潜めて言った。

 

「何だね」

 

「昨日、ガルミッシュ要塞宇宙港の士官から妙な噂を聞きました。何でも、リッテンハイム侯の第三艦隊から五千隻を割き、郷土防衛艦隊の補充を行うと。そのための受け入れ準備を行っているそうです」

 

「何と」

 メルカッツは目を瞠った。もちろん完全充足にはまだまだだが、五千の艦艇を一気に補充してもらえるのが事実なら、またとないプレゼントと言っていい。

 

「真実はいずれ明らかになろうが、一体どういう風の吹き回しなのだ。ブラウンシュヴァイク公ならまだ分からんでもないが、リッテンハイム侯だぞ。今まで戦力の供出を頑なに拒んでいた方ではないか。まぁ、理由は分からんでもないが」

 

 

 

 北軍が財閥の支配する軍隊であるとするなら、南軍は門閥貴族、それもブラウンシュヴァイク公の支配する軍隊と言える。南軍の艦隊は八個艦隊で編成されているが、帝都親衛艦隊と呼ばれる第一~第四、郷土防衛艦隊と呼ばれる第五~第八に分けることができる。

 

 この二つは担当区域が一応決まっている。帝都親衛艦隊が、首都ブラウンシュヴァイク星域とガイエルブルク要塞のあるアルテナ星域、マールバッハ星域とリッテンハイム星域の防衛を担当し、郷土防衛艦隊はそれ以外、ということになる。ただ、帝都親衛艦隊が危うい時は、郷土防衛艦隊を指揮下に組み込むことが「決められている」のに対し、郷土防衛艦隊が危機に瀕しても、帝都親衛艦隊に増援を「要請することができる」だけなのである。事実上、郷土防衛艦隊は独力で何とかしろ、そう言われているのだった。

 

 補給や整備についても同様である。優秀な艦艇が回されたり、優先して補給・整備が行われるのは帝都親衛艦隊の方である。ただ、郷土防衛艦隊もガルミッシュ要塞を拠点に有しているから整備もできず明日をも知れない状態というわけではない。一応念のため。

 

 ただ、帝都親衛艦隊の方にも問題がないか、というとそういうわけではない。帝都親衛艦隊は4個艦隊から成るわけだが、

 

・第一艦隊司令官 ミュッケンベルガー元帥

・第二艦隊司令官 ブラウンシュヴァイク元帥

・第三艦隊司令官 リッテンハイム元帥

・第四艦隊司令官 フレーゲル中将

(第二艦隊、第三艦隊は副司令官が事実上の司令官)

 

 という構成になる。帝都親衛艦隊を差配するのは、宇宙艦隊司令長官も兼ねているミュッケンベルガー元帥であるが、門閥貴族が司令官である他の艦隊に自由に手が出せるわけではない。結局、方針一つ決めるたびに政治的取引が行われることになる。ブラウンシュヴァイク元帥とフレーゲル中将は伯父甥の関係であるため政治的な仲違いはないが、ブラウンシュヴァイク=フレーゲル連合と、リッテンハイムは常に角突き合わせる関係にある(これに、ブラウンシュヴァイク与党に所属できない反主流派貴族の支援がリッテンハイムにはある)。大体この四者で何かを決めることになると、ブラウンシュヴァイクが案を出し、フレーゲルが同調し、リッテンハイムが反対してかき回す。そしてミュッケンベルガーは風見鶏、結局決まりそうで決まらない、というのがいつもの光景であった。

 

 それが、リッテンハイムが自ら動いたというのである。それも自身の政治的リソースである艦隊戦力を供出するという行動を、である。

 

 

 

「一体どういう風の吹き回しか、自分にも理解できませんが、いずれにせよくれるものはもらっておかないと」

 ファーレンハイトが答える。

 

「そうだな。リッテンハイムがそういう行動に出た以上、ブラウンシュヴァイクやミュッケンベルガーもそれに続くかもしれない。なれば、郷土防衛艦隊の充足は八割がた完了する。だが、そういうことになると」

 

「ええ。北軍の『ラグナロク』とやらは、未来の現実ということですね。空想ではなく」

 メルカッツの言葉にファーレンハイトが続ける。

 

「北軍の全力攻勢が想定通り実施されるとなると、アムリッツァ、シャンタウの軍管区艦隊をこちらで引き受けなければならなくなる。合計で5個艦隊か。きついが何とかせねばならん。さすがにオーディンの4個艦隊は向こうで何とかしてもらうがな。いや、一個艦隊ぐらいは差し出せと言ってくるかもな」

