宇宙暦799年、帝国暦490年3月14日 0時30分、惑星フェザーン、アッシニボイヤ渓谷──
「あれが目的の建物ですか」
「そのようで。できれば昼に来たかったですが、仕方ありませんな」
キルヒアイスは、目の前にあるなだらかな丘、そこを昇り切った所にある建物群を見つめている。といっても夜中だから、直で見ているわけではない。ゴーグルが赤外線情報その他をもとに作った画像を見つめているというべきか。会話をしているシェーンコップは、ゴーグルの中のワイプ画面の向こうに居る。リモートで会話をしている。
「ラインフォルト社がフェザーンに建設した、民間軍事会社用の訓練施設。ですか」
「丘の上の平地に教育施設、垂直離着陸機の発着場代わりになるグラウンド、事務棟に宿泊施設。考え方は悪くないですな。ですが、場所が悪すぎます。計画した人は、ここで訓練する時に脱走されないことだけを考えたのでしょう。だけど、人里離れたこんな所では食わせるだけで一大事ってもんです。飢餓に耐える訓練などやっても意味がない」
「敵の戦力をどう見ます」
キルヒアイスが訊いた。
「それは貴方の領分では」
「中佐。私は質問しています」
「なるほど。一般論からすれば、人数はそれほど多くないでしょう。多くて二個小隊。過去、ラインフォルトがフェザーン当局に提出した資料と、貴方が提供してくれた物資の移動実績からするとそうだ。但し、ラインフォルトのことだ。からくりまでは何とも言えません。それに敵もここに籠って昼寝だけしていたわけではありますまい」
「私の見解と一致しています。あの丘の上にある建物群、そしてその周囲にある高いフェンス、みだりに近づくわけにはいかないでしょう。そして周りには森林、ここから3キロ先の施設に続く道は一本だけ。それもやたらと曲がりくねっている。後背には断崖絶壁」
「一本道には死の罠が待っている、そういうことですな」
「そうです。ですが、やらねばなりません中佐。ミューゼル司令官のご親族は無傷で救出せねばなりません」
キルヒアイスにとって、アンネローゼがどこに滞在しているのかを探るのは、それほど難しい作業ではなかった。ヴェストパーレ男爵夫人から貰った滞在先については、フェザーンの北朝弁務官事務所を動かし、特殊部隊を派遣したが空振りに終わった。フェザーンでアンネローゼが所有していたであろうコミュニケータはそこに放置されていたから、単純なやり方では追跡は困難、そのはずだった。
次にキルヒアイスは、北朝および南朝系マフィアの情報網にコンタクトし、ラインフォルト系列の動きを探らせたが、これも空振りに終わる。だがキルヒアイスは諦めず、フェザーンの衛星監視システム記録をクラックし情報を抜き取ると、定常的ではない人員物資の動きをコンピュータで抽出した。特に、観光地、別荘地等不特定多数の人間が集まらない場所を中心に。
結果、この場所がクローズアップされた。2月26日以降、この場所に多数の人員の出入り、そして物資の搬入が行われていること。そして、過去に見られなかったエネルギー消費反応が確認できたのである。フェザーンの当局を動かして、この施設の概要を突き止めたのは、3月12日のことだった。それからキルヒアイスとシェーンコップは不眠不休で制圧準備を進めている。キルヒアイスとしては、艦隊指揮も行っていたから、超人的な体力と言うほかはない。
南軍の強襲揚陸艦に偽装した艦がアッシニボイヤ渓谷に着陸したのは二時間ほど前の21時。そこから今の場所に部隊を展開させたのがついさっきである。キルヒアイスがここに投入したのは軽歩兵一個大隊、およそ1000名弱の兵力であった。兵力差だけ考えれば圧倒的、いや、絶望的とすらいえる優勢である。だが、弱点がないわけではない。
「フェザーンはいつやって来ますかね」
シェーンコップはキルヒアイスに訊いた。もちろん何も知らないわけではない。確認のつもりである。
「フェザーンは武装兵力を行政府付近にしか配置していません。つまり、惑星の反対側に兵力を移動するまでにどれだけの時間がかかるか、です」
「およそ半日」
「ですね。夜が明けるまでにケリをつけます。時間切れになったら武力は使えません」
「それに、我等はフェザーンに不法着陸をする不埒な南軍兵だ。今のところはそうなっている」
「では、行動開始を。後どれくらいでやれますか」
「三十分もあれば」
その直後、キルヒアイスが司令部として使用している大型キャンピングカーのような車に警報音が鳴り響いた。画面の向こうのシェーンコップがスマート端末を取り出した。
「敵もなかなか、動きが早い!」
キルヒアイスとシェーンコップの会話、それよりニ十分ほど前──
「敵の歩兵、当施設より約3キロの平地に展開中、数はおよそ1000」
「装甲車、自走砲若干。輸送用トラックの数から推定するに、軽装備の歩兵と思われます」
「極小飛行物体の反応あり。偵察用ドローンと推測」
「ドローンには手を出すな。自動砲塔は今のところ全てスイッチオフだ。偽装カバーも外してはいけない」
オペレータの報告にパトリチェフが指示を出している。ラインフォルトの私兵訓練センター、そのオペレーションルームは、古典的な戦闘オペラハウスのような作りをしていた。中央には巨大な3Dスクリーンが、そして、それを取り囲むようにオペレータ席がある。スクリーンの周囲、その一部は一段高くなっており、そこが指揮卓となっている。指揮卓にはヤン、ムライ、パトリチェフ、フレデリカ、アリッサ、シャロン、カリンといった幹部が居る……わけだがオペレータは全て同盟大使館の人員だけであった。傍目から見たら同盟の施設であると思うに違いない。実際、ムライは同盟大使館の上層部を説き伏せて、大使館の武官から十人以上の人員を引き抜いていた。
「一個大隊か」
ヤンがつぶやいた。
「そしてこちらは一個小隊がせいぜい」
ムライが応じる。
「どれだけもちますかね」
ヤンはムライに聞いた。その質問に願望の意図が混じっていないといえば嘘になる。一応これでもここに来てから半月以上、多数の敵を相手に持ちこたえるための準備をしてきたつもりだ。武器の貯蓄、罠とセンサーの設置。おかげで寝る暇もなかった。
「少なくとも、次の朝日を拝める可能性は低い。普通にやれば」
ムライが低い声でヤンの願望を斬って捨てた。
「救世主は朝日と共にやって来るというのに」
ヤンはため息をついて言った。南軍の強襲揚陸艦と思われる船舶が、通常軌道を外れて地上へ墜落しようとしている、という情報は昨日の夜に把握していた。航路情報をトレースしていた同盟大使館で不審なオブジェクトが存在することをキャッチしたのである。大使館はすぐさま船舶の確保をフェザーンに要請したが、墜落の公算大である船舶に人員は割けないと断られた。フェザーンの治安当局は、惑星の軌道上すぐの外縁で行われた、帝国と同盟との交戦で物流が混乱状態であり、そちらに人員を割かねばならなかった。結局、帝国の揚陸艦が目と鼻の先──強襲揚陸艦の着陸という意味では十キロ先はそういうものだ──に着陸し、武装兵力が展開を始めるまで、フェザーンを動かすことはできなかった。さすがに、その姿を見たフェザーンはすぐさま治安警察の特殊部隊を動かしたようだが、フェザーン行政府からアッシニボイヤ渓谷まで兵力を届けるには、半日程度の時間が必要と思われた。
今、この時点から数えても約9時間。まず、永遠と言っていい時間だろう。
「グリーンヒル中尉、車両の、そう向かって右側にあるものを拡大してください」
シャロンがフレデリカに言った。フレデリカが端末を操作する。
「軽歩兵だから装甲車両は少数と思っていたら、あんなのがあった。火力支援用の多連装ロケット砲ですか。3両いる。まずいわね。あんなのに狙われたらひとたまりもない」
アリッサが言う。映像から判断する限り、このロケット砲が最も火力の大きい兵器のようだった。射程は長くないが、装甲のない目標に対しては絶大な威力を誇る。
「手持ちの弾薬──満載していることが前提ですが、あれだけでもここを半壊にできる。向こうにその気があれば」
ヤンが答えた。
「その気?」
「こちらにはミューゼルさんが居ます。相手が正気であれば、危険なことはしないでしょう」
「向こうの『正気』に従って作戦を指揮するつもり?それに、相手が正気なら、アンネローゼさんを危険な場所に置いておくとは思っていないはずよ」
「お嬢様」
「どうしたのシャロン?」
「やはりあれは潰しておくべきです。私にお任せください」
シャロンの言葉に、何をしに行くか想像できたアリッサは顔色を変えた。
「駄目よシャロン!いくら貴方がスピードバイクの達人だからといって。道路は狙い撃ちされるだけだし、森の中は地雷と罠の山じゃない!」
「やらなければいけません。あとムライ中佐、パトリチェフ大尉をお借りします」
「いやぁ。スピードバイクに乗ってて狂気を感じるって、滅多にない体験ですよ」
パトリチェフは操縦席のシャロンに軽口を叩いた。もちろん、今は森の中を100キロ近い猛スピードで走っているので、直接声が聞こえているわけではない。二人とも宇宙空間でも作業できる特殊スーツを着用しているので、ヘルメットのインカム経由で話をしているのである。
パトリチェフには余裕があるように見えるが、実際はそうではないだろう。全長4メートル近くある大型の武装スピードバイクは、ホバーの原理で地上すれすれを滑走しながら走行するものである。だからこそ、舗装道路でなくともスピードが出せるのであるが、ここは森の中であり、それに加えてあちこちに地雷やブービートラップが仕掛けてある。位置を把握しているからといって、足を踏み入れたくない場所であることはもちろんだ。シャロンは、そんな場所を猛スピードで疾走していた。もちろん、罠はちゃんと避けながら、である。
「出る前にその口を縫い合わせておくべきでしたね。いいですか、攻撃のチャンスは森を抜け出てから三十秒程度ですからね。ロケット砲を破壊できなければ、こんな命知らずの真似も意味はありません」
「了解!」
スピードバイクは漆黒の森の中を駆ける。もし、ゴーグルの視覚補助機能がなければ、目の前は真っ暗闇に違いない。ここには月の光りは入らない。当然ながら電灯もない。パトリチェフも何とかしがみついているのが精一杯である。今のところは。
「森を抜けるまであと3秒。2、1、今!」
突然、目の前がぱあっと開けた。森林地帯を抜け、麓の平地に出てきたのである。視覚補助装置が警報を出した。
「シャロン!10時方向、距離300メートル!」
間髪を入れずパトリチェフは、武装バイクの機銃を操作し、今言った方角へ向けて発砲した。短距離誘導ミサイルも発射する。その直後、シャロンは右に大きく旋回した。パトリチェフは振り落とされそうになるが、何とか体勢を立て直す。パトリチェフは機銃の横にあるスイッチを操作した。二人からは見えないが、後ろから球体のようなものがばらばらと転がり出ているはずだ。
「大尉」
「どうでした?」
「お見事。目標は撃破したそうよ。司令部からの連絡によると」
「そりゃよかった。このバイクの震動制御装置のおかげですか」
パトリチェフは謙遜してみせた。
「貴方の射撃の腕もね」
「そりゃどうも。ですが、このままお気楽に還れるわけではないでしょうね」
「そうなるように祈りましょう」
もちろん帝国も黙って帰すつもりはなかった。機動偵察歩兵の1個分隊が、4台のスピードバイクに分乗してシャロンとパトリチェフの後を追おうとした。だが、彼らは少し頭に血がのぼりすぎていたようである。安易に二人の真後ろから接近しようとして、二人が落としていったものに気づかなかった。落としたものは、近接信管付きの小型爆雷であり、スピードバイクが近くを通過した時点で爆発した。この時点で4台のうち2台が失われた。
機動偵察分隊のプリラー中尉は、ヴォダーチェック軍曹のスピードバイクと一緒に森の中に飛び込んだ。予想通り、森の中は真っ暗でこちらも視覚補助装置に頼るしかない。前を行く忌々しいスピードバイクは、視覚補助装置の中で光る1つの点でしかないが、帝国軍を愚弄した落とし前は何としてもつけさせるつもりだった。
「ヴォダーチェック。あのバイクに近づいたら射撃を開始しろ。当たらなくてもいい。あと、ワイヤーカッターの電源は切っておけ」
「ヤー」
機動歩兵の武装スピードバイクには、有刺鉄線やブービートラップのワイヤーを高熱で切り取るワイヤーカッターが前面に装備されている。当然ながら、エネルギーを使うので速度は落ちるので、経験を積んだ機動歩兵からは歓迎されていない。
「後ろから2台、近づいています」
「分かっている」
シャロンはさらにスロットルを踏み込むが、スピードはもう限界まで上がっている。追ってくる帝国のバイクの方が小型でスピードが出るのだろう。着実に距離を詰めてくるのが分かる。できれば振り切りたかったがそうもいかないか。
「大尉、爆雷の残りは」
「もうありません。さっきので全部使ってしまいました」
「何発か残しておけと言わなかった?」
パトリチェフのお気楽な声が癇に障ったのか、口調がきつめになる。
「そうでしたっけ」
もっとも、パトリチェフは意に介していないようだったが。
「仕方ないわ。では大尉。今度は拳銃射撃のスキルを披露してもらうわよ」
「悪あがきを」
プリラー中尉は毒づいた。森の中のチキンレースは、こちらが接近しようとすれば、向こうが急旋回してこちらを振り切ろうとするというシークエンスが三度繰り返されていた。既に、敵の本拠地とは離れたところでの追いかけっこになっている。
敵の思惑は分かっている。地形に不案内なこちらを振り回して、事故を誘おうというのであろう。だが、こちらの修練と反射神経をなめてもらっては困る。あと少しでこちらの機銃の射程内に入る。そうなれば条件は対等のはず。プリラーは前を行くシャロンの通るルートを針路だけではなく高さも含めてトレースしながら追跡していた。当然ながら、ショートカットできるルートはあちこちにあった。恐らくそこにはブービートラップが仕掛けられているのであろう。向こうは武装搭載型の複座バイクで、こちらは単座の偵察型だ。間違いなくこちらの方が早い。焦ることはない。焦ることはないが……
突然、視覚補助装置が警報を出した。前方で爆発?まさか敵が勝手に自爆したのか。
「前方で爆発!」
ヴォダーチェックの警告がヘルメットに響いた。プリラーは倒れてきた木が頭上に迫っていることに最後まで気づかなかった。
「お見事」
「どういたしまして」
シャロンの賞賛に、パトリチェフは大したことはない風にこたえた。逃亡の最中、パトリチェフは木に仕掛けられたブービートラップの一つを撃ち抜き、爆発させたのだった。追ってきたプリラー中尉は爆発によって折れた木の下敷きになった。すぐ後ろに居たヴォダーチェック軍曹は、辛うじて避けることができたが、倒れてきた木をホバージャンプで無理矢理躱したため、予想していたパトリチェフによって狙い撃たれた。
「まずは一点先取ですかね」
「そうね」
シャロンは森の中を大回りして帰還していた。
「そうそう、思い出した。クリューゲルという名前、どこか聞き覚えがあるとずっと思ってたんですよ。そういえば、帝国北軍の特殊部隊で伝説となっている隊員にそういう人がいましてね。我々の間では『伏兵の天才、死線のクルーガー』って呼んでました。ずいぶんと前の話でしたが」
「大尉」
「何でしょう」
「今回は射撃の腕に免じますが、次に私の前でその名を呼んだら、ワイヤーに吊るされることを覚悟なさい」
「へいへい。合点承知」
パトリチェフはあくまでも飄々とした風を装っていたが、背筋を震わせていたのであった。どこまでいっても謎の女性、それがシャロン・クリューゲル。でも、実に魅力的だ。
「酷いものだ」
キルヒアイスは遠くで炎上するロケット砲の残骸を見つめた。適切な防衛手段を取れなかったこちらの手落ちであることは確かだが、部隊を散開して被害を最小限にしてくれた部下には感謝しなければならない。だが、部下にはこれからさらに苦労させることになるだろう。まぁ、結果さえ出ればどうでもいいのだが。
「突入部隊はどうしている」
「着実に前進しています。そろそろ第二波を動かします」
もちろん、着実に前進、とは敵の抵抗や罠の妨害を跳ねのけながら、ということである。
「ローチ、ポイント03はまだ持ちこたえられそうか」
「もってあと1分、人員は後退中。自動砲塔が2基あるのみです」
「負傷者は」
「二名。ですが戦闘は可能」
「運がいいな」
「ええ。逆襲はいつかけるんですか」
「指示あるまで逆襲は禁止だ。死ぬのも禁止だぞ。とにかくそちらは遅滞に徹しろ」
同盟軍側の唯一といっていい戦力、特務支援課特殊作戦グループ──は、敵陣から訓練センターに続く唯一の道、そこを進撃する帝国軍の遅滞防御にあたっていた。少なくとも指示はそうなっていた。道の両側にある森に潜み、前進する帝国軍に砲火を浴びせかける。その時には、自動で目標を発見し、砲火を浴びせる
これが遅滞と呼べるのか──指揮を執っている特殊作戦グループの指揮官、プライス大尉はそう思っていた。一応こちらは伏撃を続け、帝国の進撃を妨害していることになっているが、帝国の方がゆっくりと押しているために、そういう形になっているともいえた。特殊作戦グループは、プライス大尉の二個分隊、『ローチ』ことサンダーソン中尉の二個分隊で相互援護しながら後退戦をやっている。だが、帝国軍は道中の罠を警戒しつつ破壊しつつ、こちらを時には包囲しようとしつつ、警戒しながらゆっくりと進んでいる。おかげで、こちらは敵の進撃を止める術がない。こういう時には大きく迂回して敵の隊列を分断する逆撃を行わなければならないが、リスクの高い逆撃は禁止されていた。そもそも、自分達の部隊以外に戦闘訓練を受けている兵はほとんど居ない。司令部に残っている兵は、そのほとんどが事務仕事専門である。もちろんそれが悪いわけではない。最後の最後に、敵に刃を突きつけるのは自分達しかいないのだから。
プライスはヘルメットのディスプレイを操作し、状況を確認した。やはり、配置した自動砲塔は、単独だとほとんど役に立たない。一回か二回射撃して沈黙させられている。帝国側が速度を犠牲にして、丹念に罠を排除しながら前進している影響だった。
「ローチ、やはり先頭の重装甲車を何とかしないと駄目だ」
プライスはヘルメットの無線越しにローチに通信した。
「でも、対戦車榴弾は役に立たなかったでしょう。どうするんですか」
先頭をゆっくりと進む装甲車のことを言っていた。戦車に匹敵する装甲と防御システムを持つ指揮用装甲車を、帝国軍は破城槌代わりに投入していた。確かに進路が限定されているこういう状況では有効だ。本来なら地雷か肉薄攻撃で破壊したいところだが、歩兵やドローンと協同して進撃していては手が出せない。
「ローチ、06まで後退しろ。対戦車スペシャルを用意しろ」
「大尉。2個分隊で支えるのは危険です」
プライスの指示にローチは抗議した。今でも支え切れていない前線から、半分の兵力を割き、後方で特別な対戦車攻撃の準備をさせるということなのである。敵が積極的になったら今度こそひとたまりもない。
「とにかくやれ。あと、本部に連絡して自動砲の使用許可を申請しろ。まだ距離が遠いが、そろそろいい塩梅のはずだ」
訓練センターの外壁に設置してある自動砲塔は射程範囲にある味方ではないオブジェクトに火力を浴びせる仕様になっている。今はスイッチを切っているが、これと協同して短期間に大火力を浴びせれば、逆襲の隙もできるかもしれない。プライスはそう言っていた。
「了解、幸運を祈ります。アウト」
「ローチ、お前もな」
その同時刻、私兵訓練センター司令室──
ヤンは自席であぐらをかきながら戦況スクリーンを見つめていた。今、時刻は午前一時半。フェザーンの特殊部隊到着まであと7時間。
「気に入らないな」
ヤンはつぶやく。
「何か、あるんですか」
訊くのはフレデリカだった。
「ドンパチが始まって1時間、奮闘する味方、でも戦線は1キロほど押し込まれている。というか、敵が地雷とブービートラップを丁寧に掃除しながら進んでいるからその程度、と言うべきかも。そのペースでいけば、あと3時間もあればこの施設に取りつかれてしまう。そうすればゲームオーバーだ」
「ゲームオーバーを防ぐために、施設の自動火器を温存しているのではなかったのでしょうか。リスクの高い逆襲をプライス大尉に禁じられたのでしょう?先程も使用許可を却下されていましたよね」
「特殊作戦グループは精鋭だけど一個小隊でしかないからね。少し足止めをするか、たくさん足止めをするかの差でしかない。自動砲塔は確かに頼もしいが、弾薬が心もとない。こちらとしては、手持ちの弾薬を撃ちつくしてしまうと、給弾する術がない。最後の最後まで待つしかない」
「悪い予感がするかね」
突然ムライが割り込んだ。
「敵の手に嵌まっているような気がします」
「それは判断ではない」
「そう。予感でしかない。時間制限があるのにゆっくりと進む敵。帰ることを考えているのかもしれないですが、もっと正面の敵は力押しができるはずだ。というか、何故注文通りに道を進んでくるんでしょうね」
「兵力差が大きすぎるからな。攻者三倍の原則どころじゃない」
「でも、帝国にも便利な道具はあるはずです。偵察ドローン、グレネードランチャー、迫撃砲。前線のデータからすると、どれも使用は低調。ほとんど使っていないに等しい」
ヤンは手元のスクリーンに表示してあるグラフを指し示した。
「手を隠している。温存しているということかね」
ムライが顎に手を当てながら言った。
「……そんな気がする。それだけです。あるいは手持ちの装備があまり豊富ではない、ということかもしれません。時間を犠牲にして、弾薬を節約している」
「希望的観測だな」
「そうですね。そこはまだ判断はつきません」
同じような不安感をフレデリカも感じていた。何かおかしい。本来なら瞬時に圧し潰されてもおかしくない状況だが、敵はこちらを「ゆっくりと押す」だけ。迂回も無し。通路の啓開もなし。投射火力がないから?