 

「ですな」

 

「いずれにしても、親衛艦隊から一万隻が来るにしても、リッテンハイムが五千隻を差し出すにしてもまだ、確定の話ではない。こちらはまず、やれることをやらなければならん。ファーレンハイト君、フェザーンからの『船舶』の買い付けについて何か聞いておらんかな」

 

「それがですな」

 ファーレンハイトは言った。

 

「フェザーンの知り合いによりますと、自由惑星同盟は『船舶』の取引を縮小させようとしているようです。条件闘争かと思いましたが、どうもそうではないらしいと聞いています」

 ファーレンハイトは困惑しつつも答えた。フェザーンに赴任していたファーレンハイトは、この手の同盟との取引に関する情報収集先を作成することに成功していた。本来なら、南朝の弁務官事務所が公開すべき情報であったが、こういう情報の行き先が限定されていることも、南軍が力を発揮できていない理由の一つである。

 

「叛徒共は何を考えておるのかな。ここで我々が負ければ、困るのは向こうだろうに」

 

「ですな」

 メルカッツの言葉にファーレンハイトはうなずく。ちなみに、『船舶』というのは、ただの船舶ではなく、戦闘艦に極めて近いスペックを持つ輸送船のことを指す。輸送船にしては速力が高すぎ、装甲が厚すぎ、センサー・レーダー等の情報収集機器が充実し過ぎている種類の輸送船がこれにあたる。同盟側では、宇宙海賊の脅威がある、治安が悪い星域用の船舶、ということで輸出しているが、もちろん表向きだけのことである。南軍としては、これに武装を搭載すれば駆逐艦や護衛艦(コルベット)砲艦(ガンシップ)が完成するのである。『船舶』の購入は戦力の充実に必要不可欠だ。その買い付けが難航しているのである。

 

「どうも向こうも困惑しているらしいのですよ。突然製造ラインが他へ転用されたらしい、向こうの担当者はそういうことを言っています。購入量は昨年の六割程度になりそうです」

 

「六割か……親衛艦隊から増援が来なければ、どうなっていたことか」

 メルカッツはため息をついた。

 

「決戦は避けられないとなれば、我等は我等の為すべきことを為すのみ。後は天に任せるしかありますまい」

 

「まだそう捨て鉢になる段階ではない、ファーレンハイト君。だが、北も、ガイエスブルク要塞に籠るモグラも、そして叛徒共も何かを感じているのに、我々には何も知らされず、我々は右往左往、全く情けないな!」

 メルカッツはカップのコーヒーをぐいっと飲み干した。もう既に冷めきっている。少し空調を弱くした方がいいかな、メルカッツはそう思った。

 

「捨て鉢になるべきではない、のでは?」

 

「そうだ。だがファーレンハイト君。努力というのは質・量どちらも大事だが、それに劣らず方向性というのも大事だ。我々の奮励努力が無駄になるならまだしも、マイナスだったとしたら、それは死んでもやりきれんとは思わんか。例え矢尽き刀折れたとしても、せめて何かのプラスのために死んだ。そう思いながら死にたいものだ」

 

「……」

 ファーレンハイトは何も答えられなかった。恐らく、皇帝陛下が崩御した結果、それをきっかけに大きな混乱が起こることは避けられない。そこでどのように立ち居振る舞うか、そこが問われてくるというわけだ。さて、自分は、いや、我々は、後世の人間に後ろ指を指されないような生き方、死に方ができるであろうか?

 

 

 

 同じ頃、南朝首都ツォンドルフ、新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)(南朝)、宰相執務室──

 

「伯父上はそれでよいのでございますか!」

 

「まぁ、まずはお前が落ち着け。フレーゲル。そのような湯沸かし状態で話ができると思うのか」

 執務室では二人の男が居る。片方の若い男が、もう片方の恰幅の良い中年男に掴みかかっている構図である。フレーゲルと呼ばれた方が若い男である。中年男は、南朝の最高指導者であるブラウンシュヴァイク公オットー、若い男は、ブラウンシュヴァイク公の甥であるフレーゲル男爵であった。

 二人が議論しているのは、先程終わった親衛艦隊の会議である。議題は、ブラウンシュヴァイクとフレーゲルの艦隊から、どれだけの戦力を割いて郷土防衛艦隊に回すか、ということであった。

 