「アリッサさん」
「何?」
「森の中を別働隊が迂回できると思いますか。もちろん隠密に」
「無理だと思うけど。敵が迂回するならどこかで見つかるはず。熱源センサーに引っかかるわ。500個以上ばらまいているのよ。びっしり」
フレデリカの質問に、アリッサは色をなして反駁した。準備が足りなかった、そう取られたらしかった。
「背後は?」
「背後って、崖のこと?そこには建物の監視カメラぐらいね」
「何も、ないんですか」
フレデリカの表情が険しくなった。
「だって、無理よ。あんな絶壁。専門のクライマーでもないのに。それに今は真夜中よ」
「この背後の地図はありますか。あと写真も。絶壁の写真が見たいです」
フレデリカはアリッサの反論を無視して言った。
「あったかしら」
フレデリカの気迫に圧されたのか、アリッサは慌ててデータベースを検索し、検索結果が表示されたスレート端末をそのまま手渡した。受け取ったフレデリカはスレート端末を操作した。段々表情が曇っていく。
「これが絶壁だなんて……経験があれば登攀は可能です。補助道具があれば尚更です。軽装備なら十分持って行けます。ここを昇られたら、ここを直撃されます。一個小隊、いや、二個分隊もあれば完全に制圧されるでしょう」
「中尉」
ヤンが割って入った。
「君ならどれくらいで登攀できる」
「百メートルもありませんから……二時間、いやもう少し早くいけます。今は便利な道具もありますし」
「ということは」
「もう時間がないですね」
フレデリカの回答にようやく事の重大さに気づいたのか、アリッサの顔が青ざめた。
「どうする。特殊作戦グループを下げるか」
ムライが低い声で言った。この場の最上位者であるムライだったが、敢えて口出しは避けていた。だが、さすがに緊急事態で黙っているわけにはいかなかった。あと、スポンサーであり民間人であるアリッサを動揺させたままにしてはおけない、という事情もある。
「落ち着いてください。それは無理ですし、正面の兵力は拘束させておく必要があります。もしその想像が正しければ、奇襲部隊は軽装備の歩兵、兵力はそれほど多くない。まぁ、我々も多くはありませんが、頭数でそれほど懸絶はしていないでしょう」
フレデリカはそんなヤンを興味深く見つめた。なんというか、この人は慌てるところを人に見せたことがない。如何なる緊急事態でも、軽挙妄動すべからずというのは士官学校でも教育されることだが、この人はそれだけではないように思える。
「アリッサさん、
アリッサが答えた。この指令室がある建物を出たすぐ横よ。ヤンはさらに言う。対テロ戦闘用の装備はありますか。十分ある、ならよかった。
「では行きましょう。まだ望みはある。そう思うしかない」
「大尉」
「どうしました中佐殿」
「俺が高所恐怖症だったということを今思い出した。だから陸戦隊を選んだんだった」
シェーンコップの言葉をどう解釈したものか、大尉は一瞬迷ったが冗談だと思うことにした。軽い笑い声をあげる。今、二人が居るのは訓練センター施設の背後、絶壁を登り切った場所である。大尉の名前はエドゥアルト・ディートルと言い、陸戦隊の特殊作戦部隊、その教官をやっているという異例の経歴の持ち主だった。何故このような部署に来たのかは分からないし、将来も分からないだろう。とにもかくにも、断崖絶壁を登攀して背後から奇襲するというアイディアはディートル大尉が発案したものだった。
兵力差が絶対有利な状況で、敵の籠る拠点を制圧する。損害を考えなければ誰でもできることだ。だが、相手が監禁している人質を無傷で救出するとなれば話は別だ。それに加え、自動で攻撃する兵器が配備されているとなればさらに困難は増す。作戦の目的は救出であって、脱出する途中で保護すべき対象が死んでしまいました、では話にならない。
最初に考えられたのは、無差別砲撃で敵の武器を粗方破壊してしまうというものだったが、それだけの火力がないということで却下された。強襲揚陸艦は兵を運ぶことはできても補給物資を大量に運ぶようにはできていない。
次に損害を顧みない急激な進軍で一気に敵の本拠に迫る、というプランが考えられたがこれも保留された。敵がこれを想定しないはずがないからだった。脱出される、あるいは人質を殺害する、ということになったら何の意味もない。そういうために空挺降下等の手段が用意されているのだが
次は、別働隊を出して奇襲するという案が出た。だが、密林の中(もちろん罠とセンサーが待っている)迷わずに迂回起動するリスクが高いと判断された。期間は半日しかなく、おまけに夜間である。別働隊の性質上、電波等の発信はご法度だ。
そんな中、ディートルが大きく迂回して施設の背後に回り込み、奇襲をかけるというプランを披露した。警戒の必要が薄いはずの背後を登攀して浸透、敵のがら空きのケツを叩く。もちろん反論は出た。深夜に登攀など狂気の沙汰だ。それに対してディートルは、視覚補助装置があれば昼夜の差はカバーできるし、施設潜入用の機材(要は高い壁を登るための道具)は絶壁を登るためにも使えると主張した。基本的に自分が啓開したルートにロープを張れば、後はロープを伝って登って来ればよい。補助用の足場も設置するから苦労はないはずだと主張した。
結果、秘密裏に登攀する作戦が採用された。もちろん、かさばるもの、重いものは持っていくことができず、装備は最小限とされた。食料、水筒はもちろん、小銃すら携行できなかった。代わりに短機関銃と突入用の爆薬、ナイフ、折り畳み式
登攀そのものは特に問題は発生しなかった。一個小隊50名の隊員のうち3名が足を滑らせて滑落していったことを除けばである。ヒヤリハットは山ほど発生したが、それは看過すべきものとされた。恐らくシェーンコップは、今後二度と山登りをやりたいとは思わないだろう。建物の周囲にめぐらされた高いフェンスも、断崖には設置されていなかった。やはり、ここからの侵入は(もちろん脱出も)想定していないのだ。シェーンコップはここで人員配置と作戦の最終確認を行った。主な検討内容は、対象(アンネローゼのこと)確保と退路の確保、指令室の確保(自動防衛システムの機能停止)をどう行うかであった。監視カメラは避けなければいけないし、そもそも目標がどこかも分からない。一応事前にあたりはつけていたが、それが合っているかどうかはこれから分かる。対象確保へ向かうのはシェーンコップ含め23人、残りの24人はディートル大尉が率いて指令室を確保することになる。
「十分で配置につき、十分でケリをつけるぞ」
「了解。中佐殿。幸運を」
「ああ、幸運を。外部との連絡は任せたぞ」
ディートルと別れたシェーンコップは、中央の最も大きな建物に近づく。どの建物もシャッターを閉めて光りが漏れていないようにしているが、その建物だけは赤外線放射量が多い。人が多数存在していることは明らかだ。だが、監視カメラには見つからないようにしないといけない。ありがたいことに、視覚補助装置が監視カメラと思われる物体を検出して通知してくれる。民生品ならその監視可能距離まで出てくる。全てを信じるわけにはいかないが、死角を見つけ出すことは十分できた。恐らくディートルも同じようにやっているだろう。
「中佐、勝手口です。上に監視カメラ」
側に居た兵が指差して言った。
「あれは避けるわけにはいかんな。破壊しろ」
「了解」
兵はブラスターを構えると、引き金をひいた。光線が伸び、ドアの上にある半球状の物体を射貫く。
「よし。ならば開錠して突入するぞ」
工兵が扉に取り付いて、ドアノブの付近に機器を取りつけた。磁気の放射により、ロックを「こじ開ける」系の機器だ。いろいろな種類の錠をサポートしているのが特色だ。しばらくしてがちゃりと音がした。思ったよりも旧式の錠だったらしい。
「よし、入るぞ。突入!」
シェーンコップは資格補助装置の表示を読み取った。どうやら外の本隊にも信号は通じたようである。シェーンコップは二名の兵と共に建物内に侵入し──
前を進む二人が突然視界から消えた。少し進んだ曲がり角の先に引きずり込まれたように見えた。そして叫び声とうめき声の直後、死体となった二人の兵士がぽいと投げ捨てられた。後から入った兵が慌てて二人の遺体を収容する。頸動脈を一閃、それだけだった。いきり立った兵が角を曲がると、太り肉の兵がどたどたと逃げていくところだった。逃さじとブラスターを抜いて引き金を引く──反応しない。二度、三度引いてもブラスターは発射されなかった。その直後、頭部に何かが命中して、三人目の死者となった。
「ゼッフル粒子だと」
シェーンコップの側に居た兵がうめいた。手に持っているブラスターにゼッフル粒子の警報が出て、安全装置が働いている。これではゼッフル粒子の濃度が一定値以下になるまでブラスターは使えない。もちろん短機関銃もである。爆薬もご法度。突入した側は一気に行動が制約されてしまったのだ。
事態を理解した兵はすぐにナイフや戦斧を取り出すと、シェーンコップの制止も聞かず突入した。直後、叫び声やうめき声が聞こえて慌てて戻ってくる。シェーンコップは戻ってきた兵の一人、その腕に刺さっている釘のようなものを引き抜いた。
「畜生め」
シェーンコップは毒づくと釘を投げ捨てた。ゼッフル粒子環境下で使用されるフレシェット弾だ。建設現場で使われる釘打ち機を凶悪化させたような武器で、釘によく似た矢のような弾を圧搾空気で撃ち出す。威力はブラスターや火薬式銃砲より数段劣るが、装甲服を着用していないゲリラ等には、ゼッフル粒子環境下で銃器が使えることの意味は大きい。敵は、こちらの戦力装備を読み切った上で、優位な環境を構築していたのだ!