 会議はと言えば、終始リッテンハイム侯に振り回されっぱなしであった。実は今回の会議の前、二週間前に開かれた会合で、親衛艦隊全体でどれだけの戦力を郷土防衛艦隊に回すか、それが話し合われた。

 

 郷土防衛艦隊(つまりはメルカッツ)から出された要求は15000隻。これは、傷ついた郷土防衛艦隊の再建を行うために必要な戦力だということであった。もちろん、現実はどうであれ、この要求はあまりに過大というのが会議内の共通認識であった。まずは、この要求を値切るところから始まった。15000隻は多すぎる、10000隻でも多すぎるぐらいだ、いやいや7000隻でも問題あるまい、いや、こちらも苦しいのだから5000隻ぐらいで我慢してもらうしかない。

 

 そんな中、議場にリッテンハイム侯の怒声が響き渡った。

 

「諸卿、勇戦し、大きく傷ついている郷土防衛艦隊に対しその態度は何であるか。先日の会戦では郷土防衛艦隊が専ら戦い、卿らは何をしていたか。オーディンの敵艦隊がガルミッシュ要塞に殺到しているその時、ガルミッシュ要塞に征こうと主張していた者がこの席にいるだろうか!」

 リッテンハイム侯の発言に、ブラウンシュヴァイクはじめ参加者はぽかんとした。確かに首都防衛を名目にガルミッシュへの増援を拒んでいたのは事実であるが、リッテンハイム侯とて増援を主張していたわけではないからである。

 

「諸卿が15000隻の要請に対し5000隻を差し出してそれでよし、本気でそう思っているのであれば、我が艦隊から5000隻を出すことにしよう。郷土防衛艦隊司令部にはそう伝えたまえ。さて、この危急の時に諸卿らはふんぞり返って何も思わないのか」

 リッテンハイム侯の発言により会議は紛糾し、そのまま会議は散会となった。ただ、リッテンハイム侯のこの発言に、第一艦隊司令官のミュッケンベルガー元帥が反応してしまったのである。リッテンハイム侯だけに犠牲を押し付けていいわけではない。他の艦隊もそれなりの戦力を供出すべきである、と。

 

 面倒なことになった、ブラウンシュヴァイクはそう思った。

 

 ただ、無視するわけにもいかなかった。ミュッケンベルガー元帥は宇宙艦隊司令長官を兼任している。当然、郷土防衛艦隊も指揮下にある。その元帥が、郷土防衛艦隊の窮地を見て見ぬふりをするというのはできない相談だった。そして、ブラウンシュヴァイクもフレーゲルも、ミュッケンベルガー元帥の指揮下にあるわけだから、彼に乞われて何もしないということになれば、一体どのような報復が(戦時に)行われるか分かったものではない。

 

 話を戻すが、今日の会合はリッテンハイム侯を除く他の三名がどれだけの戦力を差し出すか、そういう話し合いであった。会合の結果は、各々2500隻を郷土防衛艦隊への増援に出す、ということであった。これで合計12500隻である。要求に対して異例の(ほぼ)満額回答であった。さらに話を戻すと、リッテンハイムのせいで2500隻も戦力を差し出す羽目になったことについて、フレーゲルはブラウンシュヴァイクに噛みついているのであった。

 

「2500隻ですぞ。首都の工廠がフル回転しても回復には半年かかるでありましょう。親衛艦隊が元通りになるには二年は見ないとなりません。北軍はそれまで待ってくれないでしょう。それも……」

 フレーゲルはそこまで言って口ごもった。南軍は、皇帝クレメンス二世の崩御、その直後に北軍の攻勢が行われると想定している。簡単に言えば、戦力が回復するまで皇帝が生きていてもらわないと困るのである。だが、陛下は二年も生きてはいないだろう、そう心中で思っていてもおいそれと口には出せない。

 

「フレーゲル」

 ブラウンシュヴァイクは静かに言った。

 

「お前の懸念も分かる。だが、今の我々にはその前にやることがある。我々は備えなければならぬ」

 

「だから2500隻など供出すべきではないと」

 

「その備えではない──」

 ブラウンシュヴァイクはフレーゲルを睨みつけた。フレーゲルは黙る。

 

「実はな。アンスバッハにはしばらく調べものをさせておる。ゴールデンバウム朝、いやそれ以前からの共和制の体制をだ。報告も受けておる」

 

「一体何を」

 フレーゲルはそれ以上言葉が出なかった。というか、側近のはずのアンスバッハを最近見ないと思ったらそういうことだったのか。それにしても共和制とは!

 

「そう驚くな。陛下に万一のことがあった時の、備えをしておるのだよ」

 

「何の備えですか」

 

「陛下が我等の進言をお聞き届けになるのであれば、このような備えなど無用だ。だが、その可能性は無きに等しい。となれば、次善の策を用意せねばならん。跡継ぎのいない世の中のための備え、だ」

 フレーゲルは息を呑んだ。確かに、今の皇帝クレメンス二世は、跡継ぎを決めないままにこの事態となった。今の宮廷のパワーバランスから考えると、跡継ぎはクレメンス二世の娘とブラウンシュヴァイク公の間に生まれた女子エリザベートしかあり得ないからだ。だが、それでは門閥貴族で抜きんでた実力を持つブラウンシュヴァイク公がその地位を固定化することに繋がる。そこから帝位の簒奪は一直線だ。ブラウンシュヴァイク公がそれを望まないと言っても、周囲が信じようとはしない。結局そうなる。

 

 帝位を他に渡したくない。だが、簒奪するために無理筋を通したと「見なされる」ことは避けねばならない。そうなってしまっては政局をコントロールすることが困難になってしまう。

 

「帝位を『自然に』エリザベートに継承する手段だ。それを考えている。戦の準備も良いが、それを蔑ろにしていては戦うこともできん」

 

「……確かに必要ではございますが、典礼省に問い合わせるべきではないのですか」

 

「典礼省だと」

 ブラウンシュヴァイクは吐き捨てるように応じた。

 

「典礼省を動かしてみろ。リッテンハイムにつけ入る隙を与えるだけではないか。こういうのはな、最初に文句のつけようのない正解を用意しておき、典礼省の役人共にはサインをさせるだけでいいのだ」

 

「確かに」

 

「まぁ調査は続けるが、私は諸侯会議がいいと思っている」

 

「諸侯会議」

 フレーゲルはオウム返しに応じた。

 

 諸侯会議というのは、崩御した皇帝の後継者を決める会議である。ただ「諸侯会議」という名称があるわけではなく、皇太子無く崩御した皇帝の後継者を、諸侯が集まって話し合いして、最終的に万歳の歓呼のもとに新皇帝を奉戴する一連のイベントがそう通称されているだけである。まぁ、皇太子はいないけど次の皇帝は決めなければいけない。どうしようどうしよう、という貴族達の右往左往をもっともらしい言葉にすれば「諸侯会議」ということになる。

 

 問題は諸侯会議の根拠となる法律がどこにもないことである。まぁ、必要なのは新皇帝に対する万歳の歓呼なのであり、それが実現するために何が必要なのかは曖昧にしておいた方が帝室にとっては都合がいい(下手に法律を整備したら、合法クーデターが頻発しかねないからだ)。

 

「諸侯が集まって、新たな皇帝陛下を奉戴する。これなら、文句が出ることもなかろう」

 

「ですが、それでは尚更リッテンハイムめにつけ入る隙を与えるのではないのですか」

 

「諸侯、がお前の考える通りであれば、だ。だが、高位の貴族だけが諸侯ではない、そうなればどうだ?」

 

「いやそれは……」

 フレーゲルは眉をひそめた。いくらなんでも、それは「諸侯」という用語の拡大解釈が過ぎる。侯という言葉は、王から直接領土を与えられた大貴族のことだ。古来よりそこに拡大解釈の余地はない。

 

「皇帝陛下がそう仰せになられたのであれば?」

 

「……」

 ブラウンシュヴァイクの言葉に、フレーゲルは思わず視線を逸らした。内心、聞いてはいけないものを聞いてしまったと思っている。

 

「もし仮にだ、陛下が『広く会議を興し、万機公論に決すべし』、そう仰せになられたのであれば、我等もそれに応え、広い会議をやらなければならん。諸侯だけで内密に決めてはいけないのだ。そうだろう?」

 

「確かにそうですが……いくらなんでも陛下が」

 フレーゲルは口ごもった。脳梗塞で意識不明の状態にある皇帝陛下が、むくりと起き上がってそのような詔勅を下す可能性などゼロに等しい。

 

「陛下には、侍医がついておる。二十四時間ずっとだ。そして、陛下のご病状は稀に回復することがある、それも分かっておる」

 

「……本気ですか」

 フレーゲルは呟いた。ブラウンシュヴァイクは詔勅を偽造する、そう言っているのと同じだった。

 

「しかし、詔勅には国璽の認証が必要です。伯父上は国璽を持ち出す権限がありますが、持ち出しっぱなしというわけには参りますまい」

 