「ブロイアー、マインドル、戦死した兵を盾にして進め。敵の銃器は人体を貫通したらろくに威力はない。隠れていけば大丈夫だ。接近して一気にやっつけろ!」
シェーンコップの指示を理解した兵達は、戦死した戦友を担ぎ上げると盾にして前進した。
「少佐の予告通りだ」
パトリチェフが帝国軍を見ながら言った。
「当たっても嬉しくないね。とにかく敵をこちらに引き付ける。後退!」
パトリチェフとヤンが立ち上がって後退する。後退中はフレデリカがフレシェットライフルを二、三発発射して援護する。これだけで、敵の脚は鈍くなるし、飛び道具を放れないはずである。もっとも、フレシェット弾の在庫が少ないせいもあって無駄遣いはできない、という事情もあるが。
後ろでは、アリッサとシャロンが持ち運びできる机や椅子を倒して簡単なバリケードを作っている。とにかく敵の動きを制限するのが先決。距離を取りつつ障害物の後ろから射撃して敵の戦力を削るというのがヤンが示したプランだった。だが、敵も黙ってやられはしない。戦死した戦友の体を盾にしつつこちらとの距離を詰めている。
「大尉!」
シャロンが何かをパトリチェフに投げてよこした。パトリチェフは筒のようなそれを受け取ると、勢いよくそれを帝国兵に投げつけた。先頭の帝国兵が叫び声をあげて倒れる。盾を失った帝国軍をヤンとフレデリカがフレシェットライフルの連射を浴びせかける。何名かがぱたぱたと倒れた。通路に落ちた筒が何か白い霧のようなものを周囲に浴びせかけた。シャロンが渡したのは消火器だった。
「後退!二階まで退却!」
ヤンは叫ぶと全速力で逃げ出した。フレデリカもそれに続く。消火器の煙霧に一瞬怯んだ帝国軍であったが、再び戦友の遺体を担ぎ上げようとして──先頭の兵が顎を蹴られて吹っ飛ばされた。
パトリチェフだった。
パトリチェフは放置されていた遺体を掴むとそのまま一回転し、プロレスのジャイアントスイングの要領で帝国軍に放り投げた。地面に転がっていた帝国兵の戦斧を拾い上げると、手斧の要領で投げつける。再び帝国兵が斃れた。
「大尉!早く!」
ヤンの叫び声にパトリチェフはようやく後退を開始した。もちろん、後方ではヤンとシャロンがフレシェットライフルを構えて援護射撃を行っている。帝国兵のほとんどはそれを見て頭を下げたが、一人の兵士だけ、自らに向かう殺意を無視して手にしたナイフをパトリチェフめがけて投げつけた。
「大尉!」
パトリチェフが苦悶の表情を浮かべ、倒れた。投げたナイフが逃走するパトリチェフの脚に刺さったのだった。ナイフを投げた帝国兵はすぐにシャロンが撃ち倒したが、階段の前にあってヤン達が隠れているバリケードと、パトリチェフとの間には数メートルの差があった。そのさらに十メートル先には頭に血が上った帝国兵達がいる。
ヤンはバリケードを飛び越えパトリチェフに駆け寄った。ようやく起き上がったパトリチェフに肩を貸すと、可能な限りの速度で階段へ向かっていく。当然帝国兵は追いかけたが、シャロンがさらに二人を撃ち倒すと頭を下げた。その隙に、ヤンは辛うじてバリケードの陰に、そして階段を上がって逃げることができた。
「よせよ、痛いじゃないかね」
二階にあるいくつかの部屋の中で、一番端の部屋でパトリチェフが手当を受けていた。出血はまだ止まっていないがゼリーパームを巻きつけて外側を包帯で覆えば、とりあえず自力で動くことはできそうだ。パトリチェフの言葉は、健在を印象付けるための演技だろう。ヤンはそう思うことにした。
「指令室はどうなっている」
「敵の別働隊と交戦中です。状況はよくありません」
シャロンが報告した。
「無理に抵抗しないといいけどな。敵を引き付けるだけ引き付けて逃げて欲しい」
もちろん、その後何をするかはご想像の通りである。
「隔離区画は問題ないかな」
ヤンがフレデリカにたずねた。隔離区画はこの建物から地下通路を通った先にある。予想もつかない所に入口があるので、敵が気づかないことを祈りたい。
「今のところ、カリンとの連絡は保持できています」
「敵は上手くこちらに引き付けられただろうか」
「だといいのですが」
フレデリカが心配そうに答える。
「特殊作戦グループはどうしている」
「敵の進撃スピードが突然速くなったそうで、圧力に耐えきれないと報告がありました。しばらくしたら表の帝国兵が殺到するでしょう。自動砲が動かなければ、ここに突入されるのも時間の問題かと」
「許可を出さざるを得ないか」
ヤンが悔しそうに言った。外壁に取り付けてある自動砲台は確かに強力だが、接近する帝国兵を叩ききれるほど強力ではない。精々足をいくらか止める程度だからだ。有効な組み合わせを考えられなかった自分を責めたいが、今更どうにもならない。
「シャロンさん、敵がここを見つけるまでどれだけ時間稼げるかな」
「もって十分というところでしょう。準備にそれほど時間がありませんでしたので。もう二か所解除されました」
二階の部屋にはシャロンとアリッサ二人の共同作業で様々なブービートラップが設置されている。そのことを指していた。二階にいくつかある部屋を探る途中で、引っかかることを期待していたが、設置できる量がそれほど多くないので時間を稼げないのだ。ブービートラップに必須の爆薬が、ゼッフル粒子環境では使えないことも影響している。下手すると建物そのものが崩落しかねない。
「今何時かな」
ヤンは腕時計を見た。午前3時より少し前。時間を稼いだつもりだったが、とんだ児戯という結果になりそうだ。女性に夜間の逃避行はきついと思って籠城を選んだのだが、無理でも森林の中に隠れるべきだったかもしれない。
「アリッサさん、シャロンさん。これは私からの提案なのだが」
ヤンはなるべく平静を装って話し出した。
「私達だけ逃げるというのは無しです。アンネローゼさんはどうするんですか」
アリッサが先回りして答えた。
「だけど、敢えてそうすべきだと思います。民間人が死んで軍人が助かるということはあってはならないのです」
「アンネローゼさんはどうするんですか」
シャロンが言った。
「我々が血路を開きます。判断はミューゼルさんのご判断に任せます」
「無責任ですね。できもしないのに」
シャロンがヤンの答えを切って捨てた。
「いや、思ったんですよ。ゼッフル粒子が充満しているこの室内なら、帝国の部隊を道連れにできると。敵がそれに気づいていなければいいですが。いや、そんなことはないはずなんですけどね」
ヤンは、自分の思考が取り留めもないものになっていることに気づいていた。考えがまとまらない。死ぬのが怖いからだろうか、それとも巻き込んだ人々への自責の念、愛する人を置いていく後悔の念?ヤンは、自暴自棄な突撃を敢行する人々の気持ちが分かるような気がした。いろいろなプレッシャーに晒される中、合理的思考を維持するのは困難なことなのだ。今ならそれが分かる。
「少佐」
フレデリカが声をかけた。
「何だ」
「通信です。中佐からのようです」
フレデリカがコミュニケータを指差した。いつの間にかポケットから落ちてしまっていたようだった。ヤンは拾い上げて通信を開始した。
「はい、こちらヤンですが……何ですって?敵が停戦を求めている!?」
午前2時45分、キルヒアイスの指揮車──
キルヒアイスは目の前のスクリーンを満足そうに眺めていた。シェーンコップの突撃隊は突入に成功、敵は混乱しているようだ。前面では敵の伏撃がまだ続いているが、そろそろ兵力差を吸収しきれなくなる頃合いだ。敵の本拠地に近づけば、抵抗は強くなるだろう。だが、兵の頭数が圧倒的過ぎる。敵は何もできないだろう。
「閣下」
指揮車の中であれこれ指示を出していたオペレータがキルヒアイスを呼んだ。
「どうしました」
キルヒアイスは丁寧に聞いた。
「通信が入っております。外部からです」
「外部?どこからです」
キルヒアイスの質問に対する、オペレータの返答にキルヒアイスは首をかしげた。
「弁務官事務所?」
フェザーンにある北朝の弁務官事務所から、ここに通信が入ってきているというのである。どうしてここが分かったのだろうか?いや、それよりも今は午前三時前。こんな時間に何の用なのか?