「鈍い奴よ。何か陛下が仰せになれば、侍医はそれを聞き逃すわけにはいかぬ。紙に書き留めもするだろう。それがあればどうなる?」

 フレーゲルははっとした。詔勅の形式を整えていなくとも、ちゃんとした根拠があればそれの影響力は十分ある。だが──

 

「しかしそれでは、会議の中で詔勅の有効性が議論されることになりますが。侍医に口止めなどできるわけがありません」

 フレーゲルの内心にある何かが、フレーゲルを焦らせる。知らず知らずのうちに、早口になっている。

 

「侍医には陛下のお供をしてもらうしかあるまい」

 ブラウンシュヴァイクはぼそっとそれだけ言った。お供をして行く先はもちろん天上(ヴァルハラ)である。

 

「そしてエリザベートは皇帝に相応しくない、という声が当然出るであろう。女帝は先例がないからそうなる。ならば、諸侯会議が輔弼していく、というわけだ」

 

「伯父上……」

 フレーゲルの背筋が震えた。流石にそこまでシナリオ通りにいけば、ブラウンシュヴァイク一族の権力は未来永劫に続くだろう。帝冠と内閣はお飾りになり、諸侯の話し合いが全てを決める、というのは表向き。実際は最大与党が終始話し合いをコントロールできるわけだ。弱小野党を叩き続けていけば、与党としての勢力を維持し続けることもできる。こちらには権力も財力もある。あのリッテンハイムとてただの一諸侯となり、立ち枯れの未来が待っている。

 

「だからな。北軍よりもまずはリッテンハイムだ。まだあ奴は教師の真似事をしているのか」

 

「はい。いつもと変わりないと聞いております」

 

「一体何をかんがえておるのやら。こそこそ動き回る方がまだ尻尾を掴みやすいものを。いいか。奴から目を離すんじゃない。フェルナーにもそう言っておけ」

 

「了解いたしました」

 リッテンハイムについては、極めて有力な情報源を確保しています。ご安心を。

 フレーゲルはそう続けた。

 

 

 

 リッテンハイム侯ウィルヘルム三世──

 

 帝国南朝で重きをなす、門閥貴族の重鎮の一人、リッテンハイム侯爵家の現当主である。年齢は四十代後半、脂ののった年頃と言っていい。

 

 ただ、本人はそのような周囲の期待をよそに、楽隠居のような生活を送っていると言われていた。政府の公職はほとんど辞任してしまい、士官学校の理事職のみがリッテンハイム侯の仕事である。ただ、理事だけでは飽き足らないのか、1時限だけだが授業も担当している。担当する科目は「帝国史」、授業内容は教官、学生からおおむね良好な評価を得ている(但し、教官の一部からは「帝国史の授業は、貴族のスキャンダルを開陳する場所ではない」というコメントが寄せられている)。

 

 士官学校の理事の職を、当人は真摯に遂行しており、行事のほとんどに出席している。学生とは極めて良好な関係にあり、極めて気さくで話しやすい人物であると言われている。八年の長きにわたり理事職にあるため、校長よりも有名人であるとの専らの評判。座右の銘は「一致団結(フィリブス・ウニティス)」。当人のスピーチにあまりに頻繁に登場するため、学生の間では「スピーチに何回一致団結が出てくるか」で賭けが行われているとの噂もある。士官学校の卒業生とも友好関係にあり、貴族・平民と分け隔てなく相談に乗ったりしているそうであった。

 

 

 

 南朝首都ツォンドルフ、リッテンハイム侯爵邸──

 

 豪奢な木製の椅子に座るリッテンハイムは、極めてしめつけの緩い上下しか着ていない。まぁ、ここは私室であるから裸でも問題ないのだけど、表の顔のリッテンハイムしか知らない人からすれば、ひどくだらしないように見えるだろう。

 

「ご容体はいかがでございましたか」

 コーヒーを入れに来た執事が尋ねた。リッテンハイム侯に仕えて二十年以上になる執事だった。プライベートな話も比較的自由にできる程度の付き合いである。リッテンハイムは、皇帝クレメンス二世が入院している病院に面会に行き、ついさっき帰ってきたところであった。

 

「なんどか声をおかけしたが、何もなかった。医師の話によると、時々反応を示されることもあるそうだが。体調を鑑みるに、思い切った手術も難しいらしい」

 

「依然、ご回復の可能性は極めて低いと」

 執事の言葉にリッテンハイムは黙ってうなずいた。

 