「今は作戦行動中です。取り次ぐのはやめていただきたい。そう伝えれば相手も分かるはずです」
「いや……それが、向こうはそれが分かっていて何としても取り次ぐようにと言っています。もし通信をしないなら後悔するだろうと」
キルヒアイスは再度首をかしげた。弁務官事務所が軍に対しここまで高圧的に出てくることの理由が分からなかった。弁務官事務所など、貴族や軍の御用聞き、というのが一般的なイメージだったしキルヒアイスも同じ気持ちだったのだ。
「相手の名前は?」
「副高等弁務官のオッフェンブルフ伯とのことです」
キルヒアイスは命じた。私が対応しましょう。通信回線を開きなさい。
キルヒアイスが初めて見たオッフェンブルフ伯爵は、神経質を形にしたような顔だった。頭髪は真っ白で、目は細く、頬はふくらんでいるが皺や目の隈等で福々しさとは正反対の顔つきである。肥満した腐敗貴族、と言った方がいいかもしれない。
「帝国軍少将、ジークフリード・キルヒアイスであります。今は作戦中ですので──」
「遅い!一体どれだけ待たせるのですか!!」
相手の反応にキルヒアイスはむっとしたが、それを表情に出すことはない。相手の声が妙に甲高いところが気になった。
「申し訳ありません。ですが、軍としては、特に作戦中の軍隊は上官以外と連絡は取らないことになっております。これは軍の基本原則であり当然──」
「作戦、ですとな。フェザーンのどこで作戦が行われているのですかな。第一、昼は昼でフェザーン回廊で意味不明な戦闘があり、やっと終わったと思ったら今度はここ、惑星フェザーンで戦闘ですと?作戦を指令したのはどこの誰ですか?」
「ああ申し訳ない」
キルヒアイスは相手の剣幕に押されていた。
「これは緊急事態です。惑星フェザーンで帝国騎士のご親族が誘拐され、生命の危機に晒されております。通報を受けた我々は、その人を救出すべく急遽出動した次第です」
「弁務官事務所には何の連絡もないが。我々はフェザーン行政府から通報を受けたが、フェザーン側も連絡がないと言っておった」
「緊急事態故、連絡を忘れていたのでしょう。その件については申し訳ないと思っております」
キルヒアイスは内心、フェザーン行政府などをそんなに恐れてどうすると思っている。
「ですが、フェザーンの治安当局や弁務官事務所との連携無しに、勝手に軍を動かしていること、これは非常にまずい事態を招来していることをご存じか。皇帝陛下の軍隊を私していると捉えられるかもしれませんぞ」
キルヒアイスは内心、このくそ野郎の弁務官、そう思っている。もう少ししたら喉からその言葉が出てしまうかもしれない。
「ああ、あまりこれは外聞を憚る事態なので申し上げるのを控えておりました。あまり、弁務官事務所や行政府を巻き込みたくなかったという事情もあります。ですが言いましょう。現在、武装勢力に監禁されている帝国騎士のご親族、というのは軍務尚書代理を努めておりますラインハルト・フォン・ミューゼル大将閣下の姉君なのです」
キルヒアイスはここまで言い切って、これでゲームセットであることを確信した。後で痛くもない腹を探った礼はたっぷりやってやるからな。
だが、相手の返答は予想もつかないものだった。
「それがどうした」
「閣下は、ミューゼル大将閣下のご親族が監禁されているという証拠もなく、生命の危機に晒されているという客観的な情報も提示せず、作戦を実行しているということでよろしいのかな。世の中、いろいろな越権行為というのはあるが、閣下は事の重大さを分かっておられないようだ」
「一体何を──」
そこまで言いかけて、返ってきたオッフェンブルフ伯の言葉に、キルヒアイスは本当に言葉を失った。
「これは皇帝陛下の案件である。陛下は、フェザーン回廊にて不要な、全く不要な騒擾が発生していることに大変ご立腹だ。フェザーン回廊にて発生した『全ての』武力行使について調査を行い、報告せよとの仰せなのだ。いいですか、これまでの戦闘については、帝国臣民の保護のためやむを得ず、独断で行われたもの。些か無理があろうと思われるが、最低限筋は通っていると言っていいでしょう。ですが」
オッフェンブルフ伯は一段と大きく声を張り上げた。
「もし、今この後、戦闘が継続されたとの情報があるとしたならば、ですぞ。弁務官事務所が明確に戦闘停止を指示したにもかかわらず、戦闘を続行した理由について、指揮者であるキルヒアイス少将閣下への査問をせねばならない。場合によっては、ミューゼル大将閣下も調査対象となること、お分かりであろうな。自分の親族のために、皇帝陛下の軍隊を動かしたと取られる可能性があるのですぞ」
キルヒアイスは絶句した。そんなことになれば、アンネローゼの救出どころではない。帝国統一の後に起こる政治的闘争、それに生き残れないことになる。そこで行われたあらゆる汚れ仕事の責任を負わされることになるだろう。とにかく、それだけは避けなければならない。
「……了解致しました。速やかに戦闘を停止しましょう。ですが」
「ですが?」
「囚われているミューゼル閣下の姉君に万一のことあらば、その責任の一端はオッフェンブルグ伯ご本人にあること、それは同意頂けますな」
「何を心配されておられるのか理解できないが」
オッフェンブルフ伯はそこで言葉を切った。
「命令には責任が伴う。帝国の軍法の基本である。だが、貴官にその責任を問うこと、できるかな。では、失礼させてもらう」
オッフェンブルフ伯からの通信は、はじまりと同じく唐突に切れた。
「閣下……」
連絡を取り次いだオペレーターが心配そうにキルヒアイスの方を見つめている。別にキルヒアイスのことを心配しているわけではなかった(全くその気がないわけではなかろうが)。皇帝が全てを決める、というのが表向きの銀河帝国では、皇帝への反逆は重罪中の重罪である。そして、反逆を見過ごすことも重罪なのだ。過去、帝国で起きた内乱の少なくない数が、反乱側の内部崩壊によって終結したのは決して偶然ではない。反逆者を誅することは、正義の振る舞いなのだ。自らの罪の二つ三つと引き換えにできるくらいの。
「……是非もなし。前線に連絡を。戦闘を停止し、撤収せよと伝達しなさい」
オペレーターは、すぐさま端末に飛びつくと連絡を開始した。キルヒアイスの気が変わらないうちに事を運んでおかないとならなかった。
キルヒアイスは思案した。一体誰がこのようなことを。一日足らずで、皇帝を抱き込んでこちらの行動を制約する動機と手段を持っているのは誰だ?リッテンハイムか?3000隻の艦隊を失ったことへの報復か?だが、それならリッテンハイムも返り血を十分浴びることになる。最初に手を出したのは向こうの方なのだから。それともリヒテンラーデ一族の残党?分からない。分からない。だが、問題はこれからどうする?
同時刻、北朝帝国弁務官事務所──
通信室の席に座っているオッフェンブルフ伯は、通信機のスイッチを切ると大きく伸びをした。後ろのテーブルに置いてある紙コップを取ると、中に入っているコーヒーを一気に飲み干した。緊張した体をほぐすように両腕を何回か回す。
「これで戦闘は終わるだろう。遅すぎなければいいが」
オッフェンブルフ伯は首筋のあたりをぽりぼりと掻いた。付け根あたりの皮を引っ張る。日焼けの皮を剥がすように何箇所か小さく引っ張ると、やおら首筋を摘んでねじり、べりっと一気に引き剥がした。首筋だけではない。顔を構成している樹脂製のマスクが一気に取れてしまった。頭部にはウィッグまで付けてある。
「久々だが、あまり気持ちいいものではない」
オッフェンブルフ伯の顔の下からは、なんとオスカー・フォン・ロイエンタールの顔が出てきた。あ、あ、と声色を確かめるように声を出す。薬物で声色も変えていたのだが、先程飲んだコーヒーでそれも元に戻ることになっている。
「まぁ、雇い主のためとあらばこれも致し方なし」
ロイエンタールは鞄に先程の人工頭皮を押し込んだ。酒好き女好きのオッフェンブルフ伯に近づき、酔い潰した上で顔のデータを取り、苦心惨憺の末に作り上げたこの人工頭皮であるが、もう使うことはないだろう。
「さぁて、ヤン・ウェンリー。あの時の借りは返した。だが俺ができるのはここまでだ。後はお前さんがどう事を収めるか、見物させてもらうとしよう」
ロイエンタールは通信室を出て、コーヒーのおかわりを淹れに行った。もちろん、弁務官事務所の面々で今起きているのはロイエンタールだけだった。朝になり、このニュースを受け取った弁務官事務所は蜂の巣を突いたような騒ぎになるであろう。その時、この戦闘についてロイエンタール自身がどのように対処するか考えなければいけなかった。
3時過ぎ、訓練センター隔離区画──
ワルター・フォン・シェーンコップは、足を少し引きずりながら、一直線の通路を歩いていた。シェーンコップが今の状況に至るまでにはいくつかの偶然があった。
本来なら、ヤン達建物の2階に逃げ込んだ面々を追うつもりだった。だが、それは叶わなかった。フレシェットライフルの流れ弾がシェーンコップの右足脛に命中し、右足の自由が阻害されてしまったのだった。シェーンコップは追跡が難しくなったので、部下数名と共に1階の部屋を探索することとなった。いくつかある部屋をそれぞれ分担して探索することにしたのだった。シェーンコップが担当した部屋はどうということのない会議室だったのだが、隠し通路が開けっ放しになっているのを発見して、今、こうしている。敵が間抜けなのか、それとも状況が全く変わっているのか、シェーンコップには知りようがない。後で気づいたことであったが、流れ弾を浴びたのはシェーンコップの右足だけではなく、腰に提げていた通信機もそうだったのだ。
それにしても静かだ。
シェーンコップは違和感を感じていた。薄暗い(灯りはところどころにある)トンネルのような所を進んでいるから静かなのは当たり前なのだが、どうにも落ち着かない。砲火の中で生きてきたシェーンコップにとって、静かさは罠を予感させるものであった。ここは一体どこに続いているのだろうか。構造からして何か重要な所に通じているはずなのだが(不十分とはいえ灯火があるのだから)、罠だったら目も当てられない。
シェーンコップは目をこらした。どうやら先は行き止まり──いや、曲がり角がある。シェーンコップは音を立てずにそろりそろりと歩く。行き止まりの先には敵がいる。そういう前提で進むのが兵の原則だ。果たして、曲がり角まであと20メートルというところで、男女二人の兵士がいきなり現れた。本来なら走り寄ってナイフか戦斧で片をつけるところなのだが、右足が不自由なためそれも叶わない。
シェーンコップが気づいた直後、敵もこちらを認めたようで男の方がライフルを突き付けてきた。褐色の肌をした巨漢の兵だった。女性の方は、薄赤色のロングヘアーで中肉中背見てくれもプロポーションも上の中ぐらいはあるだろう。
「そこで何をしている!」