「陛下のご容体、万一のことがあれば帝国は支柱を失う。祖国はまさに危機にあり、だな」

 

「おいたわしいことにございます」

 執事は身を震わせた。

 

「確かにおいたわしいことではある。だが、我々は萎縮してはならん。帝国はこれからも続く。永遠に続くのだ。気落ちしてはならない。一致団結して難局を乗り切らなければならない」

 

「ですが、皇帝陛下がお倒れになってからこのかた、民草の動揺は深刻でございます。誰もが、将来どうなるかを噂しております」

 

「で、あるか。まぁ、民草だけではないわ。あのブラウンシュヴァイクめも、渋い顔をして歩き回っておる。ブラウンシュヴァイクだけではない。誰も彼も浮足立っておる。一致団結して事に当たらねばならないこの時に、だ」

 リッテンハイムは口の端を歪めた。

 

「旦那様は」

 執事はおずおずと聞いた。

 

「何だ」

 

「心配ではないのですか」

 

「……全く心配はしておらん」

 執事は不審そうな顔をした。民衆の不安は、皇帝が病床にあり、政変待ったなしの状況にあることもそうなのだが、何より戦況が不利なことにある。昨年から続いた北軍の攻勢は何とか押し返したが、損害は大きく、いつまで持ちこたえられるかどうか分からない。

 

帝都(ツォンドルフ)の雀は、明日にでも北軍どもが帝都にやってくるようなことを言っておる。だが、誰も気づいておらん。北軍、いや、北朝には大事なものが欠けておる。勝つために必要なものが、だ」

 

「……」

 

「これは教鞭を執ってみて確信したことであるが。まず、試みに問おう。国というもので、一番必要なものは何であろうか」

 

「必要、でございますか」

 執事はしばらく考えて、わかりませぬ、と答えた。

 

「国にとって一番必要なもの。儂の考えだが、それは『秩序』だと思う。一人の農夫がいたとして、一年働けば、働いただけの収穫を手にできる。秩序があればそうなる。だが、秩序がなければそうはならん。盗賊が、収穫を根こそぎ持っていくとしたら、秩序が存在しないということだ。わかるな」

 執事は頷いた。恐らく反射的に。

 

「もし秩序が存在しなければ、人は秩序を求める。国が秩序を与えないのならば、民は別のものに秩序を求める。さすれば、国は存在する意味がなくなる」

 

「北朝には秩序がないということですか」

 

「ない。考えてもみよ。北朝で一番力を持つのは、(宰相の)リヒテンラーデ(侯)でもなく、もちろんリヒャルト様でもなく、財閥だ。自明のことだ」

 

「それと秩序に何の関係がございますか」

 

「まだ分からぬか。財閥は秩序を受け入れておらん。国から取るものだけ取って、秩序の構築に協力しようとしておらん。だから駄目なのだ」

 

「……」

 執事は黙った。いつものやつが始まった、という思いである。独演会モードに入ったリッテンハイム侯はしばらくは止めても無駄である。

 

「古代、ある国があって、そこにはある勇者が居た。その男は武勇に優れ、大金持ちで、広大な領地を持ち、沢山の兵士を指揮していた。ある時、王がその男に貴族の位を与えると言ったそうだ。しかし、男は断った。どうなったと思う?」

 

「王は暗殺者を差し向け、その男を殺したのだ。王は、その男の部下を抜擢し、男が持っていた金、領地、兵士全てを与えた。そしてその部下は貴族となった。これが秩序だ。国の全てが手を携え、共に同じ道を歩むことが秩序だ。人によって考え方が違うのであれば、何を信じていいか分からん。これでは秩序は成立せんのだ。ああ、話を戻すぞ。北朝は、リヒテンラーデが宰相として支配をしている、ということになっているが、財閥の専横になすすべを知らぬ。オーディンでは暴動が起き、帝都の名は地に堕ちている。これが秩序の名に値しないことは言うまでもない」

 

「ならばこそ、我らが秩序を回復する。北と南、分かたれた二つの家が再び一つとなる。秩序を回復した帝国は無敵、潜在力を縦横に発揮し、次は叛徒共を鎧袖一触とするのだ」

 

「今、なんとおっしゃられましたか……」

 執事は混乱した。単純に解釈するならば、リッテンハイムの発言は誇大妄想、いや、錯乱としか思えないものだ。

 

「古来、分かたれたものはいつか、元に戻るのだ。今がその好機ということだ。統一だよ、統一。帝国は再び元の姿を取り戻すのだ。統一によって」

 

「ですが旦那様」

 

「うん?」

 

「今の軍には、あの北の連中を駆逐する実力がある、ということなのでしょうか」

 執事は慎重に、言葉を選んで話す。不用意に地雷を踏むわけにはいかない。

 

「統一に軍など必要とせん。単純なことではないか。陛下に万一のことがあれば、リヒャルト様を奉戴申し上げる。それだけのことだ」

 

「……」

 執事の膝が細かく震えだした。今度は誇大妄想や錯乱では済まされない。

 

「既に話はついておるのだ。もちろんリヒテンラーデではないぞ。向こうの財閥共とだ。リヒテンラーデといくら約束しても空証文のようなものだが、財閥とは取引ができる。それに北軍とも裏で手は握っておるのだ。帝国は統一し、統一政府ができて、そのトップに我々が就く。我々、財閥、軍の連合政権だ。リヒテンラーデ、自分こそが帝国の宰相と思っているのであろうが、誰もついてきていないことが分かっておらんようだな。ある日突然カードが全て裏返った時、あやつがどんな顔をするのか見てみたいものだ」

 

「だ、旦那様……」

 執事は全身震えている。

 

「どうした。そんなに震えて。風邪か?」

 

「い、いえ……」

 

「そうか。儂の言うことが信じられぬかな?」

 

「滅相もない!」

 執事の声は裏返っている。

 

「そうだな。信じられぬのも無理はなかろう。かつて帝国一の大貴族とも呼ばれたリッテンハイム。だが、権威をブラウンシュヴァイクに掠め取られ、今はこの惨めな有様、父、祖先に申し訳が立たないというもの。だが、鳥の鳴き声を聞きたければ、鳴くまで待たなければならん。その時はもうすぐだ。まぁ、今の儂は気分が良い。手持ちの切り札を一つ、見せてやろう」

 

「……」

 

「ラインフォルトの当主には、娘が一人おる。いろいろあってな、今はフェザーンに住んでおるそうだ。これが切り札だ」

 

「???」

 執事は首をかしげた。内心、話題が逸れてくれたことにほっとしているが、財閥のプライベートに何が関係するのであろうか。

 

「一朝有事の際、我々がこの娘を『保護』する。ラインフォルトでも、北軍でもなく、この我々が、だ」

 

「まことにございますか」

 執事の中で全てが繋がった。どんな経緯かは知らないが、財閥は人質を差し出し、その代償としてリッテンハイムは南朝を差し出そうとしている。ということは、南朝をブラウンシュヴァイクから奪取する『手段』を考えているということだ。それにしても何故、ラインフォルト財閥は自らの後継者を、手の届かぬ所に置いているのであろうか?

 

「いろいろと障害はある。だが、我々は必ずやり遂げる。何故なら、これは天が我に与えた役目だからだ。統一は我々の、民草の意志ではないのだ。天が我に命じているからだ。何故だか分かるか」

 執事は首を振った。

 

「ラインフォルトの娘。近々結婚するらしい」

 

「左様にございますか」

 またも話題が切り替わったので執事は混乱した。人はいろんな理由で結婚する。しかし、帝国を代表する大財閥の一人娘とはいえ、結婚話と今の件、何が関係しているのであろうか。

 

「相手は誰だと思う」

 執事がしばらく何も言わないので、リッテンハイムは声をひそめて話し出した。

 

 

 

 リッテンハイムの私室を辞した執事は足早に廊下を歩いていた。リッテンハイム本人から聞いた話は、今まで聞いたことのないものばかり。そして、好々爺然しているようにしか見えなかったリッテンハイムがあれほどの野心を持っていたとは。そして、ラインフォルトの一人娘の結婚相手がそのような男だとは!

 

 是非、伝えなければならなかった。自分はこの時のために居たのだから。リッテンハイムは本気だ。いや、既に行動に移っているとしか考えられない。

 

 八月の刺すような日光も、青く繁る草木も、今の執事には何も気にならなかった。緊張のあまり見えるものがモノクロに感じるほどだった。あれほどのことを聞いてしまっていては、今の自分の生命は危ういと考えざるを得なかった。だからこそ、行動に移さねばならなかった。それも今すぐに。

 

 不幸なことに、執事の懸念は当たっていた。

 

 その日の夜未明、警邏中の治安警察が、水死体を発見した。帝都を流れる川に浮かんでいたのを発見したのだった。

 

 水死体は、執事だった。

 

 

 