男が叫んだ。シェーンコップは両手をあげる。元々両手に武器は持っていなかった。シェーンコップは違和感を感じる。こちらが両手をあげているにも関わらず、撃ってくるわけでもないし、武装解除する風でもない。一体どういうことだ。
「ここから先は立ち入り禁止だ。出口は今来た方向に行くんだ!」
シェーンコップはさらに違和感を感じた。立ち入り禁止?行き止まりじゃないのか?これは……確かめてみる価値があるな。
「ああどうも。すいません」
シェーンコップは背中を丸めて、媚びるように言った。何か助けを求めるような感じで、右脚を引きずりながら二人に近づく。すいません、どうも迷ってしまったようです。すぐに帰ります。ですが、この通り右足を負傷してまして、歩くのも不自由しております。もしよろしければ包帯の一つも分けてもらえませんか。
シェーンコップの言葉に、男性兵士の方が、エイドキットの中から包帯を取り出してシェーンコップの方に近づいてきた。ああ、結構深いですね。止血しておかないと後がきついでしょう。男はひざまづくとシェーンコップの手当を開始した。
シェーンコップに迷いはなかった。背中に隠し持っていた戦闘用ナイフを引き抜くと男性の首に振り下ろした。無駄のない動きでナイフを引き抜くと、女性兵士の方に駆け寄り、首にナイフを当てた。
「おい、死にたくなかったらアンネローゼ・フォン・ミューゼルの所まで案内してもらおうか」
予想通り、目的地はこの通路の先にあった。曲がり角から歩くこと二十メートル先に扉がある。ご丁寧に通路には二か所、バリケードがあった。普通に進んでいたらここから先は進めなかっただろう。扉の前にたどり着いたシェーンコップは、女性兵士に開けろ、と命じた。右手の拘束を緩めて自由にしてやる。女性は、胸からIDカードを取り出すと、扉に押し当てた。自動扉がすぅっと音もなく開く。
中は安いホテルの部屋のような構造をしていた。机と椅子とベッド、壁には薄型ディスプレイが懸けてある。奥には扉があった。恐らく洗面所であろう。ベッドには長い金髪と
「貴方は──」
女性が訊いた。
「突然のご訪問、失礼致します。アンネローゼ・フォン・ミューゼル様でいらっしゃるかな」
シェーンコップの言葉はそこで中断した。拘束していた女性兵士が右足を思い切り踏みつけ、意識がそこに集中した瞬間、一本背負いの要領で投げ飛ばされたのだった。女性兵士はシェーンコップの上に馬乗りになり、右腕をねじり上げると義手の手首に手刀を叩き込んだ。ナイフを握ったままの義手が根元からぽきりと折れた。どうやら、固定が緩んでいたようだった。
「カリン!!」
カリンが腰から拳銃を抜いてシェーンコップの頭に撃ち込もうとしたその寸前、アンネローゼが大声をあげた。
「駄目です。こいつ、マシュンゴ准尉を!さっきまで側にいたのに!!」
「殺してはなりません」
「ですが!」
カリンはシェーンコップの頭に拳銃を突き付けながら反論した。
「なりません。もう戦いは終わりです」
アンネローゼはきっぱりと断言した。カリンはしぶしぶ拳銃をしまうとシェーンコップの上から退いた。シェーンコップはよろよろと立ち上がると、敬礼をしようとして右手がないことに気づく。代わりにぺこりと一礼した。
「ワルター・フォン・シェーンコップ中佐であります」
「シェーンコップ中佐、ですか。私を迎えに来たのですか」
シェーンコップを見つめるアンネローゼの瞳には動揺も恐怖もなかった。
「如何にも。ジークフリード・キルヒアイス少将の命を受け、お迎えにあがりました」
「ちょっと、それどういうこと!」
カリンの抗議をアンネローゼは手で押しとどめた。
「分かりました。キルヒアイスは貴方の直属の上官ですか」
「そういうことになっておりますが」
「そうですか。ジーク……いえ、キルヒアイス少将はここに来るのですか」
「いえ。自分はミューゼル様の安全を確保し、キルヒアイス少将の所にお連れするように、それしか命令を受けておりません」
「そうですか……」
アンネローゼはしばしうつむいた。そして顔をあげて言った。
「ならばシェーンコップ中佐。帰ってキルヒアイス少将に伝えなさい。私は貴方のもとには行かないと」
「……どういうことでしょうか?」
シェーンコップは困惑した。救出すべき人質が解放を望んでいない、というのは想定していないパターンであった。人質が犯人と意気投合するパターンというのは歴史上例がないわけではないが、シェーンコップは戦史に通じているわけではなかった。
「中佐、分かりませんか。もし私が救出すべき人質であるならば、何故段階を踏まず、兵隊を送るのでしょうか。何故南軍に偽装するのですか。おかしいとは思わないのですか」
「……」
それからの説明は衝撃的なものだった。自分と共に突入した兵は、何故かキルヒアイス直々の命により戦闘を停止してしまったこと。表から進撃していた部隊も前進をやめて引き上げてしまったこと。気づかなかったのは、通信機が壊れていたシェーンコップ一人だけだったこと。そしてアンネローゼが語る、キルヒアイスの真の姿も。
シェーンコップは、自らの中から闘志が抜け落ちていくのを感じていた。戦闘というのは精神的な緊張と密接に関係している。気が抜けると、それまでの戦闘力が全く発揮できなくなることは十分あり得る。そして、これは戦闘だけに止まらないが、人は敗北を被害に転換して記憶する傾向にある。
あと少しだったのに、一体どうしてそんなことが起きるのだ。自分が死地に踏み込むのは構わない。だが、何故最後までやり抜こうとしない。というか、一体全体この戦いは何だったのか。あいつの個人的な野心、いやそうとも呼べない感情のためか?
「この戦いは無用です。ですから、貴方は生きて戻るべきです。カリン、この人を出口まで案内してあげて。なんなら、帝国軍の所まで送って差し上げて」
こうして、深夜のアッシニボイヤ渓谷での戦闘は、完全な終結を迎えた。何ともカタルシスのない終わり方であった。
4時15分頃、帝国軍陣地──
「ただいま戻りました」
「中佐、お疲れ様でした」
キルヒアイスの指揮車に戻ったシェーンコップに対し、キルヒアイスは労をねぎらった。いや、言葉上はねぎらったように聞こえた。シェーンコップは敬礼しているのだが、義手が脱落しているため何とも不格好に見える。それでも傷痕や血で汚れた包帯によって彩られた軍服からは、何とも言えない威圧感が醸しだされていた。いつまでもキルヒアイスが答礼しないので、シェーンコップは敬礼をやめてしまった。指揮車内はシェーンコップとキルヒアイスの二人だけだった。通信手は撤収の手伝いをしているらしい。
「どうやって戻ってきたのですか」
「妙齢の美女に送ってもらいました」
シェーンコップはシャロンのバイクに同乗して、帝国軍の陣地まで送ってもらっていた。
「で、当然ながら話してくれるのでしょうな。何故、後退を命令したのです」
「それを言うならまず先に、何故、対象の救出に失敗したのですか」
キルヒアイスがいきなり核心を突いてきた。というか他に聞くべきことはなかった。戦況は指揮車のスクリーンに全部表示されている。
「突入した決死隊は義務を果たしました。貴方は何故義務を果たさなかったのですか」
「それは義務をどう捉えるか、それ次第でしょう。第一、我々は勝っていた。それを中断したのはあんただ。キルヒアイス」
「それが上官に対する態度ですか、中佐」
「俺には上官はいない。そう言ったはずだ」
「……」
「俺は死に場所のために戦っている。今更だとは思うが、生き延びていいことはなかった。考えてみれば当然だ。何が戦の無い世、何が超越だ。何もかもが馬鹿馬鹿しい」
シェーンコップの内心にささくれ立ったものを感じたキルヒアイスは、しばし思考をめぐらした。可能性の一つに思い当たった。
「もしかして、アンネローゼ様を見つけたのですか」
「お会いした」
「もしかしてまさか……」
「それに関しては問題ありません。傷一つありませんでした」
「どうして」
キルヒアイスは歩み寄るとシェーンコップに掴みかかった。
「何故救出しなかったのですか。それが貴方の義務のはずだ」
「ミューゼル様が望まれなかった。お前の元へ行くのは嫌だとさ」
シェーンコップの顔には嘲笑が浮かんでいた。
「なん……だと」
驚愕したキルヒアイスはシェーンコップを突き飛ばした。アンネローゼから初めて示された拒絶だった。少なくともキルヒアイスの主観からすれば。
「考えてみればそうだ。圧倒的な戦力を持っていながら、何故自分は安全なところにいる?ミューゼル様から聞いたぞ。大切な人の命を何故人任せにするのだ。お前さんはそれを見透かされたのさ。それが分からないようなら、お前さんの言う平和など、絵に描いた餅だろうさ。分からないか。言ってやろうか」
「……」
「好いた女に『好きだ』の一言も言えない奴に、何ができる」
シェーンコップの罵倒に近い言葉に、キルヒアイスは返すことができなかった。ラインハルトと共に成し遂げる宇宙の統一、宇宙の平和。それがあればアンネローゼ様は振り向いてくれるはず。そう思っていた。いや、そう思い込んでいた。そうじゃないのか。
一分ほど続いた沈黙を破ったのはキルヒアイスだった。唇が震えているのは寒さのためではない。
「言いたいことはそれだけですか」
「そうだ、な。お前さんにその気があれば行ってみせるがいいさ。今からならば敵も抵抗しますまいよ。場所だって案内してくれる」
「了解しました」
シェーンコップはキルヒアイスの声に自信が戻っているように感じた。
「その前にです」
キルヒアイスは、ブラスターを抜くとシェーンコップに突き付けた。
「上層部でこの戦闘をどう処理するか、見解の違いがあるそうです。そのため私は一つの見解を用意しました。シェーンコップ中佐、貴方が偽情報で関係者をコントロールし、無用な武力衝突を引き起こした、という見解です。それで八方丸く収まるというものです」
「死人に口無しか。だが、死人とはいえまだ俺は生きている。接近戦でナイフに勝てるかな」
シェーンコップはキルヒアイスと同時に、腰にあった予備の軍用ナイフを引き抜いていて、既に身構えていた。利き手がないのがどうにも不都合だが、贅沢は言っていられない。二人は数秒ほども睨み合っていたが、その直後、シェーンコップの背後でスピーカーが金切声をあげた。不覚にもシェーンコップの注意がほんのわずか、そちらに向いたとき、キルヒアイスのブラスター三連射が正確にシェーンコップの体を貫いた。
「ぐっ……がっ……」
シェーンコップの叫び声はもう声になっていない。よろけると、自分の後ろにある壁にぶつかり、そこで尻もちをついた。
「貴方の言うとおり、行くことにしましょう。ではおさらばだ」
キルヒアイスはシェーンコップに背を向けると、コミュニケータを手に取った。キルヒアイスは気づいていなかった。シェーンコップが死の間際に、最後の力をふり絞って、軍用ナイフの柄にあるボタンを押し込もうとしていたことを。シェーンコップが肌身離さず持っていた、ローゼンリッター特殊仕様の軍用ナイフは、仕込んである発条によって、刃だけを飛ばすことができるのだ。
その瞬間──
キルヒアイスの全身に激痛が走った。一体何が起きたのか理解できない。キルヒアイスは苦悶の叫び声をあげようとしたが声にならなかった。シェーンコップのように。声の代わりに口から出たのは赤黒い塊のようなものだった。息が苦しい。腹の底からこみあげてくるもので喉が詰まっているようだ。痛い、体が重い、一体どうなっている。まさか──
キルヒアイスは指揮車の中央にある机、それに寄りかかった。脚が言うことを聞かない。目も言うことを聞かない。機械の動作音や戦場音楽であれほど騒々しかった車内も、今やひどく静寂なものだ。今やキルヒアイスは机に覆いかぶさるように倒れ伏している。
もしキルヒアイスが後ろを振り向くことができたとしたら、実に安らかな顔で死の国へと旅立って行くシェーンコップを見ることができたかもしれない。だが、キルヒアイスはそれを見ることはなかった。
宇宙暦799年、帝国暦490年3月14日午前4時24分。
ジークフリード・キルヒアイスの歴史はそこで終わった。死因は失血性ショック死、約一時間後、衛生兵によってそう判断された。ワルター・フォン・シェーンコップ中佐も同時刻に戦死、死因は同様、そう記録された。
宇宙暦799年、帝国暦490年3月14日、午前6時、アッシニボイヤ渓谷──
「こんなに日の出が有難いと思ったことはないな」
ヤンは訓練センターの中庭で、昇る朝日を見てそう思った。新しい朝が来た、希望の朝だ、喜びに胸を開け、大空仰げ……さて、この曲、一体何だったっけ?ああそうだ、軍隊体操の歌か。
立て篭っていた訓練センターは、戦死者の安置所であり、負傷者の応急処置所と化していた。戦死39名、負傷者26名。五体満足な人間の方が少数派である。戦傷者のほとんどは、前面で敵の大軍を食い止めていた特殊作戦グループのものだ。フェザーン同盟大使館は、汚れ仕事を行う能力を失ってしまった。
その犠牲と引き換えに得たものは何か。アリッサ・ラインフォルトの身の安全と自由。アンネローゼ・フォン・ミューゼルの身柄の確保。大げさに語るとするならば、フェザーン回廊を通じた帝国の同盟に対する戦略的奇襲は、とりあえず封じることができた、ということになる。ラインフォルト財閥は自己決定権を保持し、帝国の軍事的最高権力者の親族がこちらに居るからだ。後者はどれほど意味のあることか分からなかったが。
「少佐、こんな所にいたのですか」
フレデリカが背後から声をかけた。
「朝日を見るのがそんなに楽しいですか」
「見れると思わなかったからね」
フレデリカの嫌味じみた質問に、ヤンは大まじめに答えた。
「負ける戦いだった。全員討ち死にしてもおかしくなかった。勝ったのは我々が優秀だからでも運があったからでもない。ただ」
「ただ?」
「敵が退却したからさ。となると、死んでいった者達は何のために死んだんだろう。マグダビッシュ中尉、ライリー中尉、マシュンゴ准尉なんか戦闘が終わった後に死ぬ羽目になった……兵士としては彼等の方がずっと優秀だったろうに」
「な、ら、ば」
フレデリカが音節を強調して言った。
「ならば?」
「死んだ人の分の仕事もしてください。仕事が終わった後にまだ愚痴る余裕があるなら、その時は聞くことにしましょう。というかですね、少佐、予備のボディバッグを探しに行く話はどうしたんですか」
「あ、そうだ」
ヤンは手を叩いた。確かそう言われて探しに行ったんだった。
「もうそれはいいです。指令室に戻ってください。フェザーンの特殊警察隊と連絡が確立しました。ムライ中佐が、連絡と案内をやるようにと言ってます」
「やれやれ、人使いの荒い!」
ヤンはため息をつくと、腰を2、3回叩いて歩き出した。ヤンはこの戦いの真の意味を知ることはなかったし、これからも気づくことはないだろう。
ジークフリード・キルヒアイス戦死の報がラインハルトの元に届いたのは、3月14日午前7時頃のことだったとされる。
親しい人の死を受け入れたくない、その気持ちは普遍的なものである。
だが、ラインハルト・フォン・ミューゼルのそれはいささか極端に過ぎた。最初の一報を受けた時、ラインハルトはそれを却下した。そこまではまだ分かる。だが、第二報を受けてもなおそれを信じようとせず、後背から心臓への刺突による出血性ショック死という診断結果が添付されてもなお信用しようとしなかった。現場からの死亡診断報告書を持ってきたオーベルシュタインに対し
「卿は嘘をついている。キルヒアイスが俺を置いて先に死ぬはずなどないのだ!」
そう大声で叫んで、戦艦タンホイザーの艦橋に居るオペレータ達をドン引きさせたのは事実であった。弱みなど見せたことのない軍管区司令官、同一人物が人目もはばからず見せた醜態であった。
「閣下」
「なんだ」
「閣下はお疲れのようです。休まれるのがよろしいかと」
「何だと。俺は疲れてなどいない!」
「いえ、ご自覚はないと思いますが、昨日から一睡もされておられません。いざという時に倒れられては我々が困ります」
「オーベルシュタイン!」
ラインハルトはオーベルシュタインに掴みかかろうとしたが、寸前、すうっと意識を失いかけた。身体の方は頭脳よりよっぽど負担がかかっていたようである。それでも何か言いたかったラインハルトであるが、オーベルシュタインの無言の抵抗に最後は屈することになった。
自室に戻ったラインハルトであるが、特にやることがあるわけでもない。結局端末を操作して、フェザーンから届いた報告をチェックすることしかできなかった。いや、昨日からリッテンハイム侯側からの抗議が山のように届いているのだが、それに関しては読もうという気すらない。というか、貴族達との裏取引はキルヒアイスが仕切っていて、読んでもまともな回答は返せないだろう。
ラインハルトは机に座ると、フェザーンからの報告書ファイルを開いた。強襲揚陸艦を用いた降下、機動歩兵による強襲、迂回による奇襲、敵の抵抗による失敗、敵の刺客による死亡。そうなっていた。敵の正体は現時点で不明なれど、キルヒアイスの背中に突き立てられたナイフの刃、そこに刻まれていた刻印により、同盟軍あるいは同盟が支援している武装グループによるものとされた。
「馬鹿なことを」
ラインハルトは唸った。何故準備もないのに軽々と攻撃を仕掛ける。そんなものはフェザーンを抱き込んで降伏を勧告すればよいことではないか。同盟が抵抗したなら尚更だ。裏工作が得意なキルヒアイスがこうも軽率に攻撃を仕掛けて失敗するとは何たることだ。やはりシェーンコップを預けたのは間違いだったか。おい、キルヒアイス。俺はお前を失ってしまった。これからやってほしいことがまだまだ沢山あったのに。
ラインハルトは哭いた。机に突っ伏して慟哭した。あまりに理不尽過ぎる。自分が死ぬより先にキルヒアイスが死んでしまうなんてあり得ない。ラインハルトは気づいていなかった。そもそもキルヒアイスがフェザーンに行くきっかけであったアンネローゼのことをきれいに忘れ去っていることに。
ラインハルトは起き上がると、時計を確認した。もう午後5時を過ぎている。おい、まさか10時間も過ぎている。何故誰も起こしに来ないのだ。ラインハルトは憤慨したが誰かを責める気にはなれなかった。恐らく当人が意気消沈の状態だったのであろう。
ラインハルトは机の上にあったコミュニケータを確認した。着信の履歴が数件ある。オーベルシュタインからだった。通信を開始する。
「私だ」
オーベルシュタインは、お休みになれましたかというような慣例的な挨拶はせず、いきなり本題に突入した。キルヒアイス少将から閣下宛のメッセージファイルが見つかったというのである。
「現場責任者のシャボフスキー少佐からの報告によりますと、キルヒアイス少将の装身具にメモリーが装着されていたとのことで、ファイル情報によりますと、閣下への私信である可能性が高いとのことです」
「どういうことだ。コミュニケータや端末ではないのか」
「首から下げていたロケットペンダントの中に貼り付けられていたそうです」
「おい待てオーベルシュタイン」
「何でしょうか」
「その男は、本人の許可もなくロケットに触ったのか」
「は?」
「そのロケットにみだりに触るなと言ったのだ!」
もしオーベルシュタインがその場に居たならば、ラインハルトの双眸に狂気が宿っているところを見たかもしれない。
「……ご想像はお好きになされるがよろしいでしょう。ですが、キルヒアイス少将のメッセージを無視なさるのですか、閣下は」
「……ファイルは送信できるのか」
ラインハルトの心のなかに黒いものが湧き上がったが、何とか押しとどめた。
「可能です」
「ならば転送しろ」
「了解であります」
通信は唐突に切れた。しばらくしてオーベルシュタインからファイルが送信される。3D動画ファイルということで、専用の映写機が必要だった。ラインハルトは机の抽斗を開けると送信機を取り出した。コミュニケータからファイルを転送する。ファイルの転送完了を確認すると、映写機の再生ボタンを押す。見慣れたキルヒアイスの上半身が浮かび上がった。一体、キルヒアイスは何を言いたかったのだろうか。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
映写機はその一言だけで再生を終了した。ラインハルトは、手元の端末でファイルをチェックする。異常はない。暗号化やウィルスも検査したが問題はなかった。編集歴もなかった。つまり加工はされていないのだ。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
ラインハルトは涙を流しながら3D映像を見つめた。お前の遺した最後の言葉、それがたったこれだけなのか?中からこみ上げてくるものに耐えきれず、ベッドに倒れ込む。再生装置がリピート設定になっているので、短い3D映像が何度も再生される。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
キルヒアイスよ。何故俺を置いて行ってしまったのだ。まだお前には聞いていないことが山のようにあるじゃないか。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
今回のクーデターだって、お前が絵を描いたようなもんじゃないか。教えてくれなかったが、南朝のクーデターだってお前が仕込んだものだろう。リッテンハイム侯をどうやって引き込んだか、これからどうするつもりだったか、教えてくれよ。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
なぁ、キルヒアイスよ。この苦しみをどうすればいい。俺達はこれからどうすればいいんだ。
「ラインハルト様、宇宙をお手に入れください」
口の中はカラカラだ。目が痛くて仕方ない。どうする?どうする?何故何も言ってくれない!!