 宇宙暦798年、帝国暦489年8月下旬

 惑星フェザーン、アルベリッヒ工業デザイン研究所──

 

 

 

 そのオフィスは、高層式の高級アパート、その一室を改造して作られていた。部屋の中は整頓、掃除も行き届いているものの、3Dディスプレイに端末、人間の大きさほどもあるモックアップ、スケッチ用の机に事務作業用の机、いろんなものが置かれていて思ったよりも圧迫感があるかもしれない。

 

 部屋に居るのは二人の女性、二人とも若い女性である。事務作業用の机に座っているのは、金髪ロングヘア―に赤い瞳、ベージュのパンツルックのジャケットにピンクのブラウス姿の女性である。

 

「シャロン」

 

「何でしょう」

 シャロンと呼びかけられた女性の方は、藤色の腰まで届くロングヘア―と藤色の瞳を持ち、いかにも秘書然としたネイビーのテーラードジャケットを着こなしている。

 

「例の雑誌の原稿、あがったから送っておくわ。チェックの後、先方に送って頂戴。あと、この仕事は割に合わないから継続はしない方向で」

 

「かしこまりました」

 シャロンはぺこりと頭を下げると、別室に退がろうとした。

 

「ねぇ、思うんだけど。何故こうして本業と違う仕事をしなきゃならないのかしら。最近はまともに仕事も進みやしない」

 

「仕事に支障が出ないようにスケジュールは組んでいるはずですが。アリッサお嬢様」

 

「ということは仕事がないということ?」

 事務机に座っている方の『アリッサお嬢様』はひどく面白くなさそうに、ペンをくるくると回した。

 

「そこまでは言っておりません」

 シャロンは淡々と答える。アリッサとしてはシャロンとの付き合いは長いが、未だに彼女の本心というか本質を垣間見たことはない。

 

「今は人脈を広げる必要があるかと。今のお嬢様は、仕事の実績よりも外見的な魅力の方がアピールに有効と考えております。もちろん、与えられた業務(ビジネス)をこなすことが前提ですが」

 

「はぁ、やんなっちゃうわね。女の魅力で仕事を取ってこいと。頑張って表彰もしてもらったんだけど、賞だけでは駄目ってこと?」

 

「賞のおかげでスタートラインには立てています。賞がなければ、顔を売ることもできないでしょう。会長の名前を出して──」

 

「ストーップ!」

 アリッサは大声を出した。

 

「その話はなし、そう決めたはずよ。一体いつになったら守ってくれるのかしら」

 

「私はそのような話を受け入れたつもりはありませんが。事情についてはお話しているはずです」

 

「……シャロン。全く面白くない現実ね」

 

「期待の若手工業デザイナー、アルベリッヒ工業デザイン研究所所長、アリッサ・アルベリッヒという存在そのものが現実逃避ですから仕方ありません」

 

「シャーローン」

 

「甘えても無駄です。クライアントとの打合せがあります。そろそろ出発しないと」

 

「……分かったわよ」

 アリッサは肩を落とした。

 

 アパートから直通エレベーターを通って二人は地下に降りる。エレベーターの出口には、既に黒塗りの地上車が待機していた。運転手は斜に構えて腕組みをしていたが、二人を認めるとぺこりとお辞儀をした。シャロンが後部座席のドアを開けると、アリッサは車に乗り込み、その後シャロンも乗り込んだ。

 

「シャロン?」

 

「何でしょうか」

 

「何なのあれ。パウルはどうしたの」

 アリッサはわずかに顎をしゃくった。運転席の運転手を指していることは明らかだった。昨日まで勤務していたはずの運転手が居なくなっているということであった。後部座席と前の席には仕切りがあるから、こちらの言葉が前に聞こえることはない。

 

「退職しました」

 

「退職?」

 

「実家の親が病気になったそうで」

 

「……そうなの。それはそうと、あの運転手大丈夫なの?まだ子供じゃない」

 

「運転の腕前は問題ありません。紹介者にも太鼓判を押されています」

 

「あらそう。まぁいいわ。貴方が分かっているなら」

 

 シャロンはインターホンを押した。それを押している間は運転手との会話が可能となる。シャロンは運転手に言った。今日は初めてだから挨拶をお願い、と。

 

「カリンです。よろしくお願いします」

 新運転手の挨拶はたったのそれだけだった。それだけなのに、ずいぶんとぎこちない話し方をするのね。アリッサはそう思った。

 




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第十六話 血塗れのヤン(ブラッディ・ヤン)(上)
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