ラインハルトはやおら起き上がると、3D映写機の引っ掴んで壁に叩きつけた。映写機はばらばらになって動かなくなる。当然ながら映像を再生することはできなくなった。あ、まずい。ファイルはどうしたっけ。端末にまだ残っていただろうか。ラインハルトは端末を操作すると、ファイルを確認した。ファイルはまだあった。よかった。いや、よくない。宇宙を手に入れる?どうやって?どうやったら宇宙が手に入るんだ。どうやったら……
「そうか」
ラインハルトの頭の中に閃くものがあった。そうだよ。今や宇宙を手に入れるための「壁」を全部取り払ってくれたじゃないか。後は宇宙をこの手に掴むまでだ。俺は今や銀河帝国の軍権を全部握っている。いずれそうなる。ならば、後は俺が歩いて、そして、宇宙を手に入れるまでだ。どれだけ遠くても、手と足さえ休めなければ、いずれはたどり着ける。
これからは、俺一人だけでやればいいんだな。いや、そうじゃない。お前のその言葉があれば。お前は、いつも、俺の中に居る。
ラインハルトは端末を操作すると、キルヒアイスのメッセージファイルを消去した。もう、誰もこれを見ることはできない。ラインハルト本人ですら。でも、それでよかった。この瞬間をもって、キルヒアイスとラインハルトは一体になったのだ。ラインハルトは半身とも言える親友を失い、そして失った半身を己がものにしたのだった。
ラインハルトが艦橋に戻ったのは、オーベルシュタインがラインハルトを居室に押し込めてから十三時間後だった。ずっとそこに居たわけでもなかろうが、オーベルシュタインはラインハルトを認めるなり参謀長席から立ち上がり、敬礼した。ラインハルトも答礼し、司令官席に座る。
「オーベルシュタイン」
「はっ」
「これより余は、宇宙を手に入れる。いいな」
「了解いたしました」
ラインハルトの目は充血していたが、表情に迷いはなかった。オーベルシュタインには分かった。ラインハルトは煩悶を乗り越えたのだ。友の死を乗り越え、さらに前に進もうとしている。ならば、我も全身全霊をもって応えねばならない。
「オーベルシュタイン。策を出せ。宇宙を手に入れるための」
「了解致しました。まずはその前に、障害を一つ、排除するのが先決かと」
「そうか」
ラインハルトは口元を歪めた。
「ならばやろう。すぐにだ」
宇宙暦799年、帝国暦490年3月20日、帝都オーディン──
「馬鹿者、それでは前と変わらないではないか」
リッテンハイム侯はコミュニケータを怒鳴りつけ、通信を切った。リッテンハイムは
何もかも上手く行かない。今のリッテンハイム侯の状況を一言で言えばそうなる。一か月前はそうではなかった。国璽を奪い、南朝を事実上手に入れた。後は、帝国を一統し、その主導権を握る。そうすれば帝国の頂点に立てる。
途中までは上手く行っていた。帝都オーディンに乗り込み、統帥本部総長シルヴァーベルヒと、ラインフォルト財閥とも協定を結んだ。当然だ。こちらは南朝を事実上支配しているし、国璽も握っている。ラインフォルトについていえば、一人娘の生命をも握っている。そのはずだった。
それが一週間前、全てが暗転した。
フェザーンを制圧するためのエルラッハ艦隊は、圧倒的な戦力を持っているはずなのに、割り込んできた同盟艦隊に打ちのめされた。這う這うの体で戻ってきた兵からの報告では、ラインハルトの艦隊に奇襲を受けて旗艦が撃沈されたとのことだった。
リッテンハイムには理解できなかった。ラインハルト・フォン・ミューゼルとは、秘密裏に協定ができていたはずだった。彼の腹心であるジークフリード・キルヒアイスを通じて、互いの勢力伸長を妨害しない、そういう風になっているはずだった。もちろん彼は、自分の行為がラインハルトやキルヒアイスの逆鱗に触れていることなど気づいてもいなかった。
フェザーン制圧が失敗したことは、アリッサ・ラインフォルトの生命について関与する手段を失ったことでもあった。シルヴァーベルヒやフランツ・ラインフォルトは即座に掌を返し、「協定」は白紙化された。
今は、リッテンハイムは孤立無援となった。だが、まだ手はあった。まだ国璽はリッテンハイムが持っているのである。これを北朝の皇帝に「返還」し、その礼として帝国のしかるべき地位を得る。そうすれば、権力をもってシルヴァーベルヒやラインフォルト、ミューゼルに報復することができる。
リッテンハイムは工作を開始した。今、リヒャルト帝は新無憂宮には居らず、ベルヴェデーレ宮殿に滞在している。謁見については日程の調整が進んでいたが、同時に、国璽との「引き換え」となる地位についての調整も行っていたのだ。だが、それが難航しているのである。
調整相手は、宮内尚書のベルンハイム男爵である。リッテンハイム側は「引き換え」として、帝国宰相の位を要求したのであるが、ベルンハイム男爵は、南方領土総督という新設職を提示してきた。つまりは、旧南朝領土の支配者ということになるわけだが、リッテンハイムはそれを言下にはねのけた。いくら領土が広かろうが、オーディンから離れては政治的闘争が不利になる。おまけに、疲弊した南朝領土を貰っても、大した兵力を飼えるわけではないのだ。
リッテンハイムはなおも交渉を続けた。味方を増やすべく、他の閣僚にも接触した。だが、反応は冷たかった。リッテンハイムは、国璽が帝国にとって欠くべからざるものである、という前提に立っていて、建前としてそれは正しかった。だが、北朝側としては、国璽というものの重要性に疑問を持っていたことも確かである。リッテンハイムはそれが理解できなかったのである。
一昨日、民政尚書マリーンドルフ伯と会見した時、代替案を提示された。財務尚書の地位であった。統一帝国の財務を握ることは、帝国の全てを握るのと一緒である、マリーンドルフはそう言った。
リッテンハイムはその提案も却下した。言っていることは分からないでもないが、財務尚書という地位が極めて専門知識を要求される職務であることは、南朝時代の体験から分かっていたからだ。財務で帝国を握る、というのは、財務という機能を縦横に使いこなしてこそ、そう思っていた。だが──
やはり提案を受け入れるべきだったか。
リッテンハイムはそう思うようになっていた。交渉を続けていくうちに、帝国宰相の位には届かないだろうという感触を持つようになったからである。本来ならラインフォルト財閥と共に交渉、いや圧力をかけるつもりだったのに、そうなっていないから、裏取引が効かなくなっていたのだ。いや、そもそもマリーンドルフの提案を断ったのは、来客に対して事もあろうに伯爵自身が紅茶を淹れて饗したのを、リッテンハイムが非礼と断じたからではなかったか。
何もかも貧乏くさい。オーディンに到着してからのリッテンハイムはそう感じていた。新無憂宮はかつての威厳を失い、あらゆる所に自動機械が導入されている。それなのにあちこちが故障しては、宮内省の修理担当者ではなく工兵が駆けつけて修理ということを繰り返している。皇帝が居ないからということもあるだろうが、実際に稼働しているのは全建造物の三割程度と言われている。そして、そんな衰微を誰も気にしていないし何とかしようと考えていないのだ。
とにかく自分がそれを変えなければならない。それが帝国掌握の第一歩だ。ならば激務も止む無しと言うべきか。いずれこの礼はたっぷりとやってやる。盾着いたことを後悔するがよい。
リッテンハイムはコミュニケータを操作し、秘書を呼び出した。マリーンドルフ伯との会見をセッティングしろ。提案を受諾すると伝えておくのだ。なるべく早くだぞ。
リッテンハイムは通信を切り、役立たずばかりだと毒づいた。心の中の怒りに対処するために、必要な注意力を全く欠いていた。宰相公邸を警護しているはずの兵士がいつの間にか居なくなっていることも、そして、いくつかある窓のうち一つが少し開けられ、そこから何かが投げ込まれたことも。
宇宙暦799年、帝国暦490年3月20日、15時31分。
宰相公邸に投げ込まれた低周波爆弾が爆発し、公邸は全壊した。公邸内に居た全ての人間を道連れにして。
次回タイトル
エピローグ ファニー・ウォーの終焉